第五百二十四話『次なるメニュー』
「ふいー、やっぱりトレーニングの後の水は沁みるっすねー……」
コップになみなみと注がれた水を飲み干しながら、ムルジさんは大きく息をつく。いい汗をかいたと言わんばかりの爽やかな立ち姿の隣で、俺たちはぐったりと道場の床に寝転がっていた。
「……なんで、あんなにムルジさんは余裕でいられるんだろうな……?」
「鍛錬の差、としか言いようがありませんね……」
すっかり重くなった体を動かしながら、俺たちはもそもそとコップへと手を伸ばす。全身を使うトレーニングの効果はてきめんで、体中が鈍い痛みを訴えていた。
そう言えば、ここまで体を動かすことに特化したトレーニングはほとんどしてこなかったもんな……基礎体力は自然につくものではあるが、ここまで鍛えられてない筋肉が残っているのは想定外すぎた。
「……でも、その分だけ身になってるって感じがするな……」
体中に走る痛みが、ここまでぶっ続けでやり切って来たトレーニングが無駄じゃなかったことを保証してくれているかのようだ。だんだんと難しくなる要求に途中で悲鳴を上げそうにはなったが、それをやり切ったことによる恩恵は確かにあったんじゃないだろうか。
「いきなり四セットも繰り返すのは、流石にやりすぎだとは思いますがね……」
俺の呟きに、隣で呻き声をあげていたロアがいつもよりかすれた声で返す。コップに伸ばす手は俺と同じくらいに震えていて、トレーニングで体力を使い果たしているのがはっきりと分かった。
俺よりもトレーニングの歴は長いであろうロアも潰れてるところを見ると、本当に激しいメニューだったんだな……。俺もロアも最後のメニューが終わった後糸が切れたように床に倒れ込んでいたが、どっちかと言えばそこまで体力が保ったことが奇跡的なのかもしれない。
「……はあ、水がうめえ……」
こぼさないように慎重にコップを傾けながら、ゆっくりと水を口の中に流し込む。冷たさが喉を通じて体中にしみわたっていく感覚が、普段よりもやけに心地よく感じられた。
その隣では、ロアもちびちびと水を口に含んでいる。表情が徐々に緩んでいくのを見るあたり、疲れた体に水が沁みるというのはもはや万国共通と言ってもよさそうだった。
学生時代は思いっきり文化系だったから知る由もないが、運動部に所属している奴らもこんな感覚だったんだろうな……。今の俺と比べても体力がある奴もいるだろうし、もしかしたらこのトレーニングを涼しい顔をしながらこなす奴もいるかもしれない。運動部恐るべし、と言ったところか。
「お二人とも、相当疲れ切ってるみたいっすね。……ま、そうさせることが目的でもあったし当然と言えば当然なんすけど」
ぼんやりと物思いにふけっていると、頭の上からムルジさんの声が聞こえてくる。ゆっくりと寝返りを打つと、それだけで全身が悲鳴を上げた。
「……この通り、俺たち揃ってボロボロですよ……。ムルジさんの狙いは、十分すぎるくらいに果たされてるみたいですね」
「目的もなくここまで追い込んだのなら、指導者としての貴方の適性を疑わなければなりませんが……。態度とは裏腹に思慮深い貴方の事です、どうせこれにも何らかの理由があるのでしょう?」
「そりゃそうっすよ、オレだってトレーニング計画を練ったうえでやってますもん。今回ばかりは即興のメニューですから、それが最善だったかってところは保証できませんけど」
ロアの問いかけにうなずいて、ムルジさんはすっと指を立てる。その目付きは、さっき水を飲んでいた姿よりも少し真剣なものに見えた。
「……もしかして、まだ何かトレーニングがこの後に控えてたりします……?」
「お、よくわかりましたね。その通り、ここまで疲れさせたのは次のトレーニングをより効果的にするためのものっす」
俺が感じたいやな予感を肯定するかのように、ムルジさんはにこりと笑って頷く。……その姿に、喉の奥から声にならない息が漏れた。
「……流石に、これ以上身体に負荷をかければ私たちも無事ではいられませんよ……?」
ぐったりと倒れ伏しながらも、ロアはわずかに語気を強めてムルジさんの足元に迫る。ただそれは、どちらかと言えば『もう休ませてくれ』という声にならない懇願だった。
その必死の要求に対して、ムルジさんはひらひらと手を横に振る。まさかまだ無慈悲にトレーニングを続けるのかと一瞬背筋が凍ったが、どうもそういう訳ではなさそうだった。
「大丈夫っす、これ以上体に負担をかけることはしませんから。……だから、この状態でも鍛えられる瞬発力を鍛えるんす」
「……と、いうと……」
「今から鍛えるのは思考の瞬発力。求められた答えを一瞬で出すための、思考の動き出しの速さを向上させるトレーニングっす」
平たく言えばクイズっすね――と。
ぐったりと倒れ込んだ俺たちを屈みこんで見下ろしながら、ムルジさんは次なるトレーニングプランを提案したのだった。
ヒロトとロアの奮闘はまだまだ続きます! のんびりとした歩みではありますが、物語は着実に前に進んでおりますのでどうぞご安心を! 王都でヒロトたちはどんな財産を得るのか、その歩みを見守っていただければ幸いでございます!
――では、また明日の午後六時にお会いしましょう!