第百三十七話『屋敷攻略チャート』
「……音、聞こえなくなったわね……」
居間に置かれたソファーに力なく腰かけて、ネリンがほうっと息をつく。表面上は落ち着いていたが、内心ひやひやしていたのがその仕草から丸わかりだった。
実際、ギイギイという不穏な音を聞きながら進む居間への帰り道は俺からしてもいやに長く感じられた。何かあるかもしれないと心のどこかで警戒していたせいなのか、体にまとわりつくかのような疲れがあった。
「何か規則性があるのかもしれないな……。そのあたりは長期的に観察していく必要があるかもしれない」
そんな俺たちをよそに、ミズネは最初こそ戸惑っていたものの今はいつも通り落ち着いている。ネリンが見せているような見せかけでもなく、本当に頭の中を切り替えているようだ。
「これがベテランの年季って奴か……」
「長いこと冒険者をしていれば、いろいろなことに巻き込まれるからな。タイミングがタイミングだったからセキュリティの類を警戒してしまったが、そうでないならさほど焦る必要はないさ」
さらっと言ってはいるが、それができるのは間違いなくプロのそれだ。現に俺たちはミズネに事細かく説明してもらってもなおビビり散らかしていたのだから。なんというか、本当に経験がなせる業って感じがするな……
「あたしたちもこうならなくちゃいけないんだろうけどね……。当分できる気がしないわ」
「それに関しては全力で同意するよ……」
力ないネリンの言葉に、俺もうんうんと頷いて見せる。背中のあたりが冷や汗でべっちょりなのに今更気づいて、想像以上にビビりな自分が悲しくなった。
「迷いの森やら四百年前の遺跡やら、俺もそこそこの経験を積んでるはずなんだけどな……」
ネリンの言う通り、未知ってやつはやっぱり怖いのかもしれない。今までの冒険は予備知識に恵まれてたのもあってか、出たとこ勝負感が否めない今回のケースとは同列視できそうにもなかった。
「こればかりは経験が物を言うところだからな。二人もいろんな冒険を通じて少しずつたくましくなっていけばいい」
疲労困憊と言った俺たちに、ミズネは穏やかに微笑みかける。今までも頼りがいのある年長者だったが、今回は格別だ。精神的支柱というか、途轍もない安心感があった。
「それにしても予想以上だったわ……。こりゃ入居者も来ないはずよ」
ぐでーんとソファーの背もたれに体重を預けながら、ネリンがそう振り返る。全身から力が抜けているかのような姿勢だったが、その分析は正確に思えた。
「異音くらい気にしないで入る人もいるだろうって思ってたけどな……。もうそんなこと言えねえや」
いつ鳴るかもどれくらい鳴り続けるかも分からない異音というのは中々にきつい。今だってなり始めるんじゃないかと警戒する自分はどこかにいるし、それでもいざ鳴ったらびっくりすることには変わらない。その音が無害かどうかとか、そういうことは想像以上に関係がなかった。音が鳴る、という事象自体が生活に支障をきたしかねないのだから。
「夜中に鳴ってても目が覚めないくらいの音量なのがせめてもの救いか……」
「そうね……変な音で夜中にたたき起こされるとかたまったもんじゃないわよ」
「それは……確かに、私でも遠慮したいところだな」
俺の何気ない言葉に、二人が表情をぐんにゃりさせながら同意する。……確かに、想像するだけできつい状況だった。
「……まあ、早めに問題と遭遇できたのは幸運なことでもある。それのおかげで、私たちの方針も定まったからな」
唐突に生まれたどんよりした空気を振り払うように、ミズネが話題を切り替える。俺たちのやるべきこと――確かに、屋敷について半日もしないうちにしてははっきりしている気がした。
「……とりあえず、ネリンが見つけた鍵が使える場所を探すことだな。そのためにも、情報収集をしなくちゃいけねえけど」
「そのためには書斎を探さなくちゃね。この屋敷の持ち主のことも知らなくちゃいけないし」
「あー、そう言えばそんなものもあったな……」
社交界にある程度通じているミズネが知らないこの屋敷の持ち主の名前、それも確かに疑問の一つだ。ある程度覚悟の上ではあったが、こうやって整理してみると割と重大な謎があちこちに転がっていた。
「手探りで動かなくてはいけない状況よりはマシさ。少なくともゴールは見えているからな」
「そのゴール地点が、あるかどうかも分からない地下室なのがまた問題だけどね……」
一番いいのは地下室がカードキーに記された『研究室』そのものであることだが、たとえそうであってもそもそも見取り図に地下についての記述がない事が問題だ。どれか一つの謎が解ければ他のも芋づる式に解消していきそうな感じではあったが、今までの中でも難解さがトップクラスであることは疑いようがなかった。
「そうだな。やるべきことはたくさんある。そのどれもが重要度が高く、すぐにでも動き出したいものばかりだが――」
俺たちのまとめに満足げに頷くと、ミズネはすっくと立ちあがる。そして、軽くお腹に手を当てて見せると――
「…………腹が減っては戦はできぬ、という。今はとりあえず、夕食と行かないか?」
俺たちの脳内からすっかり抜け落ちかけていた夕食の準備を提案するミズネの表情は、珍しく少し恥ずかしそうだった。
少し真剣なムードが漂っていましたが、次回からしばらくはゆるっとした雰囲気も増してくるかと思います!調査がメインの状況ではありますが、その中でも繰り広げられるヒロトたちの愉快な日常をお楽しみに!
――では、また明日の午後五時にお会いしましょう!