第2時限目 お友達のお時間
「んあっ!」
体のびくんっ、という反応で目を覚ます。
夢を見ていた気がするけれど、内容はあまり覚えていない。ただ、私の妹が出てきたことと、あまり良い内容で無かったことだけは頭の片隅にぶら下がっていた。
「……ふぁ?」
で、何処でしょうここは? という疑問が鎌首をもたげたけれど、そういえば新しい学校の寮に来たんだったという事実に脳が数秒遅れで追いついてきたお陰で、その疑問は緩衝材のプチプチを爪楊枝か何かで勢い良くパァン! と潰した感じに良い音を立てて弾けた。おはようございます。
疑問が霧散したとはいえ、目はまだ十分覚めていない。ひとまず体を起こして姿見までふらふらと歩くと、顎辺りに涎が垂れているのに気づいて、慌てて手の甲で拭う。
拭ってから、そういえばこういうのもやっぱりちゃんと女性らしく、手の甲でこするんじゃなくて、タオルとかハンカチとかで拭かなきゃいけないんだろうか、と考えながらフェイスタオルを棚から引っ張りだして顔を拭いた辺りで、
「女性らしく……」
性別を偽っていることを思い出して、ずーんと背中に何かが乗っかったような重さを感じる。思い出したくはなかったけれど、性別詐称ライフを満喫しなきゃいけないことを忘れているのは非常に危険なので、思い出して良かったのかもしれない。いや、でも精神衛生上は良くない。結局どっち?
「……顔、洗おう」
さっきの涎拭きタオルを持って、部屋を出る。新しいタオルを使おうかと思ったけれど、まだ使いかけだから勿体無いし、これで顔も拭こう。
階段を降りて、洗面所の扉を開けると、
「うわっ」
「…………」
目の前に、少し茹でられた黒いわかめ星人が立ち往生していた。
……いや、わかめ星人は冗談だけれど。
水に濡れていても分かるボリューム感のある肩まで伸びた黒髪、とろんと眠そうな半目、窮屈そうにタオルに締め付けられた2つの丘陵を携えた少女が立っていた。身長的には、昨日会った正木さんよりも小さいから、更に胸の膨らみが強調されている。
「あ、ご、ごめんなさい」
私がさっと横に避けると、ずぶ濡れの髪からポタポタと雫を垂らしつつ、少女はふらふらと歩いて行く。
……ちょっと待って。ずぶ濡れ!?
頬とかやや火照った感じだから朝風呂に入っていたのかもしれないけれど、ちょっとさすがにそのままはどうかと!
「ちょ、ちょっと!」
「…………?」
わかめ……じゃなかった、タオル1枚の濡れネズミな少女は、一旦立ち止まって左右を見てから、振り返る。自分が引き止められたことは理解したみたい。
このとき、後で落ち着いて考えると、目の前の光景は青少年的にとって存外刺激が強いものだったはずなのだけど、ドキッとするよりも濡れた髪の毛を乾かさないと! と先に思ったのは寝ぼけていてあまり状況を上手く脳内変換出来ていなかったからだけではなく、仲が良かった頃の妹がこうやって髪の毛もまともに拭かずに出てきたときのことを、ふと思い出してしまったからだと思う。
……妹のことを思い出したのは、内容を覚えていない夢のせいかもしれないね。
「髪の毛! 髪の毛、ちゃんと乾かして!」
「……」
しばらくの静止後に、ああ、そうですかと言いたげな目をしたずぶ濡れ少女が、徐ろに自分の胸元のタオルに手を掛けようとしたところで、雷が落ちるくらい機敏な処理をした私の脳が、この先に訪れるであろう展開を正しく予測し、ただでさえ現状でも健全な青少年には非常に宜しくない、いや、宜しいのだけど宜しくない状況になっているのに、取り返しの付かないことになると察知したから、
「ちょ、ちょっと待って! タオル持ってくるから! 一旦、洗面所に戻って!」
「……?」
目の前の少女が自分を包んでいるタオルを掴もうとした腕を握り、半ば無理やり洗面所に押し込むと、自分の部屋にドタバタと凡そ乙女らしくない足音で階段を上って部屋の中に入る。手に持っていた涎ふきタオルはそこら辺へ放り投げ、バスタオルと櫛、そして小さなドライヤーを引っ掴み、再び階下へ。
さっきの子は洗面所で、押し込まれたままの状態でぽたぽた雫を床に撒き散らしながらぼんやりとしていた。ああもう! この子は!
「ほら、こっち来て」
背中を押しながら、洗面台の鏡の前へ。ドライヤーの電源を入れて、ゴォォォォという音を部屋に響かせつつ、少女のちょっとごわごわした髪の毛を櫛で撫でつけながら乾かしていく。
サラサラストレートだった妹の髪とは似ても似つかないけど、小学校の頃は頑張ってお兄ちゃんしないと! って思って、こうやって妹の髪を乾かしてあげていたっけなあ、なんてことを思い出した。中学になってから、それは叶わなくなったけれど。
「はい、出来た」
そう思うと、こうやって知らない女の子の髪を乾かしているのは、昔出来なかったお兄ちゃんらしさを取り戻そうと――お兄ちゃん?
……この子は私の妹ではない。
つまり、私はこの子のお兄ちゃんではない。
妹ではない、タオル1枚の女の子と2人っきり。
そこでようやく冷静に。なるの遅すぎたけれど。
「あ、ええっと、あの、か、勝手に――」
ようやく我に返った僕……いや、私は、髪の毛がごわごわからもふもふに変わっていた少女が振り返って、じっとこちらを見ていたから、おたおたしながら必死に言い訳の言葉を考えながら後退していたら、
「ありがとう」
「……え?」
上半身だけこちらに振り向いて発せられた突然の、少しかすれたようなハスキーボイスに、私の動きは止まった。
ありがとう、ってことは感謝されてる?
感謝の言葉を告げたとはいうものの、顔は一切にこりともしていないから、全くいい迷惑よ、ぷんぷん! みたいな気持ちだったのかもしれないけれど、タオル姿の少女はそれ以上は何も言わずに出て行った。
……えっと、まあ、とりあえず私も顔を洗おう。
さっき少女の髪を拭いてあげたタオルで顔を拭くと、シャンプーの匂いなのか、ほのかに薔薇の香りがしたけれど、極力気にしないようにした。そうしないと、さっきの少し上気した肌とか、釘付けになりそうな山と山の間とかが思い出されてしまう。というか、良く良く考えれば、本当に凄い状況だったんだと思い、耳元辺りまで熱くなった音がしたから、洗面台の蛇口からしばらく水を被った。
頭まで水を被ってさっぱりしたから、とりあえず食事、の前に洗濯機の横に掛けてあった雑巾で、さっきの女の子が歩いた後を拭いておく。ああ、洗面所の床も凄いことに。
雑巾を洗って絞って、元の場所に戻したら、一度部屋に戻って制服に着替えておこう。正直、あの制服は着たくないけれど、ジタバタしたところで着なければいけないものは着なければいけない。諦めよう。その後、朝ごはんかな。
部屋に戻って、昨日理事長から渡された制服を広げてマジマジと見てみると、
「……あれ、これってセーラー服?」
妹が中学のときに着ていたセーラー服と違う。もちろん、学校ごとに特色があるから違って当然だと思うけれど、妹のは上着とスカートに分かれていただけだったはず。でも、目の前に広げられているのは、襟元に青いラインが2本入った大きなセーラー服の襟みたいなブラウスと紺のベストの合わせ技になっている。これって普通なの?
「あれ、ポケットに何か入ってる」
ベストの左ポケットが「何か入ってるよ!」と主張していたから、制服を机の上に置いて弄ると、くしゃくしゃにされた便箋が出てきた。
『この制服はセーラーブレザーと言って、セーラー服とブレザーの良い所を合わせた制服です。まず、セーラー襟のブラウスがベストの中から見えているのが素晴らしいのですが――』
硬筆のお手本みたいな楷書でこんな感じでつらつらと文字が書かれていた。
えーと、一言で言うと、長い。
やや小さめの便箋に細かい綺麗な文字でびっしりと、この制服に対する思いの丈がぶつけられていた。所謂制服マニアの人?
この服装がセーラーブレザーという名前なのは分かったけれど……なんというか、そういうご趣味の方が書かれた様子。文字は明らかに女性のものだと思うのだけれど、女性の制服マニア?
もし、そうだとしても、知らない生徒が勝手に書いたとは思えないし、学校関係の先生の誰かが書いたんだと思うけれど、一体誰が?
まず、理事長は除かれる、と思う。あの理事長がそこまで服装に頓着……していないとは言わないけれど、いつもこう、ぴちっとしたスーツとかばかり着ているイメージだもんね。
坂本先生や咲野先生は、少なくとも私が男だということは知らないようだったから、制服の着方についていちいち説明を僕の……いや、私の為に着方の説明を書く理由は無いと思う。
とすると、妥当な線では益田さんかな。あの人ならありそう、というかあの人しかありえない。顔に似合わず、と言ったら怒られそうだけど、思った以上に文字が綺麗な人なんだなあ。
閑話休題。
その便箋には、一応制服の着方を説明するという用途もあるようなのだけれど、ほとんどアンコの入っていないアンパンのパン部分並に、着方とは無関係な服装の可愛さについての記載がてんこ盛り過ぎて、読む気力を巴投げしたような気分になった。
とりあえず、ハンガーに掛かっている順番で着れば良いんだよね、って便箋を無視してハンガーからブラウスを取り外すと、同じ文字で書かれた同じ種類の便箋がハンガーにテープでぶら下げてあった。どうやらこちらには箇条書きで着る順番と、着た際の注意事項が書かれている。さっきのはやり過ぎたって、書いた本人も思っていたのかな。だったら、あの便箋は何だったのかって思うけれど。
ハンガーにぶら下がっていた説明通りに袖を通していき、最後の説明に目を通す。
『このクロスタイの真ん中にあるピン留めは裏の金具を引っ張ると外れます。タイを重ねて、再度取り付けたら、タイが曲がっていないか鏡で確認してください』
「こう、かな?」
クロスタイというバツ印みたいなリボンの位置を調整しながら、大きな姿見の前に立ってみる。
「何処からどう見ても……」
その先の言葉は、自分の男としての尊厳が口止めした。
鏡の中の私は、僕で私。ボーイッシュじゃない、本当にボーイです。
「ま、まあ……きっとこんな生活も、再転校するまでの辛抱だよね、ははは……」
でも、鏡の前に居ると、何だかスカートを少しだけ摘み上げてみたくなったり、背中の方がどうなっているのか見たくなったりして、どうにも時間が過ぎていってしまうから、名残惜しいような気分を小脇に抱えながら階段を降りる。というか、既にそんな気分になっている時点で、私もうまともな生活に戻れないんじゃないかという不安が頭どころか体中を駆け巡る。
それを振り払うように、朝ごはんを食べる為に階段を降りる足音を早めると、
「もっと静かに降りられないんですの!?」
語気が荒々しい、でも丁寧な言葉が階下から湧き上がってきた。そう、何というか、マグマとかそういうのと同じような怒気の塊が。
足を1度止めて、そろりそろりと階下に顔をそろりと出すと、階下では両の手を腰に当てた眼鏡の女子生徒が私と同じ制服姿で待ち構えているのが見えてしまった。背後から立ち上る赤い攻撃的オーラみたいな何かがゴゴゴゴゴ……と音を発している気がするから、私は回れ右をして、降りた階段を上ろうとして、
「お待ちさない!」
「ひゃいっ!」
階下からの女の子の言葉に縛られて動けなくなった。
これは……死んだかもしれませんわね! と腹を括って、脳内で乙女風辞世の句を考えていたところで、
「とにかく、下に降りてきなさい」
との死刑宣告が聞こえたので、私は牛歩戦術しながら降りたい気持ちを必死に抑えながら階段を降りる。
「全く……あら、貴女は?」
私の姿を見た眼鏡の生徒は、憑き物が落ちたように怒気がふっと消えたようで、でも消えていない、ちょっと消えた声が眼鏡の女の子から発せられた。
「見慣れない顔……不法侵入、ということは無いでしょうから、転入生の小山さん?」
「あ、はい」
私の頷きに、はぁーっ、と大きな溜息を吐いた少女。
「転校初日からこれでは……もう少し、淑やかさのある女性だと思っていましたのに。全く……貴女は集団生活をしたことがないのかしら」
「あ、あはは……」
集団生活経験はあるけれど、前居たのは男子寮だったから、うるさいのなんて日常茶飯事だった。むしろ、静かな方が気持ち悪いくらい。まあ、もちろんそんなことを言えるわけが無いのだけど。
階下で腕組している少女は、目に掛からないくらいの前髪を人差し指で撫で付けつつ、楕円形の黒縁眼鏡の奥から鋭い眼光を放ちながら私に言い放つ。
「とにかく、この寮に来たからには寮生としての自覚を持って頂きます。……と、それはさておき、早く食事を済ませてしまいなさい。初日から遅刻など、許しませんから」
「はい」
ぎらりんっ、と光った眼鏡を見て、私は素直にそう答え、なるべく淑やかに階段を降りる。ここでまた怒らせたら、転校までずっと目を付けられそう。
お局様的な眼鏡少女に続いて食堂に入ると、古びた大きな机と椅子が複数並んでいて、ニュースが流れている大きなテレビとグランドピアノも置いてある。
ピアノとか懐かしいなあ。昔、妹が1人で習うのは嫌だからと一緒に習いに行っていたことがあったっけ。もう弾かなくなって大分経つし、昔弾けた曲はもうほとんど弾けなくなっていると思うけれど。
並んでいる大きな机の1つの椅子にさっきの眼鏡の女の子が腰掛けて、朝ごはんを食べているのが見えたから、私も倣ってそうしようと思ったのだけど、よく考えれば益田さんに朝食が準備されている、とは言われていたけれど、何処に何があるとかは全く知らされていない。
「えーっと……」
周囲をキョロキョロ。食事用テーブルとかにはさっきの怒りオーラの眼鏡ちゃんが食べているもの以外、何も置かれていないから、机の上に準備されているわけではないみたい。ということは台所の方に何か置いてあるのかな?
台所の中を覗いてみるけれど、目に付くところには食べ物は見当たらない。とすると、冷蔵庫の中?
でも、冷蔵庫の中を勝手に開けてしまうとか良いんだろうか? 一応、益田さんに確認を取って……いや、でもそこまでするほどでもないかな……あの眼鏡の――
「何をしているのかしら」
悪い癖の、変な気を使って躊躇いに躊躇っていると、見るに見かねてだろうか、眼鏡の女の子がいつの間にか台所に入ってきて仁王立ちしていた。コワイデス!
「え、あ、あの……」
「……はあ。大方、益田さんが食事の仕方について教えてくれてなかった、とかでしょう?」
「あ、はい」
教えてくれなかった、という言い方から察するに、やっぱりあの人は結構抜けているみたい。
「だったらさっさと聞きなさい。そうやって、ずっとうろうろしていたって、何も解決などしないんですから」
「……はい」
彼女の言い分はもちろん分かっている。
分かっているのだけど、これは私の性格だからそう簡単には直らない。いつから、こんな風になってしまったのかは覚えていないけれど、それでも――
「……小山さん、また何か考え事かしら」
「え、あ、すみません」
自分を呼ぶ声に慌てて頭を下げた私に、溜息を吐いてジロリと睨む黒縁眼鏡の女子生徒。
「貴女がどういう方かは知りませんし、知る気もありませんが、人が目の前で話をしているのを無視するのは気分が良いものではないですわ」
「はい、申し訳ないです」
「もう1度しか言いませんから、ちゃんとお聞きなさい」
眼鏡の女の子が教えてくれたことをざっくりと説明すると、台所の奥にある業務用冷蔵庫にラップして入れてあるトレイを取り出して、電子レンジ、オーブントースター、ガスコンロとフライパンなどなどを使って、温めたりアレンジしたりして食べて欲しいとのこと。どのトレイも同じだから、誰用だとかいう区別はないみたい。
ただ、朝は大体時間が無いから、皆電子レンジとオーブントースターで済ませているとのこと。壁掛け時計を見る限り、確かに余裕はないかも。
夕方も同じように食事が準備されているらしいけれど、朝とは違って時間があるから、人によっては一手間加えている子も居るんだとか。でも、夕飯は既にある程度出来上がったものが置いてあるだろうから、工夫する余地ってあるのかな?
「……おはよう」
「工藤さん! また貴女は……あら?」
入ってきた女子生徒の方も向かずに一瞬だけ声を荒らげて、その女子生徒を見た瞬間に、声のトーンが下がった。
「珍しいわね、工藤さんが髪の毛ずぶ濡れじゃない状態で食堂に来るのって」
「……そこの……」
眼鏡少女の声に答えたのは、さっきずぶ濡れでお風呂から上がってきたわかめ星人ちゃんだった。名前、工藤さんっていうんだ。
既に私と同じ制服姿に着替えており、髪は横で1つ縛っている、いわゆるサイドテールという髪型だと思う。
その工藤さんは私を指して、
「……大きい人に、拭いてもらった」
「大きい人……」
そうなんだけど、言われ方がちょっと……。
「本当?」
「えっと……はい」
別に隠すことでも何でもないから答える。
「それは良かった。ありがとう、小山さん。後、ついでにこれからもよろしく」
「はい。……えっ」
これからも?
「これからも、よ・ろ・し・く!」
「あ、はい」
有無も言わせない眼鏡の娘と、自分は無関係とばかりに自分の食事トレイを持ってきて、眼鏡っ娘の前に座ってもしゃもしゃし始めたわかめ星人こと工藤さん。
私もとりあえず、トレイを持ってきて、眼鏡の子の隣に座る。
「わか……ごほんっ、工藤さんっていつもあんな感じなんですか?」
「ええ。貴女も知っていると思うけれど、タオル1枚で上がってきて、髪の毛は全然拭かないし、ふらふらと歩いてきて、たまに廊下で倒れていたりして。お陰で毎朝、床の雑巾掛けが日課なのよ。全く……元々低血圧だとはいえ、去年辺りから酷すぎるわ」
はあああ、と深々溜息を吐いた眼鏡の娘。お疲れ様です。
「去年からなんですか」
「ええ……まあ前からぼんやりとしている感じはあったわ。でも、去年からはそれが顕著なのよ。何か思い当たる節はないの?」
持っているフォークでウインナーを刺しながら、目の前のもふもふサイドテール娘に対して、眼鏡の娘が尋ねる。
「……ない」
答えを考えたのか、質問の意味を考えたのかは分からないけれど、数秒のラグの後でサイドテールを揺らしながら首を傾げて、工藤さんはそう答えた。
「夜更かしてるとか」
「9時には寝てる」
「食事ちゃんと食べてないとか」
「食べてる」
「夜遊びしてるとか?」
「してない」
「…………はあ」
諦観混じりの量産型ため息と共に眼鏡の娘が答える。
「もういいわ。とにかく、さっさと食べなさい。貴女もよ、小山さん」
「え、あっ、はい、そうですね」
厳しい目に晒されながら私が箸を動かすと、唐突に黒電話のジリジリンっという音。古い建物とはいえ、まさか黒電話まで残っているのかと思いきや。
「電話? ……全く、この忙しい朝に何? ……益田さん? すぐそこに住んでるんだから、寮まで来ればいいのに!」
取り出したスマートフォンの液晶画面を見て、隣の眼鏡少女が青筋を立てているけれど、それよりも今のって携帯の着信音? 随分と渋い趣味をお持ちで……とさすがに本人には言わなかったけれど。
「はい、太田です。……え? あ、いえ、それくらいは構いませんが……はあ、分かりました。それでは失礼します」
電話を切って、疑問顔を隠さずに首を捻る隣の少女だけど、むしろ私は今の電話でさっきから気になっていたこの女の子の名前が分かったので解決顔。
でも、太田って?
「あの、太田さん」
「何? というか、私名乗ったかしら」
「今の電話で名乗っていたので」
「ああ、そう」
本来だったら聞き耳を立てていたなんて淑女らしからぬ行動でうんたらかんたら、と言い出されるかもしれない行動だったけれど、意外とさばさばとした答えを返した太田さんは、
「それで? 何かしら」
と続けて返してきたので、私は疑問を口にする。
「あの、理事長の太田さんは……」
「……母よ。それが何?」
「あ、いえ、ちょっと気になっただけですよ、は、はは……」
逆鱗に頬ずりされたような顔の太田さんの答えにごまかし笑いする私。どうやら、太田さんにとってこのネタはアウトのようだから、今度からはあまり話題にしないようにしよう。
「そんな話はどうでもいいから、さっさと学校に行きなさい。今日はまだ仕事があるんだから、手間掛けさせないで」
「……はい」
仕事って? と尋ねたかったけれど、とにかくさっさと食事を終わらせて出て行かないと、また太田さんの雷が落ちるのは間違いないので、手を合わせていただきます。
向かいで私たちの話を聞いていたのか聞いていないのか、飄々とした様子でゆったり食事を進めている工藤さんへ太田さんの怒りの矛先が向かったのを確認しながら、もうこれ以上巻き込まれたくはないということで、私は工藤さんへの謝罪と食事終わりの2つの意味で手を合わせてから、そそくさと台所で手早く食器を洗って片付け、部屋に戻る。
教科書とかは今日は要らないだろうから、とりあえず筆記用具とノートとプリント用のファイルくらいで良いかな、と思いつつ鞄に入れる。まあ、そもそも教科書はまだ届いていないから、持って行きようがないのだけど。しばらくは隣の人に見せてもらうしかないかな。
寮を出て腕時計を確認すると、まだ8時前。始業時間は8時50分からだから、さすがにゆっくり歩いても間に合うかな。
ほっと一息吐きながら、これから短い間かもしれないけれどお世話になる校舎の方を見る。
「うーん、距離的には徒歩2、3分ってところなのになあ」
同じ学校の敷地内に校舎も寮もあるし、始業時間は8時50分なのに8時前に出るなんて早過ぎると思うなかれ。実は寮と学校の間に大きな池があるから、そんなに近くはない。歩いたら多分50分丸々使うとは言わずとも、30分くらいは掛かる、と思う。
ボートとか船があれば寮から池を通学路にしてすぐに着くんだろうけれど、もちろんそんなものが置いてあるわけもない。ボート通学なんて優雅で良いと思うけれど、実際やってみると結構大変なんだろうなあ。特に雨の日とか。
池を迂回するように伸びている道を散歩がてら歩いていると。
「ああ、来た。おおい、小山さん」
ややハスキーめな声で手を振りながら走ってくる人物が1人。
「あれ、益田さん?」
私の目の前まで来て、肩で息をしながらさっき太田さんと電話をしていたはずの益田さんは私に四つ折りの紙を差し出す。
「先程、キミのお母さんが来て、これを渡していった、んだ」
「え?」
受け取った紙を開いてみると、それは前の学校に居た証明書である在学証明書だった。転入時に必須ということで、忘れないようにと母から手渡されてファイルに挟んでいたはずだけど。
慌てて鞄の中のファイルを開いてみると、確かに他の書類はあるのに在学証明書だけ入っていなかった。あれ……入れたような気がしたんだけど、ううむ。
「ありがとうございました」
「いやいや、礼はキミのお母さんに言ってあげてくれ。もう少しで真雪……いや、太田理事長からお叱りを受けるところだったからな」
ようやく息を整えた益田さんは私の頭をポンッ、と軽く叩く。
咲野先生も言っていたけれど、何故皆理事長を怖がるんだろうか。よっぽど……ううん、想像したくないです、はい。
「……さて、私は寮に戻るよ」
益田さんはさわやか笑顔で手を軽く振って寮の方へ歩を進めたので、私も手を振ってから校舎へ向かった。
「や、やっぱりちょっと早すぎたかな」
昇降口前で腕時計の時間を確認すると、ゆっくり歩いたつもりなのに20分強くらいで到着。つまり、授業が始まるのに30分くらい前に着いてしまったということ。ま、まあ初登校だからこういう時間配分ミスは仕方がないよね?
それでも、既にちらほらと登校している人が居るのを見ると、さすが……というわけでもないかな。登校が早い人は何処の学校にも居るだろうし。
早すぎるとは分かっているけれど、ひとまず職員室に向かってみる。先生は既に来ているかもしれ……いや、あの咲野先生が、まさか。
昇降口から入って目の前に下足箱があるけれど、さて、何処が自分のだろう。そういえば、正木さんが3年A組だと言っていた気がするけど、一応確認、一応ね。人だかりとまではいかなくても、人の往復が多い場所があったので、それに倣って移動すると、どうやら校内掲示板にクラス割りが貼ってあるようで、すれ違う生徒たちの表情は喜んでいたり、悲しんでいたり。やっぱり友達と一緒になれなかった子とかも居たんだろうなあ。
「えっと……3年A組、ホントだ」
正木さんに見せてもらったスマホ画面の通り、私の名前の端には赤い紙で作られた花が貼ってある。正木さんの名前も……あ、あった。
とりあえず、3年A組の下足箱を確認すると、自分の名前があったから靴を入れる。
「……はっ!」
しまった。上履き忘れてきた!
そういえば、せっかく準備してきた上履きを部屋に忘れてた。こ、これはきっと、昨日とか色々あったから仕方がないよ、うん、シカタガナイ。
今から帰って戻ってくると、間違いなく遅刻だから今日は壁際に置いてあった来客用のスリッパを拝借して使わせてもらうことにする。
というか、前の学校では皆白い上履きで統一されていたけれど、すれ違う生徒の足元を見ると、地味だけど色は統一されていないスリッパを履いているようだから、皆個人でスリッパを持ってきているのかな? うーん……まあ、後で咲野先生に聞いてみよう。
職員室の扉が開いていたから中を覗いて見るけれども、咲野先生はまだ居ない。予想通りといえば予想通りで少し安堵。でも、その分だけ手持ち無沙汰になってしまった。
「あら、小山さん」
時間を潰すために何をするかを職員室の前で悩んでいたら、唐突に声を掛けられた。声のする方を向くと、アイボリーカラーの縦筋セーターに白衣を着た眼鏡の女性。
「あ、坂本先生。おはようございます」
「おはようございます。随分と早いですね」
ふんわり三つ編みを撫でつけながら、坂本先生は髪の毛に負けないくらいふんわり笑う。
「寮から結構遠いかなと思って急いで出てきたんですが、思っていたよりは近かったみたいで……」
「ああ、なるほど」
頷いて坂本先生は続ける。
「確かに菖蒲園って遠いですからね。昔は菖蒲園から来る人の方が遅刻が多かった、なんてこともありましたよ。学校の敷地内だからすぐに着くだろうと思っていたら、案外遠くて……という感じで。私も綾里……あっと、こほん、益田寮長の家に遊びに行くこととかもあるのでよく分かります」
「そういえば……」
昨日の夜から気になっていたことを、せっかくだから確認してみる。
「坂本先生と益田さん、後咲野先生って仲が良いんですか?」
「あー……えっと」
ぽりぽり、と頬を掻いて坂本先生は苦笑いする。
「仲が良いと言うか……んー、そうですね。少しお時間があるなら、保健室でお話しでもしましょうか」
「お邪魔でなければ……はい、お願いします」
せっかくの申し出だから、断る理由なんてない。私も暇だったし。
自分の教室にはまだ入っていないのに、学校の保健室には2度目なんて珍しい体験だなあと思いつつ、促された通り保健室の椅子に座る。
「理事長と学校長を含めて、全員腐れ縁というところです。ほら、昨日少しお話ししたと思いますが、私、医師免許を持ってるんです。元々は医者を目指してたんですよ。卒業して、病院勤めを始めてしばらくしてから、この学校を真雪……太田理事長が創立するにあたって、養護教諭と教師を必要としているという話があったんです。その頃、私も丁度色々あって、医者を諦めようと思っていた時期だったので、大学に再度入り直して養護教諭免許状を取ったんですよ」
「そ、そこまでしたんですか?」
いくらなんでも、と思ったけれど、苦笑いしながら首を振った坂本先生。
「ええ。……正直な話、親が医者だったから無理医者になれ、って医学部に行かされていただけで、元々あまり医者になる気は無かったんです。というより、本当は学校の先生になりたかったんですよ。ふふっ、まあ真雪ちゃんや綾里とは高校時代からの付き合いでしたし、私が教師になりたかったのを知っていたんでしょう。綾里も寮長として協力するって聞きましたから、それじゃあ……と思って」
「それなら、せっかくですし教師の方に……とはならなかったんですか?」
そこまでして学校に入り直したら、教師になれば良かったんじゃないかと思うけれど。
「んー、そうね。……確かに教師になるのもありだったのかもしれないけど、必要とされていたのは養護教諭だったし……何より」
あはは、と再び苦笑い。
「昔から試験結果は良いのだけど、人に教えるのは苦手で……だから、先生は諦めました」
「な、なるほど……」
確かに頭が良い人が必ずしも先生に向いているとは限らない、と聞いたことはある。頭が良い人は頭が良すぎて、分からないということが分からないという禅問答みたいな理由かな。
「あっと、ごめんなさいね。これから職員会議があるから、少し準備しないと」
「あ、いえ、すみません」
「いえいえ、構わないですよ。怪我とかが無くても、何かあれば保健室に来てくださいね。恋の病とかでも……ね」
頬に手を当てながらぱちり、とウインクする坂本先生は、お茶目さと可愛さを黄金比で混ぜ合わせたんじゃないかなっていうくらいに不思議な人だと思う。
「それでは、また」
「あ、小山さん」
「はい、何でしょう?」
立ち上がった私を引き止めた白衣姿の保健の先生は、
「ちょっとタイが曲がってますから……ちょっと待って下さい」
立ち止まった私の前で少し屈んで、私の胸元のクロスタイに手を伸ばした。
「クロスタイってちゃんと真ん中で留めないと見栄えが悪くなってしまいますから、留める場合はしっかり鏡を見て留めるか、どうしても自分では上手くいかなければ、寮に居る他の子に直してもらうと良いと思いますよ」
「そ、そうですね」
少し薔薇のような少し強めの甘い匂いがふわりと香って、少したじろぎながらも私は何とか頷く。
「咲野先生のクラス、こう言っては何だけれど……少し変わった子が多いから、よろしくお願いしますね?」
「はい…………えっ」
変なことを考えないように意識を数百光年先辺りの星に置いてたから、坂本先生の言葉で急速に意識が地球の引力に引き寄せられてびたーん! と私に猛スピードでぶつかった。ああ、斯くも人間は地球の重力に囚われてどうとかこうとか考えるよりも先に、坂本先生の言葉の意味を再確認しておく。
「か、変わった子が多い、と?」
「ええ」
「どういうこと、ですか?」
「そのままの意味で、3年A組は変わった子が多いんですよ、他のクラスより」
「ええっと……」
「というか咲野先生のクラスに、ですね。太田理事長の一存だと聞いていますが、多分咲野先生なら大丈夫だと思っているからでしょう。小山さんはしっかりしてそうなので、きっと咲野先生や他の生徒さんたちに頼られっぱなしになるかもしれませんが、そうなるとさしもの小山さんでも手に余っちゃうかもしれません」
にっこり、と笑う坂本先生。えっと……教室に入った際に「お手柔らかに」くらいは言っておいた方が良いかな?
というか、さり気なく咲野先生も頼る側に混じっていたけど……ああ、でもそんな気はする。
「あ、後……」
「ま、まだ何かあるんですか」
ただでさえ、お先真っ暗とまでは言わずともお先薄暗し、といった塩梅だったのにまだ何かあるのかと不安に思っている私の心中を察してくれたのか、少し苦笑いで首を振った。
「ああ、いえいえ。クラスについては特に何も無いですよ。クラスの話ではないんですが……」
こっそりと耳打ちするように坂本先生がぐいっと体を近づけてくるから、大人の香りでまた動悸が!
「最近、何処でも物騒な話が多いですから、気をつけてくださいね。何だか、最近は学校の七不思議だとかいう噂が出ていたりしますし」
「七不思議?」
ドキドキを隠しながら話を反芻する。
確かに小学校の頃とかにはそういう話があったと思うけれど、高校生にもなって七不思議……いや、私の前に通っていた学校が一切そういう話が無かっただけで、一般的な高校ではまだそういう噂は多いのかもしれない。
「ええ、七不思議です。私が小耳に挟んだ話では、夜中に音楽室から聞こえてくる美少女の声とか、学校のトイレに限らず学校内をうろうろする花子さんとか、夜な夜な現れる美少女のみを狙った吸血鬼とか……」
「は、はあ」
「少し変わっているでしょう?」
「そうですね……」
そもそも、声しか聞こえないのに美少女だと何故分かるのかとか、トイレに限らずうろうろしているとか花子さんってそんなに自由気ままだったっけ、とかそもそも何故学校で吸血鬼が出るのか、とか。
「まあ、大半は冗談だと思いますが、ここのところ保健室に担ぎ込まれた女の子の中には花子さんと出会って倒れたとか、吸血鬼に血を吸われて貧血で倒れた、とか言う女の子が居たりしますので、気を付けた方が良いかもしれませんね」
気を付けた方が良い、と言われても『落石注意』という看板が見えた頃には上から既に大きな岩が降ってきているように、注意しようがないじゃない! と悲壮な顔で叫ばなきゃいけない気がする。でも、ここは社交辞令。
「気を付けておきます」
「あ、もちろん本当にトイレの花子さんとか吸血鬼が居るとは思っていませんよ? トイレの花子さんについては、大方推測が付いていたりしますからね……」
「え?」
「ほら。学校にいつも居る、小さな女の子なら居るでしょう?」
「…………ああ」
ポンッ、と思わず手を叩く。なるほど、そう言われてみれば。
「1つでも本当のことがあると他も本当に聞こえてくる、とかそういう心理なのじゃないかなと思います。私は心理学専攻はしたことが無いから、詳しくは分からないですが、それでも一定数の人が訴えてくるので少なくとも気には留めておいてくださいね」
確かに、と私が頷くと同時に先生が声を上げる。
「ああっ、ごめんなさい。本当に時間無くなっちゃったから、ほらほら、保健室出てくださーい」
私の背中を押して保健室の外に追いやると、鍵を掛けて「それじゃあまた」と手を振って職員室に向かった坂本先生を手を振りながら見送って、そういえば咲野先生は来たのかなと私も職員室へ1歩足を踏み出すと。
「あ、小山さん」
聞き覚えのある声に振り返ると、今度は私と同じ制服に身を包んだ正木さんが、同じ制服姿で私の知らない女の子2人と共に立っていた。えーっと、誰?
「へー、この子が小山さん? 結構背、たっかいんだねー!」
「何かこう、ぶら下がれるんじゃない? というかぶら下がらせてくれる? にゃっはっは」
少し褐色な肌でショートカットの、男の子とは間違えないと思うけれど全体的に体の引き締まった女の子と、工藤さんよりも少し背が低く、八重歯の見える女の子が並んで私を見上げていた。
「え、えっと……?」
「ご、ごめんなさい。ほら、真帆、片淵さん、小山さん困ってるからっ」
「ん? あー、ごめんねー。ええっと……」
ボーイッシュな女の子の方が先に手を軽く上げて言った。
「あたしは岩崎真帆。漢字は真実の真に、帆……帆ってほら、あの……船のあれね!」
「あ、ああ、はい」
近年稀に見るゴリ押し説明に思わず苦笑いしたけれど、何だか一緒に居ると元気になれそうな子だと思う。正木さんが言っていた、コピーキーとか作ってくれた行動力のある方の子がこっちだったかな?
続いて、やや背の低い八重歯の小さいツインテールの子が笑う。
「そしてアタシは片淵 都紀子だよ。漢字では東京都の『と』にそこの紀子ちんと同じジュラ紀の『き』、最後に子供の『こ』で書くんだけど、良く『つきこ』って間違えられるんだねー、違うんだよ、うんうん。あ、で、片淵って名前も珍しいよねー。淵って字を最初からまともに書けた人居ないんだよね! あ、それアタシのことか、たはー」
この子も中々マシンガントークな子だけど、それよりも――
「じゅ、ジュラ紀?」
説明にジュラ紀なんて言葉が出てきたのは人生初で、しばらくジュラ紀の紀がどういう字を書くか数瞬悩んでから、ようやく世紀と同じ字を書くということに気づく。というより片淵さん、正木さんと同じ漢字だと言っていたし、さっさと気づきなさいよ! と自分に脳内ツッコミ。
ああ、この子も結構パワフルだし、正木さんには荷が重い……いや、こういうキャラだからこそ正木さんを引っ張っていけるのかな?
そして同時に、坂本先生の言っていた言葉が理解出来かけていた。正木さんみたいなタイプの方が珍しいということかもしれないと考えると、これは確かに私の手に余るかもしれませんわね……! とやや決意を新たにした。
……あれ、脳内言語、おかしくなってない?
「私は小山準です。宜しくお願いします」
「それにしてもさ、えーっと……小山田ちん?」
「小山です」
全体的に小さい方の子が、悪びれもなく頭の上で手を組んで、私を見る。
「にはは、そうだったそうだった。で、児玉ちんは何でこんなところでうろうろ不審者ごっこしてるの?」
既に"ま"しか合っていない!
でも、なーるほど。分かっててわざと言っているわけね。それなら――
「担任の先生が来ないから困って職員室前をうろうろしてたんですよ、澤淵さん」
「にゃっはっは、中々準ちんって良いね。うんうん、気に入った、気に入ったよ! 紀子ちんも真帆ちんもこういうときにノッてくれないからさ」
バンバン、と私の背中を叩こうとしたのかもしれないけれど、身長が低いからかほとんど腰かお尻辺りを叩く。
後、さり気なく私の呼び方が小山さんから準ちんに変更されていた。気を許してくれたということなのかな?
「へーん、あたしはそんな幼稚なことしないだけだしー」
「あ、あはは……」
岩崎さんと正木さんが片淵さんの言葉にそれぞれの反応を見せていると、
「あら、小山さん」
声かけ事案本日三回目はどなたですか、と声のした方を向くと、昨日と同じばっちりスーツ姿の理事長さんが坂本先生と並んで立っていた。
「太田理事長と坂本先生」
「小山さん、こんなところでどうされたのですか?」
少し髪を掻き上げる仕草と共に声を発する理事長さん。
「あ、えっと……咲野先生が……」
「ああ、そういうことですか」
咲野先生の名前を出した瞬間、委細承知といった顔の理事長さんと苦笑いの坂本先生。ああ、そうか。職員会議にも来ていなかったからかな。
「坂本先生もそうでしたが、初日から遅刻する人が多すぎます。全く、気が緩めず、時間通りに始めるということの大切さを良く理解して――」
「あ、あの太田理事長。そろそろ時間が……」
お説教モードっぽくなりそうだった理事長さんの言葉を、控えめに坂本先生が制する。
あれ、坂本先生も……ってもしかしてと思って視線を坂本先生の方に向けると、理事長さんの後ろで人差し指を口元に当てて、しーっというポーズ。ああ、さっき保健室で話をしてたせいで職員会議に遅れてしまっていたみたい。申し訳ないことをしてしまった。
「咲野先生が来ないのは仕方がありません。もうすぐ始業式が始まりますから付いてきてください。そちらの3人も遅れないように体育館に集まるように」
「は、はいっ。失礼します」
「分かりましたー」
「じゃあ、準にゃん後でねー」
頭を下げる正木さん、手をひらひらさせる岩崎さん、ウインクする片淵さんを見送っていると、
「行きますよ」
情け容赦なく、クールな理事長さんとそれに付き従うように坂本先生もさっさと歩き出していた。ああ、ちょっと待ってください。
慌てて先生たちの後ろを歩き、校舎から中央の中庭を突っ切るような形で、他の先生や生徒たちが体育館に向かう中に混じっていると。
「ご、ごめんなさーいっ!」
と、バッファローが突進してくるみたいな足音が聞こえて、切羽詰まった声が背後から飛び込み前転を決めてきた。振り向くと、ポニーテールというには雑過ぎる縛り方の咲野先生が息を切らせて立っていた。
「咲野先生ぃ……っ!」
まあ、その先どうなるかは誰でも容易に想像出来るでしょう、きっと。
当然の如く始まった理事長さんのお説教が体育館までの道で繰り広げられているから、色んな先生や生徒たちにチラチラ見られているのだけれど、通り過ぎる人たちの言葉に「また」とか「懲りない」とか「いつもの」という単語が含まれている様子から、この構図は学校の風物詩みたいなものなのかなと、少し離れて遠巻きに見る。あ、でも季節柄のものじゃなさそうだから、風物詩というのも間違ってるかも。名物?
というわけで、知らない人のフリをすべく、渡り廊下の端っこの方で遠巻きに理事長さんと咲野先生の様子を時折見る野次馬を装っているつもりになっていると、ふと動かした視線の先、中庭でふわふわと海中を漂うわかめのような黒いゆるふわウェーブのサイドテール娘が、何故かスリッパで校庭近くを歩いているのが見えた。
「あ、あれ、工藤さん?」
それなりの距離が離れているから全く声が届いていないみたい。今日の朝みたいに、皆と同じように中庭に向かったは良いものの、ぽやぽやしてるせいで道を外れたのかもしれないからと、私もスリッパのまま慌てて駆け寄る。
「工藤さん!」
「…………?」
ゆっくり振り返って私の方を見た工藤さんは、相変わらずのワンテンポ遅れで首を傾げた。
「朝の大きい人?」
「あ、えっと……」
そういえば、まだ自己紹介していなかったかな。
「今日から転校してきた小山準です、よろしくお願いします」
いつまでも大きい人って言われるのもなんだから、私は自分の名前を告げると、工藤さんは改めて数秒の時間を使って目をぱちくりさせてから私を指差した。
「準?」
「え、あ、はい。準です」
「……準」
「な、何ですか?」
眠そうな目で私を見て、工藤さんは続けて、自分を指差した。
「……工藤華夜」
「…………え? あ、ああ、名前のことね。よろしく」
工藤さんよりも言葉の内容を理解するのによっぽど時間掛けた気がするけれど、何はともあれ工藤さんが自己紹介をしてくれたから、これで知り合い同士、ってそんなことはどうでも良いんだった。
「えっと、工藤さん。何でこんなところに――」
「華夜!」
私の言葉を遮るように、切っ先の鋭い刃のようで、同時に女性の抱擁感を持ったような声が後ろから飛んできた。何だか、今日はあちこちから声が飛んで来る日だなあ。
振り返ってみると、黒髪を棚引かせた少し切れ長な目の女子生徒が、慌てた様子で私の脇を通り過ぎる。そのまま女子生徒は工藤さんに駆け寄って、工藤さんにも一切引けをとらないグラマラスな隆起の谷間に顔を埋めさせて抱きしめた。
「全く、さっきまで一緒に居たのにいつの間にかいなくなるのですから。こんなところに居たら始業式に遅れてしまいますよ」
子供を寝かしつけるお母さんみたく、工藤さんのふわふわヘアーを撫で付けるようにして、黒髪の女子生徒が言う。ああ、これが所謂お姉さまと妹的なサムシングなのですね、と目の前で繰り広げられている情景を解説していたけれど、良く考えれば別にこれくらいのスキンシップは女の子同士だと普通なのかも、と思い直す。判定は……ううむ、生活しながら判断していくしかないかな。
「……準と話してた」
「準? ……ああ、そちらの方?」
きょろりきょろりとしてから背後に私を見つけると、工藤さんを開放して、黒髪ロングの女子生徒が頭を下げた。
私の真横を通ったのにこの反応。ああ、多分この人、工藤さんしか見えてなかったのね。これはそう、間違いなく妹センサーにしか反応しないお姉さまです、はい。判定完了。
「華夜を見つけて、捕まえてくれたのですね、ありがとうございます」
「いえ、捕まえたわけでは……」
工藤さんはふらふらと家から出て行っては気まぐれに帰ってくる猫か何かと勘違いしてはいないだろうか。いや、それとも本当にいつもこれくらいふわふわ時間なの?
「私は園村千華留と申します。以後、お見知り置きを」
「小山準です。よろしくおねがいします」
「小山さん……? まさか、同じクラスに転校してきた?」
「え?」
園村さんの言葉に首を傾げる。正木さんたち3人が同じクラスだっていうことと自分のクラス担任が、今叱られているあの咲野先生だっていうこと以外は知らない、というか全然名前を見ていなかったから、園村さんの名前が有ったか記憶に無い。
「3のAに転校してきた小山さんではないのですか?」
「そうです、その小山です」
「あら、それは奇遇です。私も華夜も3のAなのですよ。これからどうぞよろしくお願いしますね」
ふわり、としなやかな仕草で髪を掻き上げながら握手を求める園村さんの手を握ると、少しだけひんやりとしているのと同時にすべすべして……って何、妙な感想を何処に話しているの!?
「ふふっ、準さんって意外と女性らしい方なのですね?」
「ふへっ?」
思わぬ言葉に私はたじろいだ。意外と、と言われるのもアレだけど、女性らしいという言葉に。
「勝手な想像で申し訳ないのですが、準という名前からどちらかというと活動的なイメージを抱いて……あら、いけない」
話の途中に手で口を押さえる園村さん。
「急がないと始業式が始まってしまいますね」
「あ、本当だ」
咲野先生が公衆の面前で辱めを……って言い方はあれだけれど、叱られていた渡り廊下の方を向くと、理事長さんが怒ってますよポーズをこちらに向けてしているのが遠目でも見えた。その後ろに怯え顔の咲野先生とやや呆れ顔の坂本先生。ああ、次は私かな……。
「それではまた、教室で」
「え、ええ、そうですね」
「……ばいばい」
手を振る工藤さんは園村さんに半ば引きずられるようにして歩き出し、2人は体育館の方へ足早に向かった。私はその後を追いかけるように早歩きする。
「何処に行ったのかと思えば……スリッパで中庭に出て!」
「あ、あの――」
「言い訳は要りません。とにかく、始業式が始まりますので、早く体育館に入りなさい」
「は、はいっ」
ぴしゃん! と言い切られた私は背筋も一緒にぴしゃん! と伸ばして、上履きの砂を軽く払ってから、慌てて体育館の中に入る。
で、体育館に入ったは良いものの、3年A組の列は何処だろう。何せ、同じクラスだと分かっているのが正木さんと岩崎さん、片淵さん、工藤さん、園村さんくらい……あれ、まだクラスに入っていない割には意外と顔見知りが多いかもしれない。全然居ないからと言い訳しようと思ったのに言い訳できないじゃない。いや、それ以前に一体誰に言い訳するんだろう。
それはさておき、とにかく自分のクラスを探すためにうろうろなのか、おろおろなのかしていると、
「小山さんっ」
昨日の夕方みたく、正木さんがたたたっ、と駆け寄ってきた。また息を切らせて。
「はぁ、はぁ。なかなか来ないから気になっていたんです。クラスの列が分からないんじゃないかなと思って心配になって」
「ありがとう。ええ、見事に図星です」
「え、えへへ、それなら良かったです。こっちですよ」
先導してくれた正木さんに従って、促された列の最後尾に立つ。
「それではまた教室で」
「はい、ありがとうございました」
正木さんがふわふわと手を振って、同じ列の10人くらい前に入っていくのが見えたと同時くらいに始業式が始まったのだけれど、昨日の疲れのせいか、うつらうつら夢と現実を行き来していたら、いつの間にか始業式が終わっていた。
ふわわわわ、と小さい欠伸をしている私の耳にアナウンスの女子生徒の声が聞こえてくる。
『それでは3年E組の先頭の人から順番に退場してください』
体育館の端の列から順番に人が捌けていって、私達の列になる。太田さんが進んでいき、後に岩崎さん、片淵さんが並んで歩いて行くのが見えて、その後ろに工藤さんと園村さんが並んでいた。
私も身長がかなり高い方だったから気づかなかったけれど、この身長差を見てみると、園村さんは私と同じくらい身長がありそう。ということは175cmくらいはあるのかな?
続けて他の女の子に混じって、正木さんが歩いて行く。私が見ているのに気づいたみたいで、こちらに気づいて小さく手を振ってくれたから、私も手を振り返した。
他は知らない人がその前後を歩いて行くのだけれど、茶髪の女の子2人が喋りながらゆっくり並んでいく様子とか、車椅子を他の女の子に押して貰っているのが見えた。噂通り、色んな子が居るんだなあと思いながら、列の流れに乗ろうと私が1歩前進すると、私の前、最後の1人にがちーん! とぶつかった。もしかして、寝てるのかな?
「あ、あのー、退場ですよ?」
鼻の頭を押さえながら、逆の手で肩をぽんぽんと叩くけれども、一向に動く気配がない。ああ、これは完全に熟睡ですね。
私達が退場しないからか、徐々に体育館がざわめきメモリアルな感じになってきたので、私は仕方がないと前に回ると。
「あれ?」
この子、見覚えが。
そう、みゃーちゃんの部屋で見た、あのロボットの子だ。確か、渡部月乃ちゃんだっけ。
そっか。少なくとも苗字が渡部だから列の後ろの方に居てもおかしく――いや、そういうのはどうでも良くて!
「わ、渡部さん? もしもーし」
梨の礫とはこういうことを言うんだなあ、なんてことを実感している暇はなくて、私はやや焦りながら渡部さんを揺する。
「渡部さん、クラスに戻りますよー」
目が死んだ魚の眼なのはロボットだからなのかもしれないけれど、とにかく動いて、動いてよ! とロボットアニメの主人公みたいに懇願するのも恥ずかしいから、耳元で幼馴染が起こしてくれるようなくらいの音量で渡部さんを呼ぶ。でも全くの無反応。もしかすると、音声認識機能が壊れたとかそういう話なのかな?
渡部さんの控えめな胸元に耳を当ててみると、全くの無音が返ってくるだけだった。人間みたいに心臓の音が聞こえるわけではないと思うけれど、少なくとも昨日、みゃーちゃんの部屋の中ではこちらを向くときにモーターの駆動音がしていた。顔とか関節が動くときにしか鳴らないのかもしれないけれど、もしかして電源が落ちたか待機モードみたいな状態になってるのかも?
『え、えーっと……じゃ、じゃあ2年生のE組から続けて、退場してください』
私の奇妙な動きを察してか、アナウンスをしていた女子生徒が促してくれたから、徐々に下級生の子が退場していく。もちろん、その間じっとこっちを見ながら。
恥ずかしいけれど、この子を放っておくわけにもいかないからね!
引きずって行けないかと思って抱きかかえてみたけれど、案の定というべきか結構重い。多分、色んな機械が積み込まれているからだと思う。
「小山さん、どうしました?」
私が困っているのに気づいてくれたのか、理事長さんがこちらに歩いてきた。他の先生達の視線も集まっていて、居心地が悪いなんていう程度の生易しい物ではなくなってきている。
「あ、あの、渡部さんが動かないんです」
「渡部さん? ……ああ、美夜子ちゃんの作ったロボットの子ですか。うーん、困りましたね。私もこの子については良く知らなくて」
眉をハの字にし、動揺を含んだ声で理事長さんが言う。
「そ、そうですよね。こうなった理由はみゃーちゃんしか知らな……あ、そうか」
ピコーンと豆電球が脳内で光った、気がした。というか、何故こんな簡単なことに気づかなかったのかな。
「みゃーちゃんを呼べばいいんだ」
当たり前の話だった。むしろ、何故今までみゃーちゃんを呼ぶということに気づかなかったのか。
いや、こっちが呼ぶまで来るんじゃないにゃ、しっしってあしらわれたから、脳内プログラマーが選択肢のフラグ管理をわざと怠って、みゃーちゃんを呼ぶ選択肢を選ばせないようにしていたのかもしれないけれど。
とにかくなりふり構ってられないので、駆け足で体育館を出る。
「あ、小山さん!」
「すみません、みゃー……美夜子ちゃんのところに行ってきます」
理事長さんの反応も聞かず、私は昇降口の横にある昨日みゃーちゃんに連れられていった地下室への階段を駆け下りて扉の前に立った。
……が、開かない。
「ちょ、ちょっと!」
扉を叩くも無反応。押しても引いても無反応。いや、扉にノブは無いから引くことは出来ないのだけど。
しまった、そういうことね。呼んだ時にしか来るな、というよりもそもそもここが開いていないから呼んだ時以外に来ても門前払いされてしまうと。困った。
扉の横に何やら認証とかしているんだろうと思われる機械が付いているけれど、もちろん使い方が分かるわけもない。更にその下には何か小さい扉みたいなものがあるけれど、サイズからして犬とか猫とかじゃないと――
「ニャア」
「え? ひやぁっ!」
目の前の扉をどうしようかと首を捻っていたら、足元をスリスリとする毛むくじゃらの物体。でも、地下だから薄暗くて何が居るのか良く分からず、それが猫だと分かったのはその毛むくじゃらが脇の小さい扉から入っていった直後、目の前の扉が横にスライドして開いて、目の前に座って待っていたからだった。
冷静に考えると、ニャアなんて鳴いてたんだから、猫だって気づいてもいいはずなんだけれど、唐突過ぎて頭が回らなかったのは仕方がない。
「黒猫ちゃん?」
さっきの扉はこの黒猫ちゃん専用の通路だったのかな? ということは、みゃーちゃんが飼ってるのかも。
ピン、と尻尾を立てて優雅に歩く黒猫ちゃんは、たまにぴょんぴょんしながら足元に落ちてる機械の海を器用に避けつつ、奥の扉に向かって歩いて行く。私は部屋を見渡してみゃーちゃんが居ないことを確認してから、足元も気を付けつつ黒猫ちゃんを追う。
黒猫ちゃんが扉の前で座ると、扉が開く。
「みゃーちゃ……んっ!?」
そこは、猫グッズが山盛りになっている部屋だった。主にパステルピンクが多いようで、服が脱ぎ散らかしてある。クッションとか猫のぬいぐるみがそこら中に散らばっていて、その奥にあるベッドには布団の中で猫柄パジャマの少女がやや体に不釣り合いな大きくて白い枕を抱きしめて眠っていた。あら可愛い。
顔を覗き込んでみると寝ているときには猫耳は付けていないようで、枕元に置いたままだった。寝る前に眼鏡を外すのと同じような感じかな?
「……んーっ……」
明かり全点灯のまま眠ってしまったのか、それとも暗いとむしろ眠れないタイプなのかは知らないけれど、明るい部屋の中でみゃーちゃんは布団の中でもぞもぞとしていた。ホント、寝顔は凄く可愛いんだけどなあ。
「悪いけど、起こさないと」
渡部さんをあそこに放置しておくわけにもいかないから、私はみゃーちゃんの体を揺すって起こす。さすがに渡部さんみたいに反応しない、ということはないはず。
「みゃーちゃん」
「……ん、ノワールうるさい……みゃー、さっき寝たばっかり……」
布団で頭を隠しながら、ぎゅっと閉じこもるみゃーちゃんの布団を、心の中でごめんねしながら引き剥がす。
「な、何にゃ?」
さすがにびっくりしたようで、冬眠を強制終了させられた熊でもしないような目を白黒させたみゃーちゃんは、ぺたんとベッドの上で眠そうな目を擦っている。
数秒、私と目が合って静寂の後。
「へ、変態ロリコン誘拐魔!」
「違うから!」
「部屋の中まで勝手に入ってくるなんて! 鍵閉めてたのににゃ!」
「鍵が開いたのは黒猫ちゃんのお陰だよ」
私の声に気づいて、黒猫ちゃんがベッドに飛び乗り、みゃーちゃんの足元にまとわりついて丸くなった。
「ノワール……何で準と一緒に居たにゃ」
「たまたま遭遇しただけだよ?」
「ノワールは基本的にみゃー以外には全く近づかないにゃ。というか普段は隠れてるにゃ」
ふむ、それなら――
「でも、準になついたということはないにゃ」
「断言された!?」
「マタタビ臭でもするにゃ?」
ベッドから降りて私の服をスンスン、と匂いを嗅ぐみゃーちゃんだけど、
「全然しないにゃ。謎にゃぁ……」
と言いつつ、ふらふらとベッドに座り込む。ああ、まだ眠いのね。
「というか、なんにゃ。何でみゃーを起こしたのにゃ」
不機嫌モードになったみゃーちゃんの言葉に、私ははっとして慌てて言う。
「ああ、それがね……」
ようやく、渡部さんの話をすると、
「それなら多分、単なる電池切れにゃ」
と言いながら、監視モニタがある部屋から重そうに長細い円柱状のものを2本取り出してくる。白地に『MYAA』と書いてある。ああ、みゃー……ね。
「月乃のバッテリーにゃ。これを背中のカバーを外して取り替えればいいにゃ」
「……なんか、乾電池の取り換えみたい」
見た目も見た目だから尚の事。
「似たようなもんにゃ。あまり活動しなくても1日くらいしか持たないから、大体毎日交換しているにゃ。いつもは電池残量を自動で確認して、電池切れが近くなったら自動で戻ってくるはずだったんだけどにゃ。もしかすると電池が劣化して、あまり充電出来てないのかもしれないから、交換した電池を調べなきゃいけないにゃ。だから、交換したら月乃に渡して持って帰ってくるように言うにゃ」
「ん、分かった」
まあ、今回みたいにたまたまノワールちゃん? この黒猫ちゃんが来てくれた場合は良いけれど、そうでなければまた扉の前で立ち往生しなければならないわけだし。
「とにかく、電池交換したら終わりだからさっさと行くにゃ、しっしっ」
最初に会った時みたいに、手で追い払うような仕草。なので、私も同じく――
「な、撫で撫ではさせないにゃ!」
私の伸ばした手を、ベッドの上に飛び上がって回避する。眠そうな顔をしていたのに、しゃーっ、と牙でも剥きそうなこういう時の反応はそれこそ猫みたいだった。
「残念」
「残念じゃないにゃ! さっさと帰れにゃ!」
「猫耳は付けなくて良いの?」
「…………」
しばらく自分の頭をぺしぺし叩くようにして、
「い、いいからさっさと帰れにゃ!」
猫耳を付けていないことに気づいたようだったけれど、とにかく私を追い払うのを優先したみたい。黒猫ちゃんは、やっぱり飼い主と一緒に居たいみたいで、こちらを見送るようにはしていたけれど、みゃーちゃんの足元でしっぽを立てたままこちらを見ていた。
私が素直に言葉通り、部屋を出ようとしたところで、
「あ」
とみゃーちゃんが声を出すものだから、
「ん? 何? やっぱり撫で撫でさせてくれるの?」
などと笑いながら引き返す。
「違うにゃ! ……でも、ちょっとこっち来るにゃ」
素直に近づくと、机の上に置いてあった結構大きいカメラを私に向けた。
「服を捲ってお腹を出すにゃ」
「え、みゃーちゃんそんな趣味が?」
「ち・が・う・にゃ! とにかくさっさとするにゃ!」
これ以上ごたごたすると、本気でみゃーちゃんが怒りそうだったので、私もみゃーちゃんの言葉に従って、服を捲ってお腹を見せる。
しばらくすると、カシャッ、カシャッ、と何度か撮影する音が聞こえて、カメラの裏側を確認したみゃーちゃんが今度はメジャーを取り出した。
「終わったにゃ。後は身体測定にゃ。服を脱げにゃ」
「やっぱり、」
「違うからさっさとするにゃ!」
と半ギレし始めたので、私は下着姿になる。もちろん、上は付けていないけれど、下は女性物。
「やっぱり律儀に下は女物を付けてるんだにゃ」
「そりゃあね……」
「癖になってきたにゃ?」
「違うからね!?」
漫才で言うところのボケとツッコミをころころ入れ替えながら、みゃーちゃんは私のスリーサイズとついでに太ももの大きさまで測った。何のためだろう。
「んじゃ、明日の放課後にまた来るにゃ」
と言いながら、持っていたメジャーを机の上に置いた。
「何で?」
「いいものをやるにゃ」
「いいもの?」
みゃーちゃんが言う良いもの、というと何となく猫耳とか猫尻尾とかのイメージがして、それを装着している自分を一連の流れで想像してしまって、うげーっとなってしまった。
「早めに渡しておかなきゃいけないとは思ってたにゃ。だから丁度良かったにゃ」
「ふーん……?」
「とにかくさっさと帰れにゃ! しっしっ」
お決まりのパターンが出たけれど、さすがにもう繰り返しはいいだろうと素直に部屋を出る。自動ドアは出る方は特に制限は無いみたいで、全部勝手に開いてくれたから、私はさっきみゃーちゃんに渡されたバッテリーを抱えて、足早に体育館へ向かう。
体育館には静かに仁王立ち中の渡部さん、そしてその無防備な渡部さんの顔を覗き込んだり、目の前で手をひらひら振ってみたりと興味津々の様子の理事長さん。まるで初めてボールを目の前に置かれたボールに対して、どうやって遊ぼうか考えながら手を出している子犬みたいでちょっと可愛い、とか言ったら怒られるだろうなあ。
「あ、あのー」
「わっ」
おずおずと声を掛けた私に、理事長さんはひっくり返るんじゃないかってくらい驚き、ざざっと飛び退ってから、真顔に戻った。
「こ、こほん。どうでしたか、美夜子は」
「えっと、バッテリー切れだそうです。背中のバッテリーカバーを外して、バッテリーを交換してほしい、と」
「なるほど」
ひとまず私は足元に放置していた自分の鞄の横に、抱えていたバッテリーを足元に置く。
「このバッテリーを背中のバッテリーカバーを外して……背中?」
背中、ってことは服を脱がさなきゃいけない、ってこと?
い、いやさすがにちょっと、ロボットとはいえ、理事長の前で女の子型ロボットの服を脱がせるなんて変わった性癖ですね小山さん、と言われると思って……いたんだけど。
「り、理事長、さん?」
「何でしょう?」
手早く渡部さんのスカートをすとーんと脱がせる理事長さん。スカートを脱がせる必要はないとかそういうこと以前に。
「あの、服……」
「脱がせないとバッテリーを交換出来ないのでしょう?」
「……ええ、あの、そうですが……」
どうやら、電源が落ちていても肩とかの関節は力を掛ければ動くようで、両手を万歳状態にしてベストを脱がしていく理事長さん。そんな2人……いや、1人と1台の様子を見て、私は視線を泳がせる。私の様子がおかしいことに気づいてくれた理事長さんは、ようやくそこで手を止めて、ポンと手を打った。
「…………あ、ああ、そういえば、準さんは男の人でしたね」
「忘れてたんですか! 忘れてたんですね!?」
私は思わず叫んで、慌てて声のトーンを下げる。誰にも聞かれてないよね?
「まあ、でも彼女はロボットですし、今は致し方ない状況です」
「は、はあ……」
理事長さん、単純にお堅くて融通が利かない人ではないみたいだけど、それはそれでどうなのだろう。
「とにかく、電池を入れ替えなければならないのでしょう? 悩んでいても仕方が無いのです。早く終わらせて、教室に帰りなさい」
「は、はい、そうですね」
そういえば、まだ教室にも行ってないから、帰るとかいう以前の問題だった。既にホームルームは始まっているだろうし、もし私を待ってホームルームすら始まっていないのであれば、クラスメイトにちょっとどころじゃなく悪いし。
ブラまで脱がせた状態の渡部さんの背中を見ると、薄っすらとカバーを取り外す溝が見える。右肩辺りにある少し大きめの窪みに手を掛けると、あっさりと背中のカバーが取り外せて、中から手持ちのバッテリーと同じような『MYAA』と書かれているバッテリーが覗いた。
本当に乾電池みたいに簡単に取り外せた『MYAA』印の電池を取り外して新しい電池を差し込むと、途端にキュルキュルとかシュルシュルとか音がし始めた。あ、起動したのかな?
ピコピコと電子音も聞こえた後、渡部さんは周囲にしばらく視線を振って、自分の状態を確認し、私と理事長さんに視線を合わせて、
「どうされました?」
と合成されたと思しき声で尋ねる。
「電池切れで止まっていたから、そこの小山さんがバッテリーを交換してくれたのです。お礼を」
「…………」
理事長の言葉に反応して、駆動音を高めながら私の方を向き、上手にお辞儀をした。
「ありがとうございました」
深々と礼。理事長の言葉を理解して回答するなんて凄いけれど、それよりも。
「い、いえ……あの、服……」
「……何でしょう」
「服を着てください」
私には肌色と白色と……そして桃色が眩しすぎます。
足元に脱ぎ散らかすようになっていたブラを取り上げて、着替えようとした渡部さんを制止して、
「あ、先に後ろ向いて貰える? 背中のカバー付けたいから」
と私が言うと、ブラを持ったまま1度停止し、体を起こしてこちらに背を向けた。本当に言っていることを理解しているんだなあ、などと感心しながら、カバーを取り付ける。
「いいよ、服を着て」
私の声に素直に従い、服を着替え始める。何だかちゃんと反応してくれると、色々声を掛けてみたくなるけれど、こちらを向いて着替えるのはやめてね。
「さて、もう用事は済んだようですから、私は理事長室に戻ります。渡部さんが着替え終わったら、一緒に教室に戻りなさい。いいですね?」
「は、はい!」
理事長さんが体育館を出て行ったから、必然的に残されたのは私と渡部さんのみ。とりあえず、ロボットとはいえ見た目は女の子だから、着替えを見ないように背中を向けていると、みょんみょんというかむいんむいんというか、とにかくそんな音がずっと体育館に響いていたけれど、ようやく着替えが終わった渡部さんはまた静かになった。
恐る恐る振り返ると、制服姿に戻った渡部さんが居た。着替えは終わったみたい。
……えーっと、これからどうすれば良いのかな?
「とりあえず、一緒に教室に戻りましょうか」
私が言うと、渡部さんは少しの間の後、
「はい」
と発声して、先に歩き出したから、私は足元に転がっていたバッテリーと鞄を拾って、並んで歩く。
そういえば、渡部さんは教室の位置を知っている……んだよね? 知らなければクラスに戻れなくなっちゃうし。ということは、渡部さんに付いて行けば大丈夫かな。
迷いなく校舎内を歩く渡部さんに、忘れない内に声を掛ける。
「そういえば、みゃーちゃん……あ、えっと美夜子ちゃん? がバッテリーを持って、後で部屋に持って来いって」
私の言葉にワンテンポ遅れて静止したから、私も慌てて足を止めると、渡部さんは私の方をふぃんふぃんという音を立てながら向く。
「承知しました」
答えたと思ったら、再び同じ音を立ててまた顔を戻してから歩き出した。ああ、喋りながら歩くのは無理なのかな。
渡部さんと並んでスロープを上がる。
そう。何故か地下室へは階段だったのに、建物をぐるりと見回しても上り階段は見当たらず、スロープがあるのみ。目の前のスロープを上ってみても更にスロープ。もしかして、これは俗にいうバリアフリーの建物なのかな?
そして、教室の配置も不思議。一般的な学校は廊下が一直線になっていて、そこに教室が同じ方向で並んでいるけれど、ここは壁に沿うように教室が並んでいる。中央のスペースを埋めてる部屋は……カフェテリア? 何か変わった建物だなあ。
「んじゃあ、とりあえず転校生探してくるから……ありゃ」
渡部さんに並んで最上階の3階まで上がってくると、一番手前の部屋の扉から咲野先生が部屋の中に手をひらひら振りながら出てきて、私と視線が合った。
「あれ、小山さん、こんなとこに居たの? あれか、遅刻したから教室に中々入れないやつだね? 分かる分かる。アタシもたまに遅刻して真雪ちゃんに――」
「あ、いえ、今丁度上がってきたところです」
咲野先生の言葉を遮ってこちらの要件を話す。多分、待ってたら延々と話してそう。
「そうなの? まあいいや。探しに行く手間省けたし。小山さんが自己紹介だけしたらもう今日は終わりだし。ほら、ちゃっちゃと入りなー」
先生に手を掴まれつつ、教室の中に入ると当然の如く全員に注目される。ああああ……今更だとは分かっていても。あまり注目とかされたくないのに!
後ろを向くと、その後から渡部さんが徐ろに部屋に入ってきて、自分の席に座った。
「えー、さっきも話したと思うけど、このクラスに転校生が来ました。まあ、仲良くしてあげて。はい、小山さんご挨拶」
「えーっと……小山準です」
言いながらクラスを見回すと、正木さんの安堵した顔、真ん中辺りにニヤリと笑っている岩崎さんと片淵さんの姿が見えて、私も少し落ち着いた。困ったときは知っている顔を探すのは仕方がないよね。
お陰で少し落ち着きを取り戻せたから、自己紹介の続きをする。
「二見台高校から来ました。よろしくお願いします」
無難な挨拶が終わると、横に立っていた咲野先生が人差し指を立てて高らかに言い放ち、
「じゃあ、質問タイム――」
言い終わる前にチャイムが鳴る。
「――と言いたいところだけど、残念ながらタイムアップだし、聞きたい人は後で個人的に聞いてね。んじゃあ号令、太田さん」
「起立!」
こちらも見覚えのある、寮に居た眼鏡の仕切り娘、太田さん。
「礼! ありがとうございました」
皆が頭を下げるのに合わせて、私も壇上のまま頭を下げ、頭を上げたら既に咲野先生が教室を出ようとしていたから、慌てて私は追いかける。
「ちょっと先生!?」
「え? どったの?」
「どったの? じゃないですよ! 私の席は? 明日からどうすればいいんですか? 時間割とか色々ありますよね!?」
「あー、それね。席はほら、一番奥のあの日当たり良好のとこ。窓際最後尾、寝ててもバレにくいベストポジションだ! やったね、羨ましいぞこのやろー! で、明日からはふつーに来ればいいよふつーに。時間割その他諸々の書類は机に置いてあるからそれを見て! んじゃねー、アタシこれから職員会議その2があるから。……あー、まあ多分、また真雪ちゃんに怒られるんだけどさー……」
私の質問に全部答えてくれたのは答えてくれたけれど、作業終わらせました感が酷い咲野先生はひらひらと手を振って行ってしまった。ああう……まあ、いっか。
「小山さん、大丈夫ですか?」
「小山さーん?」
「準ちんも大変だねえ、はっはっは」
自分の席に行こうと思ったら、私の目の前に仲良し3人娘が目の前に立ちはだかった!
いや、別に机に行くのを遮ろうとしたわけじゃないと思うけど。
「大丈夫でしたか?」
「あ、はい、大丈夫です。渡部さんの電池が……あ、皆さん渡部さんがロボットだってことは?」
「知ってるよー。だって、学校の七不思議の1つだしね」
私の肩に軽く体を預けつつ、ちらりと渡部さんを見て岩崎さんが言う。ああ、確かに渡部さんみたいにかなり人間に近いロボットが存在している時点で不思議といえば不思議かも。これで七不思議3つ目かな、って別に七不思議を集めるのが学校に転校してきた目的じゃないんだけれど。
「えっと、渡部さんの電池を交換するのに時間が掛かって……」
みゃーちゃんの話は伏せておいたけれど、
「ふーん。でも結構走るの早いんだね。中々小山さんが来ないから、皆スロープ前で待ってたんだけど、色んな子を躱しながら地下室まで走っていく小山さんの姿が見えたんだよね。ねえ、ウチに入らない? もう3年だから大会とかは出られないけど、ああいう人が居ると結構後輩の子とかやる気出るんだよね! ほら、アタシ陸上部じゃん?」
岩崎さんにとってはどうやら興味無しの様子。まあ、下手に追求されなくて良かったのかな。
後、じゃん? って言われても知らないです。確かにちょっと日焼けした肌だから、言われてみればそうなのかも、って思う程度ではあるけれど。
「あ、あはは……遠慮しときます」
「準にゃんも初日から大変だねえ」
ツインテールの片淵さんは他人事のように笑う。……ていうか他人事だから仕方がないよね!
「と、とりあえず席の荷物取っていいかな?」
先生が言ってたプリントを確認したいし。
「良いよー。んじゃま、取ったら小山さんちに押しかけましょうそうしましょう」
「え?」
「ちょ、ちょっと真帆……」
「いいじゃんいいじゃん。ほら、小山さんって寮暮らしなんでしょ? 1度くらい行ってみたかったんだよねー、うちの菖蒲園。ボロっちいけど広いって噂だし」
思い出してみると……言うほど古くはないけれど、新しいか古いかの2択を迫られたら確かに古いと言うべきかもしれないとは思う。そして、確かに広い。
「それに結構部屋空いてるんでしょ? せっかくだし、空き部屋使わせて貰わない?」
「駄目よ」
ぴしゃりと制する声。声の主は、ある意味寮長よりも強権を持っていそうな眼鏡っ娘だった。
「うえぇー、太田……」
岩崎さんが心底嫌そうな声を出す。その声にむっとした表情を作る太田さんだったけれど、再びキリッとした表情に戻して言う。
「小山さんの部屋に行くこと自体は構わないけれど、空き部屋を勝手に使うことは許されないわ。まあ、そもそも鍵を掛けているから、勝手に入れないようになっているけれど」
「はいはーい。んじゃ、小山さんちへレッツゴー」
プリントを確認していた私の肩を押しながら、さっさと教室から押し出そうとする片淵さんに、私は慌ててプリントを鞄に仕舞う。どうやら片淵さんもあまり太田さんとは仲が良くなさそう。まあ、太田さんは少し厳しいところがあるからなあ。
「小山ちーん、良いよね? 大丈夫大丈夫、あたしたちも片付けとかあるなら手伝うからさー」
「わ、分かりました」
本当のことを言うと、引っ越ししてきたばかりだから色々買い出しに行こうかなと思っていたのだけど、後回しでも問題ないし。プリントとかは帰ってからゆっくり読もう。
3人娘に導かれるように校舎を出て、寮までの道を歩く。
歩いている途中で色々話をしたのだけれど、もうすぐに寮が見えるというくらいになったところで振られた話題に私は言葉を詰まらせた。
「そういや小山さんって、何で二見台? だっけ? あっちから転校してきたの? あたしなら絶対こっちの学校より二見台の方が良いと思うけど」
「あ、えーっと……」
岩崎さんの言葉に少し戸惑う。その質問をされるだろうとは思っていたけど。
「そうさね。アタシも気になったんだー。二見台ってかなり頭の良い進学校だったはずだよね、確か」
「え? マジ? 小山さん、そんなところから来たの?」
「あ、ええ……まあ」
確かに偏差値は高かったし、入学試験は難しかったような覚えがある。他の学校の人に名前を知られているくらいだっていうのは初めて知ったけれど。
「小山さん勿体無いよ! ちょー勿体無いよ! 何でこっち来たの? あ、いや、別にあれだよ、来るのがいけない訳じゃないんだけどね!」
勿体無い……勿体無かったのかな。
私が岩崎さんと片淵さんの言葉に首を傾げていると、思わぬ方向から声が飛んできた。
「あのっ、小山さんは趣味とかありますかっ!?」
「え?」
唐突に隣に居た正木さんが声を上げたことで、同時に4人全員が驚いた。
……いや、正木さん自身が何故びっくりしているのかは分からないけれど。
「紀子がそんな声出すの、珍しくない?」
「あ、ごめん……」
正木さんは少しだけはにかむ。
「まあいいさね。でさー、準ちゃんは普段何をしてるのかなぁ?」
笑いながら、片淵さんが言う。
「えっと……勉強とか……」
「うわぁ」
同時に心底嫌そうな顔をした岩崎さんと片淵さん。正木さんにも少し苦い顔をされた。
「い、いえ、塾に通っていたので、予習復習の時間で手一杯で。転校するときにやめてしまいましたが」
「ああ、そういうことね。うんうん、やっぱ頭良い学校だとそうなるんだねえ」
「そういう意味では準にゃん、こっちの学校来て正解だったかもねー」
頻りに頷く岩崎さんと私の肩を叩く片淵さん。
「そう、かもしれないですね」
私は静かに笑った。
「とはいえ、小山さん頭良さそうだし、今度の中間テストは教えてもらおうそうしよう」
「え? あ、でも私、今回のテストの範囲を知らないから……」
「そんなら尚の事、紀子ちんの家で皆でやった方が良いかもねー。テスト範囲がもし、前の学校と被ってたりしたら教えてね、よろしくー」
「あ、はい」
超元気な岩崎さんと片淵さんが先に進むのを追うようにして、私は正木さんと並んで歩くのだけど。
「あの……ご迷惑ではなかったですか?」
隣から控えめに、そう告げた正木さん。
「え? ああ、寮の部屋ですか? いえ、構わないですよ」
買い物は別に明日でも明後日でも。場合によっては今日終わってからでも構わないし。
あ、でもそもそも、買い物が出来る場所も知らないから、聞くか近場をうろうろしなきゃいけないか。まあ、スマホの地図で調べれば良いかな。
そう言うと、正木さんはふるふると首を横に振る。あれ? 違う?
「何というか、その、前の学校の話をしていたとき、何だか凄く嫌そうというか、寂しそうな顔をしていたので、あまりその話をしたくないのかなと思って」
「ああ、そういうことですか」
そこまで露骨に顔に出ていただろうか。岩崎さんや片淵さんは気づかなかったようだから、分からないだろうと踏んでいたのだけど。
「私の勘違いであれば申し訳ないので……」
「いえ、正木さんの言う通りです。ありがとうございます」
確かに前の学校は片淵さんが言う通り、バリバリの進学校だったこともあったのだと思うけれど、あまり楽しい思い出は無い。
「……でも正木さん、良く分かりましたね」
「えっと……そうですね。小山さんが嫌そうな話をした際には髪を撫でる癖があるんですよ」
「え?」
慌てて手を髪の毛にやってみる。そんな癖があったとは思っていなかったけれど、無意識の内に触っていたのかな?
私がわたわたしているのを見て、くすくすと声を出しながら、
「……冗談です」
正木さんがくすりと笑う。正木さんにも意外とそういうお茶目なところもあるんだなあ。
「ほらほらー、早く2人共ー!」
「2人共、さっさとこっちゃ来ーい!」
先行していた岩崎さんと片淵さんがこちらに手を振る。私と正木さんは頷き合って、駆け足で2人に追いついた。
寮に戻ってきて、扉を開けるけれど誰も居ない。太田さんは私達より出るのが遅かったようだからまだだろうし、工藤さんも園村さんと話をしているようだったからまだかな。
そういえば、他の寮生とはまだ会っていないけれど、本当に住んでいるんだよね……? 実は住民が居るようで居ないというのが七不思議の1つだったとかそういうことは無いよね?
「うわっ、広っ!」
「広いねー! おっ、こっちはお風呂場かな?」
岩崎さんと片淵さんは靴を脱ぎ散らかしたまま、来客者用のスリッパを履いて勝手に寮の中をうろうろし始めるから、私はひとまず岩崎さんの靴を整えると、横で正木さんが片淵さんの靴を整えていた。ああ、うん。何というか、凄く親しみやすいなあと思っていたのは、こういうところの考え方というか行動が同じだからなのかな、と思ってしまった。
「ねーねー! この部屋は誰の部屋?」
岩崎さんが扉を指差して尋ねる。
「私も良く分からないです。昨日来たばかりなので」
「ふーん。あ、そういや小山さんの部屋は?」
「2階の1番奥です」
「おおぅ、良い部屋取りじゃないかぁ! 真帆ちん、さあ行くよ!」
「おうさぁ!」
どたどた、と岩崎・片淵ペアはどんどこ階段を駆け上っていく。あ、でも――
「準ちゃーん! 奥って言っても右と左あるよー! どっちー?」
そうなりますよね。
片淵さんの声に、私は少し大きな声で答える。
「左手方向ですが、まだ鍵開いてないですよ。後、あまりバタバタすると、太田さんが帰ってきたときにものすごく怒られますよ」
「「うっ」」
上から同時に心底嫌そうな返事とも言えない声が帰ってきた。本日2度目。
太田さんごめんなさい。でも、これは凄く使えます。
私が階段を上がると、2人は既に私の部屋の前に立っていた。
「にゃっはっは、準せんせーは中々やるね。アタシたちが太田さんのこと苦手なの、良く分かってるぅ」
片淵さんが私と肩を組もうとしたのかもしれないけれど、身長差がありすぎて肩にぶら下がるような形になった。
「さっきの太田さんへの反応を見てたら分かる……というのもありますが、私自身今日の朝、叱られたばかりなので」
「マジで? 朝から小山さんも大変だね。まあ、あの太田ならありそう」
岩崎さんの言葉に苦笑しながら私が鍵を開け、ノブを回すと、
「おおー……何にもない」
岩崎さんが歓喜の声を上げようとして広げた口をへの字に曲げて残念そうな声。
「昨日引っ越してきたばかりですから……」
「えー、引っ越してくる時に漫画とか持ってくるじゃない、ふつー」
「でも、ベッドはふわふわじゃないかー!」
片淵さんがいつの間にかベッドを占拠して横になっていた。早い。
「お、お邪魔します……」
2人とは対照的に、正木さんは借りてきた猫のような様相で、何だか落ち着かない。
「正木さん、そんなに畏まらないで良いですよ」
「え、ええ。あの、私、真帆の家以外、行ったことがなかったので、少し緊張して……」
気を使いすぎる正木さんにとっては他人の部屋というのは緊張してしまうものなのだろうか。まあ、私も昨日会ったばかりの、友達ともまだ呼んでいいか分からない人の家にお呼ばれしたら気後れするかもしれない。というより、岩崎さんと片淵さんが元気過ぎるだけで、正木さんの反応が普通なのかも。
とりあえず、私が座る場所が無いのでベッドを背にして床に座ると、隣に正木さんも座る。床に座らなくても……と言おうと思ったけれど、椅子は岩崎さんが使っているし、ベッドはツインテールも含めてベッドを占領している片淵さんが居るから、座りにくいのかも。ううん、それ以上に私が床に座っているのを見て、気を使っているのかもしれない。
「そういや準ちんってお兄ちゃんとか居るの?」
「いえ、妹が1人だけです」
「そうかー。いや、何か面倒見のいーから駄目兄の世話を焼く妹とかなのかなーと思ったけど、面倒見のいーおねーちゃんでしたか、はっはっは」
片淵さんが天井を仰ぎながら笑う。
「そんなことよりも小山さーん。思っていたよりはボロくないけど、この寮って遊ぶところとか無いの? つまんなーい」
岩崎さんは勉強机の椅子に陣取り、椅子の背を跨いで座りながらぶーぶー文句を言い始めた。
「向かいの部屋に娯楽室がありますよ。何も置いてないですが」
「むぅ、つまり何も無いってことじゃん! よし、これは小山さんの歓迎会兼ねて、遊びに連れて行かなきゃいかんね!」
岩崎さんの言葉に、ベッドに寝転がっていた片淵さんがひょいっと起き上がる。
「おー、何処行く? ボーリング?」
「良いね! 最近部活もあまり参加できないし、体動かせないからうずうずしてたんだよね! よし、んじゃあこれから遊びに行こー!」
「あ、えっと……」
「良いよね? あ、もしかしてボーリングとか行ったこと無い?」
「いえ、1回は行ったことがありますが……」
「い、1回!? マジで?」
椅子からひっくり返るんじゃないかってくらいに大仰に驚く岩崎さん。え、そんなに驚くことなのかな?
「んっふっふ……そうかいそうかい。んじゃあ、ちょっち遠いけどボーリング行きましょうかね!」
「えっと……」
正木さんの方を見ると、苦笑いで返してくれた。ああ、なるほど。こういう場合はもう手が付けられないのね。
「あ、そうだ。小山さん、メアド教えて」
椅子から立ち上がって、またすとんっと同じポーズで座り直した岩崎さんがポケットからスマホを取り出していじりながら言う。
「え? あ、良いですよ。赤外線でいいですか?」
「おっけい」
私も床に座っていたところを立ち上がり、岩崎さんの傍で再び座り直して、赤外線で送信しているとベッドの方から声がする。
「しかし準にゃんって座り方、男らしいねえ」
「え?」
ごろ寝ポーズに切り替わっていた片淵さんが私を見ながらにははと笑う。
「ほら、スカートで胡座かくし」
「……っ」
しまった。忘れてた。
慌てて正座するけれど、片淵さんは笑顔を崩さない。まさかバレたかな……?
ごろ寝からベッドに胡座をかいて座った片淵さんが笑顔を崩さずに言う。
「まあ、アタシもそうだかんねー。良く全校集会とかで胡座かいてると太田さんとかに怒られるんだけど、別にいいじゃんねー」
「そ、そうですよね」
「でも準ちん、真面目っ子だから足崩して座るかと思ったら、胡座かいたからちょっとびっくりしたよ、うんうん。絶対紀子ちんと同じで正座するか、お姉さん座りすると思ってた」
「え、ええっと……あはは、私もあまり正座とか得意じゃなくて」
はぁぁぁぁぁぁぁ……びっくりした。とりあえずバレなかったみたいだけれど、座り方にも気を付けないといけないなあ。
「小山さーん。メール送ったからリンク先見て」
「あ、は、はい」
「今から行くボーリング場はネットで会員登録しておけば安くなるんだよねー。あたしたちは既に登録済みだから、小山さんもよろしくねっ」
「分かりました」
「あ、あのっ、私も……」
正木さんがおずおずと携帯を出してきたので、再び携帯を出すと、
「おおぅ、んじゃあアタシもアタシもー」
片淵さんもベッドから降りて携帯を取り出す。ちょ、ちょっと待ってね!
アドレスを3人と交換し終わったら、岩崎さんがぴっと立ち上がった。
「よーし。じゃあ制服のままじゃまずいだろうから、一旦家に戻って着替えないとね。駅の北口待ち合わせにしよう。30分後くらい!」
「いーよー」
「んで、ついでに小山さんの部屋に色々持ち込もう」
「……えっ」
ニヤリ、と笑う岩崎さんと片淵さん。
……あ、これは頻繁に部屋に来るつもりですね、分かります。
「おっしゃー! 小山さん、勝つぞー!」
「お、おー?」
「声が小さーい! 勝つぞー!」
「お、おー!」
岩崎さんのノリに合わせて拳を振り上げるのを、青汁混じりの牛乳でも飲んだみたいな表情の正木さんとお腹抱えて大笑いしながらスマホでパシャパシャ写真を撮る片淵さんに見られながら私は冷や汗をかく。というか正木さんと片淵さん以外にも遊びに来た大学生グループとかおば様方に見られているのが恥ずかしい。
グーとパーでグループ分けした結果、岩崎さんとチームを組むことになった。どうやらチーム戦みたい。
「さあ、始球式はどっちがやる? あ、こっちはもちろん小山さんだからね!」
「えっ」
ボーリングをほとんどやったことない人間に始球式……でも野球もプロじゃない人がやることが多いし、そういうものなのかな?
「もちろんでしょ! ほらほら、ボール持って! っていうか本当に10とかで大丈夫? 重くない?」
「あ、はい。それは大丈夫です」
本当は13と書いてあるボールでも問題無かったのだけど、他の3人がボールを選んでいる時に7とか8とかを選んでいたから、あまり重いのを持てますアピールはまずいかなと思って10にしておいた。指を入れる穴は第1関節までは何とか入ったけれど、これで本当に投げられるのかな。
「んじゃあ僭越ながら、アタシが行こうかねー、んっふっふ」
自信満々の片淵さんがピンの前に立ったから、私も慌ててシューズに履き替えて並ぶ。
「あ、確認しとくけど、最初の1ゲームは練習。で、次のゲームで勝ったチームが負けたチームにジュース1本だからね!」
「おっけー、まっかせなさい」
隣で胸を張って、ツインテールのクラスメイトがボールを不敵な笑顔で構える。それに倣って私も胸を張って立ち、左手でボールを支えながら右手の指をボールの穴に差し込むんだのを再度確認する。やっぱりちょっと指がしっかり入らなくて不安定。ちょっと心配だなあ。
「……なーんか後ろから見てるとお母さんと娘っていうか、お父さんと娘みたいだね」
「お父さんは言い過ぎだけど……確かに凄い身長差だね」
「にっはっは、そうかねー? らしいですよ、小山パパ」
「ははは……」
やっぱり私の身長、目立つのかな。
「まあいいや。んじゃあスタート!」
岩崎さんの声と共に、片淵さんが歩き出してボールを転がす。放たれたボールはレーン上のほぼ中央を通り、スパーンッ! と全てのピンを吹き飛ばしていった。
「いえーい、ストラーイクっ!」
席に戻る岩崎さんが正木さんと両手でハイタッチする。何か楽しそう、いいなあ。
「都紀子は上手いから気にしない気にしない。さあ、最初は練習だから気張らずにいこー!」
私は再度気を取り直して、ボールを持って1歩前に踏み出し、そこで止まる。
「……小山さん?」
少し呆れ声の岩崎さんの声に、私は汗を吹き出させながら、古びて錆びかけた大時計の針みたいにスムーズとは到底言いがたい動きで上半身を回転させた。
「え、ええっと……どうやって投げるの?」
「や、普通にステップして、普通に投げればいいんだよ?」
「普通、普通にステップ……」
再度元に戻って、数歩歩いてボールを勢い良く後ろに振り上げた瞬間に、ボールの遠心力でひっくり返りそうになり、何とか踏みとどまった。ぼ、ボールを後ろに吹き飛ばさなくて良かった……。
そして再度私は振り返り、素直に心に従って首を傾げた。
「普通……?」
「……マジでそこからなんだ、小山さん」
苦笑いの岩崎さん。ごめんなさい、そこからです。
「あ、えっと……」
その様子を見兼ねたのか、正木さんが椅子から立ち上がって、自分のボールを持って私に並ぶ。
「小山さん、見ててください。こんな感じでボールを持ってですね」
「は、はい」
キリッとピンをしっかり見て、ボールを構える正木さん。お、おお、何か凄そう。
「大体4歩くらいで歩ける位置に居ると良いと思います。ボールを投げるときは、右利きの場合は左足を前に出したときにボールを投げると良いですよ」
「なるほど」
「やってみますね」
そう言って正木さんが歩き出し、ボールを振り上げる。なるほど、3歩目くらいで腕を後ろに上げれば良いんだ。
……と思ったのもつかの間。ボールを下げた正木さんの体がぐらりとピンに向かって体が倒れた。まるで釣り針に引っかかった魚みたいに、ボールの勢いで正木さんが引っ張られたみたいだった。
そうしたらどうなるか、なんてことはもう自明の理で。
べしこーん! という凄い音と共に正木さんはボールをしっかり指に嵌めたまま、床に突っ伏した。あ、今顔から……?
「ま、正木さーん!?」
「い、イタタ……」
のそのそと立ち上がり、足が少し震えていたせいで生まれたての子鹿のように見えた正木さんを、私は手に持っていたボールをボールリターンに置いて駆け寄る。
「なっはっは。紀子ちん、盛大にコケたねえ」
「紀子、運動神経悪いのに張り切るから。全く……大丈夫?」
岩崎さんと片淵さんも寄ってくる。
「うう……痛ひ……」
「け、怪我はしてないですか?」
正木さんの顔とか腕、足を確認するけれど、膝とおでこが少し赤くなっている以外はどうやら大丈夫みたい。
「み、見ないでください!」
恥ずかしさのあまり、その場にボールを転がして両手で顔を隠す正木さん。ああ、でも何となく正木さんはそういうキャラのような気がしてました、と言ったら怒られるかな。
「で、でも失敗しましたが、こ、こんな感じで投げればいいです!」
言いながら、正木さんはボールリターンに足元のボールを置いてから椅子に戻って、また顔を覆った。
「あ、ありがとうございます、正木さん」
よ、よし。じゃあ投げてみよう。
「コケるのは真似しなくていいからねー」
「もう! 真帆!」
茶化す岩崎さんの肩を立ち上がってぽこぽこ叩く正木さんに集中力を乱されながらも、体を張って正木さんが教えてくれたんだからと、ボールを構え、4歩目でボールを投げた。
……投げたのだけれどね?
ちょっとボールがね?
あの、軽すぎたんですよ、きっと。
私が投げたボールは手から離れた瞬間にピンに向かわず隣、つまり正木さんたちが居るレーンの方に真っ直ぐに吹き飛び、端にあるガターへ一直線、そのままピンに触れること無く一番奥の闇に消えた。
私を含め、4人とも呆然。
ようやく最初に幽体離脱した意識が戻ってきた岩崎さんが一言。
「よし! 今日は勝負はやめ! 紀子と小山さんの特訓だ!」
「勝負になりそうにないからねえ、にゃっはっは」
「「……お願いします」」
私と正木さんは互いに苦笑しながら、とりあえずピンは倒してないけれど両手ハイタッチをした。