第五百七十二話『押し流された先で』
「……野良犬?」
「そう、もっと言えばスラム。分かりにくい表現をするより、そっちの方が分かりやすいかな?」
俺の戸惑いをさらに深めるかのように、ゼラは淡々と付け加える。……その言葉が正しいなら、ゼラの辿ってきた道は俺が思うよりずっと壮絶なもので。
「……ここで君が怖気づくなら、今までのやり取りは全部なかったことにしてあげてもいいけど?」
その戸惑いを見逃すことなく、ゼラは畳みかけるように問いを重ねる。……だが、それに対する答えはちゃんと決まっていた。
「……いや、続けてくれ。お前がどこで生まれてたって、それが今のお前を軽蔑する理由にはならねえ」
「分かった。……君が期待通りでいてくれて、僕は少しだけ嬉しいよ」
ゼラから視線をそらさないように意識しながら、俺はゆっくり、そしてはっきりと答えを返した。それに対しての答えは短いが、しかし話を打ち切ろうという雰囲気もない。……どうやら、俺はゼラのお眼鏡にかなうことが出来たようだった。
「試すような真似をしてごめんね。……君がスラムを信じられないようないいところの子だったら、この話は忘れてもらった方が君にも僕にも有益だからさ」
「いいところの子なんかじゃねえよ。……平々凡々、普通の生まれだ」
どこか皮肉るような声色をして見せたゼラに対して、俺は苦笑しながらそう返す。……だけど、それが今は謙遜にすらならないこともよく分かっていた。
「へえ、そうだったんだ。そこそこ綺麗な手をしてたから、冒険者になる前は大事にされてたのかと思ってたよ」
視線を俺の手元に落としながら、ゼラは静かに呟く。その視線の先にある俺の手の甲は、確かに傷跡一つ残されていなかった。
手のひらは擦り剝けてたりまめが出来てたりするが、それは全部この世界に来てからついたものだ。……ゼラの言葉通り、大事にされてたってのは否定できねえな……。
「……まあ、そんな話は今は良いんだ。君が聞きたいのは、どうやって僕がゼラ・アルフィウムとしてここに居るかだろう?」
「……だな。そこがお前の強くなった環境だっていうなら、その話を聞かなくちゃいけないって思ってる」
この王都にスラムがあったことすら知らなかった身でそんなことを言うのは傲慢な気もするが、ここまで来たらもう避けては通れない。……それが、ゴールから目をそらさないということだと思うのだ。
「……分かったよ。どこから話すから考えるから、少しだけ待ってて」
俺の思いを汲んでくれたのか、ゼラは軽く目をつむって腕を組む。そのままの姿勢で縁にもたれかかるその姿は、いつも通りとても馴染んで見えた。
だが、その内面だけが俺の知らないゼラへと切り替わっている。……まるで、押し込めていた何かが蓋を開けていつものゼラとなり替わってしまっているかのようだ。
「……まず、王都ってのは入れ替わりが激しい街だ。人の流れも物の流行も、とにかくすべてが途轍もない速度で流れていく。……その現象の陰には、必ずその流れに押し流された人がいるってことは言うまでもないよね?」
「ああ、分かってるよ。……皆が皆流行のおかげでハッピーになれるわけじゃない」
流行の過ぎた物がどんな扱いをされるかは、俺も色々とみて来たからなんとなくわかる。流行が過ぎて視線を集められなくなるのは悲しくて、それでいて虚しいものだ。……この街がどれだけ栄えていたとしたって、その側面がある事だけは絶対に否定できない事だった。
「そういうこと。……それでも、この街に命綱なしで飛び込む愚かな人間ってのはいるんだよ。はやりすたりに負けずにいられるって信じて、全てをチップにして王都に飛び込んでいく人間は後を絶たない。……まあ、それが僕の両親なんだけどさ」
悲しい話だよ、とゼラは他人事のようにそうまとめる。全てをかけて王都に飛び込んだ人がその流行に負けてしまったらどうなるか。……考えるまでもなく、その先は悲劇だった。
「僕達の家は物心つく前になくなって、気が付けば一人で路地裏に居た。その時僕の隣でいびきをかいてた爺さんが、僕の人生で唯一親と言える人だろうね」
「……その人の家名が、アルフィウム?」
「そういうこと。苗字がないと色々とややこしい疑いをかけられるから持っとかないといけないんだけど、かといって僕を捨てていった親の苗字を名乗りたくはない。……ちょうどよかったんだろうね、はっきり言うと」
アルフィウムを名乗るきっかけになったその人物を思っているのか、その眼はどこか昔を懐かしむように遠くを見つめている。だがしかし、表情は険しいものから少しも崩れはしなかった。
「……君が思ってるよりスラムってのは規模が大きくてね。僕ほど小さな子供ってのは異端だったけど、それでもあそこにいる皆は僕のことを受け入れてくれた。……あそこが無かったら、僕はとっくに野垂れ死んでただろうね」
「……温かい、場所なんだな」
「うん、あのギルドなんかに比べたらよっぽどね。冒険者になんかならなくても魔物は狩れるし、物を売ることだってできる。だからさ、冒険者になんて一生ならないだろうと思ってたんだけど――」
そこで軽く息をついて、体を深く湯船に沈める。再び浮上してきたとき、その瞳には恍惚とした色が表れていて――
「……見つけちゃったんだよ、ロアの事を」
うっとりとした声色でそう告げるゼラは、まるで子供の様だった。
ということで、ゼラの過去はより深く掘り下げられていきます!ゼラはどのようにして今のゼラになったのか、是非ご注目ください!
――では、また明日の午後六時にお会いしましょう!