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車の中で暫し続いた沈黙の後、杏梨は場の雰囲気を変えようと明るく笑った。
「やだ、変な意味じゃありませんよ。昨日、絡まれてた男の子とお昼休みに顔合わせるのが嫌で逃げて来たんです。神藤さんだったら見つかってもまた助けてくれるかと思って」
「あ、成程。そういう訳だったんですね」
それを聞いてようやく腑に落ちたのか、ほっとしたような、少し残念なような複雑な顔で頷いた。
「昨日の彼にまた絡まれてるんですか?」
「あれから会ってないけど、ちょっと付き合うのは嫌になっちゃいました。あんなことされたの初めてで、神藤さんがいて助かりました」
「ハハ……誰でも助ける訳じゃないですよ。彼が自分より強そうだったら逃げてたと思います」
肩を竦めて神藤も笑った。
「いや、恥ずかしながら、なんでこんな若い綺麗な女の子がここでお昼食べたいのかって真剣に考えちゃいましたよ。もしかして昨日の件で好意を持ってくれたのかな、なんてね」
「あ、勿論、それもあります!今、神藤さんにめっちゃ好意持ってます!」
「………」
杏梨の直球過ぎた返答は神藤を再び沈黙へと追いやった。
何と答えるべきか分からない神藤をよそに、杏梨はランチバッグを開けて持参してきた弁当箱を開く。
「取り合えず、時間なくなっちゃうしお昼ご飯食べません? 神藤さんはお昼はお弁当ですか?」
「私は会社で纏めて注文した宅配弁当ですが、ここに来る前にもう食べてしまったので」
「ええっ! 食べるの早いですね?」
「男だらけの現場なんて会話もないので皆食べるの早いですよ。さっさと食べてあとは寝たり、スマホ見たり、好きな事してますからね」
「えーじゃあ、私一人で食べてていいですか?」
「勿論。食べながら少し待っててもらっていいですか?」
神藤はそう言うと、車から出て工場の方に駆け足で戻って行った。
5分もしない内に再び戻って来ると、手に持っていた温かい缶コーヒーを一本杏梨に渡した。
「私はコーヒーだけお付き合いしますよ。良かったらどうぞ」
そう言って、持っていたもう一本のプルトップを開けて口を付ける。
杏梨が一人で食べるのに気を使わないように、わざわざコーヒーを買ってきてくれたのだ。
しかも、二人分。
「あ、あの、これ奢りですか?」
「え?当たり前ですよ。缶コーヒーくらい奢らせてください。若い女の子なんだから」
杏梨は感動して、涙が出そうになった。
缶コーヒーのような安価なものだからこそ、敬太だったら払うのを拒否する。
「杏梨の給料からでも払えるものを、どうして僕が払わなきゃなんないんだよ」というのが彼の理論だ。
今、神藤から渡されたこの缶コーヒーに忖度はない。
ただ、『若い女の子に男が払うのは当然』という固定観念の元に神藤が行った無意識の好意だった。
「うわあ、嬉しいです!そんな理由で奢ってもらえるなんて!」
「え? 別に普通でしょ?たかが缶コーヒですよ?」
「普通じゃありません!敬太……昨日の彼なんて男女同権だとか、多様性だとか屁理屈ばっかり言って奢ってくれたことないんですよ」
ヒートアップしてきた杏梨を面白そうに眺めて、神藤は穏やかな表情でコーヒーを啜った。
「これも時代ですねえ。私の若い頃は女の人が強くって、アッシーだのメッシーだの呼ばれて男が使われてましたから。我々の世代は今でも男が女性に奢るものだって思い込んでるんですよね」
「……アッシーとかメッシーって何ですか?」
再び聞き覚えのない言葉に杏梨は困惑して、思わず聞き返す。
神藤は恥ずかしそうな照れ笑いをして頭を掻いた。
「アッシーは女性の送り迎えをしてくれる男で、メッシーはご飯奢ってくれる男のことです。景気が良かった頃は女性が男を用途ごとに使い分けてたので、こんな風に呼ばれてたんです」
「ええっ!? 神藤さんもアッシーやってたんですか?」
「まあ、それも楽しかったんですよ。駆け引きの一部というか、恋愛の余興のようなもんで」
ハハハ……と声を上げて笑った神藤の顔が一瞬若い頃に戻ったかのようにぱっと明るくなった。
当たり前だけど、今は50歳の神藤さんにも自分と同じ歳の時があって、もっと派手な恋愛をしていたのかもしれない。
今の自分と同じ歳だった時に、この人と会いたかったな……。
屈託のない笑顔を見て、杏梨は少し羨ましくなった。
「さあ、そろそろ食べないとお昼休み終わっちゃいますよ。私はコーヒー飲んでますので、気にしないで食べてくださいね」
神藤はそう言って、自分はゆっくりとコーヒーを口にする。
杏梨の食べるスピードに合わせてくれているのだ。
細やかすぎる気遣いに嬉しくなった杏梨は、逆に焦って弁当を掻き込んだ。
やがて、杏梨がようやく弁当を終わらせ、缶コーヒーに口を付けた時、神藤が口を開いた。
「ひとつだけ、先に言っておいていいですか?」
言おうか言うまいか迷ったような間の後で、神藤は少し真面目な表情をした。
「ここに来るのは構いませんが、できたら会社内で公言しないで頂けるとありがたいです。私は派遣なので……その、変な噂が立ってしまうと、最悪クビになるかも……」
「あ、勿論、誰にも言ってませんよ。これからも誰にも言いません!だったら、大丈夫ですよね?」
「え? まあ、はい……」
「じゃあ、コーヒーのお礼に明日は私がお弁当作ってきますから、楽しみにしててくださいね!」
「………」
適切な返答が分からないまま、神藤は苦笑いを浮かべてオールバックにした髪を掻き上げた。