第七百一話『ここにいない理由、ともにいる理由』
「……ん、んん」
――今まで微動だにしなかった華奢な腕が唸り声とともにピクリと動き、よく寝たと言わんばかりにゆっくり上へと伸びていく。……作戦成功の立役者である俺たちの師匠は、とてものんびりとした様子で意識を取り戻した。
「おはよう、ミズネ。ゆっくり眠れたか?」
まだ少し焦点のあっていない目に視線を合わせて、俺はゆっくりと尋ねる。……そうしてやっと、ミズネの意識ははっきりしてきたようだった。
「……宿の一室――ということは、とりあえず全部終わったのか。この通り、私は元気だ。痛いところもないし、熱っぽい感じもない。……どちらかと言えば、心配なのは最後まで無茶をさせてしまったお前たちの方なのだが――」
「うん、あたしたちは大丈夫よ。ちょっと疲れたけど、それぐらいで音なんて上げてられないしね。……もっと休むべき人が、あの中にはたくさんいたし」
心配そうな表情を浮かべるミズネに、俺の少し後ろに立っていたネリンがひょこりと顔を出しながら笑顔で答える。実際のところはかなり息を切らしていたのだが、それに関しては伝えないつもりらしい。ま、余計な心配をかけさせてもいけないしな。
「ただいま、とりあえずみんなのご飯を――って、ミズネが起きてるじゃないか!」
そんなやり取りを交わしていた最中、今日のご飯を買い出しに行ってくれていたアリシアがドアを開けながら驚きの声を上げる。そのまま手近なテーブルに戦利品を置くやいなや、早足でベッドのそばへと駆け寄ってきていた。
「ミズネ、体調は大丈夫なんだね? あの時は突然倒れたから、てっきりしばらく目覚めないものかと……」
「ああ、心配をかけたな。あれは魔力を使いすぎたことの反動のようなものだから、魔力がある程度のところまで回復したら体は動かせるようになるんだ。……まあ、魔術を使うのはもう少し控えないといけないだろうが」
「そりゃ当然って感じだな……。案だけの魔物と正面から打ち合ったんだ、そりゃ半端な消耗で済むわけがねえ」
取り巻きの処理が全て終わるまで、ゼラと二人でエルダーフェンリルを足止めしてたわけだからな……。しかも途中でゼラが吹き飛ばされて戦線離脱していたって言うんだから、それすらも背負いきって見せたミズネの底力には感服せずにいられない。……俺たちの師匠が初めて見せたと言ってもいい底の底は、どんな転生者にだって負けていないと断言できた。
「……私のことはいいんだ、寝ていればいずれはよくなるからな。問題はほかの面々――特にゼラとロアのことだ。あの二人は、無事に戻れたか?」
自分に関する話題を打ち切って、ミズネはこの場にいない二人のことを問いかけてくる。……それに関しても俺たちは答えを持っていたが、なんて答えるべきか少し困ってしまった。
「……えーと、だな……。まず一つ言いたいのは、二人とも無事だ。そりゃケガは多少してるけど、お互いに命にかかわることはないってギルドの人が言ってたからな。……だけど同時に、一番ひどい負傷をしてたのがゼラだったのも間違いない。魔力切れに加えて骨が何本か折れてるみたいで、今治療を施してるところだってさ」
淡々と、しかしこぶしを握り締めながらそう報告してきたギルドの人のことを思い出しながら、俺は言葉を選びながらミズネに現状を報告する。命に別状はないと聞かされているから最低限の安心はできるが、それでも不安が完全に拭えるわけはない。
だが、それを俺が表に出すことはない。……というか、出してはいけないなと思ってしまった。だって、一番ゼラのことを心配していたはずの人間が気丈に振る舞うことをやめてないんだから――
「それでねミズネ、今ロアはゼラの治療に同行してるの。『自分の水魔術も何かの役に立つかもしれない、ぜひ協力させてくれ』って。……まあ、それだけが理由じゃないとは思うけど」
口元にちょっとだけ微笑みを浮かべながら、ネリンが俺の報告に続く。その笑みはからかうものと言うよりは、子供を見守る親のような優しい表情で。……たまにそういう表情を浮かべてくるから、俺はネリンのことがいつまでたっても分からないでいる。
だが、今回ばかりは俺も同じような表情を浮かべずにはいられない。……ゼラの思いが届いているといいなと、欲を言うなら実ってくれていればいいなと、そう思うから。――知らず知らずのうちに顔にそれが出ていたのか、ミズネも何かを悟ったような表情を浮かべて――
「――そうか。ロアがいてくれるなら、ゼラにとってそれ以上にありがたいことはないだろうな」
柔らかく、優しく笑った。
長く続いた王都編ですが、その中心にはロアとゼラの物語がありました。エルダーフェンリル討伐作戦を経て、その関係性がいったいどんな形で落ち着くのか。王都編の大きなテーマが一つ解決される瞬間、ぜひ見守っていただければなと思います!
――では、また明日の午後六時にお会いしましょう!