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パラノイア  作者: 浦部征一
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 頸から血を流して倒れている霍翠を見つけたとき、枚岡は激しく動揺した。自殺するのではなかったのか?? 誰に切られた??


 紐がぶら下がっているのを確認すると、自殺する意志は本当にあったのだと判断したが、切りつけたのはまさか妄想の女……? そんなことがあってたまるか。そんな非科学的なものに殺されたなどと認めたくなかった。


 枚岡は警察に届けることにした。


 警察は言った。遺書が残されている以上自殺で処理をしたほうが早い。首吊りでは死にきれなくて、自分で刺した可能性もある。警察はこれに事件性を見出さない。と。


 呆然とした。事件性を見出さない? ならば怪死ではないか。


 民俗学者、小川霍翠の怪死は新聞記者が大々的に報じた。死に至るまでの陽子とのあれこれも報じられ、一部では「気狂いの文士の自作自演だ」とする声や、「陽子は実は妄想でも夢魔でもなく殺人鬼」とする声が上がり、それは枚岡のもとへ全て舞い込んできた。全ての説が同じくらいの信憑性で、どれも信じ難かった。


 枚岡は陽子を見ていない。それが陽子の存在を曖昧にさせていた。


「小川君が亡くなったと聞いたが、」


「はい、私が喪主を務めました」


 菅原先生の耳にも入ったようだった。霍翠の遺体発見から五日後の朝だった。菅原先生は枚岡の家へ見舞いに訪れた。


「彼の実家は……」


「両親は急逝、兄達に遺産を全て取られ、縁を切られています。恐らく今回の事件を知ってはいるでしょうが、反応はなにも……」


「そうか……悪いことを聞いた」


「いえ……葬儀は、遺体の状態が悪かったので、遺体は誰にも見えないようにして、ささっと終わらせてしまいました」


「では新聞記事は本当のことを書いていたのかね?」


「虚構と真実が七対三といったところでしょうか」


「そうか……不器用な青年ではあったが、恨まれるようなことはなかっただろうに。あんな死に方をしなくとも……」


「はい……」


 菅原先生は終始『本も出さないうちに……勿体ない』と呟いていた。霍翠を本当に小説家にしたかったようだった。



 その本を出してくれと手紙でも再三再四頼まれていたので、枚岡は霍翠の原稿を整理していた。最後の相思樹伝説を片手に霍翠との日々を思い出す。


 いちばん最初に会ったとき、霍翠はまだ帝大の学生だった。育ちの良いお坊ちゃんといった風情で、実家の太い枚岡はなんとなく親近感を感じたものだった。空想以外にしたいことはなく、全てが大儀だというような顔つきをしていたのが印象的だ。いつでもカンカン帽を被って、パキっと洋装の爽やかな出で立ち。対して枚岡は、よれたハンチングに着流しで、無精髭まで生やしている。霍翠が嫌がるのを知っていたので、カフェーなどには入らなかったが、二人で入ればどちらに女給がつくものか、容易に予想がついた。


 文学に対しては、というよりも、生きていくことに対して生真面目で、実生活は病弱で引きこもりがちの怠惰に見えるものだったかもしれないが、働いていなければならないという思いはどこかにあって、文学に真面目に打ち込んでいた。自分にはペンしかないと、追い詰められた鼠が猫を噛むような、どこか攻撃力のある執筆者であった。


 枚岡には妻子がいるので、霍翠との付き合いも家族ぐるみのものだったが、霍翠は意外にも娘とよく遊んでいた。自分には遊んでもらった経験がないからと、してもらいたかったことを枚岡の子供にしていた。特に人形遊びが得意で、即興で海外のおとぎ話を作り出し語って聞かせていた。娘がもう少し大きくなれば嫁にやってもいいと思ってしまうくらい、娘は霍翠に懐いていた。


「ととさま、にいに、この中にいる?」


 霍翠の葬式で娘は事態を受け入れられずにいたが、なんとなくいなくなってしまったらしいことは察したようだった。棺桶を叩いて霍翠を起こそうとした。それは妻に止められていた。死んだなんて、言えなかった。枚岡自身がそれを受け入れていなかったのだから。




 ふと、背後に人の気配を感じた。


「お前か、まだ入ってこないでくれ」


 妻だと思ったので振り返りもせず声をかけた。しかし襖の開いた音も畳に足が擦れる音もしなかった。疑問に思って振り返ると、見慣れた洋装が立っていた。


「……小川、どうして」


「……枚岡」


 はたしてそれは霍翠であった。


「生きていたんだな、俺が見たのは幻だった、やっぱりそうだ、お前が死ぬはずない」


 霍翠はすまなそうな顔で返事をした。


「すまない、枚岡。俺は死んだ」


「いやそんなはずはない、こんな昼日中に幽霊など出るはずない」


「いや死んだんだ。俺は首を吊ろうとして怖くなった。だがあんな手紙を書いた以上引き返せない。だから自分で喉を切り裂いたんだ」


 しかし枚岡には引っかかる点があった。


「……だが刃物は落ちていなかったぞ」


「誰か拾ったんだろう」


 霍翠がしらっと言い放った。枚岡は不審に思った。


「頸から血を流して倒れているお前を放ってか?」


「そんなことより、俺をここに置いてくれ」


「は? なんだ藪から棒に」


 霍翠は枚岡の目の前に移動して机の前にどかりと座った。


「枚岡の側にいさせてくれ、初七日まででいい」


「初七日って言ったら明日だぞ。でもなんで?」


「……お前を連れていきたい」


 枚岡はぞわりと肌が粟立つのを感じた。女の声が重なっているように感じたからだ。


「馬鹿言え、お前が本を出してくれって言ったんだろう。それに、陽子とかいう女はどうしたんだよ。その女と地獄に行くんじゃなかったのか」


「……陽子さんがお前も、と言って聞かないんだ」


 霍翠の様子が可怪しい。平素ならば目を合わせてくれるはずの霍翠が目を合わせない。心持ち口許が緩んでいる。


「……お前、小川じゃないだろう」


「何を言う、俺は小川霍翠だよ」


「じゃあお前の本名を言ってみろ」


「まあまあ、そんなに疑わなくてもいいだろう。……ははあ、死人と話しているのが薄ら気味悪くなってきたんだな?」


「いいから言え」


 枚岡は霍翠が書いた『画皮』という原稿を見つめていた。画皮は支那の妖怪で、人間の皮を被って人に化ける鬼の一種だと霍翠は言った。霍翠の遺体は土葬にしてある。皮を剥いで鬼が被ってもおかしくない。


 霍翠の姿をしたものは言葉に詰まった。霍翠の本名は枚岡と霍翠以外に知るものがいないからだ。


「……貴様、何者だ?」


「……ふふふ、バレてしまったなら仕方ありません。枚岡先生、私が陽子ですの」


 陽子はズルリと霍翠の皮を脱いで美しい顔を見せた。


「お前、やはり化生のものか!!」


 枚岡は立ち上がって手近にあった木刀を掴んだ。


「私を鬼などと一緒にしないでくださいますか。私は死を司る神の遣い」


 陽子は座ったまま科をつくって枚岡を見上げる。


「死神の遣い……が、どうして……」


「適当な人を殺しておいで、とご主人様に言われて標的を探しておりましたの。私の存在を知った方を順番に殺しておりましたらこちらに、」


「霍翠が、死神の遣いの存在を知った……?」


「いいえ、霍翠先生は私の初めての獲物。貴方が二番目の獲物です」


 枚岡は木刀を構え直した。女の力なら叩きのめせる。来るなら来い。俺には守るべき生活がある。


「いま、女なら倒せると思いましたでしょう」


 陽子の眼光は鋭かった。枚岡は少々怯んだ。


「殿方って思い上がる方ばかりね、手応えも何もないわ」


 耳元で声が聞こえたと同時に、鳩尾に短刀がぐっさり刺さっていた。悲鳴を上げるまでもなく、枚岡は倒れ込んだ。


「もうじき死ぬ枚岡先生へ、いいことを教えて差し上げます。霍翠先生は確かに妄想症に取り憑かれていた。私がいなくてもどのみち首を吊っていたわね。枚岡先生も妄想症に取り憑かれ始めている。霍翠先生は生きている、と。私、声までは作っておりませんことよ、ふふふ。ああ可笑しい」


 陽子はころころと笑った。薄れていく意識の中で、枚岡は思った。


 実に滑稽だ。 

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― 新着の感想 ―
[良い点]  面白かったです。  短編しか読めない私ですが、一気に読みました。人物の描写が丁寧で、特に主人公の強烈な孤独が伝わってきて苦しかったです。枚岡さんの普段の態度の中に(極稀に)見える優しさ…
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