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パラノイア  作者: 浦部征一
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枚岡の心配

 枚岡は霍翠が窶れていくのを誰よりも心配していた。最後に別れたとき、互いに頭にきていたから原稿を引っ掴んで下宿を出ていってしまったが、それからどのようにして顔を出せば良いものやらわからなくてなかなか顔を出せなかった。それが、今日来てみたら、明らかに生気が失われている。これから死ぬ人の顔色をしていた。


「小川……医者に行こう」


 第一声、思わず医者にかかることを提案していた。玄関先でだ。


「なんだ突然、俺は大丈夫だよ。さ、入った入った」


 目つきも尋常ではない。鋭く光っていて、人畜無害そうだった霍翠の顔つきをまるで変えてしまっていた。髭などは綺麗に整えられているが、顔色が悪いのが痛々しかった。足取りもふらついて見える。


「大丈夫に見えないから言ってるんだろう、お前はすぐ意地を張る」


「意地なんか張っていないさ、お前に心配される筋合いなんかどこにもない」


「なんだと?」


 枚岡は血圧が上がるのを感じた。いけない、またこの間と同じことになる。枚岡にとって小川霍翠という男は弟であり、親友であり、弟子であり、大切な人だった。いまここで自分が愛想を尽かしたらこの男が一人になってしまうのはもとより、枚岡自身も一人になってしまうのは必定である。


「まあいい、お前が体調不良なのはいつものことだ」


「そうだろうそうだろう」


 満足げに霍翠は煙草を咥えた。と同時に咳き込んだ。かなり激しく咳き込んでいる。


「ゴホッゲホゲホ…ゴホッ…あ……」


 霍翠が小さく悲鳴を上げた。口を押さえた手のひらには血がついていた。


「小川!!! 大丈夫か!!」


「水……ゴホッ……み、水……」


「水な、待ってろ」


 枚岡は持ってきた風呂敷から水筒を取り出して霍翠に手渡した。霍翠は一口をゆっくり飲み下すと落ち着いたと見えた。


「……血を吐くのはこれが初めてか?」


 霍翠はそのまま万年床に横たわって力なく首を横に振った。


「……3度目だ」


「いつから」


「あの女が、現れてからだ」


「あの女?」


 霍翠は目を瞑ったまま肩で息をしている。枚岡はこれから霍翠が話すことはなんとなく大事なことに思えたので適当に紙を取り出して書き留めておくことにした。


「……ああ、月にいる女だ」


「月に? 馬鹿言え、桂男じゃあるまい」


「女がそう言うんだ……」


 なんでも、その女はたいそうな美女で、霍翠を毎夜誘惑するのだという。霍翠もその女に惚れてしまったから、自分を抑えられず、深く契るようになったらしい。


「話を聞けば聞くほど、その……化生のモノなのだが」


「そう思っていればいい」


「小川はそれに殺されるのを待っているのか」


「……ああ」


 冗談じゃない、と枚岡は思った。そんなモノに霍翠を殺させてたまるか。この男は磨けば光る才能を持っている。まだ磨ききってないのに殺させてたまるか。


「しかしわからんね、女郎蜘蛛だということを悲しんでいるのが」


「……え?」


 霍翠は目を開いて枚岡を見た。


「そういう夢魔の類ってのは、好きで巣に引っかかった小虫を食い潰すのだろうに。その女はまるで蜘蛛でいたくないみたいじゃあないか」


「……たしかにな」


「わかった」


 枚岡は突如として大きな声で手を叩いた。


「うるさいな、なんだよ」


「これは全部お前の妄想だ。お前のその症状は神経衰弱だ」


「感触があるんだぜ?」


「幻覚だ。幻覚。考えてみろ、月に人なんかいない。目を覚ませ小川」


「……やけに投げやりだな」


 霍翠は深いため息をついてまた目を瞑った。枚岡の妄言にはうんざりだった。


「お前は月の神話についての研究をしている。月には兎なり絶世の美女なりが住んでいると文献には載っている。それがすっかり当たり前になっちまったお前の脳内になにかきっかけがあってその女の像が結ばれる。それが幻覚として現れ、お前は妄想症(パラノイア)に取り憑かれ、神経が衰弱して、現に血を吐いている。どうだ?」


「……まあ一理あるな」


 枚岡はうんうんとひとしきり頷いて、自分にも納得させているようだった。


「妄想だとわかってしまえば怖いものはなし、その女も来ないさ」


「……」


 霍翠は嫌そうな顔をした。枚岡は霍翠がその女に苦しめられていると思っていたので意外だった。


「どうしたんだよ小川、なんで嫌そうな顔をした?」


「……俺は、妄想に取り殺されてもいいと思っている」


 それはすなわち生きていく意思がないということだった。


「……俺は漢学者の末っ子で、両親は急逝、遺産は全部兄貴に持っていかれた。俺にできることといったら読み書きと妄想。そんな俺には文筆しかなかったから今日まで筆を執ってきた。溢れさせる才能などなく、ただだらだらと書き連ねる文章は読んでいて退屈だったろう。妄想だけが独り歩きして俺を殺しに来ているというのなら逃げないさ。目を覚ませと言われても俺には目を覚ましてからの世界を生きていくだけの気力がない」


「……小川……。俺達は無二の親友じゃないのか? 俺の存在は生きる力にならないのか?」


 霍翠は鼻で笑った。


「お前は俺以外にもいるだろう? 俺にはお前しかいないが、お前は違う。そういうズレも辛いんだ」


「……しかし孤立しているのは自分のせいだぜ?」


「わかってるさ……だから死にたいんだよ」


 枚岡はなんとも居た堪れなくなった。この死の淵にある友人をなんとかこの世へ引きずり込みたかったが、いまはなんの言葉も届かなそうだった。


「……女は、次の新月が期限だと言った」


「明日じゃないか……」


 今日は29日目の月が細く昼間の空に君臨している。


 ふとここで枚岡は用件を思い出した。


「……明後日、会合がある。今回は菅原先生が来るようなでかいのでなくて、俺の同人が集まる会だ。手紙でも伝えたが読んでいないようだったから」


「明後日俺はこの世にいない」


「馬鹿を言うな、必ず迎えに来るから待ってろ」


 枚岡は霍翠の手を握って、『必ず』に力を入れて言った。


「……行かなきゃだめか」


「毎度言っているだろう、俺の相方なんだから出なきゃだめに決まってる」


 霍翠は薄く笑った。枚岡はホッとした。


「いいか、小川、目を覚ませ。月に人なんかいない」


 握った手をそのままにもう一度繰り返した。半ば躍起になっていた。どうにかして生きていてほしい。


「枚岡、しつこいぞ。わかってるさ、月に人なんかいないなんてことは」


「じゃあもう死ぬなんて言わないでくれ」


「それは保証できない」


「なに?」


 霍翠は極めて思い詰めたような顔をしている。


「あの女が月からくるものでないことなんかわかってるんだ。だが彼女に殺されないという選択をするのはまた話が違ってくる」


「おい……」


 枚岡はまた血圧が上がるのを感じた。


「……枚岡、ひとつ頼みがある。俺が死んだら、俺のいままで書いたものを集めて本を出してくれ。まったく売れないだろうが、本の一つも出さずに死んだんじゃ父に顔向けができない。……もっとも、父がいるのは天国で、俺が行くのは地獄だから、あの世で会うこともないだろう」


「そんなことはいくらでもしてやる、でもそんなことを言わないでくれ、しかも地獄だなんて……」


「俺はその妄想の女を抱いて地獄のいちばん底まで歩いていくんだ」


 枚岡は言葉が出なかった。怒りよりなにより、心配だった。こんなにも病的な霍翠を見たのは初めてである。そして自分の未来を憂いて死を選ぼうとしている。その意志は頑なであると見えた。


「とりあえず明後日、迎えに来るから、いいな?」


「ああ……」


 霍翠は目を閉じた。


 枚岡は霍翠の部屋の襖を静かに閉めて出ていった。

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