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パラノイア  作者: 浦部征一
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夢ではない

 朝、陽光が優しく窓から射し込んで、霍翠は目を覚した。久々に心が満たされている。しかし、身体が重い。風邪を引いたのだろうか……、頭が痛い。


 ふと、指先に何かが引っかかるのを感じた。


 それは髪の毛であった。ひとすじの黒々と艷やかな、絹糸のような髪の毛。


「陽子さん……」


 昨夜のあれは夢ではなかった。あれからどのように寝付いたかは覚えていないが、彼女を抱いた気がする。夢見心地とはよく言ったもので、ふわふわと脳髄が痺れたようになって、視界がぼんやりしていた。彼女はたえず淡く発光していて、衣通姫という言葉をなんとなく思い出していたのを覚えている。美しさが光となって衣を通しあふれ出てくるほどの美女のことをさす。陽子が衣通姫でなくてなんなのか。


 嬌声すら下品に聞こえず、水琴窟の水音のように聞こえていた。肌は温く、舌を這わせれば甘やかだった。


 ふと、原稿用紙が目に入った。


『陽子』


 と霍翠の小さな几帳面な字が、あの人の名前を刻んでいる。


「夢……じゃない……」


 昨夜の約束を思い出す。


『私の命を預けましょう』


『嬉しゅうございます』


 いまとなればなんて馬鹿な約束をしたものか。陽子は夢魔の類に違いなかった。彼女が現れるようになってから、体調が悪い。枚岡に、窶れたか、と言われるたびに否定したが、それは自分でわかりすぎるくらいわかっていた。相思樹の原稿に詰まっていたのも、彼女が現れてからだ。恋による傷が疼き出したから、詰まった。陽子の存在が切なさと寂寥感を呼び覚ます。なにがそうさせるかはわからないが、きっとこれは、彼女に恋をしたからそうなっているのだろうと霍翠は思う。


 悪魔であろうと、本当に月の精霊であろうと、自分のそばにいてくれるのなら、地獄の底まで手を繋いで歩いていこうと思った。彼女の方が自分の魂を握っているのはわかっているが、逃がさない、という気持ちは霍翠にもあった。愛してくれるのは、愛してくれる素振りを見せてくれるのは、陽子しかいない。自分には陽子しかいないのだ。


 霍翠はどこか、破滅をもたらす女を求めていたのかもしれないと思った。愛した女によってもたらされる人生の終焉。なかなかに良いものである。陽子がどんな殺し方をするのかは知らない。生気をじわりじわりと吸い取り、カラカラの抜け殻のようにしてしまうのか。はたまた自ら凶器を持って襲いかかるか。もしくは寄生虫のように取り憑いて自死に至らしめるのかもしれない。どうであれ、逃げないでいようと思った。それで自分の最期が幸せなら。


 しかし髪の毛を残していくとは。逃がさないという意思がそのまま指に絡みついているようで、霍翠は恍惚の笑みを浮かべた。こんな自分を愛してくれる衣通姫。自分は幸せだ。


 本を読むのもそこそこに霍翠は目を開いたまま横たわって夜を待った。



「霍翠先生」


 いつの間にか寝落ちていたらしい。陽子の声が耳元で聞こえた。彼女に膝枕をされている。


「……陽子さん、待っていました」


 そのまま腕を伸ばして下から陽子の頬に触れた。


「心配しなくても毎夜通ってまいります」


「そんな心配していないさ、来るのがわかっていても、待ち遠しいのです」


 陽子の冷えた指先が霍翠の鼻を撫でる。花のような芳しい匂いがする。そのまま指は頬をなぞり首筋をなぞり、襟元にきた。


「私は夜伽が苦手です、陽子さん」


「あら、いままであんなにお上手でしたのに」


 霍翠は男女の営みが苦手である。自分で慰められるのなら自分ですればいいと思っているし、どうしても相手のことを思いやれず独りよがりになってしまうことを恥じていた。別に女の裸を見たところでどうとも思わない。それに、上手なのは陽子であって、霍翠ではなかった。昨夜までの霍翠は意識がはっきりしないまま、本能のままに動いていた。それが猛烈に恥ずかしかった。


「私は男女の営みは接吻だけでいいと思っています」


 強がりでもなんでもない、ありのままの本音である。


「私はそうは思いませんの」


 陽子は着物の下に指を這わせて霍翠を誘った。


「どうして」


「霍翠先生の朴訥とした夜伽が好きなのです」


「……ほんとうに?」


「ええ……」


 陽子は恥ずかしそうに目を伏せた。その仕草がまた扇情的で、霍翠はまたも、自分を抑えられなかった。




 終わってみると、陽子は恥ずかしそうに布団を被っている。今日は夢のような心地がしなかった。いや、こんな美女を腕に抱いて夢心地でないというのは嘘になるが、目眩のような、くらくら、ふわふわと脳髄が痺れるあの感覚がなかった。陽子の妖術に身体が慣れたのか??


 霍翠は陽子を夢魔と信じて疑わなかった。井原西鶴の書いた本に『紫女』という妖怪が出てくる。その女に取り憑かれた伊織という武士は、医師の助言に目を覚して女に切りかかるが、同じことを陽子にできるかと聞かれれば答えは否である。自分の命よりも、自分の心にできる恋の傷の方が惜しい。陽子を失えばさらに寂寥感と切なさに苛まれ、まともに生きていかれなくなる。そうわかっているからこそ、死が迫っていようと関係なく、陽子を受け入れるのだ。


 紫女は血を吸うという。血を吸われている感覚はないが、接吻のときに舌を絡めあっている。血を吸う機会は存分にある。血ではなく精を吸って満足しているのかもしれぬ。自分は窶れていく。普通に生活していて窶れたことなどないから、異常事態であることには変わりなかった。紫女なのかもしれぬ……。さて、どのように自分は殺されるのか。


 寝そべって煙草を吸いながらぼんやりと考え事をしていると、陽子が霍翠の頬に指を突きつけた。


「霍翠先生、何を考えていらっしゃるの?」


「……貴女の正体を考えています」


「だから月の精霊でございますと、」


「月に忠臣蔵はありません」


 陽子はハッとして口を噤んだ。


「ほんとうは、どうなのです? 私はなにを言われても驚きません。牡丹灯籠のようにしゃれこうべと交わっているのですか?」


「……」


 彼女の瞳は潤んでいた。霍翠も興味本位とはいえ問いただしたことを後悔した。悪い気がしてこれ以上聞けなくなった。


「では月の精霊であるとしておきますよ。……ほんとうに私はなにを言われても驚きません。貴女がどんな悪魔であろうと、地獄の底まで貴女を抱いて歩いていきます」


「霍翠先生……私のことが好きなの?」


「なにをいまさら」


 霍翠は照れくさくなって笑って誤魔化そうとした。しかし陽子はそれを許さなかった。


「教えて頂戴、私のこと好きなんですの?」


「……はい、愛しています」


 伏し目がちに、口ごもりながら答えた。陽子は長いため息をついた。


「……では、なおのこと、離れがたいですね、私達。霍翠先生、それがどういうことかわかってお答えしたのですか?」


「というと?」


「貴方は私に殺されるのよ」


 霍翠はそれがどうした、と鼻で笑う。


「本望です」


 陽子の瞳を見つめて、いたって真剣に告げた。すると、陽子はポロポロと大粒の涙を流し始めた。


「なぜ泣くの」


「殿方と相思相愛になったの、初めてなの……いつも私は女郎蜘蛛……でもいまは違う、陽子として愛されている。このなんと幸せなことか……。私知らなかった」


 霍翠は陽子の涙を指で拭ってやった。……女郎蜘蛛、とはどういうことか。やはり夢魔なのか。惚れさせるだけ惚れ込ませて、嬲り殺すのだろうか。しかしそれも陽子を愛していることにならないだろうか? 『陽子として愛されている』……、その発言の真意をとり損ねるのを感じた。


「私のことは好きですか、陽子さん」


「勿論。言ったでしょう? 貴方だけを見つめていたと」


 陽子の瞳は力強かった。嘘をついているようには思えなかった。

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