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パラノイア  作者: 浦部征一
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霍翠の女性歴

 霍翠は生まれついての女嫌いというわけでもない。ただ、口下手で、読書くらいしか楽しみがなく、人生をすべて文章に捧げているといっても過言ではないような男というだけである。初恋も、その次も、次の次も、決して良いものとは言えなかった。


 初めて恋をしたのは早熟にも八つになった頃である。向かいの家へ嫁いできた物憂げな表情を湛えた色白の女だった。それを恋と呼んでもよいものか、未だに躊躇うのだが、誰かに異常に執心し、一切を顧みず、ただ自分だけを見て欲しいと願うことを恋と呼ぶのであれば、確かにそれは恋であろう。あとから思い出せば恥の塊でしかない記憶なのだが、幼い自分はそれを恋と信じてやまなかった。


 その女は芸者の娘だったらしい。向かいは反物の大店で、若旦那が幾ら出したのか、金で買われてきた女だった。謡いに琴、三味線、何をさせても非の打ち所がなく、顔立ちが非常に美しかった。今となっては高い女だったのだとわかる。実際、店の金で身請けしたのだと、たいへんな噂になっていた。


 初めて見たときは、天女が舞い降りてきたかと思うほど衝撃を受けた。若旦那はこの人の羽衣を盗んでお嫁にしたのだと、そう思った。肌はいつでも青白く、瞳は物憂げな光を宿し、眉はまるで柳の葉である。唇は赤く、小さく円い鼻の下にすっきりと落ち着いていた。髪は黒い絹糸にも似て、後れ毛などが、白く細いうなじにかかっているのには、幼いながらに心臓が跳ねるように動くのを感じた。踊りをやっている人だったので、普段の所作から色気が滲んでくるようだった。その色香にもあてられたのだろうか。霍翠はとにかく、その人を永遠に見ていたい、できることなら自分の方を向いて欲しいと思っていた。幼稚な片想いであった。


 夕顔の人などと勝手に呼んでいたほどである。今も霍翠の心に陰を落としている。片恋を扱う際の永遠のモデルといえようか。ここまでの人生でいちばん純粋に、いちばん鮮烈な感情だったとすら思う。


 当たり前ではあるがその恋情は報われなかった。霍翠はいつまでも『学者先生のとこの坊っちゃん』であり、若旦那を心から愛する健気な女というのが垣間見える度、少しずつ幻滅していったのである。


 十六になった春、書生として中流家庭あたりの娘が家にくるようになった。父は学者にとどまらず、歌なども詠んでいたから、女流作家を志し、弟子として通っていたらしかった。学校から帰ってくると『おかえりなさいませ、坊っちゃん』などと笑顔で言って、なにかと霍翠を気にかけるお嬢さんだった。肌は少し浅黒いが、目の色は薄く、不思議な引力を持っていた。向かいの夕顔の人からすれば引けをとるのに違いはないが、愛らしく、誰からも好かれるような、さっぱりとした娘で、実際母は、このお嬢さんをとても気に入っていたらしかった。


 彼女には何度も手紙をもらった。それらしい可愛らしいことが書き連ねられていた。紙からは毎回良い香りがした。女学校では女子同士で情熱的な手紙がやりとりされるときくが、それはどうやら本当のことのようだった。こんな手紙をもらったのなら、たとえ同性であろうと満更でもないのに違いないだろう。それは別に恋というわけではなかったが、彼女とは高校を出るまで、淡い恋愛ごっこのようなものを続けた。


 しかしそれは幸せでもなく、彼女との日々で霍翠はとかく参ってしまった。話すのが苦手で、空想を生業とするような男である。喧嘩の際には、ぼんくらなどと罵られ、わたしには興味がないんだわ、と泣かれる。なにが原因かもわからず彼女の機嫌を損ね、次の瞬間には機嫌が直っている。頭がおかしくなってしまうのではないかとすら思えたが、それでも二年続いたのは、週に二日ほどしか会わないようにしていたからで、勉学を捨てて彼女に逃げていたなら、今頃の霍翠はなにをしていただろうか。一年もしないうちに首でも吊っていたかもしれない、とにかくそこから霍翠は、すっかり色恋に辟易し、女性を苦手とするようになった。


 しかしまだ次があった。高校を出て、逃げるように帝大へ進んだ霍翠は、そこでの同級生の妹と親しくなってしまった。霍翠自身は色恋に辟易していたわけだから、これもまた向こうから無理矢理にという感じの関係だった。ここで断っておくが霍翠は別段色男というわけではない。ただ、大人しそうで、かつなにを考えているのかわからない、ミステリアスさが好みの女性が寄ってくるといった、そんな程度のことである。元来なら喜んで良いことだが、人付き合いが苦手な彼にとってはただ不運としか言いようがなかった。


 最後の恋愛に関しては悪い思い出ばかりではないのもまた苦しいところだ。その娘は奈津子という名の大人しく賢い、どこか爽やかな娘であった。はじめこそ強引ではあったが、前回のような息苦しさは感じさせず、それなりに愉快な日々であったと言えよう。甘く麗しい時間も、男女の関係も教えてくれたのは彼女であった。それでも一緒にならなかったのは、霍翠が自由を望んだためである。奈津子は比較的放任主義であったが、それでも妄想と学問の世界に生きる霍翠にとっては足枷と感じてしまった。彼女がそれに気付かないわけもなく、自然解消のような形で関係は途切れた。


 今になってみれば一緒になっていたとしても、彼女を幸せにできた自信はないので、これでよかったと思っている。


 しかし霍翠は自由と引き換えに茫漠とした寂寥感に苛まれるようになった。満たされた瞬間を知ったからこそ、深く植え付けられた孤独。それと闘わなくてはいけなくなった。


 結果として霍翠は恋愛で酷く傷ついた。心のどこかでは拠り所を求めながら自由でありたいというジレンマが彼自身の首を絞めている。独り身で養う者もなければ気ままに生きていくことができる。反面、生きていく目的が見つけにくい。いつ死んでも大して心残りはない。そう考えると今の生活が無味乾燥でなんの面白味もないと嘆きたくなる。



 不味い煙草を咥えながら書きかけの原稿に向かってもう三日経つ。こういう色恋ものを書いていると余計に心の深い部分が疼くのだが書きやすい分野のものなのだから仕方ない。色恋が絡まない民話や言い伝えも腐るほどあるが、感情を載せやすいのは圧倒的に前者だと霍翠は思っている。それにしたって十枚は書きたいと思っているものが三枚で止まっているのは酷い。


 女の心情が追いきれないと思っていた霍翠だが、夫妻の仲を引き裂いた王の気持ちも全くわからぬ。そうまでして女に拘泥したことがないのは勿論、はたしてそれが幸せと言えようか?


 もととする文章にはそのような記述はないが、きっと妻は王の側にあっても、夫を案じ、浮かない顔をしていたに違いない。それに対し、


「どうした」


と声をかけるも、


「何でもありませぬ」


と答える女の顔に、夫の陰を見出だしては恨みを募らせていたであろう。


 霍翠は好いたものは確実に手に入れたいという質ではないのでなおのことわからない。そんな女を手にいれただけでは苛立ちが募るだけではあるまいか。それとも己はほんとうの恋をしていないからこのように思うだけなのであろうか? そうだとしてもこれまでを偽りとしてしまっては、相手にも過去の自分にも失礼だ。そうではない、と信じたい。ただ王が強欲なのだ。


 以前はこんなことでつっかえるような物書きではなかった。そういう物語なのだから、と自分の中に落とし込めていた。どうして今回はここまで詰まってしまうのだろうか。


 ……あの夢を見始めてからかもしれない。これまでと今回の違いはあの夢があるかないかだけだ。考えられるのはそれしかない。顔もわからぬ女に名を呼ばれ、触れられるだけの夢。その夢に寂しさを埋めてもらっている感覚が霍翠にはあった。だからきっと、色恋絡みの原稿がうまく書けないのだ。……考えすぎてしまうから。けれどいまさら題材の変更はしたくない。締め切りまであと数日だ。深いため息をつきながら、煙草を咥え、ペンを執った。

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