第五百二十五話『疲れと思考速度、おまけに予想外』
「……はい、お疲れ様っす。疲れてる時って予想以上に頭が回らなくなること、実感していただけましたか?」
ムルジさん考案のクイズトレーニングを終え、そんな質問が頭上から飛んでくる。道場の壁に思い切りもたれかかりながら、俺はその質問に呻くようにして応えた。
「……ええ、そりゃもう痛いくらいに……」
「頭脳労働がどれだけ体力を要するものか、再確認させられましたね……正直なところ、ここまで思考が鈍ることは想定してませんでした」
ほぼ全体重を預けるようにしながら、俺たちは手元に置いておいた水入りボトルを手に取る。この水こそが文字通り俺たちにとっての生命線で、これがあったからこそ俺たちはクイズトレーニングを最後まで続けられたようなものだった。
「それなら何よりっすね。動きながら考えることの大変さ、疲れながら思考を鈍らせないことの大切さ。その二つが分かってくれれば、このトレーニングをおろそかにすることはなくなるってのが師匠の教えですからね」
「……そう言えば、その師匠ってのは今どこに?」
度々出てきている師匠という言葉がふと気になって、俺は思わずそう質問する。鈍っている頭での考えだから正しいかどうかは定かじゃなかったが、確かこの道場を立てたのはムルジさんじゃなかったはずだしな。
「あー、確かにそれについては言ってなかったっすね。師匠は今、王都騎士たちの練兵を担当するために王城に駐留してるんす。長年トレーニング理論とかに興味を持ってた人なんで、その研究が認められた形っすね」
「……そんな事情があったのですね。騎士団の情報には疎いので初耳でした」
頭を掻きながらのムルジさんの解答に、隣に座っていたロアが驚いたような表情を浮かべる。それにこくりと頷きを返すと、ムルジさんは何かを懐かしむように目を細めた。
「……ま、あまり過去を振り返らない主義っすからね。師匠のことを話そうと思うと、俺がこの道場に来た理由とか、先輩との過去の話をしなくちゃいけなくなるんで」
そういうのは性に合わないんすよ、とムルジさんは苦笑しながら締めくくる。その話にはちょっと興味があったが、聞きだそうとしても応えてくれないんだろうなという不思議な確信だけがあった。
というか、ロアもそういうところは知らなかったりするんだな……関係性はかなりいいものに思えるが、だからと言って何でも話せる関係ってことではないらしい。先生と生徒みたいなもんだし、そうなるのも納得できる話ではあるんだけどな。
「……ま、そんなことはとりあえず置いといてですね。お二人とも、今日の特訓はこれにて終了です。お疲れさまでした」
そんなことを考えているうちに、いつもの雰囲気に戻ったムルジさんが俺たちに向かって頭を下げてくる。終わりという言葉が出てきたことにひどく安心しながら、俺たちはムルジさんに向かって頭を下げ返した。
「長いようで短い、でも結局長いトレーニングでした……。明日は筋肉痛確定ですね」
「ま、そう成ってもらわなきゃ困りますしね。いつも使ってない筋肉とか考え方とかを要求したんで、疲れが来るのも当たり前の話っす。……お嬢も、動くに動けないでしょう?」
「そうですね……。癪な話ではありますが、今不埒な輩に絡まれると面倒なことになりそうだという自覚はあります」
ムルジさんの問いかけに、ロアが悔しそうに身じろぎしながら答える。そういや、ロアとの初対面はナンパ野郎たちをロアが投げ飛ばしているところを見つけたところだったっけか。あれもなんだか遠い昔の話に思えるんだから時の流れってのは不思議なものだ。
「なんと、それはちゃんと休まないといけないっすね。……ちょうどいい話があるんすけど、聞いていく気はありませんか?」
「……と、言うと?」
ここだけの話と言わんばかりに身を寄せて来たムルジさんに応えて、俺たちも体を前に傾ける。悪戯っぽく笑ったムルジさんは、声を潜めて続けた。
「……前の護衛仕事の報酬で、先輩が今美味しい肉を買いに行ってくれてるんす。せっかくここまで頑張ったことですし、おふたりも食べていってください」
「おお……それは、魅力的な提案ですね」
「確かに、そうさせてくれるならありがたいですけど……ヴァルさんが嫌がったりしませんかね?」
俺たちの存在なんて知る由もないだろうし、ヴァルさんはムルジさんと二人で食べる想定で食材を買ってくるはずだ。そこに俺たちが割り込んだら、二人の取り分が減ってしまうと思うのだが……
「それに関しては大丈夫っすよ。毎回毎回買い込み過ぎて食材が余るのがお決まりなんで。先輩は賑やかな食卓が好きですし、多分笑って受け入れてくれると思うっす」
ムルジさんがそんな風に俺の懸念を否定した瞬間、道場の扉がガチャリと音を立てる。あまりに間が良すぎるその帰還に、ムルジさんはゆっくりと腰を上げた。
「はい、いいっすよー。買い出しお疲れ様っす」
「おう、買い出しなら任せとけってな! 今日は一段とうまい飯になるぞ……っ、と?」
袋一杯の食材を受け渡しながら、ヴァルさんは道場の中に足を踏み入れていく。……だが、俺と目が合った瞬間にその眼は大きく見開かれた。
「……おーおー、珍しい事もあるもんだな。奇妙な縁も、ここまでくると運命みたいなもんだ」
「……? それって、どういう――」
俺の顔を見つめながら、ヴァルさんは何事か呟いている。それがどういう意味なのか、理解できない俺はゆっくりと首をかしげていたのだが――
「……え、何でヒロトがここにいるの⁉」
「……え?」
聞きなじみのある高い声が、俺を見つけたことで驚いたように跳ねている。それに驚いて視線を入り口の方に向けると、そこにいたのは見知った俺の仲間達で。
「……いや、本当にどういうことだよ……?」
ちょっと気まずい形で別行動になった仲間との思い駆けない再会に、俺は思わずそう呟くしかなかった。
ということで、次回からは合流した面々での物語が進んでいきます! 期せずして再び顔を合わせたヒロトたちはどんなことを語り合うのか、楽しみにしていただければ幸いです!
――では、また明日の午後六時にお会いしましょう!