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第3時限目 日常のお時間

「おはようございます」

 長身痩躯ちょうしんそうくという言葉を女性に使っても良いのかは分からないけれど、教室に入ってすぐの席には腰に届きそうなくらいの黒い長髪をそのまま流した女子生徒、園村さんとそしてその前に座る、今朝も絶賛水も滴る何とやらだったわかめ星人ちゃんこと工藤さんが何やら話をしていたから、挨拶する。

 ちなみに工藤さんは私が太田さんから髪を乾かすお仕事を渡されたのを聞いていたからか、私が顔を洗いに洗面所に行くと相変わらずのタオル1枚姿のまま、洗面台の前に置いてある椅子に座って準備していたりする。本当に毎日するのかな。嫌ではないのだけれど、せめて服を……ってどっちにしても頭を拭いてからでないといけないのだけれど。

 初日は廊下がずぶ濡れになってしまうからと、工藤さんの姿を意識して見ることはあまり無かったのだけれど、今日の朝は落ち着いて見ることが出来た分、落ち着いて見られなかった。いや、言っている意味が良く分からないと思うけれど、察してください。私だってこんな格好をしていても男のはしくれなのだから、その……タオル1枚姿の女の子と同じ部屋というのは少しどころじゃなく落ち着かない訳で。お陰で毎日しっかり目が覚めるようになったのは良かったのかもしれないけれど。

「ああ、小山さん。おはようございます」

「……おは……よう……ごず……い……」

 血色の良さそうな破顔で応えてくれた園村さんと相変わらず青白く重い瞼に耐え切れていない工藤さんがそれぞれ挨拶を返してきてくれる。

「まあ、華夜ったら……今日は本当に体調悪そうね。大丈夫?」

「……だい……お……ぶ」

 スリープモードと受信待機中を行ったり来たりしている工藤さんの頭を撫でて、園村さんが不安そうな顔をする。むしろこんな状態だったのに、教室まで無事に辿り着いたことが凄いと思う。

「どうしても辛ければ、保健室で休む方が……」

「…………」

 あ、寝た。

「……とりあえずは授業が始まるまでは寝かせてあげましょう」

「そ、そうですね……」

 園村さんに軽く頭を下げてから、私は昨日咲野先生に教えてもらった部屋の最後列に向かうと、

「あ、小山さん。おはようございます」

 その手前、つまり私の席の右隣に正木さんが座っていた。

「おはようございます。もしかして私の席って正木さんの隣ですか?」

「はい!」

 満面の笑みで答えてくれた正木さんの隣に座って、鞄を机の横に掛けると、

「お、来た来た」

「おはよー、準ちゃーん」

 岩崎さんと片淵さんも早速私の机まで来る。まだ会って2、3日目だというのに、もう見慣れた光景になってしまっている。それだけ早く溶け込めているということなんだろうけれど、それは3人の人柄のお陰かな。

「小山さーん。今日は買い物行こうよ買い物」

「もう、真帆ったら……まだ1限目も始まってないのに」

 正木さんが隣で既に1時限目の準備を始めながら苦笑する。

「流石にあれほど殺風景な部屋は精神衛生上良くないと思うな、私! だから、もうちょっとこう、可愛くコーディネートしたげるからさ」

「にっはっは、そう言いつつ、準ちんハウスを乗っ取ろうと思っているね、真帆ちん」

「えー、そこまでは思ってないよ?」

 そこまでは、ってことはちょっとは思ってるんだ、という言葉がまろび出そうになったのを飲み込んで押し留める。うむ、悪い子ではないと思うのだけど、思ったことが一切処理とか変換とかの工程を経ずに出てしまうタイプの女の子なんだなあ、岩崎さん。

「とにかく、買い物行こうよ。まだお店とか知らないでしょ?」

「ええ、そうですね、分かり――あ」

 言いながら昨日の記憶を掘り起こすと、そういえば地下室在住の猫耳娘さんから「放課後に良い物を進呈しますので奮ってご来場ください」とは言っていないけれど、意味合いとしては似たようなことを言っていた気がする。

「あの、先にちょっと用事があって、先にそれを済ませてからでも良いですか?」

「用事? 良いけど、何処?」

「えっと……」

 そういえばみゃーちゃんのことって、皆何処まで知っているんだろう。そもそも、私も地下にあんな猫耳少女が住んでいる、ということしか知らないのだけれど。

「地下室のあの子のところですか?」

 正木さんがおずおずと尋ねてくる。

「は、はい、そうです」

 本当に心を読んだんじゃないか、って思うくらいに正木さんは言い出しにくい話を切り出してくれる。

「地下室……あー、あのなんだっけ、名前忘れたけど、ちっちゃい女の子が居るとか何とか聞いたことはあるよ」

「そう、あの子から呼ばれていて」

「へー、準にゃんがあの子に? 珍しいねー。何かあったの?」

「ええっと……まあ、ちょっと」

 口が裂けても、あの動画でみゃーちゃんに脅されている……というほどではないけれど、呼び出されているということは言えない。

「まあいいじゃん。あの子、性格悪いし、あたしは嫌いだな、うん」

「確かにちょっと口悪いねー。まあ、子供だから仕方がないと思うけど」

 岩崎さんと片淵さんが素直にみゃーちゃんの印象を答える。

 うーん、まあ確かにちょっと傍若無人というか、言葉が不遜なところもあるけれど、どちらかというと背伸びしている感じがあるだけで、腹を立てるほどのタイプではないと思うけれど。これも男女の感覚の違いによるものなのかな。うちの妹も昔はそういう時期があったし。

「まあいいや。じゃあ、先に家帰っとくから午後5時に校門前集合でー」

「ええ、分かりました」

「おらー、席つけー」

 そんな話をしていたらチャイムが鳴って、咲野先生が入ってきてホームルームが始まるも、大して連絡事項もなかったからすぐに1時限目の授業が開始。

「あ、正木さん……」

「教科書ですよね?」

 私が声を掛けた時には、机をずずずっと近づけて来てくれる。もう熟年夫婦みたいな阿吽の呼吸。ううん、本当は単純に正木さんが先読みしてくれているからだけれど。

 授業の内容は基本的に前の学校で既に習ったところばかりで、ただただ復習の時間。でも、解き直してみると間違える問題もある。気を付けないと。

 真面目に授業を聞きながら、真横の肩より少しだけ伸びた黒髪の少女を見てみると、真面目に黒板の文字を書き写している。私自身、どちらかというと文字は綺麗な方だと言われるけれど、私よりも更に綺麗な楷書体で板書の文字をさらさらと書き写している様子は指揮者のタクトみたいにも見える、なんてことは言い過ぎかな。

「どうしました?」

「あ、いえ。何でもないです」

「?」

 いけないいけない。ずっと凝視なんてしてたら色々思い出してしまうから、とにかく授業に集中しよう。

 2時限目、3時限目、4時限目と続いたけれど、どの授業も既に習った範囲だったからひたすら復習ばかりだったけれど、それほど苦にはならなかった。まあ、勉強は嫌いじゃないから。

 そしてようやく食事の時間を告げるチャイムが鳴る。それと同時にガタガタッと椅子の音を立てていつものコンビが私と正木さんの机の前に立つ。

「さー、飯だ飯ー。小山さんはお弁当?」

「いえ、何も持ってきてないです」

 そういえば昼食はお弁当とか作ってもらえたりするのかな?

 転入時にはそんな話は聞いた覚えがないから、もしお弁当が欲しければ自分で作るのかもしれない。

「んじゃあ、アタシと同じだねーい。カフェテリアにする?」

「カフェテリアですか」

 そういえば確かに階の中央にあった気がする。

「そーそー。まあ、購買で何か買っても良いんだけど、せっかくだしカフェろうよ」

「んだったら早く行かないと、席無くなっちゃうし急がないといかんね!」

 言うやいなや、岩崎片淵ペアは二人三脚のプロみたいにほぼ同時に部屋を飛び出した。

「正木さんはどうされるんですか?」

「私はお弁当持ってきているので、それを持って行きます」

 そう言って鞄から取り出した桃色の包みに入った控えめサイズのお弁当箱。

「もしかして、自分でお弁当を?」

「い、いえ……母が作ってくれたものです。申し訳ないです」

「あ、そういう意味ではなく……あはは」

 何故か謝られた。でも、正木さんなら料理とか上手そうだし、作ってもらいたい気はする、って何言っているんだろう私。

 お弁当を持った正木さんと2人で部屋を出ると、カフェテリアの4人掛けテーブルから手を振っている岩崎さんの姿。

「あれ、片淵さんは?」

「都紀子はもう並んでるよー。あたしはお弁当だから、並ぶ必要無いしね」

 見ると、確かに岩崎さんの手元には結構大きな箱型弁当が置いてあった。それも2段。

「真帆、良くそんなに食べられるよね……私には無理」

 そう言う正木さんの弁当箱は確かに岩崎さんの半分サイズくらいしかない。

「紀子はずるいよねー。こんだけしか食べないのにこの体格だし」

 "この体格"の時に上半身の一部を指す。何処なんてことは言わなくても分かるでしょう?

「え、ええ? そんなことないよ」

 少し赤面しながらぎゅっと上半身を抱く。

「ずるすぎだって! ほら、小山さんも思うでしょ?」

「んーっと……あはは、そうですね」

 正直なところ、正木さんの体を直視出来ない。理由は言うまでもないけれど。

「おまたへー。いやぁ、やっぱ早く来ないとヤバイね。もう結構並んでるし」

 片淵さんの言葉を確かめるべくカフェテリアのカウンターを見ると、確かに6、7人が並んでいる。これは結構時間掛かるかなあ。

「小山さんも買ってきたら?」

「ええ、そうですね。時間が掛かるかもしれないので先に食べててください」

「んにゃー、待ってるから買ってきなー」

「準ちゃんだーっしゅ!」

「行ってらっしゃい」

「……あはは、じゃあ行ってきます」

 結局待ってくれている3人を出来るだけ待たせないようにと、私は財布を持って足早に列に並ぶと、列の前に並んでいる人物2人は今朝挨拶した2人。この2人は正木さん、岩崎さん、片淵さんのトリオと同じく、必ずコンビで行動しているのかも。

「園村さん、工藤さんもカフェで食事ですか?」

「小山さん、こんにちは。そうですよ、小山さんも?」

「はい」

 工藤さんの隣でまだ眠そうにしている工藤さんは、

「……準、こんにちは」

 それでも朝から比べれば大分調子が良さそうで、喋り方もはっきりしている。やっぱり低血圧だから朝が特別弱いだけなのかな。

「良ければ一緒に食べますか?」

 4人掛けの机だから、別の机をくっつければ良いかな、と思って笑いかけると園村さんの表情がやや固くなる。

「いえ、私と華夜は屋上で食べるので……それに小山さんはあちらの3人とご予約があるのでは?」

 指差す先には正木さんたち3人。3人もこちらをじっと見ている。

「ええ、でも皆で一緒にというのも……」

「私は遠慮しておきます」

 何故か、少し厳しささえ感じる言葉に私は二の句が継げなくなり、その様子を見て少し園村さんの表情が緩やかになった。

「ああ、別に小山さんと一緒に食事を摂るのが嫌、というわけではありませんよ。ただ、小山さんほど色んな人間と仲良くするつもりがない、ということです」

「……」

 これも男女の感覚の違いなのか、それともただ個人個人の考えなのかは分からないけれど、山椒よりもぴりりとした声に私は少しだけ戸惑いを覚えた。

「準」

 工藤さんがいつものジト目で、少し上目遣いにこちらを見る。

「気にしないで良い。千華留は変わってるから」

「ちょっと華夜。私は貴女には言われたくないのだけれど」

「だから大丈夫」

 完全に園村さんの言うことをスルーして、工藤さんは静かに言葉を紡ぐ。

「……ふふっ、そうね、ありがとう」

「小山さんまで!」

 さっきまでの頑として拒絶を示す表情を私に向けていた園村さんは、今までのクールなイメージとは裏腹に少しふくれっ面になった。本当に腹を立てている訳ではなく、からかわれて少し拗ねた子供のような表情だったから、私の心の少しだけささくれだった部分が緩やかに元に戻った。

 うん、誰もが仲良くするなんていうのは難しいってことだけは良く分かった。少なくとも、今は。

「あら……華夜。前が空いたから、先に進みましょう」

「うん」

 園村さんと工藤さんはサンドイッチを頼んだようで、お金を募金箱みたいに置いてある箱の中に入れる。ああ、支払いはここで済ませるんだ。別にレジがあるのかと思ったけれど、確かに部屋を見渡してもそれらしいものは見当たらないし。

「それではまた」

「ばいばい」

 受け取ったサンドイッチの箱を持って、軽く頭を下げる園村さんと小さく手を振る工藤さんに私も頭を下げ、カフェテリアメニューを見る。

 私立だからなのか、結構な選択肢があってちょっと悩む。前の学校はお母さんがお弁当を作ってくれていたから悩むことも無かったし、そもそも勉強の合間にただお腹を満たせれば良かっただけだからあまり学校での食事についてはこだわりはなかった。

 とはいえ、私だって一般的な男子生徒、そう、男子生徒。

 だから、休日とかにはたまにカツ丼とかラーメンとかを食べたりはしていたし、もちろん嫌いなわけでは無い。むしろ好き。だからこそ、せっかくカフェテリアでラインナップされているから頼みたくなるのだけど、女の子としてはどうなんだろう。選択肢があるのだから頼む人も居ないわけではないと思うのだけど、軽くテーブルを見る限りは食べている人は見当たらない。

 うーん、と小さく唸っていると。

「早くしてくださらないかしら」

 後ろから聞き覚えのある冷ややかな声。

 振り返ると見覚えのある険のある表情の眼鏡ちゃん……いや眼鏡さん。彼女を天敵に持つ女の子が多いことを最近知ったけれど、その少女はただでさえツリ目気味なのに眼鏡の奥の目を更に上げて私を睨んでいる。

「ご、ごめんなさい、太田さん」

「私以外に誰も並んでいないからまだ良いですが、注文するものは並んでいる間に決めておくのがマナーでしょう」

「そうですね……すみません」

 簡単に選べない理由が……なんてことは太田さんには関係ないだろうし、何より言い訳したら打てば響く太田さんに何を言われるか。

「ちなみに、クラブハウスサンドがここの名物です」

「……え?」

「ですから、クラブハウスサンドです。何を食べるか悩んでいるのでしょう? 悩んでいるのであれば、クラブハウスサンドを試してみれば良いと思っただけです」

 ぷいっ、と顔を背ける太田さん。

 ああ、そうか。別に太田さんも好きで怒っているわけではないし、ちょっと不器用なんだろうと思う。うん、そう思おう。

「なるほど……すみません、クラブハウスサンドをお願いします」

 注文すると、さっきの2人が受け取ったサンドイッチの箱より1回りくらい大きく、透明な蓋の中には結構大きいサンドイッチが2つ入っているのが見える。

「益田さん監修なんですよ、そのサンドイッチ」

「……え、あの菖蒲園寮長の?」

「ええ。あの方、料理は得意ですし」

「えっ、まさか」

 あのガサツにしか見えない益田さんが料理上手?

「まさかって、寮の食事は誰が作っていると思っているのですか」

 はあ、と溜息を吐いて太田さんは続ける。

「まあ、あの普段の言動と姿からするとそう思われても仕方がないとは思いますが」

 今の口ぶりは太田さんも最初は驚いたってことだろう。

 確かに寮の食事は美味しい方だと思うけれど、食事を作るのはまた別の人が居るんだと思っていた。いや、まだ半信半疑で、影武者的な存在が居るのではと思っていたりするので、その疑問については追って事実確認をしなければならないと思う。続報に乞うご期待!

「ありがとうございました、太田さん」

「次、列に並ぶときには先に注文するものを決めてから並びなさいな」

「はい、分かりました」

 太田さんに軽く頭を下げて、私はようやく机に戻ってきたら、既に我慢できなかったらしい岩崎さんと片淵さんはせっせと箸を動かしていた。『待っているから』とは何だったのか。

 ……ああ、正木さんはまだお弁当の包みを開けてもいないところからして「(正木さんが)待ってるから」だったのかな。

「ほはえりー」

「真帆、ちゃんと飲み込んでから……」

 何というか、段々正木さんと岩崎さんはお母さんと子供みたいに見えてきた。片淵さんは岩崎さんのお姉ちゃんといったところかな。それも悪ノリを一緒にするタイプの。

「遅かったねー」

 もぎゅん! とサンドイッチを飲み込んだ片淵さんに私は苦笑する。

「何を食べるか悩んでいたら結構時間が掛かってしまって」

「で、買ってきたのがクラブハウスサンドかー。にゃるほど、確かにアリかも」

 片淵さんがサンドイッチを齧ってから親指をびっ、と立てる。

「早く食べないと休み時間終わっちゃうよ」

「そうでした……ああ、正木さん、お待たせしました」

「いえいえ、大丈夫です。では、いただきます」

「いただきます」

 一口サンドイッチを頬張ると、少し甘めのマヨネーズソースにほんのりと主張している粒マスタードが――

「そういや、小山さんってうちの学校の七不思議については知っているんだっけ?」

 慣れない食レポもどきを脳内で開催していたら、既に八割方弁当の中身を胃に収めた岩崎さんが尋ねてくる。うん、やっぱり私にそういうレポートは無理!

「七不思議ですか。今日、坂本先生に幾つか教えてもらいました」

「坂本先生って誰?」

「えっ」

 かなり素で返されたので、私は岩崎さんの言葉に自分が名前を間違えているのかと慌てて脳内本棚の人名リストのページを捲ったけれど、見つけたページにはでかでかと『坂本先生』と書かれていたので、未だ名前から思い当たる顔が無い様子の岩崎さんと互いに顔を見合わせて首を傾げた。どっちが間違ってるのかな?

「保健の先生だよ、真帆」

「そーそー、保健の眼鏡の先生だねー」

「あー、保健の先生ってそんな名前だっけ? 保健の先生でしか覚えてないや」

 ははは、と大笑いする岩崎さん。良かった、名前間違えていなくて。

「で、その七不思議なんだけど、小山さんは何個知ってる?」

「えっと……3つですね。音楽室から夜中に聞こえる美少女の声とトイレだけじゃない花子さんと美少女好きの吸血鬼は教えてもらいました」

「アタシ、トイレだけじゃない花子さんっていう語感が何か好きだなー」

 既にサンドイッチを食べ終わって、箱をいじくり倒している片淵さんが言う。

「そこまで知ってるんだ。でさ、その中の美少女好き吸血鬼の話なんだけどさ……また昨日現れたらしいよ」

「昨日?」

「うん、昨日。さっき友達に聞いたんだけどさ。何か友達の友達が狙われたんだってさ。怖いよね、コレ」

「確かに……怖いですね」

「でも、吸血鬼って想像上の生き物だから本当に吸血鬼ってことはないんだろうけど、年に何回かは起こってるらしいから怖いよね」

「そんなに頻繁なんですか」

「そうそう」

 実在する人物にドラキュラのモチーフになった人が居たって話は聞いたことがあるけれど、流石にその人が今も生き残っているとかそういう話は無いと思いたい。むしろそんなことがあった方がよっぽど吸血鬼なんかよりも怖いし。

「それと、何故かうちの学校に現れる吸血鬼って日が上がっている時間帯も多いんだよね」

「そうなんですか?」

「そうらしいねー。しっかし、女ばっかり狙うってのも変な話だよねー、ってここは女子校だから仕方ないけどさー」

「えー、でも吸血鬼って女の子襲ってばっかりなイメージない? 超イケメンで」

「あーどうだろ。でも確かに漫画とかで出てくる吸血鬼ってイケメンなイメージあるかなー」

 岩崎さんと片淵さんの話は徐々に吸血鬼の姿に関する想像の話になっていくけれど、私は実際のドラキュラという存在について思考を巡らせていた。

 1番有名だと思われる吸血鬼のドラキュラは日が出ている間はお城にある棺に入っていて、日が落ちたら吸血のため飛び立つという存在だったはず。想像通りのドラキュラなら少なくとも日が昇っている間は行動出来ないか、行動を制限されると考えて良いはず。ということは一般的なイメージのあるドラキュラではない?

 吸血鬼ではないとしたら何が起こっているんだろう。吸血鬼じゃなくて、吸血コウモリとかなら居てもおかしくないかも。でも、昼間に吸血コウモリと言っても――

「あの……」

 おずおずと、正木さんの声が聞こえて、私は1度思考を停止してから周囲を見る。まだ岩崎さんと片淵さんは話に夢中だったけれど、正木さんが私を見ていた。

「私ですか?」

「はい。あの……小山さんって、あの、こんなこと言って良いのか分からないですが、考え込むと他の事が手に付かなくなるタイプですか?」

「え? あ、えっと、そうでしょうか?」

「さっきからずっと考え込むようにして、手が止まっていたので……」

「あ」

 確かにせっかく買ったクラブハウスサンドもまだ1つ目すら食べ終わっていない。

「お昼の時間もうすぐ終わってしまうので、早く食べてしまわないと……」

「しまった、ホントですね。すみません、ありがとうございます」

「いえ。……それで、あの、気になっていたことはさっきの吸血鬼の話題ですか?」

「はい、そうです」

 私は答えてから、クラブハウスサンドを口に運ぶ。美味しいけど、細かい味の表現をしている暇はあまり無いから、さっさと胃に押し込む作業を集中する。

「不思議ですよね。一時期話題になって警察の人も来られたことはあるんですが、被害にあった女の子は全員気絶してしまった前後の記憶が無いみたいで……。周りに誰も居ないときにしか起こらないこと、吸血鬼とは言うものの吸血された跡とかは残っていないこと、被害に遭うのが女の子ばかりだから単なる貧血ではないかと言われてしまったそうです」

 そこで言葉を切ってから、正木さんも残っていたカットフルーツを口に運ぶ。

「貧血ですか……確かにそう言われてしまうとその可能性も無いとは言えないですね」

「はい。決まったタイミングでもなく、突然起こったりするらしいので、警察の人もどうしようもないみたいです。自衛手段として校舎内で1人で歩かないようにしてくださいと全校集会で言われたこともありましたが、まだたまに起こったりしてますね」

「ふーむ……おっといけない」

 正木さんに指摘された、考えこむと手が止まる病がまた発症しそうだったので、慌ててクラブハウスサンドをもぐもぐしてから私は尋ねる。

「でも、何で皆さん、吸血鬼だって言うんでしょうか? 吸血された跡も無いのであれば、本当に貧血なのかもしれないですよね」

「んーと」正木さんは人差し指を口元に当てたまま考え込み、そのまま苦笑いで首を傾げた。「……そういえば何ででしょうね?」

 疑問が払拭出来ないまま、正木さんと首を傾げていたらチャイムが鳴った。

「あ、時間……」

「5分前の予鈴ですからまだ大丈夫ですよ」

 確かに一部の生徒がようやく席を立ち上がり、ぞろぞろと連れ立ってカフェテリアを出て行く時間のようで、まだお喋りに興じているグループもある。かと言って、他の3人をあまり待たせるわけにもいかないから、慌て過ぎないように慌ててサンドイッチを咀嚼し、飲み込む。

「ごちそうさまでした」

「んじゃあ教室戻ろっかー。あ、ゴミ箱あっちにあるから捨ててきてあげるよん」

 片淵さんが立ち上がり、私の方に手を差し出す。

「あ、ありがとうございます」

「いやいやー、構わないよー」

 私は3人と教室に戻って、教科書の準備をしていたらすぐに本鈴が鳴って授業が始まって、私は授業に集中し始めたお陰で吸血鬼の話についてはすぐに意識から転がって逃げていった。

 チャイムが鳴って放課後。

「んあー、ようやく終わったー!」

 帰りのホームルームが終わるや否や、岩崎さんが鞄を持って私の机のところまで来て、伸び伸びしながら第一声。もちろん、片淵さんも一緒。

「朝言ったみたいに午後5時! 校門前! おっけー?」

 岩崎さんが人差し指と親指で丸を作るから、私も倣って作る。

「おっけー、です」

「よし、じゃあ先帰っとくから! 早くあのちびっ子との話切り上げてよね!」

「準にゃんばいばーい」

「それではまた後で」

「はい、また後で」

 3人を見送り、私も地下室に向かおうとしてからはたと気づく。

 そういえばみゃーちゃん、私を部屋に呼ぶときには渡部さん経由で、とか言っていたような気がする。

 でも渡部さん、特に今日接触してくることは無かったし、既に姿も見えない。昨日の場合は、みゃーちゃん本人が直接私に言ったから特別、ということなのかな?

 また部屋まで行ったは良いけれど、鍵が開いていなくて入れないっていうこともありうるから、せめて渡部さんが捕まれば良いんだけど……まあ、とりあえず部屋に行ってみようかな。

 帰路に就く生徒に混じってスロープを降り、1階へ。そこから他の生徒達とは別行動で、階段を降りてあの薄暗い地下室に向かう。

「さて……」

 扉が開くかどうかだけれど、とりあえずはノックしてみよう。2回はトイレのノックで、親しい人だと3回。面接で普通は4回……面接の手引きにはそんなことが書いてあったような。

 まあ、正直そこまでみゃーちゃんが気にしているとは思わないけれど、もう仲良しだよというアピールのために3回ノックにしてみようかな?

 コンコン、と2回目まではちゃんと目の前に扉が在ったけれど、3回目のノックで目の前の扉が唐突に開いてしまい、私の右手は空振り。そのせいで本来はノックのために振り下ろされた腕は、代わりにその扉を開けた人間の額に振り下ろされることとなった。

 部屋の中にもノックの音がちゃんと聞こえるように、と思って少し強めにノックしていたのも災いして、それなりの強さで振り下ろされた私の裏拳は不幸な少女の額で炸裂し、結構良い音を立てた。

「あいたっ!」

「わ、ご、ごめんなさい、ごめんなさいね」

 私はうずくまった少女に駆け寄って、拳を意図せず振り下ろすことになった額を撫でる。

 暴発した私の拳骨を食らった少女はすぐに立ち上がって、ギロリとややツリ目気味の顔をこちらに向けてから動きが止まった。

「……ん? キミはクラスメイトの小山くんか」

「え?」

 額をさすりながら、少しだけ首を上に向けてこちらを見るのは、後ろ髪はやや短めの髪がぴょんぴょことハネ、前髪は切りそろえられつつやや目に掛かっているクールな少年っぽい子。少し視線を上げるだけで私の視線とぶつかるくらいには身長があるから、何故か着ている研究者風の白衣が似合う。

「ボクもキミと同じクラスだよ。覚えていないか? いや待て、答えなくていい。流石にクラスメイト全員の名前を2日、いや実質1日半で覚えるのは難しいだろうな。そもそも、今日のホームルームでは全員自己紹介した訳でもなかったから分からなくても仕方がない。じゃあ、自己紹介しておこう」

 勝手にペラペラと1人で喋る少年っぽい女の子。……多分、女の子。女子校だからね。普通、男の子が入ってくることはない、はず。先生たちが拳大の穴が空いたビニールプールから漏れる水並の判定で女装男子を大量受け入れをしていたら話は別だけれど。

 はい、今他人の事言える立場じゃないと思った人、手を挙げなさい。その通りです。

「ボクの名前は桜乃華奈香さくのかなか。苗字は"さくらの"と書いて"さくの"と読む。後は難しい方の華に奈良の奈、香るで華奈香だ」

「あ、ああ、はい、どうもありがとう、ございます。桜乃、かのk……華奈香さん」

 立て板に水という言葉があるけれど、すらすらと論文発表でもするような、特に抑揚もなく事実だけを淡々と述べている感じはまさにその言葉の通りだと思った。そのせいかもしれないけれど、しばらく頭の中で繰り返し言い直さないと苗字も名前も一瞬で脳内から霧散しそうだったから、確認の意味も込めてフルネームを声に出した。

 後、本当に女の子だよね? ボクって言ってるけど……本当に女の子何だよね? いや、何処を見てそう思ったかとは言わないけれど。

「ああ。ちなみにボクはキミの名前をちゃんと覚えているよ。小山準くん、二見台高校から来たんだったね」

「はい、宜しくお願いします」

「そういえば、美夜子が――」

「美夜子ではなくみゃーだと言ってるにゃ。というよりも人の部屋の前で何やってるにゃ」

 部屋の奥からぬっ、と出てきたのは部屋の主である猫耳少女、みゃーちゃんだった。相変わらず皆にみゃーと呼ばせることを強制しているみたい。余程自分の名前が嫌いなのかな。

「というか準、別に呼んでないんだから勝手に来るんじゃないにゃ」

「いや、昨日自分で呼んでたでしょう?」

「…………?」

 表情は冗談めかしてでもなんでも無く、真面目に腕組みして考え込む。あ、これ完全に忘れてる。

「いいものくれる、って言っていたでしょう?」

「…………あー、ああ、そういえば言っていたかもしれないにゃ」

「いいもの? ああ、さっきのアレかい? ふふふ……なるほど。いや、アレの使用者が誰なのか気になっていたのだが、なるほどキミか」ニヤリ、と桜乃さんが不敵に笑う。「確かに……ふーむ、気になるかもしれないが、そういうものに頼っていてはいかんな」

「そういう自分だって、男か女か分からないような体格にゃ」

「う、うるさい! ボクはまだ発展途上なんだ! そもそも、ちんちくりんなキミには言われたくないね!」

 頬を赤らめて、今までの様子からは珍しく研究者風少年っぽい少女はムキになって言い返す。

「みゃーの方がよっぽど成長過程だから成長の余地があるにゃ。とにかく華奈香は話終わったんだからさっさと帰れにゃぁ」

「ふん、分かっているさ。だけど、さっきのあの話はちゃんと気をつけておいてくれよ」

「カメラは確認しておくから心配するにゃ。まあ、校庭のど真ん中とか、カメラで撮影できない範囲だったらどうしようもないけどにゃ」

「そこは仕方がないと思っている。とにかく何かあれば連絡を。じゃあ、小山くん、また明日」

「え、あ、はい、また明日」

 2人の話が大きな錠剤のように一切飲み込めない状態で去っていく桜乃さんを見送りながら、私は視線を猫耳少女に移す。

「それで、えっと、いいものって何?」

「こっちに来るにゃ」

 ずんずんと奥に歩いて行くみゃーちゃんを後ろから見ていると、足元の機械をぴょんぴょんと器用に避けながら――

「あうっ」

 ――全然器用ではなかった。飛び越えた気になったみゃーちゃんは爪先を引っ掛け、ゴッ! という音と共に機械の海に沈んだ。まあ、そんな気はしたけれど。

「大丈夫?」

「ふ、ふんっ、大丈夫にゃ……」

 鼻先、おでこの順に擦りながら、みゃーちゃんは分割監視カメラ画面の前に置かれている机の傍に立つ。

「準にこれをやるにゃ」

「ん?」

 相変わらず暗い部屋だから、手元があまり良く見えないけれど、手渡されたものは2つ。1つはハンドクリームみたいな円柱状の容器。そしてもう1つは少しだけひんやりとしたむにむにと柔らかい団子みたいな何か。例えるならば人肌みたいな柔らかさ。もちもちしているというか。これは――

「水まんじゅう?」

「食いしん坊にゃ」

「いや、だって暗くて良く分からないのだけど……」

「はぁ……全く面倒にゃぁ」

 溜息を全力で吐き出しながら言って、みゃーちゃんはまた足元の機械を避けつつ、

「こっちに来いにゃ」

 昨日、みゃーちゃんを起こしに行ったベッドのある部屋に入っていった。私も慌ててそれを追いかける。入り口と同様、こちらも自動ドアのようだから、急いで付いていかないと締め出しを食らうかもしれないし。

 私は手元に何かむにょむにょしたものを持ちながら、みゃーちゃんの寝室と思われる部屋に入る。

「全く、本来こっちの部屋はみゃーとノワール以外入れないようにしているのににゃぁ」

「そうなの?」

「そうにゃ。でも、もう準には1度入られたから今更にゃ。どうでもいいにゃ」

 ふんす、とみゃーちゃんは明後日の方を見ながら鼻息を荒くしているけれど、本気で嫌がっているとか腹を立てているというよりは、単純にちょっと拗ねているだけの様子だった。だから頭を撫でてあげようと近づいたら、即座に私の行動を察知したか、

「撫でさせてやらないにゃ!」

 みゃーちゃんは私を一瞥してからぴょいーん、と飛び退ってベッドの上に退避する。うーん、まだ距離があるなあ。もっと仲良くなりたいのだけど。

 ……そういえば、仲良くなるといえば。

「そういえば、みゃーちゃんは何か好きなお菓子とかあるの?」

「お菓子? ふん、別に無いにゃ」

「咲野先生がお菓子でみゃーちゃんを釣ったって言ってたから、何が好きなのかなって」

「釣られてないにゃ。単純に必要がない内容は報告していないだけにゃ。理事長からカメラの映像を見せろと言われたときは全部見せてるにゃ」

「そうなんだ」

 咲野先生、手球に取られてたのね。まあ、みゃーちゃんがそんな殊勝な子だとは思っていなかったけれど。

 ……いや、殊勝とか言ってみたけれど、そもそも咲野先生が勝手にトイレの窓を開けっ放しにして侵入したりするし、明らかに咲野先生の方が悪いよね。

「でも、どうしても持ってきたいというなら、いちご大福なら食べてやるにゃ」

「……」

「…………な、なんにゃ」

「んーん、別に」

 うん、やっぱり子供で良かった、とちょっとだけ素直に思った。

「それよりもさっさとそれをけるにゃ」

「着ける?」

 手元にある謎の物体は、明るい部屋に入ってきて肌色だということが分かった。でも、肝心の"何なのか"ということは手元で団子状になったままなので良く分からない。やっぱり茶色の水まんじゅう?

「何なのかな、これ?」

「準専用女の子変身キットにゃ」

「おん……えっと、何て?」

「だから、女の子変身キットにゃ」

「…………?????」

 久しぶりに脳内が疑問符の大量受注を受けて、しばし休眠中だった疑問符生産工場がフル稼働を始めたくらいに疑問符まみれになってしまった。疑問符生産部長さんが「もう作れませぇぇぇぇぇん!」って叫んでるくらい。

 女の子変身キット? ナニソレイミワカラナイデスヨ。

「貸してみるにゃ」

 みゃーちゃんは私から謎の柔らかい物体を受け取って説明してくれた。

「まず服を脱ぐにゃ、言っとくけど別に準の裸が見たい訳じゃないにゃ」

「む」

 突っ込もうと思った内容を間髪入れずに先回りしてみゃーちゃんが続けた。流石にワンパターン過ぎたかな?

 仕方がないから素直に上を脱ぐと、すぐ右胸に少しまだひんやりしたさっきの肌色水まんじゅうみたいなものが押し付けられた。

「ひゃん!」

「変な声出すにゃ。……こうやって、丸いのは胸に付けるにゃ」

「胸に?」

「そうにゃ。まあ、つまり胸パッドにゃ」

「胸パッド? …………ああ、なるほど」

 胸元に視線を落とすと、なるほど確かに底上げされている。女の子変身キットという言葉の意味がようやく掴めてきた。

「ようやく分かったかにゃ」

「うん」

「この胸パッドは内側にこっちのクリームを付けて、肌に貼り付けてやれば水に濡れても引っ張っても簡単には剥がれない優れものにゃ。通気性は若干難ありだから、ちょっとだけ蒸れるかもしれないにゃ」

 みゃーちゃんは1度私の胸に当てたパッドを外すと、その内側に円柱状の容器を開けて中からパッドとほぼ同じ肌色のクリームを取り出して十分塗って、再度私の胸に当てた。なんとか声を我慢しながら自分の胸元を見ると、右胸だけ控えめな女性くらいのサイズになっていた。

「後は継ぎ目の部分にも十分クリームを塗ってしばらくすれば、ほとんど分からないはずにゃ」

 更にクリームを取り出して、みゃーちゃんが私の右胸に貼ったパッドの隙間をクリームでしっかりと埋めていくと、確かにほとんど私の肌の境目と差が分からなくなった。

「凄いね、これ」

「当たり前にゃ。取り外すときは少し熱い40度くらいのお湯にしばらく漬けておけば剥がせるようになるにゃ。まあつまり、毎日お風呂に入ったら勝手に外れるにゃ。だからお風呂から上がったら、ちゃんとクリームを持って行って、脱衣所で貼り直してから戻るにゃ」

 他の女の子と一緒にお風呂に入っているタイミングで外れたら困るけれど、そもそも他の女の子と一緒に入っている時点である意味で人生終了だろうから、問題ないということかな。いや、人生終了という最大の問題はあるけどね!

「カメラで撮った写真から色調整しただけの割には、ほとんど準の肌と合ってて良かったにゃ。まあ、あのカメラも特別製だけどにゃあ。あ、もし海とかプールで毎日日焼けしてもパッド部分は色が変わらないから、そこだけは注意するにゃ。どうしても必要なら変化後に色替えするクリームも準備するけどにゃ」

「凄いね、パッドとかクリームとか……1人で作ったの?」

「いくらみゃーでも1人では作れないにゃ。さっき来てた桜乃の母親がこういうのを作る技術者だから、そこに発注して作ってもらったにゃ」

 ティッシュで手に付いたクリームを拭きながら、みゃーちゃんは言った。

「桜乃さんの?」

 何というか、彼女自身も化学者っぽかったけれど、お母さんの影響だったのかな。

「というか準の親と同じ会社の人にゃ」

「……へ?」

「人型ロボット用の肌の研究をしている人ってことにゃ。月乃の体も作ってもらってるにゃ」

「人型ロボット用だったんだ、これ」

 言われてみれば、人間に近いロボットを作ろうと思ったら、必然的に人間に似たパーツを作る必要がある。そう考えれば、今回みたいな胸パッドを作る技術者が居るというのも不思議ではないかな。

「もう1個は左胸用にゃ。まあ、どっちがどっちでも変わらないけどにゃ」

 言ってみゃーちゃんが渡すものを、あまり凝視せずに受け取る。

 何故凝視しないのかというのは簡単な話で、この胸パッドはご丁寧に膨らみに桃色のぽちっと飛び出した本物っぽい先端が付いているから。細部まで作りこんであるみたいだから妙にリアルに見えて、気恥ずかしさが湧き上がる。ま、まあそれくらいしないと簡単にパッドだってバレちゃうのかもしれないけれど。

「胸パッドは控えめサイズにしておいたから、今更着けてもサイズに違和感は無いと思うにゃ。だから、これを着けたらちゃんとブラもするにゃ」

「ぶ、ブラを?」

「当たり前にゃ。どうせ今の準はしてないにゃ」

「ぐっ」

 図星。

 だ、だって、女の子の服を着せられることはあっても、下着まで着替えたことは無かったから。下だって抵抗はあったのに、着けたこともない上なんて……。

「胸が小さい人でも女だったらちゃんとブラはしているにゃ……多分」

「ほ、本当なの?」

「まあ、少なくともみゃーが知ってる人は全員してるにゃ。みゃーだってちゃんとしてるにゃ」

 無い胸をぐっと張って言うみゃーちゃん。

「……う、うん、やっぱりそうなんだよね」

「まあ、胸パッドとこっちの股間用を着けておけば、そうそう男ってバレないと思うにゃ」

「股間用ね……こっ、股間!?」

 みゃーちゃんの手の上にはまだ肌色パッドが載っているものだから、何だろうとまじまじ見ていたこともあって、みゃーちゃんの言葉に思わず声が裏返った。

「胸パッドと同じで、クリームを塗って股間に取り付けてれば、継ぎ目がほとんど無くなって取れなくなるにゃ。ただし、こっちは穴の位置はちゃんと合わせないと大変なことになるにゃ」

「大変な……ってどういうこと? いや、そもそも股間用って? 穴の位置?」

「簡単な話にゃ。準の付いているものを切り取る訳にはいかないから、股間に取り付けて隠す為のものにゃ」

「な、なるほど……」

「それとも切り取って素直に女として生きるにゃ?」

「切らないからね!?」

 下着みたいな形の股間用パッドを広げて私に見せる。

「トイレも行けるように、ちゃんと前と後ろに穴が2つ開いてるにゃ。こっちの穴が大きい方が前で、こっちが後ろにゃ。ちゃんと前と後ろを良く確認して、下着みたいに履くにゃ。前後の穴の位置を確認してから取り付けないと、トイレに入ったときに大変なことになるから気を付けるにゃ」

「……」

 確かにみゃーちゃんが広げる柔らかい下着型肌色パッドは足を入れる大きな穴以外に、前後2つの穴が開いている。それをちゃんと見……ようと思っていたけれど、視線がすすすっと横滑りする。

「っていうかちゃんと見るにゃ。どうせ作り物にゃ」

「い、いや、分かっているんだけどね」

 作り物と分かっていても、女性の下半身を模倣したそれをじっくり見る勇気は無い。

「これからは毎日これを着けて生活するんだから、早く慣れておくにゃ」

「え、ええー? 毎日?」

「男だってバレて牢屋の中で生活する方が良いかにゃ?」

「良くは無いけど……うー」

「うーうー言ってる場合じゃないにゃ」

 分かってる、分かってるんだけどね?

 理解は出来るけれど、納得出来ないことってあるでしょう?

「とにかく、部屋の端っこでパッドを着けて違和感がないか確認するにゃ」

「う、うう……」

 私は半泣きになりながら、まだ取り付けてない方の胸パッドと股間パッドを受け取って、緩慢な動きで部屋の端に移動する。

「……あの、カーテンとかは無いの?」

「無いにゃ。というか準の裸なんかに興味無いにゃ。だからさっさと着替えるにゃ」

「……分かった」

 もう覚悟を決めるしか無い。決めるしかない……んだけど……。

「……うー……」

 壁の方を向いて、もう片方の胸パッドに肌色のクリームを塗って貼り付け、僅かな隙間を指でなぞって埋める。ひんやりしたクリームが少し気持ち良い……って変に癖になりそうで怖い。

 股間のパッドを取り付けるため、スカートと下着を脱いでから、スカートを脱ぐ必要が無いことに気づいて履き直した。スカートに慣れていないと、ついつい下着を脱ぐためにスカートまで脱いでしまうのは女装あるあるかもしれないと思ったけれど、その情報を共有出来る相手が居ないから良く分からない。そして、そんな情報を共有出来る人を増やしたいとは全く全然少しも思わない。別にそういう趣味があるわけじゃないからね!

 股間用のパッドにクリームを塗っているのだけれど、内側に満遍なく塗ろうとすると結構大量消費することになる。これ、毎日塗り替えていてクリーム足りるのかな?

 きっとこの股間用パッドも細部まで精巧に作られているのだろうけれど、その出来を確認しないで履く。パッドを履くという表現が妙だとは思う気持ちはあっても、下着型になっているから仕方がないと思う。そういう意味ではパッドという表現が間違っているのかも?

 見ないようにするとは言いながらも、前後はちゃんと確認しなければいけないらしいから、さっきみゃーちゃんが教えてくれた通り、薄目を開けて確認しながら取り付けようとするけれど。

「あ、あれ……えっと、ここにこうして……あれ、入らない」

「大丈夫にゃ?」

「だ、大丈夫だから!」

 恥ずかしさから、思わず私は力んで答える。

「クリームは塗ったらすぐにくっつく訳じゃないにゃ。完全にくっつくには1分くらい掛かるから、焦らずフィットさせるにゃ」

「う、うん」

 しばらく試行錯誤してようやく収まりの良い状態になったときには、パッドに塗りたくったひんやり肌色クリームが体のあちこちに付着していた。とは言っても、見事に自分の肌と同化しているから、薄く伸ばしてしまえば傍から見ても分からない。

「ちゃんと取り付けられたにゃ?」

「うん、何とか。ちょっとだけ……キツイかな」

「何がキツイにゃ?」

「何でもないからね!」

 制服を着直すと、ニヤニヤと子供らしいいたずらっぽい顔がこちらを向いていた。

「実はこっそり準の着替えシーンを録画していたにゃ」

「えええっ!?」

「……と言ったらどうするにゃ」

「やめてね、本気でみゃーちゃんならやりかねないと思うし」

「みゃーを何だと思っているにゃ」

「んー……」

 今年1番額に皺が出来るくらいに私は思案してから言った。

「素直になれないけれど、誰かに構って欲しくて、でも自分から構ってとは言えないから、目の前で嫌がらせみたいに壁を引っ掻いたりして気を引く子猫?」

「長いにゃ! それにみゃーはそんな回りくどいことしないにゃ!」

「ホントかな?」

 私は苦笑しながら言葉を続ける。

「とりあえず、手を拭きたいからティッシュ貰うね」

 手に残ったクリームをティッシュで拭いていると、ベッドの端に座っていたみゃーちゃんが座っていたベッドからぴょんと飛び降りた。

「ちゃんと全部着けれたか見てやるにゃ」

「え、ええっと……遠慮しとくよ」

「何恥ずかしがってるにゃ。本当の裸を見られてる訳じゃないんだにゃ。ある意味コスプレみたいなもんにゃ」

「こんな恥ずかしいコスプレとか無いからね!?」

「いいから隠さずにちゃんとこっち向くにゃ」

「ううう……」

 僕は一体……いや、私は一体何をやっているんだろう。

「……ん、オッケーにゃ」

 裸をくまなく見られる気恥ずかしさで多分顔は真っ赤だったと思うけれど、とりあえずみゃーちゃんチェックはOKだったので一安心。

 服にも少し付いたクリームをティッシュで拭きながら机の上の時計を見ると、既に4時をもうすぐ越えようという時間だった。

「あ、そろそろ寮に戻らないと……」

「見た目が女の子になったから、銭湯が閉まる前に女風呂に入るつもりにゃ?」

「入らないから! っていうかお風呂入るとパッド取れるから気をつけろって自分で言ってたのに」

「ずっと水風呂に入るだけならバレないにゃ」

「いや、それはちょっと……」

 というかずっと水風呂なんて、いくら何でも寒くて風邪引いちゃうし。

 ……い、いや、そもそも女風呂に入る気も無いけどね!?

「他には何かある?」

「ふん、これだけにゃ。終わったら――」

「さっさと出て行け、でしょう?」

「そうにゃ」

 ベッドの端に座ったみゃーちゃんは私をじろりと見る。いつものことだから、私も私で鞄を持ってさっさと出て行く。

「あ、次回はちゃんと月乃ちゃんに言って、私を呼んでね」

「分かったからさっさと行くにゃ」

 べーっ、とあっかんべーするみゃーちゃんに軽く手を振りながら、私は苦笑いしながら部屋を出る。

「間に合うかな」

 階段を駆け上がり、靴に履き替えて寮までの道を走る。5時に校門前となると、1度戻って鞄を置いて着替えてから校門へ向かわなければならない。時間がかなりギリギリになっちゃうかな。

 生徒はほとんど帰っているようで、部活をしている生徒の声がグラウンドの方からしている以外に人の居る気配は無かった。

 寮までの道は距離はあっても坂道が少ないから割と走りやすい。とはいえ距離が距離だから、結構時間は掛かってしまうけれど。

 運動靴を履いているから今日は良いけれど、登校時に周りの子の靴を見ているとほとんどがローファーだった。多分、制服と同じで学校指定のものがあるはずだから、今後はちゃんとローファーとか履かないといけないかな。正木さんとかなら何処に売っているか知っているかも。

 寮に戻って鞄を机の上に置き、制服をハンガーに掛けてから服を探すところで手を止め、傍にあった背丈くらいの鏡に近づく。

「そういえば……」

 パッド姿がどんな感じなのかはやっぱり気になってしまう。みゃーちゃんに下着を着けろと言われたし、下着と同じ色のブ、ブラも着けておこう。

 というか『ブラ』と言葉に出すにもかなりの抵抗がある。でも、これからの生活ではその言葉に抵抗を感じてはいけないと思うから、慣れるためにも誰も居ない今から練習しておこう……!

「おおう、意外とそれっぽい」

 姿見の中に見える下着1枚の私は、自分自身でも少しだけ女を感じてしまう気がした。少しだけ、少しだけだよ!

 ふにふに、と何気なく胸パッドを触ってみると自分の肌とさほど変わらない感じはある。うーん、でもやっぱり作り物の方が少し硬い? じっくり触ったらやっぱりパッドだってバレるのかな?

 って、そんなにゆっくりしている時間が無いんだった。

「……うわ」

 改めて下着が入っている引き出しを開けると、カラフルな布地に目がチカチカしてしまう。め、目が痛い……!

 でも、躊躇っていてはいけない! 時間的にも、これからの生活的にも!

 下に履いているパンツと同じ色のブラを掴んで取り出して、腕を通してみる。

「あれ? て、手が……」

 ホックを止めようと背中に手を伸ばすけれど、指先が届かない。届きそうで届かないのが尚の事もどかしい。

 皆はこれ、どうやって1人で着けるんだろう。毎日、誰かに背中のホックを繋げてもらうわけでもないだろうし。うーん?

 悪戦苦闘していると、何とかたまたまホックが背中で掛かってくれた。でも――

「うわ、これはちょっと失敗かな」

 ちょっとばかりサイズが大きかったようで、パッドとブラの黒い隙間から作り物の小さな桃色が覗いているのが見える。ブラの先端を押し付けてみても、隙間がぱかぱかと開いたり閉じたりするだけで一切フィット感は無い。

「うーん、着替えるかな……って時間無いんだった!」

 腕時計の示している文字盤は、今から走っても間に合うかどうかギリギリのラインになっていた。合ったサイズのブラを探すのは難しくないかもしれないけれど、ホックを留めるのにまた時間が掛かるだろうから、もう他のブラを探している暇はない!

 Tシャツと水色のワンピースを引っ張りだし、財布と携帯電話だけズボンのポケットに入れて部屋を飛び出して、鍵を掛けるところで数秒だけ思い留まる。

「忘れ物、無いよね?」

 自分自身、慌てると忘れ物をするタイプだから少しだけ自問自答タイム。この前も在学証明書を家に忘れていたし。

 財布と鍵と携帯は必須。鞄を持ち歩くほど色々持ってないから、いつも通りポケットに入れておけば問題なしで、後は……さっき貰ったパッド用のクリームは別に良いよね、塗ったばかりだし。あ、お金下ろしてなかったけど、どれくらい入っていたかな。集合場所に着いたら中身見てみないと。

「よし、大丈夫」

 チェック完了で、鍵を閉める。

「……っとっと」

 廊下をダンダン高らかに音を立てつつ走りそうになって、太田さん娘の怒り顔を思い出してから足音を潜める。とはいえ、上がってくるときにバタバタしてても何も言われなかったから、まだ帰ってきていないのか、気づいていないのかもしれないけれど。

 足音を出来るだけ殺しながら階段を降りると、階下にふらふら歩いている黒髪がもふもふなクラスメイトが見えた。

「工藤さん」

「……準、どうしたの」

 お昼よりも更に幾分かはっきりと喋る工藤さんは、それでもやや腫れぼったい目でこちらを見ている。そんな上目の工藤さんは長袖だけれど、かなり谷間が強調された薄いTシャツを着ていて、頭ではいけないと思いながらも、その膨らみの隙間に視線が移ってしまう。

「…………」

「?」

「な、何でもない、です」

 何故だろう。

 男性的なドキドキする本能よりも、何故かさっきの自分の胸元に当てていたブラの隙間と比較して、工藤さんに謎の敗北感を感じてしまった。本当の自分の体ではないのにそう感じてしまうのだから、女性って大変なんだなあ。

 …………?

 いや、大丈夫だよね?

 私、どんどん女の子として意識まで変わってきてないよね? まだ2日目にして、もう精神的に戻れないところまで来てるとか無いよね!?

「何処かに、行くの?」

 性別という漢字2文字について本気で悩まなければならない、と頭を抱えそうになったところを、工藤さんのクールな声で現実に引き戻される。ありがとう、工藤さん。

「あ、ええ。これから正木さん達と買い物に。良かったら工藤さんも――」

 言い掛けて、昼のことを思い出した。そうだ、誰彼構わず誘ってはいけないと昼に思い知ったはず、と思いながらも言い掛けてしまったからには最後まで言わなきゃいけないという変な強迫観念か使命感かに駆られて、言葉を続けようとした私を制すような声。

「行かない」

 凛とした声の主は疑いようもなく、目の前の、私より頭1つ分以上小さい女子から聞こえてきた。

「えっと……」

「あの3人と仲良くないから」

「……ごめんなさい」

 私が謝ると、工藤さんはボリュームのある髪を振りながら否定する仕草を見せる。

「良い。うちのクラスは、あまり皆、仲良くないから」

「そう……なんですね」

 まだ2日目だから良く分からないけれど、前の学校と比べてもそんなに仲が悪いとは思わなかった。

 でも、前の学校は前の学校で、皆勉強ばかりに夢中になっていて、あまり周りと関わりあいを持つ人が少なかったから、ギスギスというよりはピリピリというか、そういうものがあった気がする。そう考えると比較対象が悪いのかもしれない。

「そう。皆、色々あるから」

「色々?」

「色々」

 雪が降らない、冷えきったクリスマスの空みたいにただただ深い黒の瞳と同じような、何の起伏もない声で工藤さんは言う。そのトーンに私はそれ以上、疑問を呈することが出来なくなって首を縦に振った。

「……分かりました」

「でも」

 短く言葉を切って、じっと私を見つめる工藤さん。少し大きめな瞳に意識が吸い込まれそうな気がして、私は少しだけたじろいだ。

「準はそうなっちゃ駄目」

「?」

「準は良い子だから」

 そう言いながら、背伸びをする工藤さんが私の頭を撫でる。他人の頭を撫でることは妹が居たから慣れているけれど、撫でられるのなんて何年ぶり、ううん、もしかすると10年ぶりとかかもしれない。

「あ、ありがとう……ございます」

「それより、時間は大丈夫?」

「あっ、そうだった!」

 時計に視線を向けると、これは本気でダッシュしても間に合うかな? いや、無理じゃないかな? という時間になっていた。ま、まずいかも! まずいよね!

 遅れる場合は先に電話……って電話番号、誰1人として知らないんだった!

 最近流行りのSNSとかもやっていないし、通話アプリとかも入れたこと無いから、連絡手段も無い。完全に詰みです。

 でも、急ぐしかない!

「ごめんなさい、行ってきます!」

「行ってらっしゃい」

 工藤さんに手を振って、私は運動靴のかかとを踏んだまま寮を飛び出した。

「しまったなあ……」

 スカートなんて履いてくるんじゃなかったと今更後悔。上下をいちいち考えなくても良いワンピースを着てみたのだけど、足を上げる度にスカートが捲れて非常に走りづらいし、何よりもはしたない。

 と同時に、走っている最中ずっと胸で自己主張を続けるブラ。本当の自分の胸ではないから痛くはないけれど、気になって気になって仕方がない。もし、これが本当に自分の胸だったら、気になるどころではなく、擦れて痛かったのかも。

 チリン。

 体の上下どちらもに意識を取られながら走っていた私は、視線の先から鈴の音が聞こえて、少しだけ走る速度を緩める。私に向かってくる方向へ、鈴の音と共に走ってくる四本足の生き物が1匹。

「……また猫?」

 成猫と思われる三毛猫が私の横を軽やかな足取りで駆け抜けていった。猫の首には赤色の首輪がしてあり、聞こえた鈴の音はその首輪のものだったみたい。

 昨日もみゃーちゃんが飼っている猫が居たけれど、ここでもまた猫? この学校は猫のパラダイスなのかな?

「ま、待ってーっ!」

 思わず足を止め、走り去っていく三毛猫を目で追っていたら、後ろから聞き覚えのある女の子の声が聞こえてくる。

「正木さん?」

「あ、あっ、小山、さっ、んっ」

 ひらひらのスカートを翻しながら、へとへとの正木さんが倒れこむように私の肩に掴まる。

「大丈夫ですか?」

「え、ええ……ただ、うちの猫が……」

「さっきの三毛猫ですか?」

「そ、そうです! 普段はお家の中で飼っているんですが、ちょっと目を離した隙に逃げられてしまって……」

「あー……」

 実家で昔から猫を飼っているから分かる。基本的に生まれたときから家の中で飼っていれば、特に外に興味を持たないからほとんど脱走しないと聞いたことがあったのだけど、ずっと実家の部屋飼いだった実家の猫はたまに脱走していた。

 で、探しても見つからないからと半ば諦めた頃に息絶えたトカゲやネズミを咥えて戻ってきて、私の目の前に置いたりしていたっけ。小学校の低学年くらいだったから、最初は嫌がらせか何かかと思ったけれど、親愛の証らしいということを聞いてから、とりあえず持ってきてくれたら頭を撫でてあげることにしていた。

 その猫は私が中学の頃に死んでしまったけれど、今はその子供が実家にまだ居る。確か、何処かの家の猫とお見合いして出来た子を引き取ったんだったかな。今うちに居るのは見た目はほとんどアメリカンショートヘアの雑種で、成猫としてはかなり小さいオスの子。前世は犬だったんじゃないかってくらいベタベタに懐いてくれていたけれど、元気にしているかな?

「ううう……、どうしよう……」

 慌てふためく正木さんの様子で現実に引き戻され、ひとまず近くにあったベンチに座らせる。

「ま、まずは座って落ち着きましょう。ほら、猫に限らず、動物は追えば追うほど逃げると言いますし」

「そう、なんですが……」

 正木さんの様子を見ると、あまり脱走慣れ、と言っていいのか分からないけれど、頻繁に脱走するタイプの子ではないみたいで、正木さんは顔面蒼白とまで言わずとも普段白い肌を更に青白くしている。

「おーい、紀子ー!」

「紀子ちーん……おや、準きゅんも居るじゃない」

 岩崎さんと片淵さんがこちらに近づいてくる。待ち合わせ場所から走ってきてくれたのかな。

「突然、紀子が猫を追いかけて学校の中に走っていくから何かと思ったよ。そういや、あれ紀子の家の猫だっけ。あまりあたしには懐いてくれなかったからすっかり忘れてたよ」

「同じくー」

 わっはっは、と2人は笑いながら言うけれど、正木さんはもう気が気でない様子で小刻みに震えだしたから、私はとりあえず手を握る。

「大丈夫ですよ、正木さん。きっとすぐそこに……?」

 言いながら視線を猫ちゃんが走っていった方に向けると、渦中の人物……いや猫物? がこちらから見える場所でごろん、と横たわっている。

「あっ」

 正木さんもどうやらその様子が見えたようで、がばっとベンチから立ち上がって走り出そうとするから、私は慌ててその肩を掴む。

「ちょっと待ってください!」

 慌てて猫を追いかけようとする正木さんの手を引いてストップを掛ける。

「な、何ででででですか小山さん!」

 取り乱した様子の正木さんが噛み噛みモードで私の手を掴み返す。

「追いかけたら逃げられます。それはどんな動物でも同じなので、基本的には追わないようにしないと」

「で、でも……!」

 困惑状態の正木さんに尋ねる。

「あの猫ちゃんが好きなおやつとか持ってますか?」

「い、家に戻れば……多分」

「じゃあ、取ってきてください。猫ちゃんは私が見ておきますから」

「え? あ、は、はい」

「大丈夫です、任せてください」

「……は、はい」

 正木さんは少し困惑した様子を残したまま、それでも校門の方へ走り出した。

「あ、岩崎さん。正木さんに付いていってあげてください。1人だとちょっと心配なので」

「おっけー。何か良く分からないけど、こっちは小山さんと都紀子に任せるよ!」

 走る正木さんを追いかけて、親指をビッと立てた岩崎さんも走り出したのを見て、隣に居た片淵さんが少し真面目な顔をして私に尋ねた。

「ふーむ? ところで準にゃん、これからどうするんだい? 何か妙案があるのかい?」

 私がベンチに座ると、片淵さんはその隣りに座って、三毛猫がごろんとレンガ敷の床に寝転がっているのを眺める。

「実を言うと、何も思いついていないです」

「ということは、どちらかというと紀子を落ち着かせるためとかかねー?」

「ええ、お察しの通り」

「にゃっはっは、まあ良いんじゃないかな。確かに紀子ちんって、ちょっと慌て始めると手が付けられないところがあるしねー」

 とは言うものの、ただ見ているだけではいつ逃げ出すか分からない。せめて、何かしら猫の気を惹くものがあれば、この場に留めることは出来るかもしれないけれど……。実家の猫はどうだったっけ?

「にゃー」

 前に飼っていた子は脱走癖があったけれど、今の子は凄く甘えん坊で、外に出ようとすることすらほとんど無かったかな。

「にゃー」

 あ、でも私が出掛けるときにはたまに付いてこようとして家の外に出たことはあったっけ。脱走する気は無さそうだったけれど。

「にゃーあ」

「もう! 何?」

「準にゃん、何か別の猫が居るよ?」

「えっ?」

 何だかこの学校に入学してから「えっ」ばっかり言っている気がしないでもないけれど、片淵さんの言葉で視線を左右に往復させてから、さっきの三毛猫ちゃんが居た向きと逆、つまり正木さんたちが走っていった方を向くと、凄く甘ったれた鳴き声の猫がとことこ歩いてきていた。

「こっちも迷子さんかな?」

「……」

 紫色の首輪。灰色ベースに黒の縞模様で、尻尾の先が真っ黒になっている鍵尻尾。小さい体。目の前の迷子猫には強烈な見覚えがあった。

「テオ?」

「ん? 準にゃん、どうしたの?」

「あ、いえ、もしかすると……ですが、うちの実家の猫かもしれないと思いまして」

「うそん!? 準ちゃんハウスってここから近いの?」

「いえ、近くはないです。近くはないですが……脱走してきたのかな?」

 試しに名前を呼んでみよう。もしかすると、見た目が似ているだけかもしれない。

「テオ、おいでテオ」

 名付け親は妹。『テオドール』という名前だったけれど、全部呼ぶと長いので皆略して『テオ』と呼んでいた。名前の由来は確か、妹が見ていたアニメのキャラからだったと思う。

「にゃあ、にゃあ」

 名前を呼ばれた猫は更に鳴き声はエスカレートして、アメショの猫は私の足元ですりすりしながら足の周りを回る。ああ、これは間違いなくうちの甘えん坊さんだ。

「テオ、どうしてこんなところに居るの?」

「にゃあ」

 テオを顔の高さまで抱き上げて聞く。もちろん、人間の言葉を喋るわけでもないから、聞いたところで仕方がないのだけれど、動物を飼っていたら誰でも犬とか猫に話し掛けるのは誰でもあると思う。

 ……あるよね?

「本当に準ちゃんの実家の猫ちゃんだったんだねー……っておや?」

 テオに向かって人差し指を振り振り、じゃれてこないかと構ってちゃん状態だった片淵さんは視線を別のところに置いて、不思議そうな声を上げた。

「どうしました?」

「紀子ちんの家の三毛猫ちゃん、こっち来たよ」

 片淵さんの言葉に私も三毛猫ちゃんの方を向くと、私が抱き上げたテオに興味があるのか、それとも自分のテリトリーを荒らされたと思って怒りに来たのかは分からないけれど、確かに三毛猫がこちらに歩いてくるのが見える。

 私の足元まで後数歩といったところで足を止め、明後日の方を向いて座り込む三毛猫ちゃん。尻尾をゆっくりと動かしながら、たまにチラッとこちらを見る様子からして、怒っているとかいうよりは興味無いフリしてこちらに興味津々なんじゃないかなと思う。

「えーっと……」

「にゃっはっは。これは準にゃん、猫にモテモテの予感?」

「この子……テオが気になっているんだと思いますよ」

「いやいやー。実は準にゃんが猫を呼び寄せる匂いでも出してるんじゃないかなあ、にゃんともニャンダフル! なっはっは」

 片淵さんの笑いのツボと三毛猫のチラ見に気を取られていたら、膝の上でゴロゴロ喉を鳴らしていたテオが肩の上に乗り、更に上を目指そうとこめかみの辺りに前足を伸ばしてきた。

「ん? あー、はいはいちょっと待ってね」

 テオにそう言いながら、私はテオを抱き上げて頭の上に乗せる。

「おー? 何、猫かぶり?」

「響きがちょっと……」

「んじゃあ、これが所謂”ず”に乗るっていうやつかな!」

「それは頭ではなく、図画工作の図です」

「あっはっは、そうだったそうだった。まーでも、あたまに乗るなんて変わった猫ちゃんだねえ」

「ええ、まあ良く言われます」

 テオが子猫の頃から妹が私の頭の上にテオを良く乗せ、写真を撮っていたり、その上で猫じゃらしで遊んであげたりしていたら、テオの定位置が私の頭の上になってしまった。未だにたまに甘えたいときにはこうやって頭に乗りたがるから、乗せてあげることにしている。

 普通の成猫よりも一回りくらい小さいから重いながらもまだ頭に乗せられるけれど、これが普通の猫のサイズだったら私の首はとっくの昔に折れていたかも。または折れない代わりに私の首が丸太みたいに太くなっていたかな。

「にゃあ」

 乗ったテオは満足そうに鳴いて尻尾を大きくゆっくりと振り始めた。ん、機嫌良さそう。たまに尻尾が首筋に当たってくすぐったいけれど。

 そんな天上人てんじょうびとならぬ天上猫てんじょうねこになったテオの尻尾に興味を持ったらしく、三色猫ちゃんは私の座っているベンチの横、片淵さんが座っている方向とは逆側の狭い隙間に飛び乗って、視界の中で振り子のように揺れる灰色と黒の尻尾を必死に目で追っていた。

 どうやらテオもテオで三毛猫ちゃんに気づいたようで、自分の尻尾に夢中な下界の猫ちゃんの方を向くと、猫が西向きゃ尾は東、当然の如くテオの尻尾は三毛猫ちゃんの視界から消えることになったのだけど、三毛猫ちゃんは逃げずに私を見上げた。頭の上のテオフェイスを見上げているだけかもしれないし、本当に私を見ているのかもしれないけれど、とりあえず尻尾の動きはゆったり。怒ってはないみたい。

 私は慎重に両手を差し出して三毛猫ちゃんを両脇から抱き上げたけれど、全く暴れ出さなかった。うーん、あっさり捕まってくれたってことは、単純に構ってほしかっただけなのかな? それともお腹が減ったのかな?

 ……それとも本当に片淵さんが言うみたいに謎の猫まっしぐらフェロモンみたいなものを出しているからじっとしてくれているとか。そういえば、みゃーちゃんのノワールちゃんも懐いてくれたし、もしかすると本当に?

「小山さーん」

 とりあえず、テオを落とさないように気を付けつつ、三毛猫ちゃんを胸に抱き留めると、全力で振り回している鈴の音みたいな声が、ホームベースに突っ込んでくる三塁ランナーくらいの勢いで飛んできた。

「み、ミケちゃんは……あ、あれ?」

 ヘトヘトな正木さんと少し余裕のありそうな岩崎さんが私の頭の上の猫と胸に抱いている猫を交互に見ながら、同時に疑問符を浮かべた。

「ええっと……」

 私自身もどう説明すれば良いか分からないけれど、片淵さんと共にさっきの状況を見たまま正木さんたちに話すと、

「そんなことあるんですね」

「はー、そんなことあるんだねえ」

 とほぼ同じ反応が返ってきた。

「というか、勝手に猫ちゃんこっちに来ちゃって実家の人困ってない?」

「確かに……今頃、この子が居ないって騒いでいるかもですね」

 この子、と言うところで頭上に視線を送ると、猫型帽子に擬態しているうちの甘えん坊は大あくびをした。全く本人は……いや、本猫は呑気なんだから。

 でも、本当に実家は大騒ぎしているかもしれない。特に母は私と同じくらいこの子を可愛がっていたはずだし、ついつい甘やかしてばかりだった私には出来なかった躾もしてくれていたし。

 兎にも角にも、正木さんに三毛猫ちゃん(さっきの正木さんの言葉からすると三毛猫のミケちゃん?)を引き渡し、私は妹と母にテオを捕まえたというメールを送って様子を見ることにした。

 ほっとした表情の正木さんはミケちゃんに頬ずりしてから、

「じゃあ、私はミケちゃんを家に戻してきます。小山さんのその子はどうしますか?」

 と私に尋ねる。

「えーっと、私は……どうしようかな」

 買い物に行くのにテオを連れてはいけないし、かと言って寮でテオを飼うわけにもいかないだろうし。

 うーん、とテオを落とさない程度に首を捻っていると、私の携帯電話が鳴り出した。慌てて出ると、

『準、テオが居たって?』

 母からだった。

「うん」

『へー……ああ、そういえば確かにここのところ、行方不明になっていたわね。なるほど、準のところに行っていたのか、うんうん良かった、見つかって』

「ん?」

 何か思ったより淡白な反応。もうちょっと取り乱しているかと思っていたのだけど。

「それでテオなんだけど……」

『んー、ああ、えっと……寮で飼ってみるとか出来ない?』

「……へ?」

『ほら、寮の部屋で……あ、ちょっとごめん、お父さん今日は年休取って休んでて、これから出掛けるの。どうしても重要な用があったら、夜に電話してね。それか綸子に連絡して連れ戻すとか。とにかくよろしく』

「ちょ、ちょっと!」

 ブツッ、という音と共に電話が切れた。

 ……おかしい。

 テオのことについてあまりに反応が雑過ぎるし、さっきの電話を切るのもやけに早かった。まるで話をそれ以上続けたくないと言っているみたいな。

 かと言って今すぐ電話を掛け直しても電話を切られるだろうし、少し日を改めた方が良いかな。夜には電話しても良いって言っていたけれど、何か隠しているようなあの様子からすると、聞きたいことは聞けないだろうから。

「あの、どうでした?」

 私の反応を見ながら、おずおずと尋ねる正木さんに私は苦笑いしながら答えた。

「あ、ああ……えっと、話が終わる前に電話切られちゃいました」

「え?」

「忙しいみたいで、何かあれば妹にって」

「あれ? 準にゃんって妹居るの?」

「はい、居ますよ。1個下の妹が」

 一時期から比べると、かなり疎遠になってしまっていて、稀にメールのやり取りをするくらいだけれど。

「へー、小山さんと似てる?」

 岩崎さんが興味深々といった表情で私を見る。

「んー……どうですかね。目元は似ていると言われたことがありますが、それ以外は……」

「そーなんだ? ふーん、小山さんの妹かあ。あ、身長は高いの?」

「ああ、身長は結構高い方ですね。そういう意味では似ているかも?」

 お父さんは身長がかなり高く、私と同じかそれよりも更に数センチくらい高い。母は工藤さんと同じかそれくらいで小さい方だったから、その辺りは2人とも父親の遺伝子を貰ったみたい。そんなに高くなくて良かったのになあ。

「にゃるほどねー。っとそれはさておき、頭の子はどうするんだい? 放置しておく訳にはいかないよねー」

 片淵さんの言葉に私はうーんと首を捻って、ひとまずの答えを出す。

「妹からメールがまだ返ってきていないんで、メールが返ってくるまでは寮の部屋に置いておこうかなと」

 いつメールが返ってくるか分からないけれど。

「寮で……ですか?」

「飼っていいの?」

「いえ、飼うんじゃなくて、妹と連絡が取れるまで一時的に置いておくというだけです」

 というか、流石に寮で長時間飼うことは難しいと思うし。

「うーん……でもまあ何にしても、一旦寮に戻るしかないかもねー」

「そうですね」

「あ、ミケちゃんを家に連れて帰ったら、猫用のトイレとか持ってきましょうか? ペットシーツとかあると便利だと思いますし」

 正木さんが抱っこしていた三毛猫ちゃんの肉球を触りながら言う。

「そうして頂けると助かります」

「とすると、今日の買い物は小物じゃなくてペット用品だね!」

「いえ、ですので寮で飼う訳ではなくてですね……」

「えー? でも爪とぎとか出来る場所無いと、部屋の中バリバリするって聞いたことあるけど」

「……あー」

 確かにテオも実家では良く爪とぎしていた覚えがあるし、ちゃんと用意しておかないと、柱を駄目にしそう。猫がOKのマンションが犬OKのマンションより少ないのは、柱や壁に爪とぎされてしまうおそれがあるからだとか聞いたことはあるけれど、確かに言われてみればそうかもと思った覚えがある。

「でも準にゃんはこの子置いたまま、買い物行くのは厳しいよね。とすると何を買えば良いか分かりそうな紀子ちんとアタシ辺りがひとっ走りして買ってきて、真帆ちんと準ちんはテオちゃんの面倒見ておくのが良さげかな?」

「ううむ、そうですね……」

 確かに片淵さんの言う案が1番かもしれない。

 そうすると一時的とは言え、寮に猫を連れ込むのだから、やっぱり面倒にならないように寮長さんのところへ挨拶に行った方が良いかな。入って2日目で、勝手に寮に猫を連れ込んだから追い出されました、となったらちょっといただけない。

「それでは、行ってきます」

「真帆ちんと準にゃん、後で準にゃんハウスでねー」

「はい」

「はいよー」

 正木さんと片淵さんとミケちゃんを手を振って見送り、寮方面に歩き出してすぐ、岩崎さんは私の頭の上に垂れ猫帽子が気になるようで、視線をそちらに向けながら私に尋ねる。

「その子って飼って結構長いの?」

「えっと、この子はまだ4歳なので、まだ若い方だと思います」

「ほほう、だからこんなにちっこいの?」

「いえ。単純にこの子が小さいだけで、もう4年にもなったらそんなに大きさは変わらないです。前に飼っていた子はもっと大きかったですし」

「前に? 小山さんちって何匹も猫飼ってるの?」

「えっと、そうですね……」

 昔を思い返しながら私は言う。

「この子は既に3代目で、最初の子は確か私が小学校の頃に飼っていた子だったと思います。その子が死んでしまってから、私が学校に行きたくなくなっちゃって……母が貰ってきてくれたのがこの子の父親です」

「父親?」

「はい。父猫ちちねこ? というべきなんでしょうかね。もし、その子も死んでしまったら……というのが母にとっては心配になったみたいで、更にもう1匹飼えば寂しくないんじゃないかって話になったそうです」

「それって……結局、最後に飼っていた子が死んじゃったら結局駄目なんじゃない?」

「まあ、そうなんですが、ある程度大きくなれば気持ちの整理も十分出来るようになるだろうって、そう思ったんじゃないですかね。とにかく、もう1匹貰ってこようかという話をしていたとき、母の知り合いにメスの猫を飼っていた人が居て、じゃあお見合いさせた相手との間に出来た子猫の1匹がこの子なんです」

 自分の出生の秘密を暴露されても、人の言葉を十分に理解していない頭上の獣は大あくびをするだけだった。

「へー、そうなんだ。何処の子とお見合いしたの?」

「えっと……あはは、そこはあまり覚えてないです」

 車に乗ってお父さん、お母さん、妹と行った覚えがあるけれど、何処の家だったかとか、相手がどんな人だったかもあまり覚えていない。

「あ、でもそのお家に私と同じくらいの歳の女の子が居たことは覚えてますよ」

「そうなんだ。名前は?」

「えっと…………うーん…………忘れました」

「小山さんって結構忘れっぽい?」

 うっ、痛いところを。

「それはあるかもしれません。多分、勉強が趣味なのもそれが原因かと」

「へ? 何で?」

「物覚えはあまり良い方ではなかったので、繰り返して勉強していたら好きになったから、実はそうなのかなあと」

「いやあ……それは関係ないと思うよ?」

「そうですかね?」

「うん。あたしも繰り返して勉強しないと覚えられないタイプだけど、別に勉強好きにならなかったし、そもそも繰り返し勉強しようとか思わないし」

「そんなものでしょうか」

「うん。というか小山さんってちょっと変わってるね」

「えっ」

 そ、そんなこと……ない……よね?

 また男女の違い? それとも単純に私が皆と違うの?

「一時期、テストの点数ヤバくて『漫画で分かる』とかいうタイプを図書室で借りてみたりしたけど、興味出たのは歴史くらいだったかなあ。とは言っても、歴史も戦国時代の武将がどうとかばっかりで、田沼何とかとかペリーが開国しろだのとか、そういうのには全然興味無かったからねー」

「ああ、確かに私のクラスにも凄く武将に詳しい女の子は居ましたね」

 私の言葉に突然、凄い口調で否定する岩崎さん。

「べ、別にあたしは言うほど詳しくはないからね!?」

「……? は、はい?」

 そこまで必死に否定するのは何でだろう。まあ、別に詳しくてもそうでなくても構わないのだけど。

「こほん。それはさておき、そんなに忘れっぽいなら手帳とか持たないの?」

「えっと、父が会社で貰ってきた手帳なんかを一時期使っていたんですが、最近あまり使ってないですね」

「会社で貰うのって真っ黒の可愛くないやつじゃない?」

「そうです。会社のマークが入ってて、ポケットサイズの真っ黒なヤツです」

 あの手帳は持ち運びには便利なんだけど、書き込める部分が少ないのが難点だった。それとシャーペンとかを挿すところが無かったから、たまにペンが無くて書けないとかあったなあ。

「えー、そんなのオジサンっぽいし、可愛いの買いなよー」

「あはは……そうですね」

 高校3年生にもなり、受験とかも考えなきゃいけないから、日付を意識するためにも手帳を買おうかな。可愛いのは……ちょっとアレだけど。

 ようやく遠目に『菖蒲園』が見えてきて、ふと疑問が脳裏によぎった。

「そういえば、寮長さんって何処に住んでるんでしょうね?」

「え? 寮じゃないの?」

「うーん。でも、寮の中で見たことってまだ無いんですよ。私が借りている部屋に案内してもらったとき以外、ですが」

「そうなんだ。うーん、どうだろう。とりあえず寮に戻っとけばいいんじゃない?」

「そうですね。居なかったら、そのとき考えましょうか」

「そうそう、どうにかなるなる、くらいで考えておけばいいんじゃない? でも、いちいち寮長さんに猫飼っていい? とか聞きに行ったら駄目って言われそうだよね」

「もしそうなったら、実家に連絡して引き取ってもらうことにします」

 まあ、あのお母さんの様子だと何か隠している気がするから、そう簡単に事が進むとは思えないけれど。

 ……ってそれ以前に、この女装したまま実家に戻れないよね。息子が帰ってきたら娘になっていました、みたいなことがあったら家族皆困惑するだろうし。いや、娘にはなってないけれど。

 まあつまり、妹を呼んでテオを引き取ってもらうことも出来ない訳で――

 あれ?

 もしかして私、詰んでない?

 現状だと、誰にも違和感というか変な目で見られずにテオを渡す方法が無い気がしてきた。

 女装したまま家に帰ったり、妹に会うのは絶対マズイ。じゃあ、男装したフリをして男物の服を着て実家に戻ればいいと思ったけれど、男装していたら男装していたで、今度はこの学校から家まで歩く間にクラスメイトに会ったら、男装趣味系女子だとクラスで噂されるかも。まだクラスメイトにはあまり顔は覚えられていないと思うけれど、それでも、うーん……。

「おーい、小山さん?」

「え? あ、はい、ごめんなさい」

「何か悩み事?」

「あ、ああ、大丈夫です。あの、テオのことをどうしようかなって悩んでただけなので」

 誤魔化して私は言う。こうやってすぐに思い悩む癖、早く止めないと。

「まあ、なるようにしかならないよねー」

「ええ、そうですね」

 苦笑いを貼り付けたまま寮の近くに戻ってくると、

「あ、いい匂い」

 煮物か何かのような醤油ベースの匂いが鼻腔をくすぐった。

「ホントだ。何だろう……夕飯の準備中とか?」

「かもしれないですね」

 そういえば、太田さんが寮の食事は益田さんが作っていると言っていた気がする。

 ……そう、あの益田さんが。

 正直なところ、未だにあの話を信用していない。だってあの初日にあれだけはっちゃけていた益田さんだからね。

 スクープを狙う新聞記者の心持ちで、私はテオを頭に乗せたまま寮の扉を開け、岩崎さんと共にスリッパに履き替えて食堂へ向かう。と、古びた学生寮『菖蒲園』の台所で記者・小山準が見たものは!

「おや、おかえり」

 益田さんがラフな恰好の上にエプロン姿、更に三角巾まで被って厨房に立っていた。なんと、あの噂は本当だった!

「すまない、まだ夕食は出来ていないんだ。後15分くらい待ってもらえれば終わると思うんだが」

 ちらり、とこちらに柔らかな笑顔と共に視線をわずかに寄越してから、また手元に視線を落とす益田さんに、私は、

「あ、いえ、そうではなくて……」

 と慌てて両手を左右に振り、その振動で振り落とされそうになったテオを慌てて掴む。その様子に、再度私に視線を合わせた益田さんが目を瞬かせた。

「おや、その頭に乗っているのは? ……ふむ、5分ほど待ってくれればキリがつく」

「あ、はい。待ちます」

「待ちまーす」

 何故か1人納得してからそう言ったので、私と岩崎さんは素直に頷いた。

 私と岩崎さんは椅子に座って、テオは少し首が疲れてきたから膝の上に乗せて撫でていると、約束の5分もしない内に益田さんがテーブルの向かいの席に座るなり口を開いた。

「待たせたな。それで、要件はそのキミの膝の上に居る子のことか?」

「は、はい」

 益田さんに見えるように抱き上げると、すっと益田さんの目が細くなったため、何か言われると思った私はぴくん! と小さく震えて答えた。うう、やっぱりまずいかな。

 視線が変わらず厳しいものに見える益田さんはじっとテオの方を見て尋ねる。

「種類はアメリカンショートヘアーか?」

「えっ、あっ、いえ、この子は雑種です。親がアメリカンショートヘアーの血が濃かったのか、見た目はほとんどアメリカンショートヘアーですが」

「ふむ。私は実家では犬しか飼っていなかったから、猫の種類は良く分からないが、それでもアメリカンショートヘアーくらいなら分かるぞ。それで、その子をこの寮で飼いたいと言うことか?」

「飼うというほどではないですが……あの、この猫、実家の猫なんです」

「ほう?」

 机の陰で見えないけれど、1度体を反らしてから益田さんが言う。多分、足を組み替えたんじゃないかな。

「何故か家からこちらに来てしまったみたいなので、実家に返そうと思うんです。ただ、ちょっと今は実家の方が立て込んでるみたいで、迎えに来れないと連絡があったんです」

「ふむ」

「なので……えっと、寮でしばらく預かっておきたいんですが……駄目でしょうか?」

「そうだな……」

 少し悩む様子を見せた益田さんが言う。

「彼? 彼女? オスなのかメスなのか知らないが、その子はうちの学校の生徒か?」

「…………はい?」

 私と岩崎さんは2人で顔を見合わせて、首を傾げた。

「えっと、どういうことですか?」

 私よりも先に、岩崎さんが疑問を呈する。

「この寮に入るということは、この学校の生徒でなければならない。だから、その膝の上の猫が学校の生徒でなければ、寮に住むことは出来ないわけだ」

「……飼わせないなら、飼わせないって素直に言えばいいのに」

 ぼそり、と岩崎さんが益田さんから視線を外して言う。言いたいことは分かるけれど。

「い、岩崎さん……」

「だってそうじゃん!」

「私は別に飼わせないとは言っていない」

「だったら!」

 目を伏せてさらりと言う益田さんに食って掛かるような岩崎さん。そのいきり立った様子を流し目で見て、あっはっはと大声で笑う益田さんは、胸ポケットから折りたたんだ紙を取り出して私たちに見せる。その紙に書かれていたのは――

「えっと……『ペット入学申請書』? これ、なんですか?」

「名前の通り、ペット専用の入学申請書だ」

「……えっ」

 頭の中で言葉が処理しきれず、私と岩崎さんは再度顔を見合わせてしまう。ペット専用?

「どういうこと、ですか?」

 ここのところ増産続きで、製造課長が過労死しそうな頭の中の疑問符製造工場に、私が再度疑問符を大量発注しながら言うと、まだ笑い続けながら益田さんが言う。

「その猫は我が校の生徒ではない。だから寮には住めない。だったら生徒にしてしまえば良い。それだけのことだ」

「それだけのことって……理屈は確かにそうなのかもしれませんが」

「いやあ、私もこれをまた使うことになるとは思わなかったが」

 くすくすと笑い声を止めない益田さんは続けながら、髪を纏めていた三角巾を外す。

「実はな、これは美夜子……ああ、美夜子のことは小山さんは知っているだろう。隣の……キミは知っているか?」

「岩崎です」

「岩崎さんか、なるほど覚えておこう。岩崎さんは知っているか?」

「知ってます。あの猫耳着けた小さい子のことですよね。地下室に住んでるっていう」

 岩崎さんの言葉にそうだ、と頷く益田さん。やっぱりみゃーちゃんのことって結構皆知っているんだ。

「彼女、美夜子が飼っている猫が居てね。確か黒猫だったか。家から出て来るときにその猫を連れてきたのだが、当然最初は寮も学校内も猫の飼育は禁止だった。だから、彼女が猫を飼いたいと言ったとき、私も真雪……太田理事長も駄目だと首を振った。でも、彼女は諦めず、翌日に『確かにペットの猫なら飼っちゃ駄目かも知れないけど、この子はこの学校の生徒だから』と言いながら、この紙を差し出してきてね」

「へえ……」

 あのみゃーちゃんがそんなことを……?

 それだけ、その猫ちゃんのことを大切にしているっていうことなのかな。

「今でも思い出すよ、あの娘の真剣な目。もちろん、本来はそんな紙に何の意味もないが、あまりに真剣だったからか太田理事長がそこまで言うのであれば、と折れてね。全く、太田理事長の甘やかしには困ったもんだったが……くくっ、でもそのお陰で飼っていた猫は晴れて生徒として迎え入れられ、学校内で飼われることになったということだ」

「そんなことが」

「まあ、彼女だけ特例的に許可するというのは不公平だということで、同じくペットを飼いたいという人間が居たら、同じようにこの紙を出すように理事長から言われていたから、これをキミに渡そう。ちゃんと記入すれば、その猫を一時的でも永続的でも飼って構わない」

「そんなものなんですか」

 未だにイマイチ納得のいかない顔で私は答える。飼っても良いということは嬉しいのだけど、それでいいのかな?

「ただし、言うまでもないが糞尿の始末やその他諸々の世話はちゃんとするように。あくまで学校の生徒だが、その管理監督責任はこの紙を書いて出したキミ自身になるからな」

「は、はい。分かりました」

 まあ、何にしろ学校側からお墨付きを頂いたのだし、こちらとしては許可して欲しい側なのだから拒否する理由なんて無いよね。

「じゃあ、私はこれで」

 立ち上がって台所に向かいながら、三角巾を再度着け直した益田さんは「そういえば」とこちらに向き直った。

「夕食ならもう少し待ってくれれば出来るぞ。そちらの岩崎さんも良ければどうだ?」

「え? 良いんですか?」

 椅子から立ち上がって、岩崎さんが目を輝かせる。

「ああ。足りないことがないように、いつも2、3人前多めに作っているから構わないぞ。いつもは私が残りを食べ、食べきれないものは捨てるんだが、勿体無いからな」

「うーん……あ、でもお母さんがご飯もう作り始めてるかもしれないから、また今度お願いします」

「そうか、分かった。まあ、寮の娯楽室などは最近寮生が減ってしまって使うことも無くなったから、文化祭の準備などには使ってもらって構わない。ただし、そのときは寮長室に来て、一言借りますと言いに来ては欲しいが」

 何気なく聞き流しそうになった私は、1つだけ聞き慣れない言葉を聞いて、横から口を挟む。

「あ、あの寮長室って何処ですか?」

「ん? ああ、そうか。小山さんはまだこちらに来たばっかりだったか。岩崎さんも寮生ではないから寮長室を知らないな。寮長室は学校から寮に来る途中で丁字路になっているところを曲がればその先に小さな家が見える。そこが寮長室だ。たまに遊びに来てくれれば、飲み物とお茶菓子くらいは出すぞ」

 笑いながら益田さんはそのまま言葉を続けた。

「食事を作っているか掃除をしている時間以外は大抵寮長室に居る。居ないときは朝食、夕食の買い出しに出掛けていることが多いが、太田理事長か大山学校長に呼ばれて、校舎に居ることもある。ああ、そうだ」

 益田さんは携帯電話を取り出し、自分の電話番号を出してこちらに向ける。

「これが私の携帯電話番号だ。寮長室に居なければ、ここに掛けてもらえばいい。打ち合わせなんかでなければ、すぐに電話が取れると思う」

「は、はい。分かりました」

 私が慌てて電話帳に登録し、1度掛けて番号を確認して頷いた益田さんはエプロンの紐を結び直し、

「それでは今度こそ夕食の準備に戻るよ」

 と言いながら手を軽く振って台所に入っていった。

「ありがとうございました」

 私と岩崎さんが頭を下げて食堂を出ると、すぐに岩崎さんが小声で耳打ちした。

「まあ、たまには遊びに来てくれ、と言われてもなかなか難しいよねー」

「そうですね」

 特にあの益田さんだし。もし、寮長室に行くなら、喋る度に突っ込みを入れるくらいの体力を持っておかないとキツイかも。

「というか、今日初めて知ったんだけど、あの人って寮長さんなんだね。校舎でたまに学校の先生たちと仲良く喋ってたから、事務員さんか何かだと思ってたんだけど」

「学校の校舎で見掛けるときって何をしに来られてるんでしょうね」

「うーん。あれだ、文化祭の前には良く見るから、食事系の出店するときに手続きとかその辺りを任されてるんじゃないかな」

「なるほど、そう言われてみれば……」

 なんてことを言いながら歩いていたら私の部屋に到着。鍵を開けてドアを開くと、待ってましたとばかりに私の頭から飛び降りたテオが私のベッドの上に飛び乗り、伸び伸びと体を伸ばしてから居心地の良い場所を見つけて丸くなった。相変わらず自由人ならぬ自由猫だなあ。

「うーん、何回来てもやっぱり何もなさすぎるよね、小山さんの部屋」

 部屋の中を見回して岩崎さんが一言。

「あはは、まあそうですね」

「でも、結構箪笥は結構ゴツくていいのだよね。備え付けのやつ?」

 言いながら、勝手に私の部屋の箪笥を開け始める岩崎さん。こっちもこっちで自由人!

「あれ、この下着可愛い。これ何処で買ったの?」

 水色のブラを取り出してひらひらとさせる岩崎さん。女同士だとこうやって勝手に同性の箪笥を開けたりするのって普通なんだろうか。単純に岩崎さんだからだよね、きっと。今まで会った女子の中でも、岩崎さんは特別フリーダムだし。

「あ、あの、大体母が買ってきてくれるので、何処で買ったかはあまり意識したことが無くて」

 もちろん自分でも、お母さんが買ったわけでもないから嘘なんだけど。

「そっか、買いに行きたいなーと思ったんだけど、残念。あたしも、ほら、紀子みたいに大きくないから、あたし用のサイズとかもあると思って。まー、これくらいの方が割と色んな種類選べるから逆に困るよねー。結構、良い下着類って高いし」

「そうなんですか?」

「……小山さんって、ホント親に任せっきりなんだね」

「あう」

 ま、まずい。

「その割にこんなに可愛いの持ってるんだから、お母さんのセンスが良いんだろうね。……よし、何かまた欲しくなってきちゃったし、今度皆で下着買いに行こうよ」

「え、あ、うん、そ、そうですね」

 良かった、バレてない。

 ……案外、バレるバレるって考え過ぎなのかな。それはそれで、女の子としか見られていないということだから、喜んで良いのかは分からないけれど。

「でもホント、ちゃんとサイズ測ってもらって、良いのだと1枚で5000円とか軽く超えるからね」

「そ、そんなに?」

 ちょっと想像が付かない。男性用の下着でそこまで掛かった覚えは無いなあ。私が知らないだけかもしれないけれど。

「うん。あたしたちのサイズ……って勝手に小山さん巻き込んじゃったけど、Cくらいまではまだ安い方だよ。紀子のサイズでそこそこ……ああ、園村さん知ってる?」

「園村さん……ってうちのクラスの、あの背の高い?」

 工藤さんと並んで凸凹コンビというイメージしかないけれど。

「背が高いって、それは小山さんの方が高いと思うけどな。ああ、まあそれはそれとして、その園村さんね。で、あたしの見立てだと胸はクラスで1番大きいと思う。多分あれくらいのサイズだと、オーダーメイドしたら多分1万とか軽く行くんじゃないかな」

「うわ……」

 聞いてよかったのか分からない内容とお値段とで2重に驚く。

「逆に安いので良ければ1000円とかでも売ってるよ。まあ、ピンきりだよね。あたしなんかは可愛かったら安いのをついつい衝動買いしちゃう方だから、良くお小遣いがピンチになるんだよねー」

 あははー、と照れ笑いの岩崎さん。

「後は……まあ、ほら、紀子と一緒に買いに行くと、同じ歳とは思えない自分の大きさに……ね」

 ふふっ、と自虐的になる岩崎さんに苦笑しながら同調する。

「なるほど……でも、あの、確かに分かりますが、そこまで気にするものですか?」

「甘いなー、小山さんは」

 ちっちっち、と指を振る岩崎さん。

「大きさだけじゃない、って言うけど最初はやっぱり見た目から入るじゃん? そうすると、目に留まらないとその先が無いわけじゃん?」

「えっと、何がですか?」

「彼氏とか」

「あ、ああ……なるほど」

「ていうか、小山さんは彼氏居るの?」

「い、いえいえいえ……」

 大げさに私は両の手を左右に振る。

「逆にそこまで必死に否定するのがアヤシイ……」

「ほ、ほら、もしそこまで色気づいていれば、そもそも服装とか下着とかに頓着しますし」

「んー……まあ、そういえばそうかも」

 そうなのかな? と自分自身言ってから思ったけれど、意外と岩崎さんは簡単に引き下がったから、岩崎さん的にはそうだったみたい。

「まあとにかく、外歩いてても紀子は声掛けられたことあるけど、あたしは1回も無かったし」

 岩崎さんにとっては正木さんは友達だけれど、羨望というか嫉妬というか、そういう気持ちは有ったりして、結構複雑なんだなあ。普通の女子って多少なりともそういう気持ちを持っているものなのかもしれないけれど、少なくとも中身は男の私にはあまり良く分からない。

「あの、じゃあ片淵さんは?」

「都紀子は都紀子で身長もちっちゃいから需要はあるし」

「じゅ、需要って……」

「というか都紀子くらいまでになると、逆にそれが強みというかなんというか。あたしくらいの身長だと微妙なんだよね。……よし! 今度ブラ買いに行くのと共にバストアッ――」

 岩崎さんが何か言い掛けたところで、流行りの音楽が割り込んできた。どうやら岩崎さんの携帯電話の着信みたい。

「あれ、紀子だ。もしもーし、何? へ? 紀子の家まで? 何で? ……あー、なるほど、道理で早いと思った。……うん、オッケー。小山さん連れて行くね。ばいばー」

 スマホの通話オフボタンを押してから、岩崎さんは自分のスカートのポケットにスマホを投げ込んで立ち上がった。

「紀子が家まで来てって」

「正木さんの家までですか? 構いませんが、どうしてまた?」

 岩崎さんに倣って、私も立ち上がる。

「紀子が家に戻って、猫ちゃんの話をしたら、親御さんが車で近くのペットショップまで買いに行ってくれたみたいでさ。色々買ってきたは良いけど、持ち運べないからこっちまで取りに来てって。学校の中まで車を入れるわけにはいかないし」

「ああ、そういうことでしたか」

 確かに猫用のトイレとか猫砂とか餌とか、色々買ってきてくれていれば、2人でも運ぶのはちょっと大変かも。というか、買ってきてもらっているんだから、むしろこちらから受け取りに行くべきだよね。後でお金ちゃんと払わないと。

「じゃ、行こっか」

「はい。……テオー」

 声を掛けられた真ん丸猫団子はこちらをチラリと見て、尻尾を優雅に大きく動かした。でも、一切動く気配はない。これは行きたくない、というか日向ぼっこしてたいのかな。

「ん、じゃあお留守番、おとなしくしててね」

 私の言葉が終わるのを確認してから、ごそごそと向きだけ変えてまた丸くなったテオ。その様子を確認してから、私は既に部屋の外で待ってた岩崎さんに並んで、鍵を掛けた。

「あのテオって子、人間の言葉分かるの?」

「あー、えっと……どうなんでしょうね。分かってるような、分からないような。ただ、分かってるかどうかはさておき、ついつい話しかけてしまうのは、ペットを飼っている人の性だと思いますよ」

 勝手にペットを飼っている人代表みたいなことを言っているけれど、きっとそうだと思う。

「ふーん? あたしはペット飼ってないから良く分からないなあ」

 なはは、と苦笑で誤魔化す私。確かにペットを飼っていない人から見れば、犬とか猫に話しかける人って変わって見えるかもしれない。でもほら、テレビに向かって話をする人とかも居るらしいし、ね?

「あ、それでさ。話は戻るけど、バストアップ体操とか一緒にやろうよ」

「え、あ、は、はい?」

 宣言したとは言え、唐突に岩崎さんの話が飛んだので、私は思わず言葉に意識を取られ、階段を1段落ちてしまった。すぐに手すりに掴まったから良かったものの、そのまま気を抜いていたら下まで落ちていたかも。

「あ、あの、どういう……」

「だって、紀子ばっかりズルい!」

「……でもバストアップとは言っても――」

「バストアップ?」

「うわぁっ」

「ひゃっ」

 階段を降りきったタイミングで、私の言葉に被せるように突然のっそりと動き出したカバのようなゆったりボイスが左手壁で死角になった方向から転がり込んできたから、私と岩崎さんは思わず声を上げた。

「……どうしたの」

 声を掛けた工藤さん本人は相変わらずの起き抜けのような目を私たち2人に交互に向けている。

「あ、あはは……何でもないですよ。ねえ、岩崎さん」

「そ、そうそう。何にも無いから」

「……そう」

 じっと私を見つめる工藤さんに、本当に何もないからと私が目で訴えると、相変わらずの癖っ毛髪を盛大に暴発させたまま工藤さんは興味を失ったようにふらふらと食堂の隣の部屋に入っていった。扉が閉まったのを確認してから、私と岩崎さんは同時に溜息を吐いた。

「びっくりしましたね」

「ホントにね。普段から何か生気がないっていうか、幽霊みたいなタイプだからあたし苦手なんだよね。……ってそういや、あの子も去年くらいから急激に胸大きくなってたっけ」

「去年から?」

「そうそう」

 靴を履きながら、岩崎さんが首を捻って言う。

「高校入るくらいまではそんなに大きくなかった、っていうか私と同じくらいかちょっと大きいくらいだったはずなのに、何か高校2年くらいから急に大きくなったんだよね。周りは皆、詰め物か何かしてるんだろうって言ってたけど、前に着替え中にこっそり見たら、見た目だけなら本物っぽかったし……うむむ、ヒアルロン酸でも注射したのかも」

「良く調査してますね……」

「まあねー」

 よっぽど気になるのかな、岩崎さん。彼女自身、言うほど無いわけではないと思うんだけれど。

「ま、とにかく頑張んないとね」

「は、はあ……そうですね」

「何、気の無い返事してるのさ。小山さんもなんだからね!」

「が、頑張ります、はい」

 いや、私はどう頑張っても膨らむことは……いや、女性ホルモンを注射したら膨らむのかもしれないけれど、私は女性になる気は無いから遠慮しておきたい、かな。

 岩崎さんと話をしながら、ようやく落ち着いたことにより思い出した未だかぱかぱと胸元で動くブラと再度格闘しながら、岩崎さんとの話にも注意しながら歩いていたのだけど。

 私の見た目は、下に無地のTシャツを着た水色ワンピース姿。ここ数日の他者からの評価としては、こういった女性モノの服装をしていた場合に「貴方、実は男でしょ! 私分かってるんだからね!」と名探偵に真実を暴かれた犯人よろしく指を突きつけられるケースは無かった。悲しむべきか、喜ぶべきかはさておき。

 さて、私のそんな格好は男であることがバレてはまずい相手には、性別を勘違いさせるという効果が期待できます。では、逆に既に男だと知っている人物に会うとどうなるでしょうか?

「でさ、今度――」

「……っ!?」

「……!」

 岩崎さんの言葉を聞きながら校門を越えてすぐ、1人の女の子とすれ違ったところで、お互いがお互いを二度見する。

 目の前には、疑念と嫌悪とをじっくりコトコト圧力鍋で煮込んだような視線。少し切れ長な睫毛の少し長い目が「寄るな触るな近寄るなヘンタイコノヤロー」と無言のプレッシャーを湛え、私に弁解の余地も隙も与える気は無いことを象徴していた。ああ無情。

「り、綸子……これには深い訳が……」

「…………」

「あのお店はねー……あれ、小山さん? どったの?」

 さっきまで横に居たのに、いつの間にか私が後ろの方に居たというのに気づいて、岩崎さんも足を止めたようだったけれど、私はそれよりも目の前に居る、私より拳半分くらい小さいだけの、割りと長身長の女子生徒に慌てて弁解する。

「あの……だから……」

 1歩私が近づくと、しゅたたっとほとんど音を立てずに忍者みたく3歩離れる。おそらくこのまま1歩ずつ進んでも永遠に彼女の元に辿り着けない無限ループになるだけだということは推測出来る。だからせめて、言葉で状況を解説をさせてほしいのだけど、一切目は逸らさず、でも、人はこんなにも口をへの字に曲げられるのね、と妙な関心をしてしまうくらいに唇を曲げて、一切の言葉も思いも受け入れない頑なな二枚貝のような態度。べ、別に、貴女のためにこんな格好をしているんじゃないんだから、勘違いしないでよねっ! と目の前の少女に乙女チックと言っていいのか良く分からない弁解文が頭の中を駆け巡っている時点で、私がどれほどテンパっているか想像つくかな。

 小山綸子りんず。私の妹。1つ下でややツリ目気味で、我が妹ながら怒ると怖い。短距離選手として県大会に出られるくらいに足が早いことと、何かあればすぐに蹴ってくるタイプだったこともあり、中学校くらいのときにはその細長い足で繰り出されたキックを何度か御見舞された。もちろん、結構痛い。ただ、今日は物理的にではなく、精神的に全力キックを仕掛けてきているような目をしているけれど。

「あ、あの……りん、」

「私には姉は居ません」

 周りに私、岩崎さん、綸子以外誰も居ないから、誰に言ったかなんてことは疑いようもないわけで、はっきりとした声でそういった我が妹君は黒のセミロングを風に靡かせながら、陸上部らしい超ダッシュ。一瞬で視線の先の丁字路に飛び込み、私の視界から消えていた。お、おおぅ……さすが陸上部ホープ。

 って、感心している暇は無いんだった! 早く誤解を解かないと。いや、ある意味誤解ではないのだけれど、誤解でもある。あれ? 誤解が誤解じゃないなら、誤解を解く必要はないのでは?

 だんだん自分でも何を言っているか分からなくなってきて、とにかくそんなことはどうでもいい、重要なことではないと慌てて綸子を追いかけて丁字路に入るけれど、路上駐車されていた車が2、3台見えるだけで、人の姿は見えない。あー……えっとこれは。

 そうだ、電話! と思って携帯電話を鳴らしても、お掛けになった電話番号は、から始まる非情な拒絶通知が流れてくるだけ。これは……駄目ですね。

「ど、どうしたの小山さん。姉って聞こえたけど、さっきの子ってもしかして妹さん?」

「え、ええ、まあ」

「なんか超拒絶されてなかった?」

「あ、あはは……」

 ただでさえ、中学くらいから拒絶されていたのに、こんな格好をしているのを見たら、心と心がマリアナ海溝を挟んだように、お心断絶フォーエバーされてしまっても仕方がない。でも、せめて説明くらいはさせて欲しかった。

 でも、私自身、彼女を納得させられる理由を持ち合わせてはいない。「女子校に間違えて入学しちゃったの、テヘペロ☆」って言ったら「そうなんだー、仕方がないね、キャピ☆」って返してくれるようなタイプの妹ではないから、何を言っても泥沼だったかも。

 岩崎さんを残して、脱兎の如く消え去った妹を追いかける訳にもいかず、というか追いかけようにも何処に行ったか分からないので、私は追跡をさっさと諦めて、岩崎さんを促す。

「正木さんの家、行きましょうか」

「う、うん……」

 やや納得のいかない表情のままの岩崎さんと並んで正木さんの家に向かう。ごめんなさい、岩崎さん。詳しい話は出来ないんです。まあ、色々とあって。

「あ、来た来た。準にゃんたち遅いぞー」

「小山さん、真帆ー」

 手を振っている片淵さん、正木さんに手を振り返しながら、私と岩崎さんは正木家に到着。家の前には既にペット用のトイレやペットシーツが並べて置いてあった。

「ああ、すみません、正木さん、片淵さん、お待たせしました」

「いえいえ、さっきお母さんと帰ってきたばかりですから」

 そう言って、脇に立つ女性に顔を向けた正木さん。その女性は正木さんの面影……というか、その女性の面影が正木さんにほんのりと感じられた。目元とか髪の綺麗さとか……後は、その、スタイルとか。

 正木さんから可愛さを少し減らした分だけ色っぽさを充填したその女性は、

「ああ、貴女が小山さん?」

 と笑顔で笑いかけてくるから、私は背筋を伸ばして答える。

「は、はい!」

 自分自身で思うけれど、私は綺麗な年上の女性に弱いのかな……? 何だかいつもドギマギしてる気がする。とりあえず、変なところでバレないように気を付けないと。

「うふふ、紀子がいつもお世話になっています。紀子の母です」

「こ、小山準です。今回はお手数お掛けしました」

「小山……準?」

 私の短い自己紹介に対し、少し疑問のトーンを丸め込んだ声で正木さんのお母さんがたおやかな動きで、後頭部辺りでアップにした髪を揺らしながら首を傾げる。

「あ、えっと、はい」

「あ、ああ、ごめんなさい。同じ名字の知り合いに似た名前の子が居たから。……良く良く考えたら名前どころか、性別も違ったわ。お恥ずかしい限りね」

「い、いえいえ」

 性別、と言われると私も少しどきり、と心の臓が爪を出さない猫パンチを受けたくらいには驚いてしまうけれど、とりあえず正木さんのお母さんの中で何か自己解決したようだから良かった。

「それで、小山さんの家は寮なのね?」

「はい。正木さんと同じ、すぐそこの学校です……と言っても寮までは少し遠いですが」

「直接車で中まで入って良いのであれば、直接寮まで持っていくのだけど……持っていける? 大丈夫?」

「うん、お母さん。皆で運べば大丈夫だから」

 正木さんが笑顔で答えてくれる。

「まー、4人も居るしねー。んじゃあ、準にゃんのにゃんこちゃんが待つにゃんにゃんハウスへれっつごー」

「おー」

 にゃんにゃんハウスという響きはちょっと、と思ったけれど、案外皆反応していないから、私も反応しないことに決めた。何に反応したかなんて言わないからね!

 私は1番大きい荷物の猫用トイレの箱を抱えて歩き出してから、まるで光線銃を脳内に受けたみたいにはっとして、家に入ろうとした正木さんのお母さんを慌てて呼び止める。

「あ、あのっ」

「あら、何かしら?」

「お金を払っていなかったので……」

 荷物を下ろして、慌ててスカートのポケットから財布を出そうとしたら、正木さんのお母さんが私の手をそっと押さえた。

「ああ、良いですよ。大したものではありませんし、トイレなど一部はミケちゃん用に買っていて、結局使わなかったものですから。ああ、良ければキャットタワーも小さいものであればありますが、ちょっと持ち運びが……」

「い、いえ、大丈夫です! そもそも、一時的に部屋に連れて行くだけですから!」

 もし、長期的に飼うつもりであれば、確かにキャットタワーとか遊び道具も充実させる必要があるかもしれないけれど、今貰ったものだけで十分過ぎる。

「そぉ? また必要なものがあれば言ってくださいね」

 そう言って笑ってから、正木さんのお母さんは私に耳打ちした。

「うちの娘、ちょっと鈍くさいから中々友達が出来なくて……最近は岩崎さんや片淵さんと一緒に、貴女の名前も良く聞くようになって、私としては少し嬉しいの。これからも仲良くして頂戴ね」

「は、はい、分かりました。こちらこそ、よろしくお願いします」

 正木さんのお母さんに一礼してから、私は待っててくれた3人に並んで再度ダンボールを運ぶ。

「しかし、これだけ揃ったらしばらくどころか、よいしょっと、ホントずっと飼ってても大丈夫なんじゃない?」

 岩崎さんが荷物を抱え直しながら笑う。

「確かにそうかもしれないです」

「でも、どうだろうねー。確かにものは揃ったかもしれないけど、学校に行ってる間、猫ちゃんは放置しっぱなしだよ? そうすると、猫ちゃん可哀想じゃないかな。構ってくれる人も居ないしねー」

「うちのテオもそうですが、猫はまあ、放っておいても自分で遊んだりしてくれるので大丈夫だと思います。どちらかというと、コードとかを勝手に囓ったり、壁を引っ掻いたりする不安の方が……」

 実家でテオを飼っていたときも、お父さんとお母さんが仕事に出ているときは猫用のケージに入れておいて、私が帰ってきたらケージから出してあげる、というのが日常だった。

まあ、両親どちらも仕事が忙しいときはそもそも家に帰ってこない日があったり、夜遅くにようやく帰ってくることも多かったから、基本的には私が常に面倒を見ていたけれど、それでもお母さんなんかはきっちりテオの躾をしてくれていたから、あまりテオも無駄噛みや本を破くことは減った。

 ただ、それでも稀にコードを囓ったり、本を破ったりすることがあったから、やはり心配かな。正木さんのお母さんが持たせてくれた荷物に少し小さいケージがあるから、やっぱり昼の間は閉じ込めておくしか無いかなあ。

 途中で休みながら、私たちは荷物を持って私の部屋に戻り、梱包を開いていく。皆で作業をしていると、中身が気になったのか、扉を開いても猫団子のままだったテオがひょっこりと起き上がって、しゃがんでいる私の顔に尻尾を擦り付けながら近づいてきた。

「こら、テオ。邪魔になるから離れてて」

 私が首根っこを掴んでベッドの上に乗せると、素早く尻尾の先端をぴこぴこ早く動かしながら、少し離れたところで不貞寝を始めた。こういうときに「ちょっと可哀想だったかな……」と甘やかすととことん邪魔をし始めるので甘やかしては駄目、と母から教わっているから放置する。

「何か、そのテオって子、準にゃんの子供みたいだねえ」

「あはは。まあ、母も良く言ってました。手の掛かる子がもう1人増えた気分だって」

こうやって作業の邪魔をした場合はちゃんと叱って、作業を邪魔しても放置しておくと、徐々に理解して邪魔する回数が減ると言っていた。全くしなくなる訳ではないみたいだけれど。

「小山さん、この檻ってどうするの?」

「そういえば持ってきたこの猫ちゃん用のご飯の器、何処に置けばいいかねー」

「あ、それは……」

 岩崎さんや片淵さんの疑問質問に答えている横で、自分自身が猫を飼っていることもあるからか、1人でテキパキ準備をしてくれている正木さん。

「ああ、正木さん、すみません」

「いえ、大丈夫ですよ。こちらの方は私がやっておきますから、真帆と片淵さんの方をお願いします」

「ありがとうございます、助かります」

 何も言わずに正木さんがやってくれるから、そちらはおまかせしながら私は岩崎さんと片淵さんに指示を出しながら、テオの生活空間を作っていく。

 ちゃんと時間は測っていないけれど、おそらく15分くらいで設置は終わった。さっきまで不満げにベッドで寝転がっていたテオはというと、途中から使わなくなって置いていた段ボールが気に入ったようで、少し浅い段ボールに飛び込んで満足げな顔を覗かせている。そういえば、たまに実家に帰ったとき、持ち帰った手提げ袋なんかにも入ったりしていたし、やっぱり猫って狭いところが好きなのかな。

「なんか、部屋がちょっと豪華になったね。猫ちゃんの生活空間ばっかりだけど」

 岩崎さんが部屋を見回して言う。確かに猫砂の入ったトイレとか、床置きするタイプの爪とぎとか、猫を飼っている人であれば必須なモノは大方揃っているから、確かにテオにとってはそこそこ良い環境だと言える。

「まあ、元々が殺風景でしたからね」

「んー、そうだねえ。……あ、やば、もう門限の時間かー」

 立ち上がって伸びをしていた片淵さんが、スカートのポケットから取り出した携帯電話の画面を見ながら呟く。

「あー、もうそんな時間?」

「うむー。ここから駅ってちょっと離れてるからねー。正直、今時高校生にもなって門限も無いと思うんだけど、まあ仕方がないかー。あーあ、アタシも寮生活しようかなー、したいなー」

 立ち上がって頭の上で手を組んだ片淵さんが苦笑いする。

「寮も空いてますし、良いんじゃないでしょうか」

「あっはっは、まあ親が許してくれないだろうねー。ま、もし寮生活出来たら準ちんの部屋に毎日遊びに来るからよろしくー」

「お、お手柔らかに……」

「じゃあ、私たちはお暇しましょうか」

「そうだね」

 正木さん、岩崎さんも部屋を出ていくので、私も追いかけるようにして立ち上がると、足元にテオがスリスリと頭を擦り付けてきた。これは、また頭の上に乗りたいのかな。

 私はさっきベッドの上に移動させたときと同様、テオの首根っこを掴んで、私の頭の上に直接テオを乗せる。少しごそごそと動いている様子だったテオは、すぐに落ち着いたみたいで私の首筋にてろん、と尻尾を下ろして動きを止めた。

「んじゃあまた明日学校でねー」

「また来るよー」

「お邪魔しました」

「また明日です」

 片淵さん、岩崎さん、正木さんの順で寮を出ていったのと同時に、食堂から眼鏡のクラスメイトがぎらりんっ、とレンズを光らせながら私を見る。あ、これはまた何か言われるかな。

「何か騒がしいと思えば、また小山さんですか」

 “また”の部分がやや強調されて、太田さんが言葉を荒らげるから、私は苦虫が舌の上でダンスしたような微妙な顔で答える。

「ああ……ええ、申し訳ないです」

「……そしてその頭の上は何ですか」

「え、あ、えっと……猫です」

「そんなのは見れば分かります!」

 私、地雷踏みましたよ! と言わずとも誰もが疑いようのないくらいの地雷を踏んだ。踏んだというより踏み抜いたというレベルかもしれない。

「何故猫を寮に連れ込んでいるか、という話をしているのです! 猫アレルギーの人間が居たらどうするんですか!」

「あ、いや、でも……」

「何がでも、ですか。まだ転校してきたばかりとはいえ、幾ら何でも節度が――」

もえ

 凛とした、と表現するのが何よりも最適だと感じるくらい、少し低い女声に、熱を帯びていた太田さんの声が止まった。

「な、何ですか益田さん」

 太田さんの動きを止めた声の主は、食堂からエプロンと三角巾を外した益田さんだった。

 そういえば、太田さんの下の名前を聞いたことが無かったけれど、益田さんが萌と呼ばれて反応したってことは、下の名前は萌って言うのかな。

 あ、でも初めて咲野先生と会ったときに、萌がどうこうって言ってた気がする。あれって、太田さんのことだったんだ。

 何にしても名前とは似ても似つ……いや、これ以上は言わないでおこう。

 良く考えたら、前に益田さんと電話しているときに名字を聞いただけで、太田さんとはちゃんと自己紹介もしていない。階段で叱られた印象が強すぎたから少し苦手意識があって、ちょっとお近づきにはなりたくないと思っている自分も居るし。後は、既にある程度知り合っているのに、今更自己紹介するというのも何だか気恥ずかしさを感じるところもあるかな。

「その猫の飼育については私が許可を出した」

「な、何故ですか!」

 食って掛かる太田さんに対し、益田さんは腕を組んで冷静に答える。

「既に前例があるからな」

「前例……もしかして、あの地下室の少女が、学校に猫を持ち込むときに作ったという何の効力もない屁理屈塗れの紙切れを使っているとでも言うんですか!?」

「ああ、そうだ」

 理事長の娘だからなのか、学校での周知の事実となっているのかは知らないけれど、太田さんもみゃーちゃんのことについては知っているみたい。猫の入学許可書の情報についても知っているのは理事長の娘権限で入手した情報だと思うけれど。

「馬鹿馬鹿しい! そんなものが何の意味があるんですか」

「美夜子だけに特例を出す訳にはいかないだろう。同じように猫を飼いたいと言っている人間が居るのだから、生徒は平等であるべきだ」

 いえ、飼いたいとまでは言っていないんですが、と訂正しようかと思ったけれども止めておいた。だって、間違いなく今口を挟むのは火にガソリンタンクを投げ込むような行為だから。なので、私は「そうですねー」風の表情を作って太田さんに笑い掛ける。

「そんなことをして、寮の中が傷だらけになったらどうするんですか!」

「そうならないように、ちゃんと躾けているんだろう? 小山さん」

「え? あ、は、はい!」

 突然、話を振られた反動で私は頷いてしまい、落ちてきたテオはくるりんと1回転しながら見事な着地。流石猫。

「……ということだ」

「…………っ、勝手にしてください」

 腸が煮えくり返るどころか、圧力鍋で強火で煮込んでいるような目でこちらを睨み、太田さんはずんずんと足音を立てて自分の部屋に戻っていってしまった。

 やれやれ、と頭を掻きながら益田さんは私に微笑を湛えながら言う。

「彼女は彼女なりに色々気を遣っている……いや、気を遣いすぎているから、これは仕方がないことだ」

「気を遣って……?」

 申し訳ないけれど、彼女の行動は気を使った人の行動とは思えない。どちらかと言えば、自分の考えで当たり散らしている様子にさえ見える。

 益田さんに直接そこまでは言わないけれど、私のやや疑惑の念のこもった声に益田さんは心中を察してくれたようだった。

「そうだな……言葉の選び方が悪かったか。彼女は彼女なりに学校の規則に則り、在るべき学生、ひいては学校の姿の在り方を考えているんだろうと思う」

「在り方?」

「彼女は理事長の娘だからな。その肩書は自分自身が見て見ぬふりをしても、周りはそうしてくれない。つまり、どんなときも『理事長の娘』であるから、清廉潔白であろうとしているのだろう。だからこそ、稀に母親にまで噛み付いているところも見るが、あれでは彼女自身、疲れて体を壊してしまうだろう」

 去り際の太田さんの表情を思い出すと、言われてみれば険のある表情の中に何処か憂いを……ううん、私には感じられなかった。と言うよりも、そこまで表情を良く見ていなかった。

 ……そうだ。私は太田さんを良く知らないし、良く見てもいない。ただ少し関わっただけで嫌な人間だとか、距離を置きたい人間だって勝手に判断している。

「そう、なんでしょうか」

「そうなんだよ。まあ、彼女も友達があまり多い方ではないようだから、仲良くしてやってくれ」

「そうしたいのは山々ですが、太田さん自身がどう考えているかは分からないですよ」

「別に今日明日で親友になれという訳ではない。なあに、心配しなくても、同じ寮内に住んでいるのだから、嫌でも顔を合わせることは出てくるから良い面も悪い面も良く見えてくるだろう。それからでも遅くはないさ」

 くすり、と笑ってから益田さんが靴を履いて、

「ああ、食事の準備はもう出来たから好きに食べてくれ」

 私に笑いかけながら寮を出ていった。

「仲良く……とは言っても私がどうにか出来る問題ではないと思うのだけど、ねえ、テオ?」

 苦笑いを隠さずに頭の上に乗っけたテオを見て呟くように言ったけれど、ただ気の緩んだ「なーぉ」という声が返ってきただけだった。


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