第五百四十五話『ヒロトと図鑑と』
「心の支えになるもの、か……」
ネリンの言葉を聞いて、思わず俺は首をかしげてしまう。異世界に来てからの俺は、思えばそういうものと出会ってこなかったような気がしてしまったからだ。
ネリンやアリシア、そしてミズネと一緒に居られることは誇らしいが、だからと言ってそればかりに心を預けていてもいられないって思ったのが今日の特訓に繋がるわけだし、父さんや母さんに誇れるような自分になれている自覚もないし。……どっちかと言えば、俺は心の支柱をこの世界で取り落してしまったのかもしれなかった。
「……少し前なら、図鑑が支えだって自信満々で言えたんだろうけどな」
図鑑を手元に呼び出しながら、俺はそういうふうに呟く。俺が日本で友達が少なくても大丈夫だったのは、間違いなく図鑑の存在が俺の支柱になってくれたからだった。
新しい図鑑が出るまでの時間を楽しみにすれば一人の時間だってやり過ごせたし、図鑑を隅々まで読み込めば時間はさらに過ぎていく。図鑑に対しての知識は誰にも負けないっていう自負も、俺を強く支えていてくれたもののように思える。……だけど、それはあくまで日本にいたころの話だ。
「……こっちに来てから、図鑑じゃどうにもならないことにぶつかりすぎてさ……」
例えば懇親会の運営、例えば屋敷での謎解き、例えば今。その全部が図鑑に応えの書かれていない問いで、なんなら答えは自分たちで出していくしかないもの達だった。あんなにせわしなく開いていた図鑑を開く時間はだんだん短くなって、王都でも実はそんなに使っていなくて。……その分だけ、自分の頭をぐるぐるとまわす時間が増えたように思う。
だけど、図鑑が万能じゃない事なんていまに始まったことじゃないんだ。きっと日本でだって、図鑑は万能でも何でもなかった。ただ知られていることが書かれているだけで、明確な答えのない問いに対して図鑑は無力でしかない。……どちらかと言えば、図鑑で解決できない問題から俺が逃げていただけって側面の方が強いわけで。
「これじゃあ、図鑑オタクとしては失格だよな……」
丁寧な装丁の表紙を一撫でしながら、俺はふと呟く。つるりとしたその手触りは、こんな時でも心地よかった。
「……ズカン、ずっと好きって言ってたものね。だけど、今は嫌いになっちゃった?」
俺の長々とした独白を聞き届けて、ネリンはぽつりとそう問いかける。その口調は、ちょっと不自然なくらいに優しかった。
俺の本心まで見透かしているような、問いかけの癖にその答えは分かっているかのような。そんな言葉を前に、俺の口は自然と開いた。
「……好きだよ。今でもその気持ちは変わらないし、変わるとも思えない。ただ、昔よりも頼りにすることが少なくなったなあってさ」
図鑑じゃなくて、人と向き合うことが増えた。図鑑にかかれていた情報じゃなくて、目の前にある事実を見る時間が増えた。……自然と、図鑑に触れる機会は減っていった。忘れてたわけじゃないけど、俺が向き合っている問題は図鑑に頼っても答えが出るものじゃないって分かってしまっていた。
「役立たずって切り捨てたいわけじゃないし、これからも必要になれば俺は図鑑を頼ると思う。……だけど、図鑑オタクって名乗っていいだけの熱量はそこにないんじゃないかってさ」
たとえそんな使い方になったとしても、図鑑はきっと俺の問いかけに応えてくれるのだろう。それが図鑑ってやつで、俺が惹かれた一番の理由だ。……だけど、その状態を『オタク』と名乗ることは違う気がする。それはなんというか、おこがましいというか。
俺の答えを、ネリンはゆっくりと相槌を打ちながら聞き届けてくれる。俺が言いたいことを吐き切ったことを確認してから、ネリンは軽く首を傾げた。
「……オタク? っていうのがあたしにはよくわからないし、アンタの悩みの全部をあたしが分かろうなんて言うのは大それた話だと思ってる。だけど、今のあたしが思うのはね?」
俺の瞳をしっかりと見つめて、ネリンはゆっくりと言葉を紡いでいる。知らない事と真摯に向き合って、自分なりの答えを出そうとするその姿が、どうしてだか初対面の時とダブった。
無茶して助けようとして、その結果自分が困難に巻き込まれて。せっかく引き付けたのに、一瞬でそれを台無しにして。……だけど最後は、俺の持ってるよく分からない書物の情報を信じてくれた。……あの時の姿が、今のリリスと重なる。自分の知らない概念と向き合って、リリスは今、俺に何かしらの解答を与えてくれようとしているんだ。
ごくりと息を呑んで、俺は次の言葉を待つ。その期待に応えるかのように、ネリンは軽く両手を打ち合わせると――
「……今のヒロトには支柱がないんじゃなくて、たくさんの支柱が増えたんだと思うのよね」
――そんなネリンなりの答えが、俺の目の前に提示された。
『タイトルにもあるのに図鑑の影薄くね?』なんて問題に、物語の中でやっとヒロトから言及が来ましたね。それをいい変化ととるか作品の破綻と取るかは、まあ皆様にお任せすると致しまして。ネリンから提示された答えにヒロトはどう答えるのか、楽しみにしていただければと思います!
――では、また来年の午後六時にお会いしましょう! よいお年を!