第五百十七話『揺らぐものを抑えて』
指示自体はおれがムルジさんに出したものとよく似ているし、ボールの軌道もとても緩やかだ。だけど、俺たちが思っていた以上にレベルの跳ね上がるスピードが速すぎる。ロアも予想外だったのか、山なりの軌道で向かってくるボールを見つめるその足は所在なさげにバタついていた。
「……お嬢、まずはチャレンジっすよ! 別に失敗してもペナルティはありませんからー!」
「そうは言っても、ですね……‼」
そんなロアに飛んできたムルジさんからのエールに、ロアは少し納得いかない様子ではあるが水の球体を創り出す。先に言われていた暴発のリスクが頭によぎったのか、そのサイズは投げられたボールより一回り大きいか大きくないかと言ったところだった。
つまり、そこまでが暴発のリスクなく完全に水魔術の限界ということだろうか。水魔術にはあまり触れたことがないから何とも言えないが、水というものを操ることが難しいだろうというのは容易に想像できた。
炎とか雷にしてもそうだが、ああいう形が定まっていないものを制御するというのは難しいという認識が俺にはある。岩魔術が形のしっかり定まったものを術式として行使するからなのだろうが、毎秒揺らぎ続けるような現象を操り、まして戦闘に転用するなんて俺には出来る気がしなかった。
『適正自体はないでもないし、後々学んでいけばいいさ』とミズネは言ってくれているが、岩魔術も満足に扱えないうちから新しい魔術に入るのもなんとなく納得がいかないんだよな……。魔術師としての俺が万能になるころには、俺も三十路くらいの大人になっているんじゃなかろうか。
そんなわけで、たとえ小規模でも水の球体を揺らぎなく維持できているロアはそれだけで尊敬に値するのだ。注目するべきは、それを使ってボールを受け止められるかなのかだが――
「……暴発したら、皆さん避けてくださいよ‼」
覚悟を決めたと見るべきか、あるいはやけくそか。どちらともとれるようなロアの叫びが道場に響き、手のひらの上の水の球体がしなやかに形を変える。ロアが腕を振るのに従ってそれは細長い形へと変形し、斜め上から落下してくるボールを受け止めた。
着水したことでボールは水の抵抗を受け、ゆっくりと減速していく。ロアが展開した水の網をくぐり切ったときには、ほぼ速度を失った状態にまでボールの勢いは殺されていた。
「……ムルジ、これでお題は達成ですか?」
「はい、もちろんそれでオッケーっす! お嬢が思った以上にできてて、オレとしても嬉しいっすよ!」
ポトリと落ちてきたボールを片手で受け止めて、ロアは少し誇らしげにムルジさんへと問いかける。それに満面の笑みを返して、ムルジさんは次のボールを拾い上げた。
「でもこっからはもっと厳しくなるんで、そこだけはあしからずってことでよろしくっす。……それじゃ、キャッチしてください!」
指示を言い終わらないくらいのタイミングで、ムルジさんは右腕を思い切り振り抜く。ビュンっと腕が風を切る音が聞こえて、猛スピードの直球がロアに向かって飛んでいっていた。
これがスカウトの目に染まればプロ入りは確実なんだろうなあ……なんて、ぼんやりそう思ってしまうほどの球速だ。やけに綺麗なオーバースローなこともあって、ムルジさんが野球をしている姿が容易に脳内で想像できた。
そう言えば、この世界には野球ってあんのかな……あったら見に行きたいような気もするが、この世界の冒険者たちは色々と規格外だからトンデモ試合になってしまいそうだ。……多分ないんだろうな、うん。
俺がそんな風に考えられるのは、今に関して言えば俺が傍観者でしかないからだ。プロ顔負けの速球をいきなり放られて『キャッチしろ!』なんて、日本でやったらただの無茶ぶりでしかないわけで。
「いきなり、レベルが跳ね上がりすぎではありませんかーーー‼」
ロアはその指示に反応できず、ぎりぎり差し出せた右手に当たってボールはあらぬ方向へと跳んでいく。……一部の冒険者のスペックが高いだけで、この要求が無茶ぶりなのはこの世界でも変わらないようだった。
「やっぱりこれは無理っすか……じゃあ、少しレベルを下げますね。同じ球速、行きますよ」
戸惑うロアにそう予告して、ムルジさんはもう一度大きく振りかぶる。本当にこの世界に野球がないのか疑いたくなるレベルに綺麗なワインドアップを決めて、ムルジさんは投球動作に入ると――
「……お嬢、お得意の魔術でこれを迎撃しちゃってください‼」
そう言って、思い切り右腕を振り抜く。そこから放たれるボールの威力は予告通り――いや、それ以上に早いんじゃないだろうか。間違いなく、素手での反応は間に合わないものとみていいだろう。
「それなのに魔術でとか、本当にできんのか……⁉」
そう呟き終える頃には、ボールはロアの手元にまで迫っている。後ろから見るロアの立ち姿は、さっきと同じくその速度に反応できていないように思えたが――
「……どうにでもなれ、です‼」
そう言って右腕を振り下ろした瞬間、右手付近に浮いていた水の球体が急速に膨れ上がる。その膨張によってボールを取り込んだ球体は、しかしその巨大化を止めることなく――
「……う、おあああああっ⁉」
「きゃああああっ⁉」
中身を入れ過ぎた水風船が破裂するときのように、唐突に水しぶきが周辺へと飛び散る。……当然ながら俺たちにそれを回避する術もなく、突如冷や水に襲われた俺たちの悲鳴が道場に響き渡った。
普段この物語で魔術を使っている人たちはそこそこ熟練度が高かったりセンスが良かったりするだけで、魔術を暴発させずに扱うのは意外と難しい事だったりします。二人が目指す境地はまだまだ遠いかもしれませんが、そんな二人の道のりを楽しんでいただければ幸いです!
――では、また明日の午後六時にお会いしましょう!