第六百六十九話『暴風に棲む大狼』
青白い靄の中に入ってしまえば、そこはもうエルダーフェンリルの領域だ。肌を刺す様な冷たさが満ち、不用意な侵入者を許さないという意志がバシバシ伝わってくる。
だが、俺たちも何の覚悟もなく突っ込む選択をとったわけではない。……その証拠と言わんばかりに、ミズネはまだシルエットしか見えない狼に向かって右腕を突き出して――
「――挨拶代わりだ、受け取っておけ‼︎」
鋭い声が響いた直後、氷の弾丸が掌の先に生み出される。先端を尖らせて殺傷力に特化させたそれは、一切の容赦も悠長もする気がないことを何よりも雄弁に示していた。
「……鉄よ、僕を導け!」
先陣を切ったミズネに対抗する様にして、ゼラも勇ましい雄叫びを上げる。それと同時に鉄の刃が無数に生み出され、それを従えるゼラの姿はまるで自分自身が弾丸に変じたの様だった。
「は……あああッ‼︎」
地面を乱暴に蹴り飛ばし、無数の刃を従えたゼラが狼のシルエットへと突進する。それが直撃すれば、いくら巨体とそれに見合った頑丈さを持つエルダーフェンリルといえど無傷ではいられないだろう。ミズネの弾丸も同時に迫っているし、全くダメージを与えられないなんてことはないはず――
――だと、そう思っていたのだが。
「ウ……オオオオオーーーンッ‼︎」
俺たちの存在を知覚しても微動だにしなかった狼が、初めて俺たちの行動に対して明確な反応を示す。……その咆哮には、明らかな苛立ちがこもっていた。
その苛立ちを反映するかの様に、凄まじい爆風が前に進もうとする俺たちに叩きつけられる。風を操る魔物であることは事前に通達済みだったが、そうと知ってもなおこの威力は規格外だと言わざるを得ない。
「なんだ……これ……⁉︎」
前に出た二人からはそこそこ距離がある俺でさえも、その爆風に耐えられずに体制を崩してしまう。ただの空気の流れでしかない風が、実態のある壁になって俺に衝突してきているかのようだ。
「……くそ、手荒い歓迎だな……!」
「……これは、想像以上に……‼︎」
当然、その風の発生源である狼に近ければ近いほどその影響は強く現れる。鉄の壁や氷の支えを使ってそれぞれ抗おうとしてはいるが、そんな努力をあざ笑うかのように風はさらに強くなっている。……不意打ちとなるはずの初撃は、それによって完全に食い止められる形になった。
だがしかし、それで進むことを諦める二人ではない。身を低くして風の影響を最小限にしながら、もう一度突撃する準備を整えているようだ。風の猛威はすさまじいが、それが直接命を奪ってくるということもない。……ある意味油断と言ってもいいこの時間を有効活用しなければ、俺たちの勝機はぐっと遠いものになってしまうのだ。
「……氷、よ‼」
「――僕に注げ、鉄の雨!」
耐えること三十秒ほど、ようやく風は少しだけ落ち着きを取り戻し始める。それでもまだ強風なことには何も変わりないのだが、王都最強の二人にとってはこれで十分らしい。鉄と氷という二人の武装が空中に装填されるその光景は、まるで歩く戦車を見ているかのようだった。
実際それと張り合えるか上回れるかぐらいの戦力はあるだろうし、どちらかと言えばその二人を抑え込めていた強風の方がおかしいぐらいではあるのだ。……それはつまり、そこさえ凌いでしまえば反撃のチャンスはあるということ。そして、それは俺よりも二人の方がよっぽど理解していることだ。
「タイミングは任せる! 一斉攻撃で流れを奪うぞ‼」
「了解。……鉄よ、切り開け‼」
ミズネからの合図に合わせ、ゼラは自分の周りにさらなる鉄の刃を生成する。だんだんと規模を大きくしながら疾走するその半歩後ろについて、ミズネも氷の弾丸を大量に浮かせながら狼へと接近していた。近づくことを拒む暴風も今はその勢いを弱め、少しばかり二人の体を押し返すことしかできていない。……エルダーフェンリルだって、無限に魔力を行使し続けられるわけではないのだ。――仮にも同じ生命である以上、二人がなすすべなくやられるなんてあるものか。
「……貫け、僕の分身‼」
「さあ、あの時の続きといこう。……今度は、徹底的にな‼」
それぞれの思いを口にしながら、ゼラとミズネの攻撃は交わされることなくエルダーフェンリルの足元に直撃する。重く鈍い音が戦場に響いて、一呼吸したのちに苦痛にうめく鳴き声が聞こえた。
王都最強の二人が遠慮なしに放った攻撃は流石に効いたのか、エルダーフェンリルの周りに色濃く漂っていた靄が少しばかり晴れる。そして、その靄を突き抜けるように大木のような太さの右前足がはっきりと俺たちの視界に映って――
「……避けろ、二人とも‼」
振り上げられたそれの行き先に気が付いたとき、俺はとっさにそう叫ぶ。……その直後、狼の右足が二人の立っていた地面を派手に抉り取った。
ミズネとゼラの戦闘開始を皮切りに、青白い領域の中ではそれぞれの戦いが始まっていきます! あちこちで展開される冒険者たちの物語、ぜひお楽しみいただければ幸いです!
――では、また明日の午後六時にお会いしましょう!