第四百四十九話『戦場の勝利条件』
魔力しか知覚できない世界の中でも、狼の輪郭ははっきりと認識できる。それこそが狼のまとう魔力の大きさの証明であり、目の前に立つ敵がどれだけ規格外であるかをはっきりと示す一つの指標だった。
「……あまり、ちんたらとはしていられないな」
百年ちょっと生きてきた中で、間違いなく今が一番調子よく魔術を扱えるだろう。問題はそれがいつまで続くか自分でも分からない事であり、集中が切れた瞬間にあの狼に追随するのは不可能になるだろうということだ。……つまり、見えない時間制限とも私は戦わなければならなくなるという訳で。
「なら、こちらから仕掛けるまでだな――‼」
私の中に少しだけ残っていた遠距離戦への未練を振り切り、私は目の前に立ちふさがる狼へと突貫する。両手に携えた剣と盾は、触れるものすべてを氷で侵食する最強の装備と言っていいだろう。これがあれば、少なくとも致命傷は免れるはずだが……
「……ち、分かってはいたがやはり厳しい……‼」
咆哮は聞こえずとも、膨れ上がる風の魔力が狼の反撃体勢を教えてくれる。私が一歩引いた直後、凄まじい速度の風の刃が私の眼前を三本通り過ぎて行った。その一撃を見た私の脳内から、『近接戦闘』と『防御』の文字はあっという間に消えうせる。
爪による一撃を模したようなそれは、喰らえばひとたまりもないだろう。戦闘不能にならなければ御の字、最悪の場合は冒険者生命を絶たれるくらいの火力は優にあるはずだ。
しかし、それを目の前にしても今の私に退くという選択肢は発生しない。足元から詰めてもだめなら、舞台を変えるまでだからな。
そう決断した私は空中に向かって一歩目を蹴りだし、落下が始まらないうちにもう一度足を上げる。普段ならば成功率が怪しい技術ではあるが、極限まで集中が研ぎ澄まされている今なら――
「……思った、通りに!」
空を切るはずの私の足が氷に支えられ、私は無事二度目の跳躍に成功する。落下を予見して放たれていた風の刃は空を切り、地面を途轍もない勢いで薙ぎ払っていった。
踏み込む直前に氷の足場を作り、それを思い切り踏み込むことで空中での機動力を大きく向上させる。理論だけ見れば簡単に思えるが、その実現は私でもなかなか叶わなかった技術だ。それがこれほどまでに成功しているということは、やはりどこか普通ではない。
思えば、魔力酔いもいくらか楽になっているような気がする。それどころか、普段より強く、そして身近に魔力の存在を感じるような――
「……いや、この話は今じゃないな」
いつかは必要になる感覚なのかもしれないが、この状況を乗り越えなくてはその『いつか』も何もないだろう。今はただ、目の前にいる怪物をどうにかする手立てを考えるのが最優先だ。
氷の足場を渡り歩き、気が付けば狼の輪郭を見下ろせるくらいの場所にまで私はたどり着いていた。やはりその巨体のせいか、自分より高所を攻撃する手段には乏しいようだ。
「気を付けるとしたら、咆哮を媒介にした魔術行使だが――」
それに関してはちゃんと予備動作があるし、避けようと思えば避けるのもさほど難しくない。それよりも難しいのは、どうやってこの狼から馬車が通り抜けるだけの時間を稼ぐかというところだった。
こうやって私が時間を稼ぎ続けられるのなら先に行ってもらうのもやぶさかではなかったが、生憎私のこの状況の制限時間は未だ見えない。そのくせ長く保たないということはなんとなく直感出来てしまっているから厄介なものだ。次の瞬間終わるかもしれないこの状態を根拠に、馬車を進ませることはできなかった。
「そうなれば、結局最初のプランに戻るわけだな」
今の私の攻撃をもってしても、この狼の命を奪うことはできないだろう。だからこそ、考えるべきは撃退か足止めの二択になる。その二択だったら、氷魔術師がとる選択肢はとっくに決まっていた。
「氷たちよ、今一度私の声に応えてくれ」
意識を集中し、狼の足元にここまで砕かれ続けてきた氷たちの欠片があることをしっかりと確認する。そう言った細かなところも拾って積み重ねて、私たちは初めて引き分け、あるいは損害のない敗走を果たすことが出来るのだから。
「……氷柱よ‼」
今の私が作れる最大規模の氷柱を空中に創り出し、魔力の気配をたどって狙いを定める。決して狙いを外さないように――間違えても、狼に脅威となる攻撃だと思われないように。
「私の意志に、応えろ!」
腕を振り下ろし、氷柱は私が事前に思い描いたルートを正確になぞる。狼が動かなくとも避けられるような、少しだけ外したルートを。
その狙いは的中し、狼は微動だにすることなくその氷柱をやり過ごして見せる。賢い狼の見立て通り、四本の氷柱は狼を囲むようにして突き刺さった。
「……やはり防御行動は無し、か。……想定通りで助かるよ」
氷柱が砕かれなかったことを確認して、私はひとまず安堵の息を吐く。作戦の第一段階は、どうやらつつがなく進行してくれたようだった。
この狼、体のサイズ故か自ら動いてこちらを狩りに行くような真似をせず、攻撃に用いるのは有り余るほどの魔力だけだ。自分に降りかかる火の粉は疎んでいるようだが、それ以外にはまるで興味を示さないと来ている。つまり、狼の安全を直接的には脅かさない『仕込み』に対して、奴は何の邪魔も対策もしてこないのだ。
「……今回ばかりは、その余裕が仇になるわけだがな!」
四本の氷の柱、そして狼の足元に散らばる氷の破片たち。そのすべてに意識を集中して、目指すべき一つの形を思い描く。それは勝利ではなく、撤退のための一手。仮に完全でなくとも、時間を稼げればいい私たちだからこそ打てる作戦――
「―—氷よ、封じ込めろ‼」
私の声に応えて、大きな氷の檻が平原へと顕現する。先ほど放った四本の柱を支柱として、地面に散らばった氷の破片をパーツとしながら編み上げたそれは、相手を隔日に閉じ込めることに意識を割いている殺傷力のない代物に過ぎない。だが、今私に求められている役割を果たすにはそれで十分だ。
「――皆、今のうちに馬車に戻れ‼」
無我夢中で叫び、私自身も空中を渡って馬車へと一直線に撤退する。狼との戦いは、本当の意味で最終段階へと突入しようとしていた。
それぞれの全力を尽くした撤退戦もいよいよクライマックスです! 同時に王都への旅路も佳境に差し掛かっていますので、ヒロトたちの奮闘の結果を見届けていただければと思います!
――では、また明日の午後六時にお会いしましょう!




