第四百八十六話『一線』
「ふーーーっ……」
牛乳を一気に飲み干しながら、俺は椅子にもたれかかってため息を一つ。あの重圧に当てられたのが今でも効いているのか、心臓の鼓動は今でも少し乱れているような気がした。
緊張感もあってかあの後のぼせ気味になってしまった俺は、二人よりも先に受付に戻って体を休めている。冷たい牛乳のおかげで体のほてりは何とか取れたが、まだまだ本調子に戻るには時間がかかりそうだ。
「今日の仕事、一番頑張ってないのは俺だってのにさ……」
すぐのぼせてしまうのも、体力のなさと関連したりしているんだろうか。あまり長風呂する習慣もなかったし、そういう熱気になれてないのも悪さをしているのかもしれない。
「……それもこれも、図鑑がふやけるのが悪い……」
おそらく異世界図鑑は防水にも対応しているのだろうが、それにしたって図鑑を風呂で読むのは気が引ける。それはもう、俺にしみついて締まった癖のようなものなのだろう。
「……どうした、今日は随分とぐったりとしておるな?」
そんなことをぼんやり考えていると、受付の方からしゃがれた声が聞こえてくる。ふと見やれば、店主さんが心配そうな表情を浮かべてこちらを見つめていた。
「……ああ、ちょっとのぼせちゃって。でもいい感じに収まって来てますし、皆が上がってくる頃には持ち直せると思います」
「……まあ、当人がそういうのなら問題はないが……無理はするものではないぞ?」
「大丈夫です、少し湯につかりすぎただけなんで。……ゼラたちと、少しばかり話しこんじゃって」
威圧感のことは隠しながら、俺は店主さんに事情を説明する。アレはゼラ自身もあまり見せないようにしているものなんじゃないかと、なんとなくだがそう思ったのだ。
人の精神力を直接削って来るような威圧感なんて、練習したからと言って出せるものじゃない。とすればアレは生来のものなのだが、ゼラの人柄とはどう頑張っても印象が一致しないし……。
いや、そんな事は今考えるべきことじゃない。あの威圧感の正体なんて、見えないままでも大丈夫な類のものには変わりないんだから。
「……そうか。あの小僧が友人を連れてくるなんて初めての事じゃったから、ワシは驚かずにいられんかったよ。それが昨日初めてここに来たお主なのじゃから、驚きはさらに倍じゃな」
「……初めて、だったんですか? ゼラ、あんなにも明るいのに……」
「ああ、初めてじゃ。あれだけおしゃべりな小僧だが、ここでの話し相手はワシしかおらんかったな」
だからこそいろんなことを知る羽目になったのじゃが、店主さんは苦笑する。しかし、俺の意識はゼラに関する新情報に向けられていた。
あれだけ明るいのに、この店に来るときはいつも一人。もちろんほかでは友人がいる可能性も否定できないが、それにしたってその印象がかなり意外なものなことに変わりはないだろう。ロアみたいにこの施設に訪れたがらないような人もいるだろうし、交友関係がそっちに偏ってる……なんて解釈も、まあできなくはないが。
「……ゼラ、それで寂しくないんですかね?」
「さあな、それはあの小僧しか知りえんことじゃ。……そもそも、他の人物とのエピソードが語られること自体が稀じゃからな」
「……それもまた、意外ですね」
問題なのはそれをゼラが話せないのか話さないのかなのだが、その姿勢が違和感のあるものなのには変わらない。俺たちといる時は、ロアをどこまでも気にかけたような感じなのにな……。
「あの小僧はあれで警戒心が強い奴じゃ。朗らかにあたっているように見えて、そこには一線が張られていると言えるじゃろう。……勿論、それはワシに対しても例外なく言えることじゃろうな」
「……店主さんでそれなら、俺たちに対してもそうなんでしょうかね……」
毎日のように顔を合わせる店主さんがそうなら、顔を合わせて半日くらいでしかない俺たちがその一線を取り払えているわけがない。……ゼラ・フィリッツアという人物を知れば知るほど、その素性に黒い靄がかかっていくようだった。
「……その一線を踏み越えようとすることは、いけない事なんですかね。アイツのことを知りたいと思うのは、一線を守りたいゼラからしたらどうなんでしょう」
いきなり現れた難しいコミュニケーションの問題に、俺は正直混乱していると言ってもいい。ミズネやネリン、アリシアたちは最初からしっかりぶつかってきてくれてたからいいのだが、ゼラとのコミュニケーションはそもそも前提が違うのだ。いずれはその一線の先に踏み込まねばならないような予感だけは、痛いほどしているのに――
「……いいや、それは悪い事ではないな。むしろ、お主だからやれることじゃ。ワシみたいな老いぼれではなく、同じ世代であるお主でなければ、あの一線を取り払うことは難しいじゃろう」
「……そうなん、ですかね」
迷いの中で駆けられたその言葉に、俺は弱々しく返す。のぼせているせいなのか、やけに頭がぼんやりするような気がした。
「ああ、お主が挑まなければならないことだ。そうでなければ、あの小僧はずっとその生き方を選び続ける以外なくなってしまう。だから――」
「……お待たせ、ヒロト! 体調は大丈夫……?」
その言葉とともに、更衣室のドアが開いてゼラがこちらへと駆け寄って来る。それと同時に聞こえて来た『小僧を頼む』という店主さんの言葉が、ぼんやりした頭に延々と響いていた。
いろんな角度からゼラという人物が見えてくると同時に、ヒロトが抱くゼラへの疑問は深まっていくばかりです。そのすべてに回答が出せるように頑張っていきますので、ぜひ応援していただければなと思います!
――では、また明日の午後六時にお会いしましょう!