カフェ・アラビカ
現代の喫茶店としては珍しく、音楽の流れないカフェ・アラビカは変わり者の溜まり場である。フリーライター、漫画家、従軍記者、ヤクザ出身写真家、紛争地域から来た難民などなど。この方々と比べると私は凡人に属すると思う。
「いいえ、そんなことないですよ、池内さんぐらいの変わり者は僕が見ても珍しいです」
そして、この、人の心を勝手に読んじゃう厄介な店長は、ここに変わり者を集わせる中核的な人である。何の話を聞いても共感し、次から次へ話を進めてくれる。それが道徳的にどうのこうの考えずに、徹底的にお客さんの視線で話を聞いてくれるのだ。それに重度なプラモデルオタクである。そんな店長に変わり者扱いされると、イラッとくる。
「私は変わり者じゃないです、はぐれ者です」
「ほら、そんなところが変わり者です」
全然理解していない。
まあ、とにかく、こんな路地裏にある、メニューにはコーヒーしかない上に金曜日には豆を買わないと入りすらできないカフェにわざわざ来るくらいの人だったら、最初から変わり者に決まっているが、それが常連だったら尚更だ。
「それで、今日はずいぶん早かったですね、残業がなかったですか?」
カウンターの隣席に座っていた県の国立大学院生がさりげなく話しかけてきた。もちろん、この人も常連である。
「珍しく、なかったです、稲葉さんは研究順調ですか?」
「就職は決まったんですけど、卒業できるかが一番の悩みです」
確かにこの前カフェで見かけた時には就職も卒業も悩んでいたはずだが、今は緊張が少し解けているように見えなくもない。
「おめでとう!就職はどんな会社ですか?」
「IT系の……」
『やめて!』
珍しく私と店長が真顔で言った言葉が重なった。
「え?なんでですか?」
この大学院生は純粋と言えばいいのか、社会について何も知らないような、まだ腐っていないあの瞳が特徴である。
「私を見てもわからないんですか?!クソブラックですよ!ほら、店長!」
「やめた方がいいですよ、僕もカフェをする前にIT業界でしたが……詳しくは池内さんから聞いてくださいね」
店長は含みのある微笑を浮かべていた。つい大声を出してしまったが、今現在このカフェにはこの三人だけだったので少し安心する。店長は私に、「何か言ってください」と目をやった。
「そもそも、稲葉さんってバイオ系じゃなかったですか?何故いきなり全然関係のないところに!」
少しぽっちゃりしているメガネ姿の彼は店長と私の連続攻撃に少し戸惑ったように、両手でマグカップを持ち上げてはコーヒーを一口啜った。そして彼は口を開いた。
「ずっと言えなかったんですが、俺、すごく不器用なんですよ。せっかくもらった細胞はコンタミさせて廃棄されたし、実験も、簡単な操作もミスって、一定に結果が出ないのです。大学4年生の時からすると3年もやっているのに、いまだに卒業で悩んでいるのは、実験結果が全然出ないからです」
彼は今まで見たことない思案顔で話を進めてくれた。彼は普段、いつも笑顔だったが、どうも正直な心は違ったようだ。
「最近、ずっと笑顔でしたから、きっと何か問題あるんじゃないか思ったりしましたが、やっぱり実験で困っていましたね?」
相変わらず人の心を勝手に読んでしまう店長は、ワイシャツの襟元を立て直して軽く微笑みを見せた。
「それで、実験で困っているから、就職も全然関係ないところにいくわけですね?」
「そうです。どうも、適正に合わないようで……」
「まあ、合わないのをずっとやるのも辛いでしょうね」
そしてしばらく静寂が続いた。私はぎこちないこの空気をどうにかしようと、話題を変えた。
「あ、最近、本当に誰か私を養ってくれないのかで悩んでいます」
「それは、金持ちと結婚するしかないですね」
店長は和らいだ空気で話しやすくなったのか、私の発言にすぐ答えた。私は知っている。店長のこの発言は別に真心ではないということを。私は赤く染めたネイルを見つめながら答えた。
「いや、22に結婚は早いですよ。ただ、どこかにあしながおじさんがいて、お金だけくれたらいいなってことです」
「P活?ですか?」
隣で無礼極まりない奴がいたので、スニカーで隣席の椅子の足を蹴った。思ったより、彼が座っている椅子は重くて、足指に痛みが走ったが、痛くないふりをする。
「私を安っぽい女にしないでください!失礼です」
「稲葉さんは言葉選びがまだまだ理系ですね」
いや、理系とは関係ないんだけど。彼の表情を見ると、申し訳なさそうな顔だったので許そうと思った。
「ごめんなさい、言葉選びはいまだに難しいです。それで、池内さんは誰かが貢いでほしいんですか?」
無礼な奴がやっと私の言いたかったことを理解したようだった。まあ、でも、実際のところ、私はこれで4年目社会人なので、それは希望事項に過ぎなかった。ただ、空気を和ませたかった。
「もし、池内さんを誰かが貢いでくれたら、池内さんは何が一番したいんですか?」
意外とまともな質問をしてくる稲葉さんに少しびっくりした。そういえば、それは考えたことがなかった。
「僕だったら、エチオピア旅行も行きたいし、プラモデルの塗色がしたいですね」
店長側を見ると、まるで本当に誰かが貢いでくれたような、今でも出国しそうな顔をしていた。
「俺だったら、ロシア語も勉強してみたいし、フランスに行って旅行もしたいです。あと、大学も最初からやり直して、数学を習ってみたいです!」
稲葉さんは大学院生らしく、勉強がしたいそうだった。私は、肝心な私は何がしたいんだろう。
カフェの閉まる時間が来て、私は稲葉さんとは反対方向に歩いた。そこには私の自転車があり、10分距離に一人暮らしのアパートがあったので、自転車に跨りペダルを踏んだ。最近、毎日を生きるために精一杯で、夢も何もない生活をしている。私は何のため働いて、何のため生きているんだろう。誰かが私を貢いでくれると言っても、私はすっきりした気分で仕事を辞めて、やりたいことができるだろうか? そんなモヤモヤした気分で、明日の仕事のための支度をする。
「な、池内さん納期がいつだったかわかる?」