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神藤は弁当の入ったバッグを肩に下げて、経理部のあるオフィスに足早に入っていった。
まずは杏梨に礼を言わなければ。
そして、今日会えなかった事を謝罪してから、こう言うのだ。
「これからはこういうの止めて貰えませんか」
三カ月無職でハローワークに通った後、ようやく入社したこの会社で、僅か3日目で女の子に手を出した事になっているのだ。
神藤にしたら全くの濡れ衣ではあるが、手作り弁当を現場に差し入れするという派手なアピールをされてしまっては誤解されても仕方がない。
これ以上、噂が尾びれを付けて広がる前に杏梨には釘を刺しておかなければ。
入社3日目の派遣社員という最弱の立場では解雇される可能性もある。
経理部のドアを軽くノックしてから少しだけ開いて中を覗いてみる。
ざっと見て20人程の人数がパソコンに向かって作業をしている。
いち早く神藤に気が付いたのは杏梨だった。
デスクから立ち上がると、人目も憚らずオフィスを横切ってこちらに駆け寄ってきた。
神藤は慌ててドアを閉めて、廊下で待機した。
「神藤さん、お疲れ様です! お弁当、受け取ってもらえました?」
ドアから出てくるなり、杏梨は嬉しそうにそう言った。
無邪気な笑顔を見ていると、神藤も釣られて顔が緩む。
「はい。実は今帰社したところでまだ食べてないんですが、リーダーの田中さんから確かに受け取りました」
「良かったあ! 今日はもう会社に帰って来ないかもしれないって心配してたんです!そのお弁当ね、朝5時に起きて作ったんですよ」
「ええっ、朝の5時・・・?」
「だから渡せただけでも良かったです。良かったら、お家に持って帰って食べてください・・・」
そこまで言うと、杏梨は大きく息を吐いてその場にヘナヘナと座り込んでしまった。
よく見ると顔色が悪い。
血の気のない顔色に目の下が薄黒く隈ができている。
神藤は慌てて、彼女の薄い肩を抱いた。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
「朝から頑張り過ぎちゃったから、ちょっと疲れちゃって。それと実は朝から何にも食べてないから貧血・・・」
「ええっ!? 朝の5時から起きてて何にも食べてないんですか!?」
「お弁当作ってたら朝ご飯食べる時間なくなっちゃって・・・お昼もお弁当二人分一緒に入れちゃったから・・・」
神藤はぎょっとして肩に掛けたままの弁当バッグを見た。
杏梨が一緒に食べる筈だった分も今この中に入っているという訳か・・・。
そこまで理解した神藤は決意した。
「杏梨さん、今日はもう帰れますか? 帰りは私が送りますから」
「そ、そんな、大丈夫ですよ。お腹減ってるだけなので」
「大丈夫じゃないですよ。顔色も悪いしフラフラじゃないですか。定時で帰れるなら、私が運転して送ります」
杏梨は青白い顔で弱弱しく笑った。
「あはは・・・これってアッシーさんですね」
「そうですよ。昔取った杵柄ですから。運転手なら任せて下さい」
神藤も笑って、弁当バッグを担ぎ直して立ち上がる。
その時、終業のチャイムがフロアに鳴り響いた。
その途端、経理部のドアが開いて、社服を着た若い女性社員がバタバタと何人か出て来た。
ここで他の女性社員に顔を見られて更なる噂が流れたら、状況は益々悪くなる。
神藤は慌ててキャップを被り直して、踵を返すと早口で囁いた。
「社員駐車場で待ってます」
◇◇◇
経理部の先輩達に体調不良を訴え、その日、杏梨は定時で帰る事になった。
製造部のユニフォーム姿の神藤が足早に工場に戻って行くのが目撃されたが、給料担当の杏梨は派遣の作業員と話をするのは稀な事ではないので、誰もそれについては言及してこなかった。
とにかく今は気分が悪い。
一緒に車の中で食べるつもりだった弁当は二人分に容器を分けて入れていなかったので、バッグを田中に渡した時点で杏梨も昼ご飯お預けになってしまったのだ。
フラフラしながら社員駐車場に到着すると、既に待っていた神藤が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか? 私の車で送ってもいいですが、明日の事を考えると杏梨さんの車で私が運転して送った方がいいでしょうか」
「そしたら神藤さんが明日出勤するのに困っちゃいますよ。 明日はバスで来るので、神藤さんの車で送ってもらえたら嬉しいです・・・」
「分かりました!」
神藤は小走りで一番遠い所に駐車してあった軽自動車まで行くと、それに乗ってすぐに戻って来た。
助手席のドアを大きく開くと、「どうぞ」と手を差し出す。
執事かお抱え運転手のようなその仕草に、杏梨は頬を赤らめておずおずと手を伸ばした。
「女性を助手席に乗せて運転するなんてもう何十年もしてないので緊張しますね。こうなる事が分かってたら洗車しておいたのに」
運転席に戻った神藤は目尻に皺を寄せて笑った。
エンジンを掛けた途端に8ビートのロックが大音量で響いて、杏梨は思わず耳を塞いだ。
「あ、この曲知ってます。『オンリーユー』ですよね?」
「えっ!? 若いのに良く知ってますね!」
神藤の顔が子供のようにぱあっと輝いた。
「母が昔の音楽大好きで、今でも家や車でずっと聞いてるんです。子供の頃から聞いててもう覚えちゃいました。あ、あたしの名前も昔の歌手の名前と同じなんですって」
「ああ、『杏里』でしょう? それなら私も知ってますよ。でも、参ったな。杏梨さんのお母さんと私は多分同年代ですね。私達は親子でも不思議じゃない歳の差か・・・」
カーステレオのボリュームを落として、神藤は苦笑した。
だが、子供扱いされた気がして、杏梨は少し不機嫌になる。
「親子くらいの年の差あったら、神藤さんは嫌なんですか?」
挑戦的な口調で上目遣いに睨んでやると、神藤は首を傾げて考えた後、笑って答えた。
「いや、男冥利に尽きるってもんでしょう。せっかくだから、このまま少し寄り道して夜桜でも見に行きませんか?」