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第6時限目 内緒のお時間

「悪いんだけど、やっぱ無理そうなんだよねー……」

 GWを明日に控えて、何処に行こうかと昼食時に4人で打ち合わせ中、片淵さんが申し訳無さそうな声で切り出した。

「え? ……もしかして旅行のことですか?」

 私の言葉に頷く片淵さん。

「そう。行きたかったんだけどねー……にゃはは、駄目だった」

「えー? じゃあ、合宿以外ならオッケー? 泊まりが駄目ってこと? まあ、お金無いから遠くに旅行は無理だろうし、近場に遊びに行くとかさ」

「んー……」

 歯切れの悪い片淵さんの言葉に、正木さんと岩崎さんが首を傾げる。

「片淵さんの家、そんなに厳しいんですか?」

「ホントホント。今時高校生が旅行は駄目! とかあまり聞かないけど」

「いやー、なんていうか高校生がどうとかいうんじゃなくて、単純に成績が悪いからGWから家庭教師を付けようって話になってるみたいでねー」

「うええ、まさか勉強のため?」

 岩崎さんの心底嫌そうな声に、良いこともないのに眉を末広がりにした片淵さんがこっくり頷く。

「んー、まあそういうことなんだなー」

「い、いや、でも毎日って訳じゃないんでしょ?」

 思わず腰すら浮いてしまっている岩崎さんの言葉に、片淵さんはリストラ宣言されたサラリーマン並みの表情で答える。

「いやー、毎日らしいね」

 私たちは片淵さんの言葉に、それぞれ悲哀の感情で反応する。

「そ、それってもう確定事項なんですか?」

「んー、まだGWに毎日来てくれるような家庭教師が居ないみたいだから初日くらいは何とかなるかもしれないけど、まあ2日目以降は駄目だろうねえ、あはは」

 いつもの元気さが半値くらいに値切られてしまった感じの片淵さんの声に私たちもどんよりする。

「いや、でもっ、合宿は勉強の合宿で……」

 正木さんの言葉にも小さなツインテールを左右に振って片淵さんが答える。

「……それも言ったんだけどねー。どうせ勉強とかほとんどしないでしょ、と言われちゃったらまあしょうがないよね」

「ああ……」

 ちょっと前に来た大隅さんと中居さんのことを思い出すと反論出来ない気はする。

「いやあ、でもまあしょうがないさ。確かに今年受験なのにアタシも基本的に学力は下から数えた方が早い方だし、3人で楽しんできてくれたまへ」

「でも……うーん……」

 私も唸ってはみたものの、何も解決策が思いつかない。だって、家庭事情に口を挟めるほど片淵さんを知らないし、もし口を挟んだところで片淵さん自身に言っても何の意味もない。

 そんな沈痛な雰囲気を抱えたままお昼ごはんは終わってしまい、帰りの時間に。正木さんたちとGW前の最終日だし、寮に集まって今後の予定を決めようという話をしていたら、

「ごめん。今日は帰らなきゃいけないんだよねー」

 と、突然片淵さんが両手を合わせる。

「え? 家庭教師は明後日とかじゃないの?」

 岩崎さんの言葉に「あ、うん、勉強はねー」と言葉を濁しながら続けた。

「ちょっと今日は習い事があってさ。いつもより早く帰らないといけないんだよね」

「もしかして、いつも帰りが早いのって習い事を色々しているからとかなんですか?」

 正木さんの言葉に、昼のどんよりを引き摺ったような鈍い調子で答える片淵さん。

「まあ、そんなところもあるし、それだけでもないし……かなあ」

 何か色々あるみたいで、少し生気が抜けたような片淵さんが「じゃあお先にー」と作り笑いで帰っていく。

「大丈夫かな……心配だね」

 正木さんの心配そうな言葉に、岩崎さんと私は同時に首を縦に振るけれど、私たちにはどうしようもない。

 途方にくれていた私たちは、仕方がないから3人で作戦会議をしようかと教室を出ようとしたところで、

「準」

「小山さん」

 聞き覚えのあるダウナートーンと少しクールめいたお姉さんボイスに振り返ると、相変わらず朝もふもふ髪をセットしてあげている寮生と最近吸血鬼だということよりやや天然おっとりお姉さんだと知った方が衝撃だったクラスメイトが並んで立っていた。

「今日、ちょっと付き合って」

「……ごめんなさい。良いですか?」

「え? ……ああ、そっか」

 この2人に呼び止められる理由は1つ。

「正木さん、岩崎さん、ごめんなさい。私も今日はちょっと……」

「あー……うん、分かった。じゃあ明日……んー、やっぱ今日の夜にまた連絡するよ」

 園村さんの件は話していないけれど、何かしらを読み取ってくれたようで、気を利かせてくれた岩崎さんはそう言って笑った。

「はい」

「んじゃ紀子、いこっか」

「え、あ、うん……」

 岩崎さんが正木さんを引っ張りながら教室を出ていくのを確認してから、園村さんを先頭に、私たち3人は部室棟の手芸部に向かう。

「良かったの?」

「……ん? ああ、正木さんたちのこと?」

 足を止めずに呟くから、最初は工藤さんが独り言でも言ったのかなと思ったけれど、どうやら私に質問しているようだった。

「そう」

「うん、大丈夫。また電話してくれるみたいだし」

「申し訳ないです、小山さん」

 謝罪しながら園村さんが手芸部の扉を開けるから、私の声は部屋の中から飛び出した声でかき消されてしまった。

「あ、千華留お姉さま、華夜お姉さまいらっしゃいませ……あ! 今日は準お姉さまもいらっしゃってるんですね!」

「本当だ! いらっしゃいませぇ!」

 何だか、既に手芸部の一員か専属モデルと認識されているようで、後輩の女の子に囲まれてしまう。

「また小山さんにモデルを快く引き受けてくださったので、また新たな服を作りましょう」

 園村さんの言葉を皮切りに部員から黄色い声が上がる。

 ちなみに、前回のあの事件時に作ってもらったのは黒くてフリフリのドレス。着せてもらったときでも既に完成していると思っていたけれど、まだ手直しがあるとか、小物類が足りないとかがあるみたいで、現在服が掛けられている部屋の隅のマネキン……じゃなくてトルソーだったかな、それを見ると前回私が着たときより更に華やかさが増している。

「じゃあ準お姉さま。少しポーズを付けてもらえますか?」

「え? あ、良いですが、どうしてですか?」

 リーダーっぽい子に言われるがまま、周りの女の子が指示するポーズをしながら尋ねる。

「前回みたいにあまり動きがない服ならある程度体のサイズに合わせて作れば良いのですが、今回はある程度動けるよう、必要なポーズに合わせて脇とかにマチを作ろうかと思っています」

「そうなんだ」

 ちなみにマチっていうのは良く分からないけれど、多分服飾用語なんだと思う。有ると今やってるポーズとかが取りやすくなるのかな?

「はい、測り終わりました」

「じゃあ、準お姉さまはおやすみください」

 そうリーダー格の少女が言ったかと思うと、手芸部の子たちは会議と作業に入り始める。そうすると当然、私は手持ち無沙汰になる訳で。

「じゃあ、少しだけ席を外すけれど、またすぐ戻ってきます」

「あ、はい。どうぞ」

 私たち3人は”それ”をするために部室を出る。

「鍵掛けた」

「じゃあ、お願いします」

「はい」

 園村さんは工藤さんの言葉に頷き、園村さんの言葉に頷く私は、制服の上を脱いでブラのみになる。

「ちゃんとブラ付けてる」

「そりゃあ……ね」

 工藤さんの言葉に私が苦笑しながら答える。まだ2ヶ月くらいしか経っていないのに、少しずつではあるけれどこの格好に慣れ始めている自分が怖いけれど、慣れずにビクビクしているのもそれはそれで不安なので、良いことだとしよう。ほら、中居さんも言っていたし。

「じゃあ、頂きます」

 と園村さんがじっくり私の首元を舐めてから歯を立てる。ざくり、という鈍い音がするけれども、特に痛みは無い。

「……んっく、んっく、んっく」

 私の血を飲み込む音が耳元で響いているのが生々しい。既にこんなことを数回は行っているけれども、ブラ装着と違ってこっちは未だにちっとも慣れないし、慣れたくもない。いや、慣れるのは人間として駄目だと思う……ってそこまで大げさでもないけれど。

 こうやって手芸部に参加するときは、園村さんの吸血行為が必要なとき。既にこれで3回目……いや、最初のを入れると4回目になると思う。

 園村さんが寮生なら寮内で致す……いや、やっぱり響きが悪いので言い直そう、園村さんが寮生なら寮内で吸血してもらえば良いのだけど、

「私の家、実は学校の隣なんですよ。だから、寮には入れないです、えっへん」

 と豊か過ぎる胸を張っての発言。つまり、正木さんの家の逆側?

 まさか学校の両側に住んでいる娘さんが同時にクラスに入ってくるとは誰が予想しようか……いや、そもそもあまり気にしないかな。

 そんなこんなで、前にも連れてこられた部室棟の空き部屋を使い、ひっそりとこうして吸血パーティーが開催される。……いや、パーティーと言いながら吸血する人、される人はそれぞれ1人なのだけど。

「…………んはぁぁぁぁぁぁぁっ、あいたっ」

 私の耳元辺りでごぅん! と結構な鈍い音がした。

「千華留、今女子高生がしちゃいけない顔してた」

「そ、そんなに醜い顔してた?」

「そっち系じゃない」

「どっち系!?」

 園村さんの困惑ボイスに血を吸われている私自身も気になってきた。でも、何となく響く艶やかな声で少しだけどういう状況か分からないこともない。

「次やったら首筋にチョップ」

「それは痛いからやめて!?」

「あのー……まだ吸いますか?」

「あ、ああ、ごめんなさい。もう少し……」

 首元を露出させたままで眉をハの字にしていた私に謝罪を入れつつ、再度歯を立てて血をごくんごくんと喉を鳴らしながら飲む園村さん。

「……んは、いたっ。ま、まだ大丈夫じゃないの!?」

 宣言通りに首筋に入れられたのかは視界の都合上見えないけれど、とりあえずまた吸血が中断された園村さんは不満を口にする。

「半分アウト」

「半分!?」

 工藤さんと園村さんがそんなやり取りをしているのは聞こえるけれど、私も徐々に感覚が朦朧としてきて、頭の中をぼんやりが駆け巡っている。

「……準、大丈夫?」

「…………ん? ああ、大丈夫」

「あああ、ごめんなさい。ま、また飲み過ぎてしまったみたいです」

 しょぼりん、とこうべを垂れる園村さんに私は淡く笑って答える。

「いえ、大丈夫ですよ」

 かぶりを振りながら私は緩めた制服の首周りを正すと、園村さんが人差し指で口元を綺麗に整えながら、

「私は後輩の面倒もあるので、申し訳ないですが早めに戻りますね。華夜、悪いけど……」

 と言い掛けると、

「大丈夫」

 すかさず工藤さんが答える。この辺りはやはり親友同士、阿吽の呼吸だなあ。

「ありがとう。じゃあ、小山さんまた後で」

「ええ、分かりました」

 園村さんが部屋を出て、扉を閉めたのを確認してから、私は少しソファで横になる。

「準、大丈夫?」

「うん、大丈夫。むしろ、工藤さんが今まで良く耐えてきたと思うよ」

 園村さんの血を飲む量が多いのかどうかは、吸血鬼の他の知り合いが居るわけではないから分からないけれど、やはり首元近くから飲むことで脳に行く血が減ることからか、毎回血を吸われる度に意識が緩やかに薄ぼんやりとしてしまう。

「これ、採血みたいに首じゃなくて手とか腕とかでは駄目なのかな」

「前に二の腕でやったら15分くらい掛かった」

「そんなに!?」

 さっきので2、3分くらいだから、いくらなんでも掛かり過ぎだと思うけれど。

「千華留の唾液で血が止まりやすくなっているから、手とか足みたいに血が簡単に止められるレベルの場所じゃ駄目。止血失敗したら死ぬくらいの場所じゃないと」

「し、死ぬの!?」

「多分」

 真顔で答えるから、工藤さんの場合は冗談なのか本気なのか分からないけれど、確かにちゃんと血の流れる量をコントロールしてくれないと自分の血の噴水を見ることになる気はする。それは怖い。

「太い血管かあ……それも血の出る量を考えると多分動脈じゃないと駄目だよね。あれ、でも二の腕とかって大きな動脈通ってる気がするけれど」

「通ってても、噛みにくい」

「あ、そっか。噛んで血を出す事ができないと駄目なんだ」

 太い血管を歯で傷つけて血を出し、かつ出て来る量を唾液で調整する……なんか言っているだけで結構大変な作業な気がする。

「……もう立てる?」

「あ、うん、大丈夫。戻ろうか」

 工藤さんの言葉に、私は頷いて立ち上がる。ほんの少しだけ立ちくらみがしたけれど、何とか倒れずには立ち上がれた。

 私と工藤さんは部屋を出ると、目の前をふらりと黒猫が通り掛かる。縁起がどうこう、と思うよりも先に。

「あれ、ノワールちゃん?」

 前よりも更にお腹の大きくなったノワールちゃんが私たちの前を通り、階段を下りていく。

「何処行くんだろう」

 ふらりふらりと尻尾を左右に振りながら歩いていったノワールちゃんを見送りながら私が疑問を何気なく口にすると、

「多分家庭科部」

 と隣から答えが返ってきた。

「家庭科部?」

「そう。多分、餌貰ってる」

「そうなんだ。うーん、人が食べるものは塩分が高いからあまりあげちゃ駄目なんだけど」

「大丈夫、猫用の餌を常備してるって言ってた」

「そこまでしてるの?」

「うん、寮長さんが」

「……益田さんが?」

 何故に? という疑問が湧いてきたけれど、その疑問にも工藤さんは答えてくれる。

「そう。家庭科部の顧問は別に居るけど、料理上手だから寮長さんがたまに特別顧問として行ってる」

「……初めて知った」

 何というか、初回のイメージが強かったからいい加減なタイプだと思っていたけれど、運動も出来るし、料理も出来るし、案外超人なのかも?

 それはそれとして、ノワールちゃんが太ってきた原因もこれで分かった。なるほど、みゃーちゃん以外も餌をあげてたんだ。テオも気をつけないと。

手芸部に戻ると、再びしっちゃかめっちゃかされながら着替えさせられた。微妙にサイズの合わないところとかを調整されたけれど、彼女たちなりに満足のいくところまでいったみたいで、

「準お姉さま、ひとまず今日はここまでで大丈夫です。ありがとうございました」

 とお役御免の言葉が掛かったから、私はクラスメイト2人に挨拶をして手芸部を出る。

 手元のスマホ画面に視線を落とすと、思っていたほど時間が掛かっていないことに気づいて、私は寮に向かって歩きながら、正木さんか岩崎さんに連絡を取ろうかと悩む。夜には電話するって言っていたけれど、私から電話しても別に構わないような気もするし。

 あ、でもせめて電話するなら何処に行きたいかくらい決めておいた方がいいかも。学生の身であまり遠出は出来ないけれど、近場に何か良いところでもあったっけ。

「むむ……ん?」

 歩きながら小声で唸っていると、校舎の昇降口前で咲野先生と理事長が遠目に見える。何をしているのかな。

「咲野先生、太田理事長」

 少し気になったから、近づいて声を掛けると、

「……ん? ありゃ、小山さん」

「小山さん、どうしましたか」

 2人が話を止めて、ほぼ同時に私へ視線を向ける。

「いえ、お2人がこんなところでお話しされていたので、何かなと思いまして」

「あー、いや、小山さんには……あ、そっか、でも、うーん……」

 妙な自己完結と自問自答を繰り返しているように見える咲野先生に一旦視線を向けた太田理事長は、咲野先生ほどではないにしろ悩む仕草を見せた後、

「……小山さん、良いところに来てくれました。少しお願いがあります」

 と真剣な目で私を見る。

「え? まゆ……理事長、良いんですか?」

「ええ。小山さんなら大丈夫でしょう。彼女と一緒に居るところも良く見ています」

「でも、正木と岩崎は……」

「咲野先生!」

「す、すみません!」

 慌てて謝る咲野先生に、私の脳内で疑問符妖精が目を擦って起き上がり始めたけれど、こほんと理事長が咳払いをしたお陰で吹き飛ばされてしまった。

「片淵さんにこの資料を渡しに行ってもらえますか」

「え? あ、はい、構いませんが……」

 手渡されたのは少し大きめの封筒。中身は……流石に見ちゃ駄目だし、聞いちゃ駄目だと思うけれど、何やら大事の予感がするから、封筒を受け取る手も少し震える。

「……片淵さん自身から、このGWの予定は聞いていますか?」

 じっと封筒を見ていた態度で何か言いたいことがあったのか、理事長はそんなことを私に尋ねてきた。

「あ、えっと……はい。毎日家庭教師が付いて、勉強すると聞いています」

「それなら中身はお教えしても問題ないですね。その家庭教師のリストです。学校側から斡旋出来る家庭教師をピックアップしました」

 あっさりと中身を白状してしまった理事長に私は目を白黒させてから、再度封筒に視線を落とした。これが……?

「それで、それを彼女の家まで届けて欲しいのですが」

「でも、私彼女の家を知らなくて……」

「ここに彼女の家の地図があります。これを頼りに彼女の家へ向かってください。彼女の家には私から電話をしておきます」

「あ、はい」

「それではお願いします」

 頭を下げてはいるけれど、有無も言わさない太田理事長の言葉に、私はただただ頷くしかできなかった。太田理事長が校舎の方に去っていく背中を見送るようにしてから、咲野先生は私の耳元で言った。

「ホント、いつも小山さんに任せてばかりで悪いんだけど……片淵もちょっと色々あるみたいだから、相談に乗ったげてもらえると嬉しい。あ、でもあの子が相談してきたときだけでいいからね」

「分かりました」

「……うん。んじゃ、よろしく」

 いつもほどの軽さはないけれど、ひらひらと手を振りながら太田理事長の後をついていくように咲野先生も校舎に入っていった。

 さて、重要な任務を請け負ってしまった私は、再びうーんと唸りながら地図を見ながら校門に向かって歩く。

「2駅先かあ……」

 硬筆のお手本みたいな楷書で右左折時にランドマークになる建物の名称や簡単な絵が描かれていて、非常に分かりやすい地図だと思う反面、何処かでその文字というか筆跡に見覚えがあって、何処で見たか脳裏で記憶の道を辿るもすぐに断絶されてしまったから思い出すことを放棄。きっとあまり重要な話じゃないだろうから。

 それはさておき、私はてこてこと靴音を鳴らしながら学校の外に出て駅へ。本当は正木さんと岩崎さんに今から片淵さんの家に行くって電話で言いたいのだけど、理事長と咲野先生のやり取りからして、多分あの2人には隠しておきたいんじゃないかなって思うから、黙っておくことにする。きっと、いつかは本人の口から聞けるだろうと思うから。

「えっと……ここかな? え? ココ?」

 地図の指示通り2駅先で下りて、しばらく歩いた先、目の前に有ったのは広い庭と大きな駐車場がある白い大きな家。うちの実家から比べるまでもなく、豪邸と呼んでも十分だと思う装いの建物を目の前にして、私は思わず混乱ゲージがぎゅいんぎゅいんと音を立てて伸びていた。

 再度手元の地図を確認しても『大きな白い家』という記載はあるし、町名にも間違いはない。

 もしかすると、片淵さんが自分のことをあまり語らないのは、お金持ちだってことがバレたくなかったからなのかな? 知ったからって、正木さんも岩崎さんも付き合い方を変えないと思うけれど……。

「鳴らして大丈夫かな……?」

 確か、片淵さんは今日は何か用事があるからと早く帰っていたし、もしかすると取り込み中かもしれない。

 ……でも、中身からするとこれは片淵さん本人ではなく、片淵さんのお父さんとかお母さんに渡す必要がある紙だから、別に片淵さんが居なくても構わないのかな。

「……よしっ」

 しばらく躊躇したけれど、意を決してチャイムを鳴らしてみると、しばらくの無音の後に、インターホンから落ち着いた感じの女の子の声で「はい」と聞こえる。

「あ、あの、私小山準と言います。西条学園の太田理事長から、書類を受け取ってきたのですが……」

 私がはっきりと聞こえるよう、徐ろにそう言うと、インターホンからもしばらく躊躇う吐息が聞こえてから、

「少々お待ちください」

 と淑やかな声がして、インターホンが切れた。今のインターホン、誰だろう。凄くお嬢様みたいな上品な感じだったけれど、お姉さんとか居るとか言っていたかな?

 ガチャリ、と家の扉が開いて、現れたのは綺麗な白いフリルの服を着て、たおやかな動きで歩いてくるポニーテールの小さな少女だった。

「あ、あの……」

「良くいらっしゃいました、小山様」

「え、あ、はい」

 顔は私の知っている片淵さんそっくりなのだけど、その他――髪型、服装、仕草に至るまで、申し訳ないけれど全て片淵さんとはかけ離れている。い、妹さん……とか……?

「あ、あの、片淵さん……あ、えっと、都紀子ときこさんは……」

「はい、私です」

「……え? あの、と、都紀子さ……ん?」

「ええ。……そうですね、少し歩きましょうか」

 言って少女は家から少し離れ、曲がり角までゆるりと歩き始めるから、私は脳内の奥底から、旅行かばんの底に詰め込んでしまった服を取り出すみたいに、自分の覚えている片淵さんのイメージを必死で引っ張り出しながら付いていく。

「……あの」

 どこまで歩を進めるつもりか尋ねるため、私が切り出した言葉に振り返ったその少女は、頭の上で手を組んで、

「にゃはは、準にゃんにバレちゃったねえ」

 私が知っている口調で、でも少し困ったような笑顔で答える。

「ほ、本当に片淵さん?」

「そうです、私が本当に片淵さんだよ、あっはっは」

 笑った後、ふう、と特大の溜息を吐いて言葉を続ける。

「まあ、こんなカッコじゃびっくりするよねー」

 ちょん、と摘んでヒラヒラなスカートを持ち上げる。

「え、ええ、まあ……。あ、あの、何でこんな格好と喋り方なのか、って聞いても良いですか?」

「んー、あー、まあ、そうだねえ」

「言いにくければ言わなくても大丈夫です」

 言い渋る片淵さんに私がそう言うと、

「いやあ、まあ家の事情だからあまり人様に話すことじゃないなあ、なんて思ってるだけで、別に深い話じゃないんだよねー。この服装自体はピアノの発表会が近いから、その格好で実際に練習してただけなんだよ」

 と答えてくれた。

「あ、ピアノやってるんですか」

「うん、そだよー。あれ、もしかして準にゃん弾いたことある?」

「ええ、というより習っていたことがあります。妹と一緒に、ですが」

「おおー、なんだお仲間だったんだねー、知らなんだ。発表会、GW明けて、テスト終わったらすぐあるんだよ。だから、あまり遊んでる暇も無くて」

「……もしかして、合宿来れないって言ってたのは……」

「ん、まあピアノの練習もあるね。後はホントにテストがヤバくてねー。今までもたまに家庭教師を頼んでたんだけど、全然アタシの成績が上がらないからすぐに先生交代してばっかりでさ。最終的には家庭教師派遣会社っていうのかな、そこからもう無理! って言われたから学校側に相談したみたいなんだよねー」

 にゃっはっは、といつもの笑いを上げるから、見た目とのギャップで私の脳がやっぱり異常アラームを出しっぱなしにしている。

「で、でもいくらなんでも毎日家庭教師なんて……ほら、お金とかも凄く掛かるだろうし」

「ま、そこまでしないとアタシが大学行けないくらいにアホだからだろうねえ。一応、お母さんピアニストとして結構有名だし、お金に糸目をつけないってことなんだと思うよ」

「……え? ピアニストなの?」

 単純に片淵さん自身がピアノを習っているだけだと思っていたけれど。

「そう。たまに海外まで演奏しに行ったりする程度には有名かな。後は家でピアノ教室とかやってるし。……ほら、あの張り紙」

 言って、片淵さんが指差した先には、髪の長い綺麗な切れ長の目の女性が綺羅びやかな格好でピアノを弾いている写真と共に『片淵ピアノ教室』なんて書かれたポスターが貼ってあった。

「生徒さんも結構居るからそこそこお金に困ってはないみたいで、どうにかしてアタシの頭をちょーっとくらいマシにしようと頑張ってるのかも」

 それだけで良くなればいいんだけどねー、と言葉を付け足しながら、片淵さんは少しだけ寂しそうな顔で言うと、突然家の門の方から甲高い女性の声がする。

「都紀子さん! 都紀子さん、何処に居るの!」

「あっ……はい! お母様!」

「え、お母様?」

 私の疑問に答えず、巻き上がるスカートを押さえつけながら、ぱたぱたと少し駆け足で家に戻っていく片淵さんを慌てて私は追いかける。

 家の前まで出てきた女性は、先程のポスターに映っていた女性が少しだけ落ち着いた服装で立っていた。この人が片淵さんのお母さん……。

 少し吊り目気味だった片淵さんの目元を更にきつくした感じの顔つきで、身長は私ほどはないけれど、女性にしては高めの方。一言で表現すればクールビューティーという印象だけれど、クールというよりは雰囲気からただただ冷たさを感じた。

 そう感じた原因は、話をしていたら直ぐに分かった。

「ああ、都紀子さん。全く、何処に……あら、そちらは?」

「申し訳ないです。こちらは私の級友の小山さんです」

「こ、小山準です……」

 頭を下げると、スッと細めた目で値踏みするようにして私を頭から足元まで見る。

「貴方達が都紀子さんの学力を下げているお友達ということですか」

「……! お母様、それは違います! ただ、私が至らぬだけで……!」

 母の言葉に慌てて首を横に振って必死に否定する片淵さんに、片淵さんのお母さんは「いいえ、違いません」と力強く否定する。

「貴方達のような人間と付き合うから彼女の学力が落ちるのです。さあ、都紀子さん、お友達にはさっさと帰って頂いて、早くピアノの練習に戻りなさい」

「お母様……」

 有無も言わさず、家に戻ろうとした片淵さんのお母さんに、私は反射的に言葉を出していた。

「ちょっと待って下さい」

「何か申し開きでも?」

 そんなことを言いながら振り返った片淵母に私はそのまま言葉を紡いでいく。

「確かに、今までは私たちと遊びに付き合っていたから片淵さんの学力が落ちていたのかもしれません。それは申し訳ないと思います。ただ、自分の娘さんへの態度は酷すぎませんか」

 こちらを向く冷たい目の女性は目を鋭く細くして私を見る。

「酷いとは? 単純に話を聞く必要が無いだけでしょう。私は彼女より長く生き、海外をも知っている。それに対し、彼女はまだまだ未熟。だから、私には彼女の言葉は勘違いや思い込み、その場しのぎの感情で満ち溢れていると分かるのです。そんな彼女の言葉を聞く必要など無いでしょう?」

 一切の迷いない視線と言葉に、私は心の奥底を剣山で擦られるような感覚に蝕まれた。

 それが母から子への言葉だっていうの?

 言うことは全て言い終わったとでも言うかのように、再度家に向かって歩き出した片淵さんのお母さんに向かって、私ははっきりと言い放った。

「じゃあ、片淵さんのお母さんの目は節穴なんですね」

「……なんですって!」

 綺麗な瞳をギラリ、と血走らせるようにして私を睨んでくるけれど、私は一歩も引かず、むしろ近づいて見下ろすようにして視線を合わせ、

「ただ単純に教科書通り教えるだけで彼女にとって何の効果もない、こんな家庭教師などに頼るなんて、節穴だと言うのです」

 なんて言いながら手にした書類を片淵母に突きつける。

「こ、こや――」

「今まで貴方達が娘の学力を引き下げていたというのに、何を言っているの!?」

 不安を隠さない片淵さんの言葉をかき消すようにして、ヒステリックに叫ぶ片淵母は私から書類をひったくるように握りしめる。

「私は彼女と会ってまだ1ヶ月しか経っていません。何でも分かった風に言うのに、私を見てそんなことも分からないんですか?」

 正直、そんなこと超能力者か学校関係者じゃなければ分からないけれど、あれだけ天狗になって語った手前そうも言えないからだろうけれど、ギリリリと強く歯噛みした片淵母は私をめつけたまま、私が押し付けた書類をくしゃりと握りつぶし、噛み付くように言った。

「貴女は関係なくても、都紀子さんの友達が足を引っ張っていたことは事実です」

「何を持って事実と? ……いえ、まあそんなことはどうでもいいです。彼女が伸びなかった理由は友達が足を引っ張っていた訳ではなく、十分に遊んで切り替えが出来なかったからです」

 私の言葉に、はんっと鼻で笑う片淵母

「貴女の目こそ節穴なんじゃないかしら。休憩なんて取って集中力が切れたら何の意味も無いでしょう」

「人間の脳が集中出来るのはせいぜい90分と言われているのをご存じないということですね。それ以上は集中している“つもり”になっているだけで、効率はどんどん落ちるというのに」

 まあ、私もニュースか何かで見ただけで、本当なのかはよく知らないけれど、自分がなんでも知っているつもりになっている人にはよく効く薬だと思う。劇薬にもなるけれど。

「何から何まで私に歯向かおうというのね……!」

 私を睨みつけたままの片淵母はくしゃくしゃの書類を更にくしゃくしゃに握りしめ、

「…………分かりました。じゃあ、貴女に都紀子さんを任せます。遊びに行こうが何しようが構いません。もし、GW明けの中間テスト、都紀子さんが教科総合で学年10位以内に入ったら、貴女の言うことを何でも聞きましょう。ただし、もし10位以内に入れなければ今後一切娘には近づかせない上、学校に訴えて貴女を退学させます」

 と言うから、私だって売り言葉に買い言葉。

「どうぞ、ご自由に」

「お母様! こ、小山さんも!」

 おどおどというか、おろおろというか。そんな片淵さんの様子を見ながら、それでも頭に血が上った私は目の前の分からず屋にそう答えた。

「であれば、この書類は不要です。好きにしなさい。本当に“とても良い”友達を作りましたね、都紀子さん。……ああ、それとテストが終わるまで、家に帰ることは許しませんよ」

 実に厭味ったらしく、片淵さんにそう言い放った片淵母は最後にもう1度だけ私を睨みつけてから、家に入っていった。

 はぁぁぁぁぁぁ、と私が大きな溜息を吐いたら、

「小山さん! あ、貴女、馬鹿なの!?」

 なんてとても酷いことを言われた。そう言えば、名字で呼ばれたのは最初に会ったときだけだったなあ、なんてことを余裕が出てきたから思ったり。

「私、私……っ、順位下から数えた方が早いくらい馬鹿なんだよ!」

「さっき学校で聞きました」

「それなのに、今回の中間で10位以内とか無理に決まっているでしょう!?」

「何でそう思うんですか?」

「今まで出来なかったからに決まっているじゃないですか!」

「今まで出来なかったら、今回も出来ないんですか?」

「あ、当たり前じゃん!」

「やってみてもないのに?」

「それは……やってみるまでもないから」

 言いながら俯く片淵さん。

「……旅行、行きたくないですか?」

「そんなことしてる場合じゃ、」

「そんなことしてる場合です!」

 食い気味に、私は片淵さんの両肩を掴んで言い返す。

「高校3年生のGWは1度きりです。私は、最悪学校辞めさせられてでも、片淵さんとの思い出を作りたいです。まあ、学校を辞めるつもりも無いですが」

 まあ、最悪辞めることになってもそれはそれで、と思うし。お父さんとお母さんには怒られるかもしれないけれど。

「……どれくらい本気で、私が学年10位以内を取れると思っているんですか、小山さん」

「んー、正直五分五分ですね」

「…………あははっ、まあ半分なら上出来カナー、にゃっはっは」

 最後はいつもの笑顔で、片淵さんはそう答えた。

「……まあ、準にゃんがさ、そこまで私のこと考えて怒ってくれたのは素直に嬉しいんだよねー、うん。ま、だからアタシもアタシで頑張ってみるよ。……っと、じゃあ着替えと楽譜だけ持って、寮に行こー。家追い出されちゃったから、寮に泊めてもらうしかないねー」

「楽譜ですか?」

「うん。まあ、勉強はさておき、ピアノの発表会は恥かきたくないからねー」

「なるほど、確かに」

 それはそれ、これはこれ、ということかな。

「ということで、ちょっと待ってて」

「はい、いってらっしゃい」

「あいさー、行ってくるよー」

 そう足取り軽く家に入っていく片淵さんを見送っていたら、

「なんだい、騒がしいね」

 唐突に通りすがりのおばあさんにギロリと睨まれた。

「あ、す、すみません」

「全く、何だいさっきの大喧嘩は。近所迷惑も良いところだよ。お前さんの友達が出てきたら、さっさとここを離れるんだね!」

「は、はい。分かりました!」

 おばあさんは年を感じさせない足取りでせかせか歩いていってしまった。うう……怖かった。この家含めて、周りまで怖い人ばっかりだ。まあ、少なくともきっかけを作ったのは自分といえば自分なのだから自業自得と言えばそうなのだけど。

 しばらくして、制服に着替えた片淵さんが大きなボストンバックを肩に掛けて出てきた。

「んじゃあ、行こっかねー」

「制服ですか」

「いやー、私服にしようって考えたんだけど制服がさー、ハンガー無しで鞄に突っ込むとくしゃくしゃになるなーって思って。仕方がないからひとまず制服着ちゃえって。やっぱ、休日に制服ってヤバイかねー?」」

「いえ、まあ大丈夫だと思いますよ」

「そっかねー。んじゃあ、しばらくよろしくねー。あー、それと……紀子ちんと真帆ちんにも話しとかないとねー」

「……良いんですか?」

 今までずっと内緒にしている様子ではあったけれど。

「んー、まあここまで色々あったら、もう何だか全部ひっくり返したい気分になってきちゃってんだよねー。だから、まあいいかなって」

「ですか」

「ですにゃー」

「それじゃあ、寮に戻ったら2人で電話しましょうか。多分、正木さんも岩崎さんもすぐに飛んできますよ」

「あっはっは、あの2人も心配症だからねー」

 そう言いながら、私よりも先に歩き出した片淵さんが人差し指で目元を拭ったのを私は見ないふりして、少しだけ時間を置いてから並んで寮へ向かった。

「マジで? 家出?」

「にゃはー、まあそこまで酷いものじゃないけどねー」

「いえ、むしろどちらかというと勘当に近いので、もっと酷い状況だと思いますよ」

「ってか、小山さん冷静に言ってるけど、1番ヤバイのは小山さんだよね!?」

 岩崎さんが私の方をがっちり掴んでツッコミ役に回っているなんて珍しいなあ、なんてことを思いながらあははと笑顔を取り繕う。

 片淵さんが正木さん、岩崎さんに電話を掛けて事情を話したら、予想通り2人はすぐに飛んできた。片淵さんはもちろんのこと、2人も今日は寮に泊まることにしたようで、食事もそこそこに寮の私の部屋に全員集合していた。既に日は傾き、ほんのりと朱が残る暗がりが窓の外に広がっている。

「ホントにねー。小山さんが突然うちのお母さんに喧嘩売り始めたのにはちょっとびっくりしたけど」

「すみません」

「んにゃー、良いよ良いよ。むしろ、こっちがごめんねだし」

「でも、小山さんの気持ちもちょっと分かります。いくらお母さんでも言い過ぎだと思いますし」

 私に同調してくれる正木さんの言葉に、

「いや、分かると言っても流石にちょっとヤバくない? 学校辞めさせるとか」

 と眉をハの字にして岩崎さんがぼやく。

「大丈夫だよ、きっと。だって、辞めさせるっていっても強制力は無いし……」

 やや楽観した正木さんの言葉に対して、困ったときに片淵さんが決まって言う「あー……」が入ってから言葉が続いた。

「うちのお母さん、結構顔が利くから他の生徒のお母さんたちも巻き込んでの話になっちゃって、引くに引けなくなるかもしんないねー……」

「そんなに友好関係広いんですか」

「うちのお母さん、一時期PTA会長とかもやってた時期あったし、交友関係は広いからねー」

 友達のお母さんに対してこう言っては何だけれど、中々に厄介な人みたいだなあ。

 それにしても、この話の流れで「片淵さんなら勉強頑張れば大丈夫だよ!」っていう話に流れず、ずっと「私が辞めるかもしれない、どうしよう」という前提で話が展開されているのはちょっとどうかと思う。本人含めて。

「でもまあ、こうなっちゃったものは仕方がないし、頑張ろー」

 1番の当事者がそんなことをにへらっ、と笑いながら言うから、私たちは毒気を抜かれ、つられて笑う。

「……って都紀子がそんなんじゃ駄目なんだって!」

 笑った後にノリツッコミならぬ笑いツッコミした岩崎さん。

「いやあ、そうは言ってもねえ……まだテストまで結構時間あるし、今から慌ててると息切れするだろうから、まだ肩の力抜いとく時間かなーって」

「そうですね」

 GW含めて後2週間くらいはある。その間にどうにかすればいい。まあ、その2週間はちゃんと遊びも含めての時間だけれど。

「じゃあ、そろそろ勉強を――」

 言い掛けたところで、私の電話が鳴る。スマホの表示には『益田寮長』の文字。

「電話? 誰から?」

 岩崎さんの言葉に、私は短く「寮長さん」とだけ答えてから小走りに部屋を出る。

「はい、小山です」

『ああ、小山さん。夜分遅くにすまないが、ちょっと寮長室に来てもらえるかな?』

「えっと、はい。構わないですが……もしかして、片淵さんの件ですか?」

 私が恐る恐る尋ねると、

『ああ、そうだ。理事長から話があるそうだ』

 との答えが返ってくる。やっぱりそうですよね……って理事長さん!?

「え、り、理事長さんからですか?」

 そこまで話が行っているとは思わなかった。

 益田さんには突然押し掛けたというのもあるからか、片淵さん自身が大まかに事情を話したから、その内に……GW明けには話が通るかと思ったけれど、まさかGW初日の夜の間に理事長さんまで話が通じているとは思わなかった。今までも益田さんはかなり行動が早い人だとは知っていたけれど……。

 ちなみに、片淵さんは私を気遣ってか、私と片淵母とのやり取りについては益田さんに話をしていなかったから、そちらの方は大丈夫だと思うけれど。

「えっと……片淵さんは……」

『彼女は呼ばなくて良い。いや、というより1人で来て欲しい。彼女の目の前では話しにくい内容もあるからな』

「……なるほど。分かりました。すぐに行きます」

 電話を切って、心を落ち着かせるために一呼吸置いてから部屋に戻ると、

「もしかして今日の話?」

 直ぐに片淵さんが不安そうな表情で尋ねてくる。片淵さんのこんな表情も珍しいかな。

「みたいですが、大丈夫です。ここに泊まる際、片淵さんが寮長さんにした内容が理事長まで通ってしまったみたいなので、その確認だけだと思います」

「理事長が? じゃあ、アタシも――」

 言い掛けた片淵さんの言葉に私は首を振って押さえ込める。

「いえ。私1人で来て欲しいと。多分、本人からよりも、事情を知っている他人からの方が客観的な意見を聞いた方が良いからだと思いますが」

 それっぽいことを言ってみたけれど、実情は他人どころかむしろこの騒動に関しては張本人みたいなものなのだから、他人が云々って話はおかしいのだけど。

「とりあえず、ちょっと行ってきます」

「ごめん……小山さん。よろしくね」

「小山さん、何かあれば言ってくださいね」

「理事長に何か言われたって、あたしたちがついてるからね!」

 3人からの激励とかその他諸々の言葉に「ありがとう」と応えてから、私は上着だけ羽織って寮を出て、一路寮長室へ。

 寮長室のチャイムを鳴らすと、

「ああ、いらっしゃい。待っていたよ」

 益田さんがフード付きパーカーとレギンス姿という少しラフな格好で出迎えてくれた。

「失礼します……あれ」

 導かれるまま部屋に入った先に、スーツ姿の理事長さんと咲野先生、そしてルームウェアと思われるくつろぎ姿の坂本先生までが集まっていた。先生大集合!?

「小山さんはそこに座ってくれ」

 益田さんに指差されたソファの端に座ると、早速太田理事長が、

「小山さん。単刀直入に聞きますが、」

 と急くような様子で話を始めたけれど、その様子を見た益田さんが即座に、

「真雪、飲み物を出すくらいまでは待てないのか? こんなに教師が集まった中に生徒1人だ、少しくらいは話を聞く準備をさせてあげても良いだろう」

 と窘めるような言葉を投げ掛ける。

「……確かに、そうですね」

 言ってから、理事長さんは大きく息を吐いて、ソファに深く腰掛けた。

 ……まな板の上の鯉とでもいうべき状況だからかもしれないけれど、益田さんが出してくれるリンゴジュースを受け取るまでの無言タイムの間は、実は時間が止まっていたんじゃないかって錯覚するくらいに長く感じた。

「……はい、大丈夫です」

 私がストローで益田さんに出されたジュースを4分の1くらいまでを一気に飲んでからそう言うと、背筋を伸ばして上半身を少し乗り出すようにしながら私の方を向いた理事長さんが口を開いた。

「小山さん、単刀直入に聞きますが」

 さっきの焼き直しをしながら、今度はその先の言葉も続ける。

「片淵さんのお母様と何か賭け事をしましたね?」

「……えっ、いえ、あっ……その……はい……」

 すうっ、と目を細めて私を見る太田理事長の言葉に、私は最初首を横に振ってから、最後に弱々しく首を縦に振った。賭け事と言っていいかは分からないけれど、傍から見れば確かに賭け事かもしれない。ただ、その話については益田さんにも話していなかったはずだけれど。

 早まる私の心臓の音をよそに、理事長さんは話を続ける。

「少し前に学校へ片淵さんのお母様を名乗る方から電話があり、最近この学校に転校してきた小山という人間が居るはずだが、もし私の娘が次の中間テストで学年10位以内に入らなかったら、小山さんを退学させてくれ、という内容を一方的に話し始めました」

「……」

 ああ、そうか。1番ありうる“本人からのタレコミ”を完全に失念していた。確かに退学云々ってことは学校側にも連絡が必要な内容だし。

「全く話が見えなかった私は、片淵さんのお母様に事情を確認しました。そうしたら、小山さんが片淵さんの足を引っ張って学力を下げただけでは飽き足らず、私に罵詈雑言を投げかけた上、自分なら娘の中間テストの順位を10位以内まで押し上げられると言い放ったから、もし出来なければ彼女を退学させる、そう話をしたから学校側も認識しておいて頂きたい、と言われました。……この内容は事実でしょうか」

「……大方事実です。学力を下げたというのを除いて、ですが」

 罵詈雑言とまで大げさではないと主張したいところだけれど、確かに節穴だと言ったことは事実だし、10位まで押し上げられるという内容に頷いたのも事実。

「全く……そんなこと言ってもらうために片淵さんの家に行ってもらったのではないのですが」

 太田理事長から追い打ちをかけるように言われる。

「彼女の家の事情が複雑なのは知っていました。あの家庭教師の資料も、学校側の教育レベルが低すぎるから彼女の学力レベルも上がらないのだと学校に言いに来た経緯もあり、学校側としては出来るだけ穏便に済ませるために手を尽くしていたのですが、こうなっては……」

「…………すみません」

 ぐっと奥歯を噛んで、私は堪えた。

 言い返したい言葉はある。あの人、片淵母の言葉は到底許せるものではなかったから

 でも、きっとそれは言い訳にしかならない。だから、拳を握って、俯いてただ謝罪後は黙る。沈黙は金、という言葉を信じて。

 また沈黙が場に広がって、いたたまれない気持ちになった私が、その場を離れようかどうしようか悩んでいたところで、ぽつりと目の前のテーブルへ言葉を転がしたのは咲野先生。

「……とまあ、向こうさんが言うにはそういう話らしいんだけどね。で、結局どうなの?」

「…………え?」

 さっきまで険しい表情だった太田理事長も、少しだけ表情を緩めて言う。

「学校の取りまとめをする人間として、言うべきは言わなければなりません。……が、小山さんが何もなしにそんな話をするとは思えません」

「そうそう。あまり生徒の前で他の家の悪口みたいなの言うのはどうかと思うけど、正直あの人が言ってるの滅茶苦茶だったし、小山さんとそんなに長い付き合いではないにしろ、結構良い子だって分かってるからね。こりゃちゃんと話聞いとかないといかんなーって思って」

 咲野先生が破顔して言うから、理事長さんも「こほん」と咳払いしてから座り直す。

「小山さんなりの主張もあるでしょうから、包み隠さず教えてください」

「……分かりました」

 折角与えてもらった場を無駄にはしたくない。私は言葉を選びながら、出来るだけ頭に血が上らないように気持ちを落ち着かせつつ、事情を説明した。

「……なるほど。概ね事情は飲み込めました」

「なるほどねー。何か片淵が三者面談とかで異常に萎縮してたのはそういうことだったんだ」

 理事長さんと咲野先生が順に頷く。益田さんと坂本先生はじっと話を聞いているだけで、首を縦にも横にも振らない。

「事情は良く分かりました。……ただ、学校側としては彼女を特別扱いすることは出来ません。テストの情報を彼女だけに流すなどということをすれば、彼女の為にもなりませんし、他の生徒さんたちからも批判を浴びるでしょう」

「はい、分かっています」

 私は力強く頷く。元よりそのつもりだったから。

「……ですが、一生徒が勉強で悩む内容があるならば、協力しましょう。私自身、小山さんには学校を辞めてほしいとは思いません」

 ほんのりと笑顔を湛えながら、理事長さんがそう言う。

「そうそう。アタシの場合は小山さんには借りがあるしねー。不正には手を貸せないけど、出来ることなら協力するよー」

「……ありがとう、ございます」

 ちゃんと聞いて、答えてくれる先生たちで良かったと、心から思う。

「こちらからの話は以上です。特に小山さんから改めて何かなければ、部屋に戻って頂いて構いません」

「特に何もありません。ありがとうございました」

 そう言って、私が立ち上がろうとしたところで、

「小山さん」

 沈黙を守っていた坂本先生が、少し眉を吊り上げて言う。坂本先生が怒っている……?

「な、何でしょう」

 たじろぐ私は坂本先生の次の言葉を待つ。

「小山さんが正義感や姉御気質なのは良く分かりました。ただ、今の性格のままでは今後も波風を立てずに話をすることが出来ないと思います」

「うっ……」

 痛いところを突かれたとは思う。大隅さん、中居さんの件も、太田さんの件も、そして今回の件も、喧嘩っ早いというかもう少しどうにかできたんじゃないかと後になってから思う。譲れないところはもちろん譲れないにしろ、言い方とか行動とか。

「だから、もし腹が立ったり、反射的に何かを言いそうになったときは、左の手の甲を右手で強くつねってみてください」

「手の甲をつねる、ですか?」

「ええ。自分で痛いと感じるくらいに。そうしたら、少しだけ冷静になれると思います」

 確かに今の私に1番必要なことかもしれない。

「どうしても言いたくなったり、行動に出てしまうことはあると思うんです。なので、そのときには一瞬だけでも立ち止まれるように手をつねるんです。手の甲はあまり筋肉や脂肪がつかないので、すぐに痛みが伝わります。そうしたら、ほんの少しだけでも立ち止まれるはずです」

 そう言って坂本先生は私の頭を撫でる。

「正義感だけや正論ではきっと周りを傷つけてしまいます。でも、言わなければならないときもあるんです。美夜子の心を開き始めている小山さんなら、上手くそれが出来ると思うんです。だから、少しだけ立ち止まって、ね?」

「はい。ありがとうございます。頑張ってみます」

「ええ。ふぁいと、ですよ」

 坂本先生はそう言って、ぐっと私の両手を自分の両手で包んでくれた。

「……どうだった?」

 寮に戻ってきて早々、岩崎さんが立ち上がって尋ねるので、

「とりあえず、色々既にバレてました」

 と白状しつつ、3人集合していた中央のローテーブルの空きスペースに座って、事情を説明した。

「……やっぱりお母さん、そこまで……」

「行動派、ですね……」

「今のさっきでそこまでする!?」

 私が話し終えると、各々濃度差はあれども驚愕の反応があった。

「マジで小山さんヤバイじゃん……」

「いえ、片淵さんが頑張ればまだ――」

「ごめんなさい小山さん」

「諦めるの早すぎませんかね!?」

 早くも頭を下げる片淵さんに私は思わずひっくり返りそうな声を何とか抑えつつ答える。

「でも、万が一でも小山さんが学校を辞めることになるのは嫌ですね……」

 正木さんが沈痛な面持ちでそう言うので、

「まあ、もし何かあってもそのときはそのときです。別に一生会えなくなるわけでもないですし」

 と張本人である明るく努めるけれども、1番曇った片淵さんの表情は晴れない。

「いや、アタシは無理かもねー……」

「え? ……ああ、あそこまでするお母さんでは確かに……」

 即日学校に電話して、娘のクラスメイトをクビにしろ! とまで言う行動力があるあの片淵さんのお母さんならば、今回片淵さんのテストの順位が芳しくなかった場合、毎回誰と遊びに行ったかチェックするようになったり、下手をするとそれどころか片淵さんが一生遊びに行けなくなる恐れもある。そうなったら、今はまだ困った表情で済んでいた片淵さんの眼が死んだ魚のそれになってしまう。

 ……とは言うものの、素直な話、今悩んでも仕方がないこと。まだまだ時間はあるのだし。

「それで、何処に遊びに行きましょうか、ゴールデンウィーク」

「……?」

 正木さんと岩崎さんがほぼ同時に疑問符の花を頭上に咲かせ、片淵さんからはまたか、という表情が見て取れた。

「いや、だからこれからテストに向けて勉強をどうするかっていう話で……」

 岩崎さんの言葉に、私は当然だと大きく頷く。

「もちろん、勉強はやります。でもGW全部潰して勉強していたら、それこそ片淵さんのお母さんと変わらないじゃないですか」

「それはそうだけどさ!」

 食い下がるように岩崎さんが言うけれど、

「……こういう言い方はあまり好きではないですが、今回の話は私と片淵さん、そして片淵さんのお母さんの問題です。だから、そういう意味では私か片淵さんがやり方を決めて良いんじゃないかと思います」

 と答えると岩崎さんがぐぬぬ、と言葉に詰まった。

「もちろん心配してくれるのは嬉しいですが、大丈夫です。今から肩肘張りすぎてテスト当日に駄目になってもいけないですし。それにああ言った手前、私にだってどうにかする方法は考えています」

「ホント!?」

「……一応」

「…………一応?」

 3人のちょっぴり疑いの視線が集まるけれど、私はそれを跳ねのけるように明るく言う。

「それとも片淵さん。毎日勉強だけやって、楽しくない毎日を過ごして何とかテストを突破するのと、目一杯楽しんでテストも突破するの、どちらが良いですか?」

 私に向かっていた視線の2つが片淵さんの方へすすすっ、と横滑りする。

「……ずるいよ、準にゃん」

「ずるくて結構です。なので、旅行の話しましょう」

「……よっし、そんじゃあ何処行こうかね!」

 切り替えた岩崎さんがそう言って笑うと、ようやく正木さんと片淵さんも笑顔を見せた。

「んー、あまり遠くは難しいから、近場で……」

「近場かあ……」

「あ、それなら」

 何かを思い出したように、片淵さんがひょいと手を挙げた。

「ん? どうしたの?」

「デスティニーワールド行かない?」

 片淵さんの言葉に目を丸くする私と、即座に反応する岩崎さん。

「デスティニーワールドってあの占い遊園地みたいなところの?」

「そうそう、あのデスティニーワールド。アタシ、おばあちゃんから優待券貰ってるんだよねー」

「マジで?」

「うんうん。どうせ行けないだろうから捨てようかと思ってたんだけど、折角だからどうかなーって思うんだよね」

「デスティニーワールド良いですね」

 正木さんも話に乗って頷いているけれど、私はさっぱり。

「……あの、デスティニーワールドって何ですか?」

 私が首を傾げて尋ねると、

「嘘っ、小山さん知らないの?」

「占いを元にしたテーマパークです。結構CMとかしてる有名なテーマパークで、アトラクションとかも色々あって楽しいんですよ」

 迫るように答える岩崎さんと正木さんに私はたじろぎながら、おおぅと呟く。やっぱり、2人共占いとか好きなんだろうか。

 でも、2人がそこまで身を乗り出すくらいにオススメするテーマパークなら十分に楽しめそう。

「デスティニーワールドならここから電車で1時間くらい?」

「快速乗れれば40分くらいかなー」

「それくらいだったら十分じゃん。行こう行こう! んじゃ、話も決まったことだから、ご飯食べようよ。お腹減ったー」

「ええ、そうしましょう」

「んで、終わったらお風呂ー」

「ええ、そうしま……っ!?」

 岩崎さんの言葉に、私は2度頷こうとして、はたと気づく。

 ……そうだ、お風呂タイムが今回もやってくるんだった。

「さあ、お風呂だ!」

「おー、でっかいねー」

 さっさと部屋を出て行く岩崎さんと片淵さんの後を、私と正木さんがのんびりと歩きながら付いていく。

 ……正確に言うと、のんびりという姿を必死で見せながら、実際は内心ばくばくと心臓がとてつもない音を立てていたりする。

 大隅さんや中居さんとのお風呂だってドキドキはしたけれど、気兼ねなく話せるタイプだったからか、女の子というよりは友達感覚があって、強烈に女性を意識しなくて済んだ。何より中居さんには最終的に男だって最終的にバレたのもあって、色んな意味で精算が終わった気もあった。

 その一方で、正木さん、岩崎さん、片淵さんは素直に言うと“女の子”って感じがあって、凄くどきどきしてしまう。特に正木さんは初対面時に唇を、まあその、奪ったと言いますか、触れてしまったし、不可抗力で傾斜の急なお山にも手を添えてしまったこともあり、まだやはり意識してしまう。

 それはさておき、

「ほら、紀子も小山さんも早く!」

「先に入ってるよーん」

 私たちがお風呂に到着して扉を開けて1秒、目の前にクラスメイトの一糸まとわぬ上に一切隠す気のない姿が目に飛び込んできたので、思わず大仰な動作で視線を逸してしまった。

 しまった、そういえば中居さんに女の子の裸になれないと男バレするぞ、と忠告されていたんだった。は、反省しないと。

「ちょ、ちょっと真帆、片淵さん。せめて前くらいは……もう。すぐにお風呂に入るとは言え、ちょっと開放的過ぎですよね」

 正木さんの苦笑いに対し、首を縦に振って応えた私は着替えを置いて、隣でしゅるしゅると服を脱いでいく正木さんの方を見ないようにしながら服を脱ぐ。もちろん、毎日の日課としてちゃんと女の子変身キットは装着済み。

「何か、修学旅行みたいな気分でちょっと楽しいですね」

 体の前をバスタオルで隠しながら、ほっこり笑顔で言う正木さんの口調も心なしか軽い感じがあったが、

「……でも、あまり浮かれてもいられないんですよね」

 先程の話を思い出してか、すぐに表情が翳ったので、私も正木さんに倣って前を隠しながら、

「なるようにしかならないですから、今はとりあえず忘れちゃいましょう」

 そう言いながら、私が浴室への扉を開くと、

「極楽だー」

「気持ちいいねー」

 悩みとは対極に居るようにだらけきった岩崎さんと片淵さんがお風呂に浸かっていた。人によってはこちらはこちらで危機感が無さすぎる、と思うかもしれないけれど、少なくとも今はこれくらいで丁度良いと思う。

 お風呂に入る前に頭と体を洗う派の私としては、まずシャワーの前に座るのだけど、

「ご一緒しても良いですか?」

 胸元その他諸々を隠していたタオルを、体を洗うためか手桶に浸したことで、全てがあらわになってしまった正木さんが私の隣に座る。白い肌を隠さない正木さんに、私は思わず注意というか視線が向いてしまう。主に上半身へ。

「……あ、あの、やはり……」

 その視線に気づいたのだと思うけれど、正木さんが少しだけ眉をハの字にして困った表情のまま言う。

「あの、申し訳ないです、じっと見てたりして……」

「いえいえ、構わないです」

 両手を左右に振ってから、自分の胸元に付いている豊かな膨らみを持ち上げる。

「中学くらいから急に大きくなってきて……最近はようやく止まったみたいなんですが、まだほんの少しずつ大きくなっているんです。お陰で、最近ホックが……あ、すみません、あの、そういうつもりではなくて、あの……」

 多分、自分の胸の自慢みたいに聞こえてしまって申し訳ない、と言外に表現しているのだと思うのだけれど、私が正木さんの2つの山に注目してしまったのは全く別の理由であり、健全な男子生徒の行動の結果なんです、ということはもちろん言えなかった。

 そういう意味ではまだ私は十分男子としての反応が残っていたんだと胸をなでおろした。そんなことをいちいち確認している時点でそろそろ男女の意識の境を足一歩分くらいはみ出していないかとヒヤヒヤするけれど。

「ホント、高校になっても大きくなるとか羨ましすぎ!」

「わひゃぁぁっ」

 とりあえず、少し空気が沈んでしまって、口ごもった正木さんに助け舟を出した方が良いかな、と思っていたら、目の前の急勾配の2つ山を後ろからがっちり鷲掴みにする人物が1人。

「さあ、サイズを白状するのだ」

 尋問するように言う岩崎さんに、ひえええと言いながら正木さんが答える。

「い、Eの……70……」

「アンダー細っ。てか、70ってあたしとほとんど変わらないじゃん……。てか、それでもキツくなったって?」

「う、うん……」

 聞いて後悔した、といった溜息混じりの表情を浮かべている岩崎さんに、

「にっしっし。アタシなんかもっとちっさいよ。なんせAの65だしね」

 なんて言いながら、立ち上がって控えめな丘陵をぐぐっと押し出す。

「都紀子はある意味ステータスだから良いじゃん。あたしらくらいの微妙なサイズが1番困るんだよねえ。ね、小山さん」

「……え? あ、そう、ですね」

 このネタがある毎に私を巻き込むのは止めてほしいです、岩崎さん。

「いやいやー、そう言いながら真帆ちんとかが最初に結婚してたりするんだよねえ」

 にひひ、と笑いながらお風呂の縁に頭を載せる片淵さん。

「や、その前に彼氏作んないといけないんだけど!」

「まー、そうだよねー」

「てか、最初は小山さんだと思うけどなー」

「へ?」

 出来るだけ視線を鏡に向けて、自分以外見ないようにしながら体を洗っていたけれど、突然名前を呼ばれて顔を、自己評価が低い割に適度に自己主張がある健康的な少女の方に向ける。

「小山さんならいくらでも言い寄ってくる男とか居そうだけど」

 ニヤリ目というか「ほら、本当は隠してるんでしょ?」と物言いたげな眼で私を凝視する岩崎さんに私は慌てて首も手も左右に振る。

「い、いや、居ないよ?」

「あー、どうだろうねー。準にゃんってさ、身長高すぎるからねえ。自分よりも背の高い女の子と並びたくないっていう男子も居るらしいから」

「え? そういうもんなの?」

「さ、さあ、どうでしょうね」

 否定しながら、頭の中では「あれ、この話題って大隅さんたちともしたような」と記憶を反芻する。

 そんなに身長って相手を決める大きな理由なんだろうか。うーん、自分自身の身長が高いから分からないけれど、自分よりも大きい女の子か……うむ、そもそもあまり想像出来ない。

 兎にも角にも、片淵さんが助け舟を出してくれたから、安心してまた体を洗え――

「そう言いながら、実は彼氏居ました、なんて話を準にゃんが隠している可能性も無くはないけどね、ねー?」

 ――ない!

「え? あ、いや、だから無いですよ?」

「本当ですか?」

「ホントかなー?」

 何故か正木さんまでが私に迫る。

「……どれどれ、体に聞いてみようではないかー」

「体? ちょ、まっ」

 ざばん、とお風呂から上がった片淵さんが足早に私の背後に迫ったかと思うと、

「うりうりー! 本当に彼氏居ないのかーっ!?」

 岩崎さんが正木さんにしたように、がっつりと後ろから鷲掴みされて私も思わず声を上げる。

「わっひゃぁっ」

「うーん……こりゃアタシと同じで将来は残念な感じかも。でも身長高いから、胸無いとむしろプロポーションよく見える気がするんだよねー」

 さり気なくディスられているのだけど、胸は本物じゃないから大丈夫、胸は。いや、胸は胸なんだけど、大丈夫じゃないのは背中の方の胸。

 ええ、さっきから控えめに主張している、私のものではない胸が……。

「あ、分かる。そう考えると小山さんはずるいなー。あたしにも身長パワーを!」

 手をわきわきさせつつ、目を光らせる岩崎さん。あ、隣にも野獣が。

「な、なな、何ですか身長パ、みぎゃー!」

 野獣化した岩崎さんに、今度は前からがっちりと偽モノのお山2つを鷲掴みされた直後、何故か冷静になった岩崎さんが、

「……うーむ、そうか。だから、小山さんの名字は小山さんなのか……」

 などと口走る。む……?

「もし胸元のお山が小さいから小山、とか言ったら怒りますよ」

「うぐっ……」

 別に本気で怒る気は無いんだけれど、ちょっと短絡的ですぐに分かってしまったから、思わず先回りしてボケ潰しをしておくと、岩崎さんが私に背後から捕まった状態で静止した。

「ま、まあ、何だ。とにかく、この中で敵は1人だけだ」

 ビシッ、と指差した岩崎さんの先は、両腕をクロスさせて、胸を隠しているのか強調しているのか分からない正木さんが居た。多分、話の展開から自分がターゲットにされることが何となく分かったから、隠したつもりなんだと思うけれど。

「え、ええー?」

 戸惑いボイスを発する正木さんに対して、慈悲無く言う岩崎さん。

「あの凶悪サイズには1人では立ち向かえない。さあ、小山さんもがっつりあやかっておこう!」

 敵対して立ち向かうのか、崇拝して肖るのか、どちらかにして欲しいけれど。

「……あ、あの……」

 狙われた正木さんが私の正面を向いて、控えめに腕を下ろしつつ、

「ど、どうぞ」

 と観念した表情で答えるから、ノーガードで全て見えてしまう。

 い、いや、ちょっと待って。そこまで行ってしまうと完全に引き返せなくなってしまうのだけど。中居さんの場合は、私の性別が分かった上で自分から引き入れたから無罪か有罪にしても執行猶予付きにはなると思うけれど、これは性別を偽った上での行動だから、多分と言わずアウト!

 というか、正木さんのその態度は男性からのエスコートを待っている乙女そのものなのだけど、本当に私のこと男だって分かっていないんだよね?

「えっと……」

 かと言って、変に拒絶反応を示すのは非常に危険。こんな中で男だとバレたら最悪以下の何物でもない。もちろん、ここじゃなければバレても良いのかというと、それもまた違うのだけど。

「ほらほら、やっちゃえやっちゃえ」

「触っちゃえー」

 岩崎さんと片淵さんがやいのやいの囃し立てるから、

「……」

 私は息を呑みながら手をのばすけれど、

「…………や、やっぱりやめましょう」

 正木さんがぎゅっと両腕を抱きしめるようにして体を隠した。

「えー、何で」

 岩崎さんが不満そうに言うと、

「何だか2人が急かすから、凄く小山さんが触るの困っていたようだったし、無理やり触らなきゃいけないみたいな感じになってましたから」

 あはは、と苦笑いを浮かべて正木さんが言う。

「うむー、準にゃんはスキンシップが苦手な女の子なんだなー」

「むむ、そうか。まー、しょうがないね。んじゃ、あたしも体洗うかー」

 片淵さんと岩崎さんも体を洗い始めたから、私はようやく体も頭もさっぱりしてお風呂に入る。

 ……べ、別に残念とか思ってないからね!

「ふーぅ」

 ようやくお風呂に浸かって、私は肺の底から息を吐く。少し熱めのお湯が体中に染み渡る。

 予想はしていたけれど、視界のあちらこちらに肌色と桃色がフレームインとアウトを繰り返している状況は全くと言っていいほど落ち着かない。

 でも、大隅中居ペアとの混浴後だからか、まだ少しだけ心に余裕がある気がする。たまに思わず反射的に目を背けてしまうのはまだあるけれど、比較的落ち着いて見ることが出来るようになった。いや、積極的に見ようとしていないけれど、視線の前にクラスメイトの素肌を見ても少しは大丈夫になった。少しだけ。

 それでも、やはり男子としては、その、若干落ち着かないところはある。顔、また赤くなってないかな。

「そういや、明日は何時に出る?」

「結構混むから早く行かないとヤバイよねー。優待券とは言っても、別にショートカットパスじゃないし」

「ショートカットパス?」

 聞いたこと無い言葉に首を捻る私。

「何千円か多めに払うと、アトラクションの利用予約が出来るチケットのことです。ショートカットパスを持って利用したいアトラクションの受付でチケットを渡すと、優先搭乗時間を印刷したチケットが貰えて、そのチケットに記載された時間に行くと並ばなくてもアトラクションを使用出来るみたいです」

 正木さんが詳しく質問に答えてくれているのを横でうんうん頷きながら片淵さんが補足してくれる。

「並ばなくて良いのは魅力だけど、とにかく高いんだよねー。アタシが持ってるチケットだとショートカットパスは1割引きとかだった気がするから、ほとんど割り引かれてないようなもんだし。確か普通のチケットは3割引きだったかな」

「とすると、やっぱ普通の1日フリーパスかあ」

 残念そうに言う岩崎さん。

「うーん、じゃあ早めに出た方が良いんですね。そうすると、8時とか?」

「開園が9時だから、もうちょい早い方が良いねー」

「とすると7時起きで7時半出くらい?」

「うー、7時か……あたし多分起きられないから誰か起こしてぇ」

「もう、真帆ったらそんなこと言って……」

 甘え声の岩崎さんを諌めるような口調の正木さん。

「だって、いつもならお母さんが起こしてくれるけど、今日はここに泊まるから無理だしねー」

「まあ、でも誰かしら起きると思うよー」

「都紀子、それフラグじゃない?」

「にゃっはっは、誰も起きないパターンは確かにあるかもねー。ま、そんときはそんときでゆっくりでも良いんじゃないかなー」

 ゆるーいノリの片淵さんに対し、

「とりあえず目覚まし掛けよう、目覚まし。携帯のアラームでも良いから、絶対起きる! ってことで、さっさとお風呂上がろう!」

 と意気込み十分の岩崎さんは湯船から上がり、早足で浴室を出ていく。

「おー、元気だねー。んじゃ、アタシも上がろうかなー。あ、準にゃん、ご飯もそろそろだよね?」

「あ、ええ。もう食事は準備終わってると思うので、食堂で食べられると思います」

「おっけー。きょーおのご飯はなんじゃろなー」

 片淵さんは脳天気な歌を歌いながら、岩崎さんを追うように自分もお風呂を出ていった。

 うーん、2人をあまり待たせるのも良くないかな。既に何度も寮に泊まっているなら、先に食堂へ行ってもらって、食事を済ませておいてもらうのも手かと思うけれど、今回が初めてだから、食堂のシステム……というと大げさだけれど、教えてあげないといけないだろうし。

「私たちもそろそろ上がりましょうか。明日も早いですし」

「そうですね」

 私の言葉に呼応するように、正木さんが頷いて立ち上がったから、私も腰を上げたのだけれど。

「……ッ!」

 立ち上がろうとした私は、逆動作で腰をそのまま下げた。

「どうしました?」

「い、いえ、あの、そういえば洗顔をわ、忘れていたなと思ったので、あ、正木さんは先に上がっていてください。顔だけ洗ってから上がります」

「? はい、分かりました」

 少し訝しむ様子はあったけれど、正木さんは頷いて先に浴室を出て行く。

 一方、私は予測していなかった……いや、予測しておくべきだったのだけれども、兎にも角にも緊急事態に思わず腰を落ち着ける。

「や、ヤバイ……外れる……!」

 肩までしっかり浸かっていたのもあるけれど、今日はお風呂がいつもよりやや熱かったのと、それなりの時間お風呂に入ったままだったからか、女の子変身セットが上からも下からも外れそうになっていた。下は履くタイプだから少し余裕があるけれども、上半身にある桜色トッピングの肌色まんじゅうは首の皮一枚とでもいうべき状態で、歩く振動ですら落ちるんじゃないかという状況。

 大隅さん、中居さんと混浴したときは何で大丈夫だったんだろうと記憶を呼び起こすと、緊張感があったせいかほとんどお風呂に浸からずに浴槽を出ていたから、外れなかったんだと思い出す。

「お湯じゃなくて、何か別の方法で剥がれるような接着剤にしてもらわないと駄目かな……」

 この辺りはみゃーちゃんに相談してみるしかないかな。貼り付ける肌色接着剤もそろそろ残り少なくなってきたし。

「小山さん?」

 カラカラ、と浴室の扉が控えめに開いて、りガラスの扉の隙間から聞こえてくる正木さんの声にびくん、と過敏反応する私。

「は、はいっ。何でしょう?」

「大丈夫ですか? 何か手伝うことありますか?」

「い、いえっ、大丈夫です。先に部屋に戻っておいてください! すぐに行きますので」

 ああ、下手に待たせてしまっているから、余計な心配を掛けさせてしまっている。

 いつも接着クリームはお風呂の際に持ってきているから、脱衣所の棚まで行ければ問題無いのだけど、そのためには1度浴室を出なければならない。

 でも、まだ今は正木さんたちが脱衣所に居るから、浴室から出ることが出来ない。

 かと言って、早く出ましょうかと言った手前、ずっと浴室から出ない訳にもいかないし……困った。

「気分が悪くなったとか、そういうわけでもないですか?」

「はい、大丈夫です」

 気を遣ってくれる正木さんの優しさが、むしろ今は私を追い込んでいる。うう、気持ちは嬉しいけれど先に戻っておいてくれないかなあ。

「小山さーん! 早く行くよー! ……あれ? 紀子、小山さんは?」

 半開きの扉の向こうから岩崎さんの声までし始めた。

「まだ、お風呂の中」

 そう言いながら、正木さんが浴室の扉を閉めたら外からの声がほとんど聞こえなくなった。

「う……うーん……」

 こ、こうなったら、胸を隠しているていで女の子変身セットを支えつつ、浴室から速やかに出て、さっと服を着替えてしまうしかない。ブラはこのためではなかったのだけど、とりあえず今回は何気なく掴んだのが普通のブラではなく、スポーツブラだったので、着替えに手間取ることは無い、と思う。逆に支えが弱すぎてズレる可能性は……どうだろう、使ったこと無いから分からないけれど。

 ええい、ままよ、と脳内で叫びつつ、胸元を押さえながら浴室を出ようと振り向き、私が取手に手を掛けようとした直前で突然ガラガラと開く扉。目の前には先程まで居た正木さんの身長が少し縮み、かつ胸元は1回りくらい主張するようになって、髪型が毎朝見慣れたもふもふ頭になっていた。

 ……いや、これ工藤さんだよね? いつの間に?

「…………」

 沈黙のクラスメイトは目の前にある肌色の壁と化した私の胸元から視線をずずいっと上げ、足元まで下げてから再度私の顔を見て、ようやく状況を理解したようで、扉を後ろ手に閉めてから密やかにこう呟いた。

「えっち」

「ふ、不可抗力!」

 確かにタオルが無いから全て見てしまったけれど、不可抗力! 不可抗力です!

 工藤さんの幾分か責める色を含んだ無表情目が私を見上げるけれど、でもそれ以上は何も言わずにぺたん、と浴室の椅子に座る。

 クラスメイトの柔肌を目撃してしまった、というところに今まで以上、耳が熱くなる音がしていた気がしたけれど、それとはまた別にあることに気づいて、体を洗おうとしていた工藤さんの隣に座って、ボリュームを下げて声を掛ける。

「あ、あの、工藤さん」

「…………何? もっと見たいの?」

「ち、ちがっ……! そうじゃなくて!」

 健全な男の子なのでそういう気持ちが無いわけでもないけれど、それよりも今は緊急事態なのです! 決してやましい気持ちがあって、工藤さんの横を陣取って話をしているわけではないのです! と誰へとでもなく脳内で申し開きをしながら、私は工藤さんの耳元で事情を説明して、手に掛けていたロッカーの鍵を渡した。

 そう、あの脱衣所のロッカーキー、最初は不要だと思っていたけれど、こうやって肌色接着剤を隠すとか重要な役目をしてくれているので、結果的には非常に役立っていたりする。

「……そのケースを取ってくればいい?」

「お願いします」

「…………駅前のカフェのパフェ」

 じとり、とした目で少し上目遣いに私を見る工藤さん。

「うっ。わ、分かりました」

「じゃあ、取ってくる」

 工藤さんはぺたぺたと音をさせながら浴槽を出て、そんなに時間を掛けずに戻ってくる。

 ……戻ってくるのは良いけれど、私が男だと分かっていて、さっきあんなことを言ったのだから、工藤さんはもうちょっと色々と隠しても良いと思うんです、私。流石にノーガード戦法は予想外でした。

「取ってきた」

「ありがとう」

 受け取った肌色接着剤を外れそうだった胸パッドと股間パッドに手早く塗って、再度しっかり貼り付ける。

 ……っふー、助かった。

「じゃあ、私は上がるよ」

「……今日は3人も泊まるの?」

 浴室の扉に手を掛けたところで、私は工藤さんの言葉に足を止め、振り返って頷いた。

「そう。皆2階で私の部屋と同じ並び」

 つまり、大隅さんと中居さんが泊まったところ含め、2階の端から3部屋。どうやら2階は私以外、ほとんど誰も使っていないみたいだから、臨時の宿泊は2階を使うようにしているみたい。

「……誰でも泊まれるの?」

「うちの生徒であれば誰でも100円で1泊出来るって。誰か泊まる予定があるの?」

「千華留が泊まりたいって言ってた」

「あれ? 家が近いから寮生活は出来ないって言ってなかったっけ?」

「そう。でも、大隅と中居が準と楽しそうに寮での合宿の話をしてたから、何か自分も寮に泊まってみたくなったって」

 確かに合宿以降、大隅さん、中居さんとかとも話をする機会が増えたとは思う。それは、同時に彼女たちもそれなりに授業に出るようになったからなのかもしれないけれど、確かに話をするときに寮合宿の話題は出る。

「千華留にはそう見えたって」

「そっか。うん、まあ隣に住んでいる正木さんでも泊まれたし、園村さんでも大丈夫だと思うよ」

「分かった。千華留に伝えておく」

「うん。じゃあ、おやすみなさい」

「おやすみ」

 今度こそ浴槽の扉を開けると、既に部屋着に着替えていた正木さんが少し心配そうな表情で待っていた。

「大丈夫でしたか?」

 正木さんの表情と言葉に、私は謝罪する。

「ええ。ご心配お掛けしました」

「……でも、工藤さんに何か持ってきてもらっていたみたいですが」

「え? あ、えっと……」

 確かに、正木さんがここに残っていたということは、工藤さんに肌色接着剤を持ってきてもらったところを目撃されているということ。

「何かあったなら、ちゃんと教えてくれれば良かったのに」

 少しむくれた顔で、私をじっと見つめる正木さん。ああ、本気で心配してくれていた、というのと同時に工藤さんにアレをお願いしたというのが不満だったのかもしれない。

「今まで何度も色々お世話になっていたので、私だって何かお返ししたいんです。だから、何かあるんだったらちゃんと言ってください」

「……すみません。じゃあ、今度は正木さんにお願いします」

 本当にお願いするときがあるかは分からないけれど、今は少なくともそう言わないといけないと思う。

「そうしてくださいっ」

 少し強い口調でそう言った正木さんは、でもそれ以上の詮索はせず、

「じゃあ、食事にしましょう」

 と言って手を差し出したから、私も、

「ええ」

 と差し出された手を取り、私たちは脱衣所を後にした。

「で、結局勉強するんじゃん!」

 机に突っ伏して、ひーん! と半泣きになりながら、岩崎さんが愚痴る。

 お風呂上がり、私たちは食事を済ませた後、また私の部屋に集まったのだけど、ローテーブル周りに集まってノートを岩崎さん除く全員が開いたから、そんな岩崎さんの恨み言が出たという流れ。

「うー、お風呂で今日は勉強無し! って言ってたからパジャマトーク的なのを期待してたのに!」

 不服を申し立てる岩崎に対し、片淵さんが恥ずかしそうな笑いで答える。

「いやー、そう思ってたんだけど、全く勉強しないのはアタシが心配になっちゃってね。申し訳ないけどちょっち付き合ってもらえんかねえ?」

 そう言いながら、ちらりと片淵さんが岩崎さんを見ると、

「……そう言われると断れないじゃん」

 と言いつつ、姿勢を正した。優しい。

「で、何の科目するの?」

「んにゃー、それがね……」

 言葉の最後を濁しながら、私に視線を向ける片淵さん。

「大丈夫です。片淵さんが期待しているパジャマトーク的なのをするだけです」

 片淵さんの言葉を引き継いで、私が言葉を走らせる。

「へ? いや、でもノート開いてるじゃん」

 私は岩崎さんの言葉に答えず、逆質問でこんなことを聞く。

「岩崎さんは、授業はちゃんと起きてますか?」

「え? う、うーん……どうかなー? あはは」

 突然の私の言葉に、視線を空中遊泳させる岩崎さん。うん、大体予想通り。まあ、自分でも寝てるって言っていたし。

「例えば、昨日の山井先生の授業でどんな話をしていたか覚えてますか?」

「え? 数学の? あーいや、全然」

 即答した岩崎さんに、私は変則的な質問を投げ掛ける。

「飼っている犬が脱走して、捕まえるのに苦労したとか」

「……ん? あれ、そういう話?」

 私の回答に目を丸くした岩崎さん。

「そういう話です。授業中に先生が話していた勉強に関する内容はあまり覚えていなくても、雑談とか、直接授業に関係ない雑談って結構覚えているんじゃないかなと思いまして」

「あー、確かにそういや、確かに飼っている犬がどうとか言ってた言ってた」

 岩崎さんの反応を見て、片淵さんが代わりに言葉を続ける。

「で、犬の散歩中に靴紐が解けたからって、公園に刺さってた杭に散歩紐を掛けたら、実は杭が既にボロボロだったから、ワンちゃんに杭ごと逃げられちゃって、山井先生ひいひい言いながら追いかけて捕まえたって言ってたねえ」

「あれ? そんな話までしてたっけ?」

 岩崎さんは、片淵さんが思い出しながら話す内容について、最初でこそ頷いていたけれど、途中から首を傾げっぱなしになっていた。

「山井先生は少し時間が空く度に、そういう雑談を細切れに入れていたので、岩崎さんはもう寝ちゃっていたかもしれないですね」

「ううう……、そ、それと勉強との間に何の関係があるの?」

「ありません」

 私がきっぱりと言うと、ぐでんと再度机に突っ伏した岩崎さん。

「えー」

「正確には、今回は直接関係しない、です。今回こんな話題を持ち出したのは、ちゃんと授業聞いている人だけが出来る話題を増やして、話に入るために授業をちゃんと聞こう、って思わせる作戦です。まあ、だからと言って授業を真面目に聞こうという気になるかは人それぞれなので分からないですが、少しは真面目に聞く気になったらいいなあ、くらいの内容です。ノート開いたのは、私はそういう雑談もノートに取ってるので、それを思い出そうと思ってだったりします」

「むむ……」

「そして、こういう話をすること自体は岩崎さんが言ってたみたいな、パジャマトークとも言えると思うので、一石二鳥かなと」

「むーん……」

 腕を組んで、岩崎さんが何事か悩んだ後、

「つまり、授業中に話していたこと縛りでパジャマトークってことで良い?」

「簡単に言うとそうですね」

「うーん……、ヤバイ。マジでネタが思いつかない」

「まー、真帆ちん、後ろから見てても良く船漕いでるしねー」

「都紀子にまで言われた!」

 ショックを受ける岩崎さんに、じゃあ……と切り出した正木さん。

「真帆、その山井先生が婚約したの知ってる?」

「え? マジで? 山井先生結婚するの?」

「うん。授業中に言ってたよ」

「嘘ぉ!?」

「本当。2日前の授業で話してたよ」

「アタシも何となく覚えてる。近所のおじいちゃんの息子さんだっけ。結構偉い企業に勤めてるとか」

「そうですね」

「うー、この話題は分が悪い! ってか、都紀子の勉強会じゃないの!?」

「いえ、寝てると自己申告している割には、片淵さん結構授業中の雑談とかよく覚えているみたいなので、多分岩崎さんが1番寝ていると思います。ということで、岩崎さんが1番危ないかも」

「ぐぬぬ……」

 唇を噛み締めて岩崎さんが唸る。まあ、もちろん雑談の内容を覚えていたからといって、それが学力と紐づくかどうかは全く別問題なのだけれど。

「よし、決めた」

「真面目に授業受ける気になりましたか」

「皆から雑談内容教えてもらって、全部覚える」

「いや、そういう話じゃないです」

 駄目だこりゃ。

「……あれ、岩崎さんもう寝ちゃった?」

 結局、授業中の雑談ネタを整理している途中からうつらうつらしていた岩崎さんの意識が、完全に行方不明になってしまったようで、机に突っ伏して眠っていた。

 他の2人もかなり眠いようで、しきりにあくびを繰り返していたから、

「そろそろ終わりましょうか」

 と私が言い出すと、

「さんせーい」

「はっ、はい!」

 意識を半分くらい微睡みに突っ込んでいた2人も答えた。

「岩崎さん、そろそろ終わるのでお布団で寝ましょう」

 肩を揺さぶって岩崎さんを起こした私たちは、歯を磨いてそれぞれの部屋に。

「明日は7時起きでー」

「はい、分かりました。おやすみなさい」

「おやすみー」

「ふあぁ……」

「おやすみなさい」

 片淵さんの言葉に私が頷くと、岩崎さんを部屋に送り届ける役のためにいくらか覚醒した正木さん、完全に瞼を落とした岩崎さん、ふわふわと足取りが雲の上みたいな片淵さんがそれぞれの部屋に消えていった。

 見送ってから、私も部屋に戻り、

「おやすみ、テオ」

 とベッドの上で丸くなっている少し小さめな成猫に声を掛けると、それに応えるように大あくびと共ににゃーん、と一鳴きして、私の足元辺りで丸くなった。

 電気を消して布団に入り、1人で考える時間が出来てしまうと、途端に昼に言い放ったことが思い出される。

「……ホントに、大丈夫かなあ」

 あんなに偉そうなこと言ったけれど、正直自信はあまり無い。今日の雑談話からすると、片淵さんは凄く物覚えが良いというか、記憶力は結構良いようだったから、真面目に勉強すればすぐにテストは取れそうな気がする。

 ただし、その前後の授業内容も少しだけ話題を振ると、授業内容についてはほぼ記憶にないようだったから、雑談や興味のある内容についてはとことん記憶力が働き、彼女にとってどうでも良い内容は一切記憶に残らないタイプなのかもしれない。

 つまり、彼女のお母さんみたいに勉強を強要したところで、ほとんど意味はないと思うから、何か方法を考えないといけないとは思う。

 彼女をやる気にさせれば、多分そんなにテスト上位は難しくない気はするけれど、うちのクラスメイト含め、まだ皆が大体テストでどれくらい取れるかも分かっていないし、それ以前に自分自身だってどれくらいの点数が取れるかは分からない。だから、正直に言って10位という順位が現実味のある数なのかは分からない。

 頭の中で悩みがるぐる回っていると、コンコン、と控えめなノックが聞こえた。最初は気のせいかなと思ったけれど、もう1度、確かにノックが聞こえたから、

「はい?」

 疑問符付きでノックに返答をすると、

「正木です」

 とノックと同じくらい控えめに声が聞こえた。

 私は慌ててベッドから立ち上がって電気を点け、扉を開くと先程私の部屋を出た姿にプラス枕を持った正木さんが立っていた。

「どうしました?」

「えっと……部屋、入ってもいいですか?」

「ええ、どうぞ」

 体を引いて、正木さんを部屋に招き入れる。

 私が扉を閉めると、正木さんが枕を抱きしめながら、

「ごめんなさい。うとうととはしていたんですが、でも眠れなくて……小山さんはどうかな、なんて思って」

 とこれまた控えめに言う正木さんの瞼はかなり降りてきているから、おそらく眠れないというよりは私を気にして、起きてくれていたというのが正確なんじゃないかとも思う。

 せっかくの心遣いを無駄にしないように、というよりは正直なところ、私自身頭の中でまだ整理が出来ていないところだったから、話が出来るのはありがたい。

「……そうですね。私もちょっと眠れなくて」

「良かった。眠ってしまっていたら申し訳なくて……いえ、こんな時間に来ること自体、失礼かもしれませんが」

「大丈夫ですよ」

 ベッドに腰掛けた私に、

「お隣、いいですか?」

 と尋ねる正木さんに頷くと、おもむろにベッドに腰を下ろした。

「やっぱり、お昼の話で眠れないんですか?」

 正木さんの言葉に、私は素直に頷く。

「……ええ。あんなことは言いましたが、私自身あまり自信は無いんです。片淵さんにとっても、半分くらい押し付けみたいなことをしてしまった気はしますから」

 彼女のお母さんとの話は脊髄反射的に答えてしまったところもあるし、あのままでは片淵さん自身が壊れてしまう虞だってあった。だから、やったことが正しいとは言わないけれど、あの状況に一石を投じられたのは間違っていなかったとは思う。

 だからと言って、片淵さんに相談もなく、勝手に10位以内だ、駄目だったら学校を辞めても良いとまで言い放ったのはやっぱり短絡的だったとも思う。

 そんなネガティブな私の言葉に首を振って、正木さんが答える。

「いえ、大丈夫ですよ。私も出来る限り、バックアップしますから……と言っても、私より小山さんの方が頭が良いので何の役にも立たないかもしれませんが」

「そんなことないです」

 今度は私が、正木さんのネガティブな言葉に首を振る番だった。正木さんのノートを見せて貰ったけれど、ポイントが綺麗にまとめてあって、人によっては授業なんか受けなくても正木さんのノートをじっくり読んで勉強すれば、それだけでテスト上位は簡単に取れるんじゃないかって思ったくらいだった。苦手意識とかがある教科は、それでも難しいかもしれないけれど。

「……あの、良ければなのですが」

「はい?」

 おずおずと切り出した正木さんはこんなことを言った。

「一緒に寝ませんか?」

 どうしてこうなった。そう心が叫んでいる気がする。

 ベッドの上には既に布団を被って横になった正木さん。そしてそのベッドの半分、壁側に空いた不自然なスペース。もちろん、私が寝るスペース……ですよね。

 いや、確かに大隅中居サンドで朝チュンしたことは……いや、朝チュンではなくて、単純に朝を迎えたことはあるけれど、寮生以外のクラスメイトが泊まる度に私は女の子と添い寝されないと朝を迎えられないんだろうか。

 ま、まあ、眠らない訳にはいかないし、ぐだぐだと時間を伸ばしても仕方がない。

「電気消しますよ」

「はい」

 窓のカーテンを開き、窓から月明かりが差し込むことと正木さんの返事を確認してから、私は電気を消して、ベッドのスプリングがぎしりぎしりという音を立てるのを確かめるようにしながら、ベッドに上がる。電気を消した直後は窓から入った月明かりの範囲しか見えなかったけれど、しばらくして暗闇に目が慣れたら、ほぼ鼻先くらいに正木さんの顔があった。

「あの」

 控えめに尋ねる声が目の前から聞こえてくる。耳元で囁かれているような状況だから、少しむず痒い感覚を覚えながら、私は短く答える。

「何でしょうか」

「……片淵さんの件ですが、大丈夫ですよ」

 何故か、正木さんはそう答えた。

「でも、偉そうなことを言って、私も自信はあまりないんです。別に家庭教師をやっていた経験があるわけでもないですし」

 少し回り道した私の発言に、ぐっと私の頭を抱きしめるようにして、

「大丈夫です。何かあっても、私や真帆たちも協力して、先生に言って、学校を辞めなくて良いようにしますから」

 とくっきりとした言葉で言う正木さん。

「でも――」

「大丈夫です」

 惑う私の声を押しとどめるようにして、もう少しだけはっきりと正木さんが答える。

「絶対にそんなことさせません。それにまだ時間はありますから、皆で片淵さんを助けましょう」

 正木さんの強い意志とそれを示す腕の力に、私も頭を預けて答えた。

「……そうですね」

「それに、もっと私たちに頼って良いんですよ。小山さんは1人で何でも抱えすぎです」

「そうでしょうか」

 正直なところ、まだ正木さんたちと会ってから1ヶ月くらいしか経っていない。その割には濃密な時間を過ごしている気はするけれど、まだ気軽に色々お願い出来るほど気兼ねなくなってはいない。

 そんな意識を込めた私の声にも、正木さんは意志を曲げずに答える。

「そうです。もっと頼ってください。友達なんですから」

 何故、正木さんがそこまで私にそう答えてくれるのかは分からないけれど、そうやって無償の愛で受け入れてくれるのが友達なのかな、とも思う。前の学校にはそうやって自分自身を認めてくれたり、受け入れてくれるクラスメイトは居なかったし、そもそもテストのライバルしか居なかったように思う。

 だから、こうやって私を肯定したり、両手を広げて受け止めてくれる友達が居るのはとても嬉しい。

 性格はすぐに変えることは出来ないけれど、少しずつでも正木さんたちにも頼っていかなきゃ、それが信頼関係だと思う、なんて男と隠している人間が信頼関係なんて言っていいのかは分からないけれど。

「分かりました。じゃあ、今度から少し頼らせてください」

「……」

 言葉に返答が無い。あれ、どうしたのかな。

 そう思って、視線を正木さんの顔に移すと、既に瞼と共に意識は深く閉じていた。勉強中にうつらうつらしていたから、私の部屋に来た時点で既に眠かったんだろうと思うけれど、私と話をするためだけに頑張って起きてくれていたんだろう。言わなきゃいけないと思ったことが言えたから、意識が途切れちゃったのかな。

「ありがとうございます……」

 正木さんを起こさないように、私はそう小さく呟いて眠りに就いた。

 ……と終われば良かったのだけど。

「あ、あの……正木さん、く、苦しい……」

「んんー……」

 猫が自分の子猫をハグするみたいに、正木さんは私の頭をぎゅっと抱きしめてくれるのは安心するのだけど、正木さんのたわわな谷底に顔の下半分が埋まっている私は、呼吸する度に肺全体で正木さんを感じて、脳髄が麻痺しているような感覚になる。同時に意外と抱きしめる力が強いから、やや気道が閉まっているお陰で呼吸困難とまでは言わない程度に意識が飛びそうになる。

 というより落ち着いて考えたら、正木さんに抱きしめられている時点で健全な男子としてはもうドキドキモノなのだけど、同時に生命の危機も感じるから、素直にこの状況を受け入れることが出来ない。

「ま、まさ……き……さ…………」

 結局、強く正木さんを引き剥がせなかった私は、ふんわりとした正木さんの匂いと柔らかさの中で正常終了出来ず、強制シャットダウンする方法で眠りに落ちた。

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