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第1時限目 初めてのお時間

 まだ春先のため、周囲の景色を覆うように下りた(とばり)の色がくれないからやや薄い黒に変わった頃。

 理事長室に呼ばれた僕は、革張りのソファに座り、目の前の服へ視線を固定させたまま、針のむしろという言葉を体感していた。

 ああ、ちくちくと全身が細い針で突かれているように痛痒いたがゆい。

 目の前の革張りソファには女性が2人。

 その片方、頬に手を当て、細く整えられた眉をハの字にした年齢不詳のスーツ姿の女性は、勝手に動物園に迷いこんできた羊を見る目で僕と目の前の服を交互に見ては、淑やかな動作で溜息を吐いた。

「申し訳ないのですが、どうやら事務手続きの間違い、みたいなのですよ」

 目の前の女性は、単なる転校であればせいぜい初日に顔合わせして「これから頑張ってくださいね」程度の挨拶を終えたら、それ以降在学中に見ることは学期の始まりと終わりのときの挨拶くらいしかないだろう、ってくらいに偉い人。

 この女性はここ、西条学園の理事長さんの太田真雪おおたまゆきさんである。

 理事長さんが出てくるような"緊急事態"というのはなんと……! なんて溜めなくても既に分かっていると思うけれど、単純に目の前にある"女子生徒の制服"を男である僕が着ること、もっと言えば、これを着て、僕がこの西条学園で学校生活を送らなければならないという事案が発生している、と言うこと。

「ご存知かと思いますが、弊校は女子校ですので、本来男性の入学は認められていません。もちろん、今までも不埒ふらちな気持ちを持った男性が入学願書を出していたケースがありましたが、今までは正しく事務手続き中でチェックされ、然るべき処置がされていました。しかしながら……」

 黒髪のふんわりカールな髪型の理事長さんは、落胆と動揺の色が互いに出ては消え、消えては出を繰り返す声色で、困ったときの癖なのだろうと思われる、髪を指で少し弄びながら声を発する。

 面接では何も言われなかったし、書類の性別欄にも間違いなく"男"と書いた。

 でも、僕は入学出来てしまった。

 何故、今更僕が男だと気づいたのかということについては疑念ぎねんが尽きないけれど、何にせよ夕刻に片足を突っ込んだくらいの時間にようやく荷物を持って到着した僕が、校門前に立っていた理事長さんに捕まって、荷物を持ったまま理事長室へ連行された後、事情を説明されたというのが今のこの状況。

 もっと早く気づいてよ! と思うし、ちゃんと性別は偽らずに記載していたのだから僕は悪くないと思うけど、そもそも転入学の入学願書を出してしまったのは僕といえば僕だから、全く問題がないとは言い切れない。

 ……あれ、入学願書を出さなければこんなことは起こらなかったのだから、むしろ僕の方が悪いのでは?

 で、でも、僕にこの学校の入学を勧めたのは――

「うむ。私が思うに――」

 ずっと無言のまま、理事長さんの隣でコーヒーを口に運んでいた、こちらもまた年齢不詳な女性の寮長さん(そう説明された)である益田綾里ましたあやりさんが、やや勿体つけてから、人差し指を僕に向けて持論を展開した。

「キミが可愛かったからだ!」

「そんなの理由になってないですよ!」

 そして、ちょっと溜めて言うようなことじゃないですよ! と続けたかったけど、そのツッコミはさすがに初対面の人間にするものではないかなと思って、踏みとどまった。

「ま、冗談はさておき」

 冗談だったんだ、今の。

 すらり、と黒のタイトスカートから覗く長い足を組み直して、寮長さんは言葉を続けた。

「キミが女性的な顔立ち、声をしているのは間違いない。先ほど太田理事長が言った通り、女子校に男が志願してくる邪なヤツは大抵、写真チェックで弾かれる。写真チェックで誤って通っても、面接時の声で気づく。だが、その容姿と声で、きっと書類の性別欄を書き間違えたのだ、たったそれだけの間違いで落としてしまうなんて可哀想だ、だから今回はオマケで通してあげよう、という面接官の心遣いと思い込みが発生し、晴れてキミはここの生徒になった、とこんな流れだろう」

 凄く、出来る女性オーラと共に滅茶苦茶な理論を振り撒く。駄目だこの人……!

 でも、違うと言いきれそうになかったのがなんとも。

 実際、今まで何度も女の子と間違えられてきたし、小さい頃は妹の服を着せられて、遊びに連れ回されたこともあったし、海でナンパされたこともあったけど! ちゃんと男物の海水パンツ履いていたのに!

 ……なんか、ちょっと悲しくなってきた。

 挫けた心を何とか踏ん張って起こす。

 そう、僕自身もいけなかったかもしれないけど、面接でちゃんと落としてくれなかった学校側も原因なんだから、気に病む必要はないんだ。

 益田さんが言っていたように、落とすなら面接の時に落とせていたはずだし!

 この西条学園の転入試験は、転入試験と同日中に面接もあって、試験要項には『私服で来ること』と記載されていた。

 だから僕も素直にそれに従った。

 流石にシャツ姿にジーパンというのは駄目だろうと思って、着ていく服に悩んでいたら、試験開始時間に間に合うかどうかの瀬戸際になってしまったから、慌てて手近にあった白のブラウス、ややタイト気味の黒のチノパン姿で飛び出し、試験になんとか間に合った。

 ただ、どうやらブラウスは妹のものだったらしく、帰ってきてからしこたま怒られて、その日は一言も会話を交わしてくれなかった。

 ……もしかして、僕が女物のブラウスを着てこなければ勘違いは起こらなかったとか?

 ますます、自分が周りを混乱させてしまったことにより起こった悲劇のような気がしてきて、どんどん肩身が狭くなっていく気がした。

「……あ、あれ?」

 そこまで回想して、目の前に置かれた服とのギャップに思考が一旦停止する。

「転入試験の時は、確か私服だったと思うんですが、何故制服があるんですか?」

 てっきり、試験要項の制服に関する記載は、制服が無いからだと思っていたのだけれど。

 でも思い返すと、確かに転入試験のとき、周りの女の子たちは確かに制服を着ていたような。

「ああ、あれは男女を見分けるために行っているものです」

「……え? すみません、意味が良く……」

 僕の至極真っ当と思われる疑問に答えたのは理事長さんではなく、隣の寮長さんの方だった。

「昔、男子生徒がコスプレ用のセーラー服を着て、試験を受けに来たことがあってな。入試のときには遠目からしか生徒たちの姿が見えないし、セーラー服を着ているという安堵感から監視役の教師たちも女子生徒だと思い込んでしまっていた。まあ、その時は明らかに男だと分かるような声だったから、面接の際に気づいて、入学を未然に防ぐことが出来たのだが、それ以降は教師側の緊張感を保たせるためにも、私服での受験を義務付け、生徒1人1人を良く確認して、生徒が男か女かを見極めるようにさせた。まあ、今回は転入手続きだから若干気を抜いていたとはいえ、こうやって男子が紛れ込んでしまった以上、私服受験を見直す必要があるだろうが」

 ま、まあ、女性物の服を着て、受験に来たというのは間違いないから、それについては僕も何も言い返せないんだけど。

「で、でも流石に……一緒に生活してたらバレますよね?」

 身体測定に体育の着替え。そして何より水泳。男だってバレる機会のオンパレード。多分、まだ気づいていない男バレイベントはごまんとあると思う。

 そしてもし、僕が男とバレてしまったら……こ、殺されるよね、肉体的に、精神的に、社会的に。

 そんなことを考えて身震いしたら、理事長さんも更にバツの悪そうな顔をして、

「他校への転出手続きをするにしてもまだ時間が掛かりますので、しばらくはここで女性として生活してください」

 と、申し訳無さそうな表情とは裏腹に無茶なことをさらっと言ってくださった。それはさながら、脱走したハムスターを掴んで檻に入れるように無慈悲に。

 お父さん、お母さん。僕は……もう駄目かも知れません。

「大丈夫だ」

 ビシッ、と親指を立てて寮長さんが答える。何故か自信満々。

「な、何か名案があるんですかっ!」

 僕は思わずソファから腰を浮かした。

「キミなら、きっとこの服は似合うぞ」

「…………」

 立ち上がりかけた体を、特大の溜息と共にソファに投げて沈めた。

 何でこんなことになったんだろう。

 試験とか面接のときに、登校中の生徒が女の子ばっかりだったことに対して、おかしいと気付かなかった僕も僕だけど。

「あっ……」

 理事長さんの漏らした言葉に、もう何が来ても驚かないと僕は観念して答える。

「何でしょう、か」

「ずっと忘れていましたね」

 そう言って、優しい、自分の子供を見るような笑顔。

「ご入学、おめでとうございます。小山準さん」

 不意打ちだったから、僕の頭の中の全てが一時停止して、なうろーでぃんぐ! って文字が飛び交っていた。

 ようやく言葉を噛み締めた僕は、慌てて姿勢を正し、発表会に初めて出た小学生の子供みたいにもじもじしてから、

「あ、えっと……ありがとうございます」

 となんとか笑顔で答えることが出来た。

 主に学校生活全体に関わることは理事長さん、寮内の規則については寮長さんが説明してくれるということで、そのまま理事長室で説明を続けて聞くことになった。

 学校生活については、実にあっさりと説明された。というよりも、ほとんどが「後は生徒手帳の○○項を見てください」だったから早かっただけだと思う。後で生徒手帳を良く読み直さないと。

 説明された中で、最重要事項はこれ。

「体育はみんなと一緒に着替えるしかありませんが、あまり周囲を見ないように注意してください」

 理事長さんの言葉は更に続く。

「本来、こんなことは許されることではありませんが……下手にあなただけを特別扱いするのは周囲があなたに疑いの目を向ける原因となります。ですので、その場で着替えてください。くれぐれも……いいですね?」

 その時の理事長さんの目は笑っていなかった。いや、少なくとも僕が話をしている間で、さっきの入学おめでとう以外は笑っていなかった。でも、この言葉のときは今までにない静かなプレッシャーが感じられて、僕はヘビに睨まれたカエルの気分を味わいながら、首をただただ縦に振った。

 そして、理事長さんの最後の一言。

「寮内については別ですが、登下校時には必ずこの制服を身に着けてください」

 ”この制服”という部分で、目の前のセーラー服を指す。やっぱり、そこは譲れないんだなあ、なんてションボリしたけど、もう今更のこと。観念してます。

「僕、ここで本当にやっていけるのかなあ」

 何気なく発した僕の絶望の言葉に、理事長さんは思い出したとばかりに、更に追い討ちを掛ける言葉を投げてきた。

「ああ、申し訳ないのですが、その僕というのもやめてください。私と言っていただかないと、男性だと気づかれるきっかけになる可能性もあります」

「あ、え、は、はい。ぼ……じゃなくって、わ、私?」

「そうです。すぐには難しいかもしれませんが……」

 うう、本当に、完全に、完璧に、女の子として生活しなきゃいけないんだ。僕の男としての尊厳なんて、もう無いんだ。

「そう泣くな。直にそれが当たり前になる」

 寮長さん、それ全くフォローになってません。

 その寮長さんから、寮生活についての注意事項を聞く。

「寮の中でも、もちろん女性として生活してもらう。そのとき、一番気をつけなければならないのが言葉遣いだな」

 諦めなきゃいけないんだけど、『女性として』と言われるのが当たり前になりたくない自分が居る。ぐぬぬ。

「さっき真雪……いや、理事長が言っていたように、寮でも僕ではなく、私と言うように気をつけてくれ」

「は、はい……」

 本当のことを言うと、一時期『私』という一人称を使っていたこともあるのだけど、見た目との相乗効果で女の子と間違えられることが多かったことから、一人称を『僕』に変えたという過去がある。だから、今更一人称を『私』に変えるのは非常に抵抗があるのだけど、男だとバレるよりはマシだから仕方がない、とも思う。

「よし、練習だ。さあ、恥ずかしがらずに! 私は女の子です!」

 新興宗教の教祖様みたいなことを言いながら、楽しそうな寮長さん。

「わた、私は! お、女……」

 尻すぼみの僕……私の声に対して、何事にも熱血で全力投球のテニスプレーヤーみたいに励ます。

「大丈夫だ! キミの声は十分中性的で、男の子だとはそうそう気付かれないから、不安がらずにもっと大きな声で!」

「みぎゃっ!」

 わたしの せいしんに すごい だめーじ!

「私は、女の子――」夕暮れも過ぎた理事長室で何をやっているんだろうと思い至り、脳内をクールダウンさせる。「……こ、この練習って何か意味あるんですか?」

「いや、ないぞ」

「えっ」

「だが、今の内に慣れておく必要はあるな。僕っ娘という、女性でも僕が一人称の人間が世の中には居ると聞いているが、出来るだけ不安要素は無くしておきたい」

「はあ……」

 隣で見ていた理事長さんにアイコンタクトで助けを求めると、こういう奴だから我慢してくれ、と目で語っているのが分かった。そういうことは先に言って下さい。いえ、言われててもどうしようもないのだけど。

「さて、続いてだが……良く男バレしてしまう例に、小便をする際に便座を上げてしまうのがあるな」

「えっと、寮長さん。良くある例って、そんな男バレした人が過去に居るんですか?」

「いいや、漫画とかアニメとかで幾つか見たことがあるくらいだ」

 それを元にしていいんだろうか。というか、アニメとかそういうの好きなのかな。

「とにかくそういうことだから、便座は上げてトイレをしない方が良いぞ」

「元々、私は座る派なので……」

「む、そうか。じゃあ、そうだな……女性の服を着たりとかはしたことがあるか?」

「昔から妹の服とか着せられていました」

 さすがに自分から好き好んで着ることはないし、抵抗があるかどうかと言われればもちろんあるけれど、物理的に着れないかどうかという意味では、着れないことはない。というより、転入試験の際に実証済み。妹が僕、僕じゃなくて、私と同じくらいの体格だったこともあるけど。

「……風呂が短いとかは?」

「普段、1時間くらい入ってますが……」

 私の言葉に、しばらくの停止があってから、瞬きを数回。

「キミは、本当に男なのか?」

「ぎゃわん!」

 酷い事を言われた!

「言葉も丁寧で、見た目にも問題なし。唯一まだ出る『僕』という一人称だけはやや気に掛かるが、お風呂も長くて、トイレは座る派。こういう際に大抵問題になる、女性の服に抵抗も無い」

「いえ、抵抗はありますけど……」

「身長的には……ちょっと立ってみてくれ。ああ、そう、こっちを向いて」

 言われた通りにソファから立つと、寮長さんは僕の真横に立ってから、僕の肩に手を置いて、自分の方に顔を向けさせる。シャンプーかボディーソープの匂いだと思う、薔薇の香りに少しだけ、どきりとした。

「ふむ、私の方が少し高いくらいか……なるほど、なかなか男性にしては華奢な体つきだな。もう少し肉を食べた方が良い。これくらいの細腕ほそうででは、嫁が出来た時にお姫様抱っこで登場することも出来ないしな。ふむん、だが胸板はなかなかだ」

 そんなことを言いつつ、僕の体をあちらこちらベタベタ触ってから、満足そうな鼻息を1つ。

「お姫様抱っこ……?」

「む? 結婚式というのはそういうことをするのではないのか? それとも、どちらかと言うとされたい側だろうか」

「いえ、そういう意味では……」

 何だか、このままだと話がいつまで経っても進まない気がしてきたので、とにかく先を促す。

「あの、身長は……」

「ああ、すまんな。とりあえず、身長はやや高めだが、この学校にも同じくらいの女生徒は居るから、さほど問題にはならないだろう」

「そうですか」

「ああ。まあ、それがきっかけでバレるとしても、身長についてはどうしようもないんだがな」

 だったら何故確認したんですか、と突っ込みたい衝動をどうにか抑える。

 ようやく寮生活について説明されたのは、その後も女性として生きるために持っておくべき知識、主に生理とか下着のサイズとか、そういう情報を明け透けに話す寮長さんのフリーダムさに振り回されて、私が辟易してきた後。その中で、主に重要だと感じた内容と、寮長さんの一言は次の通り。

 この寮では、現在僕の他に5人の女の子が生活していること。

「もちろん、彼女たちにもキミが男性であることがバレてはいけないぞ」

 朝食は食堂ですること。

「朝の場合は、午前6時半から9時までしか食事が準備されていない。よって、早めに済ませるように。まあ、寮は学校の敷地内に在るとはいえ、8時15分には登校しなければ間に合わないが。逆に夜は料理が冷蔵庫に保管してあるから、いつでも食べることが出来るぞ。かといって、朝の2時とかに食べるのはあまりおすすめしないがね」

 お風呂は午後10時以降にこっそり入ること。

「本来は午後10時までしか入れないようになっているが、キミの為に翌日の0時頃までは開けておこう。まあ、特例を認めるとバレやすいというのはあるのだが、さすがに風呂場や脱衣所で遭遇してしまうというケースはこちらとしても避けたいからな」

 平日、休日問わず、全て女性モノの衣服を着用して、日常生活をすること。

「服は既に用意してある。好きなものを選んで使ってくれ。ちなみに理事長セレクションだから、不満があれば理事長によろしくな」

「その一言は要らないでしょう、綾里……こほん、菖蒲園寮長しょうぶえんりょうちょう

 いろんなことを言われて、僕は頭の中が真っ白になりかけていたんだけど、大まかにまとめると自分を女だと思い込んで、でも着替えやお風呂みたいなところだけ気をつければ万事オッケー、ってこと?

 ……女だと思い込むって前提がまずおかしいけど、大体理解できた。したくないけど。

「とにかく、男性であることに気づかれないように、気をつけて生活してください」

「は、はい、分かりました」

 ようやく説明祭りから解放されたときには、10時を軽く回っていた。加えて、突然女の子としての生活を言い渡されたりして、もう精神的にも肉体的にも限界。

 寮長さんと2人で帰ってきたときは、もうギブアップ宣言直前という感じだった。

「キミの部屋はこの部屋だ。また何かあれば、寮長室に来てくれ」

「はい……」

 中央の階段を登って2階の左手側、最奥の部屋の201号室。そこの鍵を寮長さんから受け取って、部屋に入る。

「うあー」

 何はともあれ、鞄を机の上に下ろしてから、ふかふかのベッドに倒れこむ。つ、疲れた……。

 寮の部屋は本棚とベッド、タンス。それに、女の子の部屋だからか、大きな鏡付きの化粧台があった。部屋の広さは何畳、っていうところは分からないけれど、それらが置いてあっても、1人が生活するには十分すぎる広さだった。凄いなあ。お嬢様学校ってこんななんだ。

 引っ越しの荷物はまだ届いていないから何も出来ないし、仮に届いていたとしても、きっと何もする気は起きなかったと思う。

 とりあえず寝る……前に、お風呂に入っておこう。

「あれ? そういえば……」

 お風呂に行く前に着替えを持っていかなきゃいけない。

 でも、持ってきたバッグの中に入っている男性モノの服は使っては駄目。今の僕……じゃなかった、私は男ではないから。いや、男なんだけど、男として振る舞ってはいけないから。

 着替えは用意してくれているって言ってたけど、どこだろう? やっぱりタンスの中?

 タンスの一番上の引き出しを開いてみる。

「うわっ」

 色とりどりの、女物の服。ここは上着ばかりが入れてあるみたい。妹が着てた服を思い出しても、こんなに種類有っただろうか、ってくらいに多い。

 寮の中は、制服でなければダメとは言われていない。つまり、この中から選んで着なさい、ということなんだろうけど、これだけ多いと何を着ていくか迷っちゃうなあ。

 女性っぽいと思った無地の白の半袖Tシャツにピンク色のカーディガンを取り出して、何気なく次、小さな引き出しを開いて、数刻のフリーズの後、私は慌てて引き出しを閉め、しゃがみこんだ。

「……い、今のって……」

 おそるおそる。そんな言葉を体現した私は再度引き出しを開いて、数センチの隙間を作ると、中から普段は” 見せるためではない何か”が所狭しと並んでいた。

 そ、そうだよね。僕……じゃない、私は女の子だから、これを履かないと、まずいんだよね。いやいや、まずいんじゃない。むしろ女の子だから、とてもとても自然なこと。そうそう、自然自然。超ナチュラル。

 もう頭の中が沸騰しそうになりながら、目を瞑ったまま1枚だけ適当に取り出して、さっきのTシャツとブラウスの間に折って、隠すように挟んだ。

 はあーっ、という溜息と共に、更に次の引き出しを開けると、今度はスカートが並んでる。スカートにもいろんなカタチがあるんだなあ、名前が全然分からないけど、知っておかないとまずいんだろうなあ、なんて他人事みたいに思ってみたり。でも、割りと真面目に必要な情報だと思う。

 兎にも角にも、黒のスカートを掴んで、僕は引き出しを閉めてから、最後の引き出しを開ける。

「靴下とハンカチ……あ、タオルはここなんだ」

 スカートと同色の黒でイチゴのワンポイント付きの靴下と真っ白なハンドタオル、バスタオルを選んで、その場にぺたんと座り込んだ。

「はふぅ……」

 服を選ぶだけで、こんなに疲れるとは思ってなかった。明日着ていく服くらいは、今日中に決めておいた方がいいかも。

 どうにかこうにか立ち上がって、お風呂用のシャンプーとリンス、ボディーソープをバッグから取り出したら、とりあえず部屋の外をこっそり確認。誰も居ないことを確認して、そそくさと階段を降りる。早くお風呂に入って、変な汗をかいたのと、何よりも疲れ果ててるから、お風呂でゆっくりしたい。

 階段をあまり音を立てないように、かつ出来るだけ駆け足で1階に降りたところで、寮のお風呂が何処にあるかを寮長さんから教わっていないことを思い出した。今更聞きに行くわけにもいかない、というよりはもう今日はあの人に会いたくない。会えば体力と気力をどんどん吸い取られるような気がするから。

 とりあえず、目の前は玄関だから左右確認。右手側の突き当りは大きな両開きの扉が開きっぱなしになっている。大きな机が置いてあるのが見えるから、あそこは食堂かな? その手前には部屋が5つ。こっちは何となく違いそう。

 振り返って左手側にもまた部屋が5つ。でも、一番奥だけ他の部屋とは違う引き戸。あれ、これってもしかして?

 こそっと中を開けてみると、予想通り真っ暗の脱衣所。お風呂の方にも明かりが点いていないから、誰も今は入っていないみたい。よし、入るなら今のうち!

 再度左右を見回し、さっと脱衣所に入って後ろ手で扉を閉める。扉には鍵が付いていたから、もちろん掛ける。確かお風呂は午後10時までって言ってたから入ってくる人は居ないと思うけど、念のためね、念のため。

 脱衣所の広さは自分の部屋とさほど変わらないくらい。入ってすぐ左手に大きな洗面台があって、右手奥に洗濯機と乾燥機、そして洗面台の奥に銭湯とかにあるような木で出来た鍵付きロッカーが設置されているから、結構狭く感じるかも。

 ロッカーはぱっと見だけでは古さを感じるけれど、扉を開けてみても金属同士が擦れ合うあのいやーな音もしないし、ちょっと大きめの蝶番が使われているからか、開け閉めしてもぐらぐらしない、頑丈な作りになっている。それと、扉の表面を触ってみると何だかすべすべしていて、触っていると……えへへ、ちょっと楽しい。

「……はっ、こんなことしてる場合じゃなかった」

 正気に戻ったら、服を脱ぐ前にお風呂場の中を確認。

「広っ」

 脱衣所よりも多分、ううん、間違いなく広い浴槽が一番奥にあって、シャワーも計6個ある。ちょっとした銭湯よりもしっかりしているかも?

 って、お風呂場の中は後でゆっくり見れるから、他の人が居ないことを確認したら、次、次。

 脱衣場のロッカーの中を全部開いて確認。10時前に入った人が忘れていた服を取りに来るとかいう可能性もあるからね。

 後で良く良く考えると、もしロッカーの中に下着とかが入っていたら「同性の下着を覗き込むなんて、そういう趣味の人なの?」とか言われたかもしれないし、いやいやそれならまだマシな方で、最悪のタイミングで人が入ってきたら男バレしてしまうおそれもあったわけで、そんな時だったら無言で張り倒されるか、即座に通報されていたと思う。何もなかったから良かったけど。

 え? 何故男バレするおそれがあるのかって? それは……お風呂に入るんだから、そういうところを見られてしまうタイミングとか、ね?

 それはさておき、落ち着いて冷静に考えてみると、普通同じ寮で生活している女の子同士が、忘れ物していたとかであれば「これ誰のだろう?」くらいに覗きこむことはきっとあるよね。少しナーバスになり過ぎかな?

 手早く脱いで、服をロッカーに放り込み、かちゃりと鍵を掛ける。さすがにワンコインでロックを掛ける制度はここには無いようで、手首にバネみたいなストラップ付きの鍵を付けてから、お風呂場の扉を再度開ける。

 ……でも、そもそも鍵を掛ける意味、無い気がする。

「……広いなあ」

 さっき言ったけど、ホント、もう一度言っとかないと気が済まないくらいに広い。

 左手一番近いシャワーを取って、足元にある手桶をどけてからバスチェアに座る。頭、そして体を手早く洗い、念願のお風呂。

 広すぎて何だかちょっと落ち着かない。

「んんーっ、でも生き返るーっ」

 溜息のような声と共に、私は手足を伸び伸び。こんなことしても、1人だと余裕余裕。というより、多分3、4人くらい一緒に入ったって余裕だと思う。まあ、僕……いや私自身が他の女の子含めて3、4人一緒に入ることは無いと思うし、入る事態になったらもう私は死んでます、きっと、色んな意味で。

 ホント、入学してすぐ、散々な目に遭った、というかこれからが何よりも問題が山積みなんだけど、ひとまずお風呂に入ったら落ち着いた。うん、明日から頑張ろう。 とにかく、再度転校するまではこれからは女の子として生きなきゃいけないからね。

「私は女の子、私は女の子……」

 ぶくぶくと目元までお風呂に浸かって、自分に暗示を掛けていたとき。

 ガタン!

「ひぃっ」

 耳朶じだをハンマーで叩いたような音がして、僕は口から心臓が飛び出て引っ込んだ気がした。間違いなく気のせいだけど。

 よく見たら、さっき私が体を洗ったときにどけた手桶が、不安定なところに置いてあったからか、ひっくり返っていた。ああ、なんだ、これが原因かあ。

「……はっ」

 こ、こういうときのアニメとか漫画のよくあるパターンとして、「気のせいで良かったね、あはは」と思った直後に、やっぱり実は誰かがが入ってきていて、扉がガラガラッ……という話があったりするよね。幽霊の正体見たり枯れ尾花とはよく言ったものだけど、その枯れ尾花でも「あれ、でもそこの枯れ尾花は去年焼けてしまってもう無かったはずだけど……」なんて噂話を聞いたら、再び疑心暗鬼を生ず。やっぱり幽霊に見えてきたり。

 実際のところは、扉の鍵を掛けているから人が入ってくることなんて無いんだけれど、さっきの手桶の落ちた音で気が動転してしまった私の脳内からは、すぽーんっと鯨の背から飛沫が上がるように扉の施錠をした事実が吹き飛んでいたから、何気ないお風呂のボイラー音とか、天井から垂れてきた水滴とかにびくびくし始め、入ったばかりの落ち着きようは鳴りを潜めてしまった。後はもう追い立てられるようにしてお風呂を出て、さっきチョイスした女性モノの服に着替えるしか、私には出来なかった。

「……あう」

 タオルで体を拭いてから、さっき勢いでシャツとスカートの間に挟み込んだものを確認する。だ、だって、確認しないと履けないし……!

 何気なく掴んだのは水色のボーダーラインが入っているタイプのものだった。それ以上は良く見ないようにしたから、装飾とかは見てないよ!

 あ、そういえば上の方は持ってこなかったけど、けなくてもいいよね?

 ……それとも、やっぱり全く胸が無くても着なきゃいけないんだろうか。うう、分からない!

「あ、しまった……」

 シャツとカーディガンに袖を通して、スカートを身に付けてから気づいた。よく考えたら、もう寝るだけなんだから普通の服を着なくても、寝間着を着れば良かったんだ。落ち着いてタンスの中を調べてなかったから覚えてないけど、多分何処かに寝間着がちゃんと有ったんだと思う。部屋に戻ったら着替えよう。

「うー、すーすーする」

 まだ春先の十分に暖かいとは言えないこの時期に、膝上数センチのスカートはちょっと冷える。今までも女性用の服装を着た、ううん、着せられたことはあったけど、大体短時間ですぐに着替えてしまったから、こんなに落ち着かなくて、風通しが良すぎるとは思わなかった。タイツとかをはくのも何となく分かるような気がするなあ。

 ちなみに、着替えた後に扉に手を掛けたとき、ようやく自分が扉の鍵を掛けていたことを思い出したけれど後の祭り。お風呂で落ち込んだテンションは戻るどころか岩盤を突き抜ける勢いで下がっていってしまい、私はその場で項垂うなだれた。何だか余計に疲れてしまったから、早く戻って寝よう。

 お風呂を出るときはしっかり誰も居ないことをチェック。これから毎日お風呂に入る前、入った後に戦々恐々としながら、お風呂の中と外、脱衣所までを慎重に調べなきゃいけないなんて、本当に先が思いやられるんだけど、癖を付けておかなければそれ以上に後が怖いから仕方がないよね。

「誰も居ない、ね」

 はあっ、と溜息。今日だけで何回溜息吐いたかなあ。

 とにかく早く部屋に戻ろう――

「あれ? キミは誰?」

「え?」

 ……脱衣所から一歩踏み出したところで、見たことない女性が玄関から入ってきた。それも、何故か懐中電灯を二刀流しながら。

 玄関に居たグレーのタイトスカートスーツ姿の女性は、しばらく1人脳内会議をしていたようで、完全に動きが止まっていた。そういえば、寮長さんもタイトスカートだったけれど、ここの学校はタイトスカートが流行っているのかな。学生の制服はタイトスカートじゃなかったから、先生は全員タイトスカートじゃなきゃいけないとか、校則でもあるのかもしれないなあ、なんてことを考えていたら、どうやら脳内会議終了後の結論に辿り着いた様子のその女性が、

「可愛いけど、誰だキミはー!?」

 と今度は叫んだ。結局それですか、とか、そっちが誰だー! と言いたかったけれど、さすがに年上の人に向かっては言えないので、その言葉は脳内で完結させることにして、

「あ、あの」

 代わりに声をとりあえず掛けてみる。私のその声を皮切りに、

「っていうか、誰? うん、凄く可愛い。お持ち帰りしたい。でも可愛いからって見逃さないからね! 不法侵入は駄目よ、お嬢ちゃん。どぅーゆーあんだすたん?」

 と畳み掛けるように次々喋るスーツの女性。あ、これ、寮長さんくらい面倒くさい人だ、とやっぱり思っても口には出さず、あくまで冷静に。

「ええっと……」

「それはさておき、見逃してあげる代わりにちょっと手伝って欲しいんだけど」

「へ? ちょ、ちょっと……」

 というか、今の今まで不法侵入がどうとか言って、見逃さないとか言っていたのにさっそく見逃してるのは突っ込みどころなんだと思うんだけれど、もう寮長さん相手に突っ込みパワーを使いきっているから、あわあわするしかない。

「いやあね、ちょっと職員室に忘れ物しちゃってね。それを取りに行かなきゃいけないんだけど、ほら、もう外暗いし、寒いし、寂しいし、人恋しいしで、イケニ……こほん、パートナーを探していたのよ」

 その言葉に思わず私もジト目になって、突っ込みゲージもぎゅいんぎゅいん回復してしまう。

「今、確実にイケニエって言おうとしましたよね」

「ナニソレ、センセイ、ワカラナーイ」

 きゃるーん、とか音が付きそうな手を頬に当てて、舌出しウインクポーズ。どちらかといえば、新入社員みたいな初々しいというかスーツに着られている感じの若い女性だから、そういうポーズが似合っていないこともない。ないのだけれど……ちょっと腹が立って、何だか実家の猫にやっていたように、ほっぺたをつねってむにーっとしたくなった。凄く、したくなった。

「とにかく、職員室に忘れ物しちゃってね」

「聞く気は無いんですね……はあ。明日朝早く行って、とかじゃ駄目なのでしょうか?」

「駄目なのよぉぉぉぉぉぉ」

 玄関の縁に膝をついて、絶望ボイス。また大仰な。

「明日の朝一に出さないと、真雪ちゃんに怒られるのー! 真雪ちゃん、超怖いのー!」

「…………」

 真雪ちゃん、ってもしかして理事長のことだろうか。理事長をちゃん付けするってことは、同い年とか年上?

 ……まさかね。女子高生とまではいかないとしても、大学生くらいにしか見えない。

 そんなことを考えていると、

「だから、ねっ、ねっ。不法侵入の件は黙っておいてあげるから、手伝って!」

「いや、不法侵入じゃ……」

「ホントは萌呼ぼうと思ったけど、あの子うるさいし、よく考えたらあの子を連れて行ったら真雪ちゃんにバレちゃうし。だからとにかく、来てくれるだけでいいから! この時間の学校、超怖いから! 来たら分かるから!」

 萌さん、という人がどういう人か知らないけれど、この人にうるさいと言われたと知ったら心外だろうと思う。

「あー、えっと、はい」

 もう、何でも良いや、と諦めの境地に立っている私の表情に気づいていないのか、そのスーツに着られている女性は、

「ありがとう! ありがとう!」

 とテンション高めだった。

 とりあえず、この時間に外に出るということから、一度部屋に戻ってからさっき着たばかりのカーディガンを脱ぎ、代わりに家から持ってきた少し厚手のダッフルコートを着て、玄関へ戻った。まさか、寝間着ではなく、普段着に着替えていたのがこんなところで役に立つなんて。いや、むしろ普段着を着ていたせいで、風が吹けば桶屋がどうとかみたいに何処か巡り巡ってこんなフラグが立ってしまったんだろうか。

 とにかく、連れて行かれる理由も今私の手を引いている人の名前も良く分からないまま、私は黒い小さなポニーテールを揺らした知らない女性に引っ張られつつ、靴を履いて寮を出た。多分、職員室とか言っていたから、学校の教師だとは思うけれど、この学校の先生って皆こんなにいい加減なんだろうか。

 寮を出てすぐに先生と思しき人から、二刀流していた懐中電灯の片方を渡された。

「これ使って。今から、校舎に忍び込まなきゃいけないからね」

「はい……はい?」

 忍びこむ?

 手元の懐中電灯のONとOFFを確認しながら、話を流し聞きしていたら不穏な単語に気づいたので、突っ込もうと思ったら、既に女性の姿は目の前になかった。今まで居た女性は気のせいだったの!?

「あれ?」

「おーい、置いてくよー」

 ……なんて、別にホラーでもなんでもなく、既にさっきの女性は私をほっぽってさっさか歩き出していただけだった。

 懐中電灯を片手に、私はスーツの女性の少し後ろを歩きながら、暗がりを見回す。所々街灯があるとはいえ、確かにこの時間の学校は怖いと思う。早く終わらせて、私も帰りたい。

 周囲に気を配って歩いていると、前を歩いていた先生と思われる若い女性が思い出したように足を止めて、振り返った。

「そういや、何で寮に不法侵入してたの?」

「不法侵入じゃないです。私も今日から寮生です」

「マジで!?」

 お嬢様学校の先生がマジとか使って良いんだろうか。

 いや、そもそもここはお嬢様学校ではない気がしてきた。あの寮長さんといい、この人といい。きっと全て私の気のせいだったんだ。それはそれで少し気が楽に……ならないけど、重くはならないかな。

「というか、キミ誰?」

「……」

 やっぱり話がループするのね、と思いつつ、この繰り返しはもういいんじゃないかなって思うから、私も自己紹介。

「私は小山 準と申します。よろしくお願いします」

「あ、どうもどうも、これはご丁寧にご丁寧に。アタシは咲野真弓さきのまゆみです」

 頭を下げて名前を言うと、ぴんっ、と両手を左右に広げて頭を下げる。服の色が灰色のこともあって、みにくいアヒルの子のお辞儀みたいな、そんな感じ。

「明日からは3年生として、西条学園で生活させていただきます」

「……明日から3年生? 小山?」

 突然先生は腕組みしてから、ぽっ、ぽっ、ぽっ、ぴーん! と3秒カウント後に何か思い当たったようで、その検索結果がこちら。

「……キミのせいかー!?」

「なんでー!?」

 ビシィっ、と指を突きつけられた私。どういうことなの!?

 私のイミガワカラナイ顔を理解してくれたみたいで、内容を説明してくれる。

「だって、今から取りに行くのって、小山さんの入学関連の書類だもん」

「忘れたのは自業自得じゃないですか」

 言ってから、思わず口を押さえたけれど、どうやら小声だったからか気づいていなかった様子。良かった。何だか、この先生と一緒だと調子が狂ってしまうなあ。

「……私の入学関連、ってことはもしかして?」

「そう、私が率いる3年A組の生徒さんだっ」

 ……これからの学校生活に暗雲が立ち込めた、気がした。主に突っ込みが大変という意味で。

「それにしても、今日日曜日ですよ? 何で今気づいたんですか」

「だってぇ……ほら、学生だってそうでしょ? 月曜日の準備って日曜日にして、忘れてた宿題とか慌ててやるでしょ!?」

 学校の敷地内に建てられている街灯の下で小さなポニーテールを揺らしながら、最後の方では半分キレ気味に言う先生。その勢いに、私もちょっとたじろぐ。

「ま、まあ確かにそういうことはあるかもしれないです」

「でしょー? で、さっき気づいて、慌てて学校に入ってきたは良いけど、さすがに1人で行く度胸は無くって。最初に寮に寄って、誰か連れて行こうと思ったら、キミが居たわけ」

「そしてイケニエに選ばれたわけですね」

「機嫌直してよー。ほら、可愛い顔が台無し。うん、美少女だね、うちのクラスに欲しいくらい!」

「いえ、だから先生のクラスに入るんですけれど」

「そうだった、はっはっは」

 ああもう、このテンションは疲れる。前の学校の先生も女性の先生で、かなり天然が入っていたから突っ込みどころが多かったけれど、この人はまた違った方向でちょっと天然が入っている気がしないでもない。

 でも、咲野先生のそんなテンションのお陰で、夜の学校までの暗い道という、恐怖体験では上位に食い込んできそうな状況だったのに、全然恐怖を感じなかったというか、そんなことに意識を向ける暇もなかった。良かったのか、悪かったのか良く分からないけど、無事に学校の昇降口まで着いたから一安心。

「それで、昇降口は開いてるんですか?」

「ん? 開いてないよ?」

「……えっ」

 じゃあ、入れないじゃないですか、とジト目で訴えると、あっはっはと淑女らしからぬ笑い声を上げて、咲野先生が私の肩を叩く。

「そう、普通はそうよねー、うんうん。でも、正面から入るとね、駄目なのよ」

「何故ですか?」

 超ドアップで先生は私に答える。

「真雪ちゃんにバレる」

 身長が私の頭1つ分とは言わないけれど、それに近いくらい小さいので、ちょっと背伸びしているのが、少し可愛いと思えてしまう。年上のはずだけど。というか、私の身長が高いのかな。

「顔、近いです」

「おっと」

 少し離れて、頭を人差し指でちょいちょいっと掻きながら、小柄な先生は言葉を繋げた。

「いやあね、この学校の昇降口とか裏口とか、正規の入り口って全部電子ロックが使われてるのよね。校舎の中だと、電子ロックは地下室以外無いんだけど」

「地下室があるんですか」

「そうそう。まあ、その話はその内にするとして……電子ロックはこの教職員証で開けられるようになってるのよ」

 自分のポケットからカードケースを取り出して、教職員証を懐中電灯で照らして見せてくれる。

 咲野先生が懐中電灯で照らしている場所はカードのごく一部、校章が印刷されている部分だけで、本当に教職員証だったのか分からないけど、どうやら先生は全くそれに気づいていないようで、教職員証と言い張った何かをしまった。

「で、これを使っちゃうと、実は何時に誰のキーで入ったかが全て履歴に残っちゃうらしいのよ」

「そうなんですね」

 それは当たり前だと思う。そうじゃなければ電子ロックの意味が無い、とまでは言わないけれど、セキュリティという意味での利点は多いと思うから。

「で、その履歴を毎日真雪ちゃんが……ああ、真雪ちゃんって理事長のことね」

「あ、あの……」

 再び気になる単語、というか人名が出たので、どうしても気になっていたことを確認する。

「真雪ちゃん、って理事長さんと同じ年くらいなんですか?」

「ん? 真雪ちゃんは年下よ?」

「…………」

 私、しばし、呆然。

 まあ、さすがに高校生でした、ってことは無いだろうと思ったけれど、まさかそんな歳だとは。いやいや、理事長さんだってまだ若いと思うから、実はまだ30代になったばかりとか、そんなくらいなのかもしれない。それでも十分若いと思うけれど。

「どったの?」

「いえ、なんというか……教育実習生かと思っていたので」

「えー」

 顔を下から懐中電灯で当てて、幽霊のマネをするみたいにして、咲野先生はぼやく。

「そんなに子供っぽい? 確かに昔から子供っぽいって言われるけど」

「そういう行動が子供っぽいです」

「あっはっは」

 笑ってから、それはさておき、と前置きして、やや子供っぽい先生は続けて言った。

「とにかく、まあ、真雪ちゃんがね、いつもその履歴を確認してたらしくてね。前にこっそり正規ルートで忘れ物を取りに入ったら、超怒られたの。何であんな時間に校舎に入っているんですか、って。あの時の真雪ちゃん、マジコワだったのよ。1度見てみたら分かる。あれはトラウマもんよ」

「はあ」

 綺麗な黒髪を少しカールさせた理事長さんの姿を思い出す。ややツリ目だったと思うけれど、どちらかというと細い眉を困ったようにハの字にしていた姿しか見ていないので、怖いというよりは深窓のご令嬢がこの世の憂いを嘆いているような、そんなイメージしかなかった。

 ……あ、でもさっき理事長室に行ったとき、「体育は皆と一緒に着替えなさい。でもやらかしたらどうなるか分かっていますね?」と言っていた理事長さんの表情は確かに怖かった。

「まあ、とにかくそういうことだから、正規ルートは無理なわけ。で、じゃあどうするかっていうと……こっち来て」

 言われるがままについていくと、校舎の端辺りに、人が1人はなんとか通れそうな互い違いにスライドさせる小さめの窓。外から覗けないように磨りガラスになっているこの窓はもしかして。

「トイ……お手洗いの窓?」

 一応、トイレというよりはややお上品な言葉で答える。そういえば、トイレにいくことを、場所によってはお花摘みとか言うって聞いたことがあるけれど、この場合はトイレは「お花畑」とでも言うのかな?

「ピンポーン、正解、正解。トイレの窓は生徒でも換気出来るように、とかの理由で電子ロックになってないのよね。だから、いざというときのために、普段からこの窓だけ鍵開けてるのよ」

「それ、学校の先生として良いんですか? というか、私に教えてしまっていいんですか?」

 他の扉を電子ロックにしている意味が無いような。

「まあ、いいんじゃない? 準ちゃんだって、忘れ物したときとかに入れないと困るでしょ?」

「それはまあ、そうですが」

 再び、わっはっはと笑って、咲野先生は言葉を続けた。

「そもそも、この学校は外から簡単に入れないからね。塀の上には侵入者探知用の検知器とかあって、塀を乗り越えると警報が鳴るとか、学校内の至る所に監視カメラがあって、監視されてるとか。だから外からの侵入者とか、無いから無いから」

「そうなんで……あれ、監視カメラあるなら、バレちゃうんじゃないですか?」

「ふっふっふ、甘い甘い」

 ちっちっち、と指を振る。本当に指を振ってる人、初めて見たかも。

「監視カメラは真雪ちゃん管理じゃないから大丈夫なんだよねー。で、監視カメラの管理者はお菓子で手懐けてるから」

 ビッ、と右手の親指を上げて大丈夫! と示してくれる。いや、大丈夫じゃないです、教師として、人として。というか、お菓子で手懐けられる管理者って、子供じゃないんだから。

 よっぽど高級なお菓子なんだろうと思う前に山吹色のお菓子を想像してしまって、さすがにそれは無いだろうと脳内で否定しておく。

「さて……むっ」

 窓に手を掛けた瞬間、先生の手が止まった。

「どうしたんですか?」

「……アタシたちが入る前に、誰か入ってる」

「え?」

 窓に手を掛けて、先生がぽつりと呟く。私の懐中電灯の辺りに照らされた横顔は、さながら名探偵……ではなく、冷蔵庫に入れていたケーキを勝手に食べられたみたいなしょんぼり顔で、ちょっと笑いそうになるのを堪えるために、慌てて言葉を出した。

「……本当ですか?」

「間違いない。だって、今日帰るときに窓をチェックしたときには完全に閉めていたのに……ほら、見て見て」

 肩をポンポンと叩かれつつ見ると、確かに窓が段ボールの厚みくらい開いていた。良く良く気をつけないと分からない隙間だから、ある意味この先生は観察眼が鋭いのかもしれない。

「勘違いではないですよね?」

「じゃないから! 絶対、誰か開けてる!」

「でも、先生が自分で言っていませんでしたか? この学校は外から簡単に入れない、って」

「うーん、そうなのよねえ」

 腕を組んで、うぬぬと呻く先生。

 他の人が開けたということは、多分誰かが学校内に忍び込んだ可能性があるということ。外部から人が簡単に入れないのであれば、教師か生徒としか思えない。教師だったら怒られるかも、と思ってはみたものの、普通の教師だったら普通に教職員証を使って入ればいいし、こんなところから忍びこむ人ならきっと同じ穴のむじななんだから、私たちだけが批判される言われはないという考え方はますます泥棒と同じのような気がするけれど、この先生だから窓を閉めたとか言っておきながら、実は窓をバーン! と勢い良く閉めて、その反動で開いてたと種明かしがあってもおかしくなさそう。うん、きっとそうだと思う。

「よし、悩んでても仕方がないから、あまり気にせず突っ込もう!」

 新人OLにしか見えない先生が、唐突にタイトスカートを見えるか見えないかギリギリのところまですっと上げ、黒タイツの足を上げようとしたのを見て、慌てて私は目を背けた。先生、後ろに人が居るのに、スカートの中を隠さないのは……って、今は女同士だと思われているから、気にしていないのかな。

 ……あれ? もしかして咲野先生、担任なのに私が男だって知らされてない?

 ああ、でも理事長さんや寮長さんと違って、この性格じゃ、うっかり私が男だって皆にバラしそうだし、黙っていてもらった方が――

「はーやーくー」

「……あ、ああ、すみません」

 お悩みモードになった私は、小声で自分が呼ばれていることに気づいて、とりあえず思考を停止して、建物の中に入る。

 スカートが捲れ上がるのも気にせず、窓を通り抜ける。少し小さいけど、何とか通れるかな。

「あ、懐中電灯はもう1回電源ボタン押して、ちっちゃい光にしといて」

「え?」

「ほら、先に誰か入ってた場合、懐中電灯の光でバレたらまずいっしょ? ボタンをもう1回押すと明るさが半分くらいになるから」

 そう言って、自分が持っている懐中電灯のボタンを押して見せてくれる。確かに、LEDの懐中電灯の明かりが小さくなった。倣って、私も懐中電灯の明かりを1段階落とす。

 トイレの中はひんやりとしていて暗く、気の弱い女の子だったらもう入った瞬間に気絶してもおかしくない怖さ。誰も居ないからか、建屋内には暖房は掛かっていない。ダッフルコートを着てきて良かった。きっと、お風呂から出たばかりの格好だったら湯冷めして風邪引いていたと思う。

 それはさておき、先に入った人がトイレに隠れていないとも限らない。まあ、こちらを見逃してくれるのであれば、向こうも見逃していいと思うけれど。

「準ちゃんってさ、意外と怖がんないんだね」

 周囲をきょろきょろとしていた私に対して、先生がパンパンッとスカートの埃を払いながらそんなことを言った。

「はい? あ、ええと、いえ、怖いですよ。でも、幽霊とかはあまり信じていないですし……」

「そっか。まあ、アタシも幽霊とか信用してないし、何よりも幽霊よりもよっぽど怖い子、知ってるし」

 僅かに窓から入り込む月明かりに照らされ、ブルブルとその場にうずくまっている咲野先生。まあ、誰だかは分かります。というか、そんなに理事長って怖いんだろうか。

「と、とりあえず、職員室行こっか。さっさと取りに行って、さっさと出た方が良いよね」

「ですね」

 ただでさえ、これから1年間性別をかくして生活しなきゃいけないという重荷を背負わなきゃいけないことになったのに、初日から学校に忍びこむなんていう非日常イベントをこなさなければいけないのだから、何事も無く、早く終わらせて帰りたい。というか、もう眠りたい。

 トイレを出てすぐ目の前の部屋に掛かっている室名札しつめいふだを確認すると『学園長室』と書かれている。先生の後を付いて行くと、頭上に今度は『理事長室』の表札。

 そういえば、パンフレットとか見たけれど、理事長さんの名前はあっても、学園長の名前が無かった気がする。普通、表立って出てくるのって理事長ではなく、学園長じゃないんだろうか。いわゆる、校長先生みたいな立場だと思うし。

 意識を、学園長とは誰だろうというどうでもいいようで、生徒としてはちゃんと知っておかなければならないんじゃないかと思う内容に持って行かれていたお陰で、目の前で足を止めていた先生にぶつかった。

「あいたっ」

「ちょっと、キミ! ちゃんと前見て歩いてよね!」

「すみません……あれ、着いたんですか?」

「んっん」

 小声で咳払いする先生が指差した室名札しつめいふだを確認すると『職員室』の文字。はい、着いてましたね。

「さて、職員室で荷物取ってくるから、待っといて」

「待っておく、ですか?」

「そうそう。ほら、教室の外に誰か居るかもしれないから、見張り役がね、必要だと思うの」

「はあ」

 外に見張りを立てているとか、まるで財宝を盗むための窃盗団みたいな気がする。

「べ、別に、先に誰か見つかった場合のトカゲのしっぽが欲しいとか、そういうわけじゃないんだからね!」

「そんなことしたら、見つかった相手が学校関係者の場合、今回のこと全て話しますよ」

「鬼! 薄情!」

「可愛い生徒を放って逃げなければいいだけの話です。とにかく、早くやること済ませてください。ずっとここに居た方がよっぽど人に見つかりますよ」

「むー」

 鍵を開けて、チラ見をしてから、渋々部屋の中に入っていった先生を見送り、ふと真上に掛かっている『職員室』の札を見上げる。職員室って理事長室の隣にあったんだ。理事長室に呼ばれたときは、理事長さんの後ろを付いて行っただけだったし、何よりも理事長ともあろう人に呼ばれたということと、周囲の視線ばかりに神経を使っていたから、何処に何の部屋があるかなんて確認していなかった。

 暗くてほとんど見えないけれど、目の前の方に学校の昇降口があったことが何となく思い出せる。そんな視線の先。

 コトン。

「ん?」

 何かを踏んだような音というべきか、それとも何かを倒した音というべきか。とにかく、それなりの大きさの音だったから、気のせいではないと思う。

 職員室の中なら先生が書類を探しているから、別段不思議ではないのだけど、今の音は周囲の見張りをしている私の目の前、つまり昇降口の方からしていた。おそるおそる懐中電灯を向けるけれど、靴箱以外は何も見当たらない。もしかすると、さっき言ってた侵入者が靴箱の陰に隠れている、とか?

 もしかすると、お風呂の時みたいに不安定になっていた傘が倒れただけだったりするのかもしれないけれど、さっきの窓が開いていたと咲野先生が言っていた件も気になる。

「あったあった。いやー、机に出しっぱな、むぐっ」

 気が緩みまくりの先生の口を手で塞いで、耳打ち。

「さっき、妙な音が玄関の方からしたので、早く出ましょう」

「……」

 黙ってこくこく、と頷く先生。こういうところは意外と理解が早くて良かった。ここで「え? マジで? 誰か居るの?」とか言い出したらもう放って帰ろうかなって思っていたから。

 先生の手を引いてトイレに逃げこむ、という文章のみを見ると、些かではないレベルの卑猥さを感じるかもしれないけれど、今の私たちにそんな状況を省みる余裕は無い。まあ、よく考えると、先生と生徒というところを除けば、女性同士でトイレに入るだけなのだから、別にやましいことも何もないのだけれど。

 ……無いよね?

 先に先生をトイレの窓側に押しやり、トイレの入り口の方を私が向く。単なる勘違いだったり、学校の教師とか生徒ならいいけれど、泥棒とかだったりする可能性もある。その場合は、私が先生を守らなきゃいけない。

 咲野先生が窓を飛び越える際に、声を押さえずに私に言う。

「私、つっかえ棒探してくるから待ってて。もし、中に誰か居るなら、外に出ないように閉じ込めておかないと」

「え? あ、はい……?」

 トイレの入り口の方を向いていた私は、思わず咲野先生の言葉で振り返る。

「いや、でもつっかえ棒で窓を押さえても、逆側の窓が、」

 開いちゃうので意味が無い気がするのですが、と言い切る前に先生は既に闇の中に消えてしまっていた。ああ、ええと……まあいいか。

 後になって冷静に考えると、捕まえて警察に突き出すつもりでもないのに、閉じ込める意味は無かったような。

 先生もかなり焦っているなあとか笑っていたら、背後、つまりトイレの外からこちらに向かって、慌てたような足音が近づいてくる。まさか、本当に誰か居た? そして、さっきの先生の声が聞こえた?

 このまま私自身が帰ってしまえば、足音の主も逃げてしまう。それはそれで、誰も傷つかない可能性もあったのだけど、もし先生がすぐに戻ってきたら足音の主と鉢合わせになってしまうこと、本当に泥棒だったら捕まえた方が良いこと、かといって武器も持っていないし、この暗闇の中であれば、相手も視界が悪いため、私を見つけられないこと、トイレに入ってくるタイミングを見計って突き飛ばすのが一番成功率が高いだろうと推測したこと、それなりに力と体力に自信があったから相手がよっぽどの男の大の大人でなければ大丈夫だと考えたこと、そんな様々なことを考慮して、私はトイレの入り口直ぐ側に立った。

 落ち着いてから考え直したら、なんて私は無謀なことをしようとしたんだろうと反省。体格差だけではなく、相手が武器を持っている可能性も考えると咲野先生を追いかけつつ、この場から逃げるべきだったと思う。

 足が震えている。

 ホラー映画とかの主人公が、ゾンビだとか殺人鬼に追い立て回されて隠れているときのように、早鐘を打つ鼓動がうるさい。ダッフルコートの上から胸を押さえて、呼吸を整える。

 足音が近づいて、誰かがトイレに飛び込もうとした瞬間。

「やああぁっ、あっ」

 勢い良く相手に組み付こうとして、やはり足の震えが止まっていなかったからか、私はその暗闇の人物に抱きつくような形になって、倒れこんだ。

「ひゃあああぁぁっ、むぐっ」

 一度、耳元に近い場所をハイトーンの悲鳴が掠め、その直後、悲鳴は私の顔の前で唐突に止んだ。

「んんっ……ん!?」

 一体、何でその声が遮られたのかと理解するのには時間を必要としたけれど、結局のところ、その原因は私の唇が、倒れこんだ際に相手の柔らかな唇を、恋人同士がするそれよりも濃厚なくらいに塞いでいたからだったと気づいたのは、見事にドタバタ恋愛コメディよろしく、私の右手がご丁寧に相手の、自己主張がそれなりにある柔らかな膨らみの上に乗せていて、相手が女性だと気づいて飛び起きたタイミングだった。

「いや、あのっ、ご、ごめんなさい! 決して今のはわざとじゃなくて! あ、その、悪気があったわけでもなくて! たまたま手をついた位置が悪かったというか! そもそも、飛び掛かるようなことをしてしまった時点で――」

 体面上は女性同士であることをすっかり忘れながら、目を瞑って謝り倒す私。女同士だったら普通こんなに平謝りしないと思う、と後々考えたけれど、このときは正常かどうかを判断出来る思考は脳内から逃げ出していたみたいだった。だから、そのときの状況は私にとって都合が良かったんだと思う。

 相手の反応が皆無なことに対して、薄目を開けながら転がっていた薄明かりを出している懐中電灯を拾って、ひっくり返っている人物に明かりを当てる。

「きゅぅ……」

「あ」

 懐中電灯で足元の少女の顔を照らすと、固く目を瞑ったままで、意識はここに居ないようだった。

 女の子の柔らかなところを触ってしまったこととか、ファーストキスを奪われた、いえ、奪ったというか、向こうがファーストだったかどうかは知らないけれど、とにかく唇同士を合わせてしまった経験については、彼女の記憶に残るどころか、そもそも記憶に入る前にすぽーん! と吹き飛んで学校の何処かを転がり、彷徨ってしまったかもしれないことにやや安堵したけれど、同時に別の問題がむくむくと鎌首をもたげる。

「きゅ、救急車……!」

 考えすぎかもしれないけれど、場合によっては命に関わるかもしれないこの状況。何と言っても、結構な速度で突っ込んできた人にぶつかったんだから。とりあえず、体験した私から言わせてもらうと、曲がり角でパンを咥えた女の子にぶつかるようなことがあった場合は、まず恋への発展があるかどうかの有無を確認する前に、相手の意識があるかどうかと、怪我してないかを確認する方が良いと思う。

 そして、どう見ても泥棒には見えない容姿。いや、こういう姿の泥棒も居るのかもしれないけれど、単純に見た目から想像するとこの学校の生徒であるとしか考えられない。さっき色々な状況を想定したのに何故相手が教師や生徒である場合を考えなかったのかが分からない。私の馬鹿!

「準ちゃん! 支え棒探してきたよ! 何処!?」

 ナイスタイミングというべきか、トイレの方から暗がりの廊下に向かって、先生の声が転がり込んでくる。

「あ、先生! こっちです! 救急車!」

「早く出ないと……え、救急車? アタシは救急車じゃないよ?」

「知ってます! 小学生ですか!」

 懐中電灯の光量フルパワー状態で現れた先生は、何処から持ってきたのか支え棒という名のモップを、長槍のように右肩に掛けるように抱えて現れた。先生というよりは、不良上がりの新人OLがお礼参りに来た、っていうのはいくらなんでも可哀想だけど、少なくともお掃除しに来た風には見えなかった。

 って今更だけれど、モップだったらトイレの掃除用具にもあったんじゃないかな。

「どったの?」

「この子が……」

「ん? ……おや、女の子が倒れてる?」

 そう言いながら、咲野先生は足元の女の子に懐中電灯の明かりを向ける。その明かりで、徐々に少女の姿が顕になる。

 少し乱れてしまっているけれど、髪を真ん中分けにした肩より少し長いストレートの黒髪で、床の上で吹き流したように広がっている。前髪の両端を別の形の髪留めで崩れないように留めていて、この少し冷える学校内にずっと居た上に急に走ったからなのか、色白い頬が赤みがかっている。細く長い眉はハの字に歪められており、苦しそうに息をしているのが見える。

 服装は、少し薄い桜色のカーディガンに少し肩の透けた白のレースブラウス、アイボリーのフレアスカート。なんか春らしくていいけれど、学校の校舎ではさすがにちょっと寒いんじゃないかな、なんて今考える必要のないことを考えてしまって、慌てて意識を少女の状態を観察する方に意識を戻す。

 呼吸をしていることは胸の上下で確認は出来るけれど、頭をぶつけたか、足を捻ったか、なんてことは医者でも何でもないから分からない。だから、大丈夫であるかもしれないけれど、大丈夫である保証はない。

「正木さんじゃない」

「ご存知なんですか?」

「ご存知、というかアタシのクラスの生徒だよ」

「え……」

 ということは、自分のクラスメイトを突き飛ばした、というか抱きついたということ? いや、抱きついたどころか……!

「どったの?」

 心の中で大量の冷や汗を掻きながら、私は全力で両手を左右に振る。

「い、いえ……とりあえず、彼女、さっき私が言っていた玄関の方からした音の正体だと思います。ついでに、おそらく先生がトイレの扉が開いてたと言っていた犯人でもあるかもしれません」

「ほむほむ。で、何で倒れてるの?」

「……えっと、先生がトイレから飛び出した後、トイレに駆け込んできたので、逃げられないように咄嗟に掴みかかろうとしたら……えっと、ぶつかって倒れました」

 細かいところは誤魔化す。正確に伝えてないだけだから! 嘘は言っていないから!

「ちょっ、準ちゃん! なんて危ないことしたの! 怪我したらどうすんの!」

「……すみません」

「と、とりあえず確かに救急車がっ……あ、でもこの時間、ここで救急車呼ぶのは……ううむ」

「でも先生! そんなこと言ってる暇は……!」

 暗がりの学校内だということも忘れて、私は思わず大声で先生に詰め寄ってから、よく考えれば自分自身が悪いんだから自分で解決すべきだと、スカートのポケットに入っていた携帯電話を取り出そうとした私の手は、ひんやりした何かによって絡め取られた。

 それはまるで、この世のものではない存在が、形式上では”彼女を押し倒した”ことになっている私を責め立てているかのように。

「大丈夫にゃ。倒れたときに頭も打ってないし、倒れたショックで気絶してるだけにゃ」

「っっっっっっっ!」

 絶句する、というのを人生初体験することになった。人って、本当に驚きすぎると声が出なくなるものなんですね。

 ギリギリギリ、と何十年と使っていない歯車式時計が動き出したような動きで振り返ると、背後には私の胸元くらいの身長から私を見上げる色白の少女。

 ああ。

 倒れた彼女、正木さんは死んでしまっていて、絶対に許さない! と霊として現れたのかもしれない。

 ……って、いやいやいや! まだ彼女は生きてる、息してるから! 勝手に殺しちゃ駄目だから!

 じゃあ生霊? 怨霊になって、私に取り憑いた?

 私の精神がネガティブ方面の下り坂を絶賛驀進中な状態であることも何のその、私の脇に立っていた生気を感じない、幼女とも言えるくらいの少女は床に倒れこんでいる私のクラスメイトを徐ろに指差す。

「保健室まで運ぶにゃ」

「……え?」

「そこに転がってる正木 紀子を保健室まで運ぶにゃあ。坂本先生、呼んでやるにゃ」

 そう言って、トイレとは逆方向、玄関の方へ歩を進めた幽霊風少女。耳から入った言葉を私は脳内で言葉と意味と語尾を反芻して、ようやく意味を理解出来た頃には数秒の時間が失われていた気がする。

「………………あ、ああ、はい」

 にゃ? って猫?

 思考回路が突然のことで何箇所から火を吹いている状態のまま、言われるがままに私が眠れる学校の美少女を抱えようとしたとき、

「あれ、美夜子みやこ。地下室から出てくるなんて珍しいね」

 との言葉と共に、咲野先生に懐中電灯を向けられた幽霊じみた少女は、足を止めて深い溜息と共に振り返った。

「美夜子じゃないにゃ、みゃーはみゃーにゃ。いいからさっさとするにゃ、小山 準。後、眩しいからこっちに懐中電灯向けるんじゃないにゃ」

 懐中電灯に照らされて不機嫌そうにそう言い放った少女の頭には、黒猫の耳が付いていた。

「……うん、大丈夫。多分、ひっくり返って頭を打ったから、ちょっと気を失ってるだけのようですね」

 校舎1階、私と咲野先生が不法侵入してきたトイレとはほぼ真逆の位置にある保健室。そのベッドの上に正木さんが横たえられている。

 猫耳少女に呼ばれて着た眼鏡の女性は保健室に置いてあった白衣を着て、胸元に聴診器を当てたり、正木さんの体の色んな所を調べてから、頬を緩ませる。

 ちなみに、聴診器を当てるときなどに服をはだけさせていたところで、あからさまに顔を背けると男とバレる可能性があったので、視線だけ別なところに向けた。断じて、直視はしていない。直視はしていないけど、白いものが見えたとか、手に触れた丘陵はやはり間違いなく自己主張していたとか……いやいやいや、何でもないですよ?

「あー、良かった良かった」

 眼鏡を掛けた三つ編みの白衣の人が咲野先生の言葉に対して、ぷくっ、と頬を膨らませて、人差し指を振って子供を叱るように言う。

「むっ、良かったじゃないですよ、全く。たまたま、私が綾里の部屋に居たから良かったものの、何かあったら……」

「あ、す、すみません。ぼk……わ、私のせいで」

 僕と言い掛けた私は、言い間違えそうになったことと正木さんが気を失った原因であることの両方について慌てながら、頭を下げる。

 頭を下げた私の姿を見て、何故かその女性が慌てて手だけじゃなくて、首まで左右に振る。

「ああ、良いんですよ。さっき事情は聞いています。確かに飛び出して捕まえようとしたのは危ないので、めっ、ですけど、そもそもこんな時間に貴女を連れて行ったのは真弓ちゃんなんですから、真弓ちゃんが悪いんです」

「ええー? アタシが悪いの?」

「女生徒を1人、暗がりの校舎に置いて、自分だけ先に校舎を出るなんて言語道断。反省しなさいっ」

 女生徒、と言っていることからして、この白衣の人も私が男だということは知らない様子。うーん、ということはこの場で私を男だと知っているのは――

「うむうむ、大事にならなくて良かった。ああ、もちろんのことだが、今回のことは真雪に報告しておくぞ」

 私の背後で、腕を組んでしきりに頷いている、あの面倒くさ……いや、非常に特徴的なキャラクターをしている益田さんくらいってことになる。何故か、益田さんは正木さんを診察し始めた女性と共に部屋に入ってきて、私を見て目を丸くしていた。いや、目を丸くするのはこっちの方なんですが、と言いたかった。美夜子ちゃん、というあの猫耳娘ちゃんが一緒に呼んだのかな?

「やーめーてー! 綾里のいけず!」

 益田寮長にすがりつく咲野先生、その2人の姿は身長差のせいから、さながらおもちゃを買ってとせがむ娘と駄目だと言って聞かないお母さんに見えなくもない。

 ……ん? 綾里?

 そういえばさっき「綾里の部屋に居た」って言っていたから、つまりこの眼鏡の女性が益田さんの部屋に居たってこと?

 だから一緒に来た、ということであれば益田さんがこの場に居る意味は分かるけれど、こんな時間に2人で一緒に居るというのは、もしかして所謂女子会的なものをしようとしていたのかな?

「そもそも、真弓は忘れ物が多すぎる。真雪にお灸を据えてもらって、根性叩き直せ」

「ぎゃわん!」

「あはは……と、とりあえず」

 益田咲野母娘の様子をほほえまーな感じではない、やや呆れ笑顔で見ていた白衣の女性が私に話を振った。

「正木さんの様子は私が見ておきますから、えっと……貴女、お名前は?」

 私に対して、言いにくそうにフレーム無し眼鏡のずれを人差し指で直しながら、保健の先生らしき女性が尋ねてくる。

「あ、すみません。私は小山準です。明日から3年1組に編入することになりました。よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします。私は坂本公香さかもときみかです。この学校の養護教諭をやっています。ちょっと諸事情で養護教諭でありながら医師免許も持っているので、学校医も兼ねています。保健室に来てもらえば、簡単な診察なら出来ますよ」

 しとやかに、肩より少し長いくらいの三つ編みを掻き上げながら微笑む坂本先生は、そのまま言葉を続ける。

「それで、小山さん。私が正木さんの様子は見ておきますので、今日はもう帰っても良いですよ」

「あ、でも……」

「夜遅くまで起きているのは良くないですよ? 若いときに遅くまで遊び過ぎると、大人になったとき、お肌にですね……」

「坂本先生」

 自分の頬をふにふに触り始めた坂本先生の言葉を、物理的に遮るように頭をにゅっ、と出してきたのは何処までが黒髪で何処からが黒猫耳なのかが分かりづらい少女、美夜子ちゃんだった。ずっと黙っていたから、居るのに気づかなかった。

 良く良く見ると、猫耳は本当に付いている訳ではなく、ヘアバンドみたいなものに付いているだけのようだった。最初、現実に猫耳少女が居るのかと驚いたけど、さすがにそんなファンタジーがあるわけないですよね、あっはっは。

 ……でも、時折ぴくぴくと動いているのは何故? 本物でないのは間違いないけれど、どうやって動かしているんだろう。

「どうしました、美夜子ちゃん」

「みゃーって呼んで欲しいにゃ。……小山準と話が終わったのにゃ? 終わってたら、ちょっと小山準を借りるにゃ」

「構わないですけれど……何故?」

「ちょっと、話するにゃ」

「あら? あまり他の人と関わらない美夜子ちゃんにしては珍しいですね」

「ちょっと思うところがあるにゃ」

「あの……」

 当事者なはずなのに部外者扱いで話が進められているのは何故? 私以外に小山準って居ないよね? 私、この子に何処に連れて行かれるの? ドナドナ先は何処?

「んー……そうですね。まあ、早く帰してあげてくださいね」

「それは小山準次第にゃぁ」

 そこまで坂本先生と話してから、美夜子ちゃんは振り返ってジト目――眠いわけじゃないと思うけれど、瞼が幾分か下がった無感動を湛えた目で私を見て、言う。

「こっち来いにゃ」

「え、あっ……うん」

 てくてく。

 保健室の扉を開けて、無言のまま先導するように出て行く猫耳少女、美夜子ちゃん。傍若無人という言葉に服を着せて歩かせるとこんな感じになるのかな、って思うような行動に、私は腹を立てるとかそういう以前に全くさっぱり話についていけないのだったけれど、保健室を出る前に坂本先生を見たところ、優しい笑顔でこう言われた。

「えっと、申し訳ありませんが、美夜子ちゃんに付いていってあげてください。ちょっと気難しいというか、変わったところがある子ですが、悪い子ではないので」

 それに、と一度言葉を切ってから言葉を続けた。

「あまり人と関わりたがらない子なんですが、珍しくあなたに興味があるみたいなんです」

 益田さんと咲野先生もうんうん、と頷いて私を見るくらいだから、よっぽど珍しいことなんだろうと思う。

 仕方がないので、まるで猫が自分のねぐらに招くかのように、10歩くらい先に進んでは後ろを確認して先導する少女に付いていくことにする。坂本先生が来たときにどうやら点けてくれたみたいで、校舎1階全体の照明は既に点いていた。

 先をちょこちょこと歩く少女の目的地は下足箱の並ぶ昇降口の前を通り、明かりのほとんどない階段を降りていく先にあるようだった。

 ……え? ここ1階だから、階下ってことは地下? この学校って地下室があるの?

 あ、でもそういえばここに入る前に咲野先生が地下室があるとか言っていたっけ。すっかり忘れていた。まあ、この短時間で色々あったからね。

 未だ話が十分に整理がついておらず、ひよこが3羽くらい頭の上をぐるんぐるんと回っているままで、少女の進むがままに付いていく私。大丈夫なんだろうか、やっぱりこんな夜遅くに学校に侵入したことについて尋問を受けるんじゃないだろうか、いや小学生くらいに見える女の子が尋問なんてすることはないよね、別に私はそういう趣味も無いし、なんて不安と疑問の渦巻きに身を浸したまま、少し薄暗い手すり付きの階段を降りていく。

 そうそう見失うってことは無いと思うけれど、1階の明かりも届きにくくなって、足元含めてかなり暗くなってきたから、なるべくこの子の近くに居た方がいいかも。

 何より階段は結構急で、途中で足を踏み外すと――

「あ」

「ちょっ……!」

 目の前の少女は、手すりも使わずにてくてく降りているのが見えていたけれど、おそらく階段の縁に付いていた滑り止めの段差につま先を引っ掛けたのだと思う。少女の体は小さな驚愕というよりは、手元の本が落ちただけのような無感動な声でふわりと前のめりになった。

 慌てて、私は右手で少女の腰に手を回……そうとして、少女の左腕をがっちり掴み、左手で手すりを掴……もうとして失敗し、空を切ったままバランスを崩して、階段の下に転がった。

「痛っ!」

 ……痛いだけで助かったのは、目的地の地下まで後数段しかなかったお陰だと思う。体の節々が悲鳴を上げていたけれど、多分怪我まではしていない、はず。痛かったけど。

 倒れた時、どうにか体を捻って倒れこんだことで、少女を押し倒す方向ではなく、自分が下になって受け止められたのが不幸中の幸い。というか、いくら見た目的には女性に間違えられることがあるとはいえ、こんな小さな子に意図せずとはいえフライングボディプレスを浴びせるようなことがあったら、女の子の方は痛いだけでは済まされなかったと思う。

「ふん、やっぱり女の子とくっつきたいだけのヘンタイにゃ」

「……え?」

 暗がりだから正確には分からないけれど、おおよそ胸の辺りからそんなヒネた台詞が聞こえてくる。多分、さっきの猫耳ちゃん。

「さっさと離れるにゃ」

 私が体を起こそうとすると、私のお腹に鈍い痛み。すぐにその痛みは引いて、その代わりに頭の辺りで足音がした。

 ……もしかして、お腹を踏まれた? ま、まあ大して重くなかったから、別に構わないけれど。

 地下の床は冷たいコンクリートに何かカバーを貼っただけのように酷く硬く、既にほとんど明かりが届いていないけれど体の痛みが治まるのを待ちながら階上を見上げると、何となく深海魚の気持ちが分からなくもない気がしてきた。うん、あまり深海魚とは仲良く出来そうにないかな。

「……ふん、さっさと起きるにゃ。寝転がってたって、何にも見せてやらないにゃ」

 ごろり、と横になったままの私の頭上から声が降ってくる。背中をさすりながら立ち上がると、通路の奥の扉が開いており、その先にやや明るい光が漏れ出してきている。その光は結構カラフル。

 立ち上がって美夜子ちゃんの後を追い、部屋に入って私は息を呑んだ。

 目の前のほぼ三方向を囲むような分割画面はどう見ても監視室だった。その部屋の床中に雑然と広がる用途不明な機械達。その様子はゴツゴツとした磯の中に立っているような気分になる。そして、その海の主である黒猫少女は部屋の中心で、椅子の上に胡座をかいて座っている。

 うん、まあ、詰まるところ、何か色んな機械があるみたいだけど、あちこちに置きっぱなしになっていて足の踏み場が殆ど無い。とても、片付けたい衝動に駆られる。

「小山準」

「あ、はい」

 意識が別なところに向いていたせいか、思わず敬語で答えてしまう。そして何でだろう、フルネームで呼ばれたからか、死刑宣告でもされるのを待っているような冷や汗が背中を伝う。

「準は――」

 ジト目で私を睨みつけるようにしていた割に、美夜子ちゃんがすっと言葉を唇から流したことで、思わず聞き逃しそうだった。でも、その言葉の内容は、ある意味で私にとっては死刑宣告にも等しい言葉。

「――何で男なのに、女子校に通ってるのにゃ?」

「…………えっ」

 その言葉で、数回分、瞬きする時間を吹き飛ばされた。

 いや、確かに理事長さんと寮長さんは知っていたから、他の人が知っていてもおかしいわけではない。ないのだけど、保健の先生も担任でさえも知らなかったから、あの2人しか知らないだろうと油断していて、完全に虚を衝かれた。油断、ダメ絶対!

 というより、この子もまさか高校生? クラスメイト?

 いやいやまさか。こんなにちっちゃくて可愛い高校生が居るとは思えない。身長はおおよそ私の胸くらいまでだから、おそらく130cmくらいしかないし、やや三白眼気味ではあるけれども、目がくりくりしていて凄く可愛い。小学生と言われれば頷くけど、もし高校生なら飛び級のスーパー高校生という可能性も?

「いや、あの、その、私は……」

「まあ、何故かは知ってるんだけどにゃ」

「…………えっ」

 私は再度時間を飛ばされた。何だろう、この、えっと、何?

 笑うでもなく、蔑むでもなく、わたわたし始めた私の顔をじっと凝視する少女はそのまま視線を下に持ってきたかと思うと、そこら中に床置きされている機械と機械の細い隙間につま先立ちで歩いてきて、やおらしゃがんで私のスカートを捲った。

 その行動に私は数秒フリーズ。されたことにはっと気づいて、私は慌ててスカートを抑え、飛び退る。

「ちょ、ちょっ……!」

「ちゃんと女性用のショーツ履いているのにゃ。変なところ、律儀だにゃぁ」

 スカートの下にしゃがんでいた美夜子ちゃんの右手がこちらに伸びていた。さ、触ろうとしてた!? 何処をとは言わないけど! 何処をとは言わないけど!!

「でも、このサイズじゃ収まりきってないにゃ。水泳もあるから、その辺りはなんとかしてやるにゃ」

「え、あ、あの、何が?」

「言った方が良いにゃ?」

「……いや、いいです」

 というか、小学生くらいの女の子がする話の内容じゃないと思う。

「一応、本人の口から聞いておこうと思ったから、聞いてみるにゃ。何で、男が女子校に通ってるにゃ? 可愛い女の子と物理的にも精神的にもお近づきになろうという魂胆にゃ? やっぱりヘンタイさんにゃ?」

「ち、違うから! というかやっぱりとか言わないで!」

 中途半端にごまかしても、誤魔化しきれそうにない。ならば。

 私は素直に事のあらましを話した。といっても、大まかには今日の話が大半なのだけど。

「ふーん。ま、知ってるけどにゃ」

 椅子まで戻って再び胡座をかいた小学生っぽい猫耳っ娘が私の話を聞いたときの感想第一声がこちらになります。いくらなんでも酷すぎるので、床に転がる機械を踏まないように注意して今度はこっちが近づき、ほっぺたを両方から引っ張った。むにーんと結構伸びて、柔らかい。

「ひたひ、ひたひ」

 ちょっと涙目になった美夜子ちゃんはせっかくの可愛い顔をぶすっと不満顔にしてから、

「もう準に協力してやらないにゃ」

 と、ふんぞり返った。なので、もう一度ほっぺたを抓ってやろうとしたら、慌てて部屋の端っこに逃げた。

「そもそも協力してくれる気はあるの?」

「ないにゃ」

「…………」

「冗談だから、その手をわきわきさせるのやめるにゃ。あまり変なことすると、警察呼ぶにゃぁ」

 全く、この地下アイドル、ではなく地下猫少女は何なんだろう。黒いショートボブに黒い猫耳カチューシャみたいなものを付けて、良く良く見ればしっぽまで生えている。生えているって言ったって、もちろん体から直接伸びているわけではないと思うけれど、小刻みにぱたぱたと素早く揺れているのは機嫌が悪い猫のしっぽそのものに見える。

 そして、私の話について、知っていると言ってることも気になる。単なるブラフ、という可能性はあるけれど、そもそも私が男であることを知っている辺り、普通の生徒と立場が違うのかも。

 もう、頭の中でハテナマークがマラソン大会中なんだけれど、まあおそらくその内に分かるでしょう、とそれ以上考えるのは諦めた。

「何で、僕が男であるのを知ってたの?」

 もう男であることが分かっているから、今更私と言う気兼ねも必要もない。なので、一人称を僕に戻して話をする。

「学校内のネットワークはみゃーが管理しているからにゃ」

「美夜子ちゃんが?」

「美夜子じゃなくて、みゃーにゃ」

「みゃー?」

「みゃー」

 えーっと……、と僕は首を傾げ、そこには突っ込まずに、

「みゃーちゃんが?」

 と訂正した。

「そうにゃ。だから、学校のパソコンで共有されているデータは全て見ることが出来るにゃ」

「いや、勝手に見ちゃ駄目でしょう?」

「別に、個人のファイルを勝手に見てるわけじゃないにゃ。学校で共有しているファイルでも、ちゃんと読むところを読めば準が男だって分かるにゃ。まあ、それでも気づいたのは理事長くらいだったけどにゃぁ。ちなみに、知りたければクラスメイトのスリーサイズも分かるんだにゃ。教えてやらないけどにゃー」

ふふん、と鼻を鳴らして笑う少女に苦笑いする僕。

「教えてもらいたいとも思わないよ」

「……既に調査済みにゃ?」

「そんなわけ無いでしょう?!」

「にゃはは」

 楽しそうな笑い声を上げた美夜子ちゃんは、急にまた不機嫌モードに戻り、

「そうだったにゃ。そんなことを言うために、準を呼んだんじゃないにゃ」

 ぐるりんっ、と椅子を回転させ、私に背を向けるようにしてから、何やらカタカタと音を立てた。おそらく、画面の前にあるキーボードを叩いているんだと思う。キーボードがあるかは知らないけど。

 しばらくして、ようやく音が止まったと思ったら。

「これを見るにゃ」

 タン、とキーボードの音と共に複数の画面に映し出される、ある映像。その映像に、僕は思わず驚愕の声を漏らした。

「ぎゃあああああああっ」

 凡そ、乙女らしくない声で叫んでしまった僕。いや、乙女じゃないから正しいのだけど、断末魔と言っていいほどの声を出してしまったのは、目の前の情景があまりに僕にダメージを与えたものだったから仕方がない。

 そう。

 複数の液晶に写っていたのは、明らかに女子(?)が女子を押し倒して、がっちりと女の子の隆起をしっかり揉みしだきつつ、唇をがっつりと奪っている様子を横から撮ったと思われる、その筋の人には非常に垂涎かもしれない映像。しばらく動かなかったから写真かと思ったけれど、その後に私……いや、僕があたふたしている様子と声が入ったから、どうやら動画のようだった。

「な、なんでっ」

 録画されていること自体も疑問だったけれど、何よりもさっきまでの校舎は日もとっぷり暮れてしまった後だったし、照明と言えるものはほぼゼロ。だから僕だって、かなり目を凝らしても良く顔が見えず、懐中電灯で照らしてようやく相手の顔が見えた、ってくらいだったはず。

 それが、今目の前に放映されている映像は全体的にやや緑っぽいとはいえ、かなり鮮明に女子2人が組んず解れつ、いや片方は男なんだけど、そんな見た目だけでは百合百合しい展開がばっちりくっきりはっきりと、動かぬ証拠として保存されている。僕はこの現実に、私は全身の毛が逆立ちそうだった。

「ふふん、高感度のナイトビジョンカメラ、それもみゃー特製のすーぱーなヤツで撮っておいたにゃ」

「ちょっ、ちょっと、これ……!」

 どんな気分? ねえねえ、どんな気分? という声が聞こえてきそうな意地悪い笑顔がこちらに向いていた。腹が立つので、再度ほっぺたを抓りに行こうとしたら、

「もし、さっきみたいにほっぺたをむにーってしたら、この動画を世界中に配信してやるにゃ」

 と小さい両手を私の胸に押し出して脅された。むむむ。

 この動画で唯一救いだったのは、顔をばっちり撮られているとはいえ、私の見た目が見た目だからよっぽど事情を知らないと、男子生徒が女装して女子生徒を襲っているという、警察沙汰になってもおかしくない事件ではなく、女子同士の戯れを少しと言って良いか分からない程度に逸脱した状況に見えてしまうことかもしれない。

 まあ、つまるところ自分が男と他人に認識されないであろうという半ば自負みたいな前提があり、それはそれで男としては辛いものの、真実を知られるとそれ以上に社会的に抹殺される危険を孕むというジレンマがあるわけだけれど。

 これを見せた理由は分かっていても、猫っぽい子の目から聞いて聞いてオーラが出ていたので、渋々聞いておくことにする。聞きたくないけれど。

「……それで、僕にこれを見せて、どういうつもり?」

「簡単な話にゃ」

 ふふん、と小さい鼻を鳴らして、無い胸を張る少女。

「この動画を流されたくなければ、みゃーの言うことを聞くにゃ」

「あー、うん」

 そうだろうと思っていたから、特段驚かない。ただし、命令される内容にも依るけど。

「特にみゃーとあそ……けほけほ、えー、みゃーが遊んでやるときには月乃つきのに呼ばせるから、そのときはここに来るにゃ」

 明らかに「一緒に遊んで」と言いたかったんだろうということは年上の余裕で流してあげておく。

 こんな暗い、狭いところに住んでいるわけではないと思うけれど、こうやってずっと監視カメラの様子をじっと見ていたら、話相手や遊び相手が欲しくなっても仕方がないと思うし。

 ただし、友達は居ないのかとか、外で遊ばないのかとか、小学生なら小学校に通わないのかとかは日本海溝よりも深い事情があるだろうから、あまり触れない方が良いと思う。

 ただ、こんなに小さいのにネットワークの管理をさせられている? 自分からしている? とすれば、結構どころか非常に頭が良い……あ、思い出した。

「ああ、貴女……真白美夜子って、一時期良くテレビに出てた天才少女?」

 たまにやっているテレビで「天才少年少女特集」なんてやっていたときに出ていた覚えがある。そう、確か超天才理系少女とかなんとか。何が得意だったのかは忘れたけど。

「…………」

 明らかに特大の不機嫌顔。あ、これは間違いなく地雷ですね、分かります。

 何故かは分からないけど、どうやらこの手の話はデッドボール級の話題のようだから、それよりもさっき気になった言葉について確認する。

「つ、月乃って誰?」

「……月乃は月乃にゃ。ほら、すぐ後ろに居るにゃ」

「後ろ……?」

 さっきから疑問符ばかり大量生産しているけれど、言われた通りに振り返ると、

「…………」

「…………」

 確かに振り返った視線の先、背後というほど近くではなかったけど、扉のすぐ横にじっと擬態中の昆虫みたいに存在感ゼロ状態を保っている少女が立っていた。暗い部屋から浮き上がるような酷く白い肌で、私も渡された制服を身に纏っているからうちの学校の生徒なんだろうと思うけど……この存在感の無さは忍者か何かみたい。

 というか、全然気づいていなかったけど、もしかしてずっとこの部屋に居たのかな?

「月乃、挨拶するにゃ」

「…………」

 何処かから、か細いキュインキュインという機械音が響いてくる。そしてその音は目の前の少女が立ち止まったときに止み、私よりも頭半分くらい小さいくらいの身長から私を見上げる動作で再度鳴ったのが分かった。

「こんばんは」

「こ、こんばんは」

「…………」

「…………」

 どうしよう、この無言展開。

 でも、さっきの音には聞き覚えがある。お父さんが良く、おもちゃのモーターで何か作ってたときの……とするとこの子は単純な無口っ娘ではなく、もしかして――

「勘の良い、というよりは両親がロボットの設計者だから分かってると思うけどにゃぁ」

 私の考えを読み取ったかのように、やはり椅子に胡座をかいたまま、猫耳をぴくぴくさせた少女が言う。

「その子はロボットにゃ」

「あ、ああ、やっぱり……って、うちの両親がロボット関連をやってるって何故知ってるの?」

 確かに両親はどちらもロボットの設計者で、社内恋愛から結婚したって聞いてたけど、そんな情報まで学校の中には管理されているんだなあ。私ですらあまり良く知らない事情だというのに。

 ……あ、また私に戻ってしまった。ああもう、自分の中で僕と私がせめぎ合って良く分からないことに。

 いや、でも私って言う方に慣れておかないと、普段の生活で僕って言っちゃうだろうから、やっぱり私にしておいた方がいいのかも。うー! あー、もう、とりあえず、私でいいや!

「ある人から教えてもらったにゃ」

「そうなんだ」

「……というよりは、人型ロボットやってる人なら結構名前聞いたことある人だにゃ、小山夫妻は。みゃーも月乃を作るときに論文読んだにゃ」

 お父さんとお母さん、そんなに有名だったんだ、知らなかった。

 お父さんなんて言ってたっけ……不気味の谷? とか言って、ロボットとかが人間に近くなればなるほど人間と違う部分が目について、嫌悪感を抱いてしまうことがあるらしいけど、月乃さんはたまにしているモーターか何かの音が気になるくらいで、それほど違和感が無い。

「ちなみに、月乃っていうのは名前の方で、苗字は渡部わたべだにゃ。渡部月乃」

「そうなんだ。美夜……みゃーちゃんが名前を付けたの?」

 こくり、と頷く猫耳ちゃん。

 ロボットに名前を付ける、というのはペットに名前を付けるのと同じような気分なのかもしれないけれど、苗字まで付けたのは何か理由があったのかな?

「みゃーちゃんと同じ苗字?」

 私が間違っていなければ、さっき尋ねたように彼女は”真白美夜子”であるはずだから、同じ苗字ということはありえないのだけれど、彼女にはその話題は厳禁だと分かっているから、敢えてそんな質問をしてみる。

「違うにゃ。みゃーはみゃーだから、苗字はないにゃ」

 無いことは無いんだろうけど、無いと主張している子にある! と頑なに言ったところで答えてくれないんだろうなあ、と私は少しだけ苦い笑顔。

 よっぽど自分の名前が嫌なのかな。

「とにかく、月乃は準と同じクラスにゃ。だから、呼び出したら、すぐに、必ず来るにゃ」

「分かったよ」

 ああ、まだ学校が始まっても居ないのに、女装しなきゃいけないだとか、こんな小さな子の相手をしなきゃいけないとか、何だか今までの学校とは比べ物にならないような面倒事が落石注意の看板の先に立ったみたいにごろごろと転げ落ちてくる。そんなに私、悪いことしたんだろうか。それともこれから良いことがある?

 画面を元の監視カメラ映像に戻してから、目の前の分割画面を見ていた美夜子ちゃんは、

「……さて、正木紀子が起きたようにゃ」

 端の方にある1つの画面を指差した。その画面を確認すると、保健室の様子が映しだされていて、さっき私が不可抗力で押し倒したようにも見えなくもないことをした女の子が保健室のベッドの上で上体を起こし、先生たちと談笑している姿が見て取れる。

 その姿を見て、彼女が無事だったことに安堵した後、ワンテンポ遅れではたと気づく。この映像、何処から撮ってるの? さっきの犯行……じゃない、事故の映像もそうだけど。

「あれ、保健室に監視カメラなんてあったっけ?」

「学校の色んな所にあるにゃ。まあ、外部から危険な人が入ってくるのを回避するのと、生徒の素行調査、まあいじめ対策とか、そういうのの対策のために設置して、みゃーがずっと確認しているにゃ」

 色んな所に……全然気づかなかったけど、でもあの私と女子生徒の衝撃的なシーンは狙って撮れるものではないだろうから、カメラが複数台仕掛けられているのは間違いないんだろうと思う。まあ、この目の前にある画面の個数分……えーっと、横が1、2、3、4で、縦が1、2、3の合計12個? くらいはあるんじゃないかな。

「確認って、毎日?」

「毎日」

「お家には?」

「………………」

 長い長い沈黙。

 まさかそんなことは無いとは思っていたけれど、本当にここに住んでいるの……?

 思わず、子供だから電池切れみたいに急に寝てしまったのかと思ったけれど、斜めから表情を覗き見ると、明らかに目は画面を向いていた。そのあからさまな『回答』に、私は質問内容が良くなかったことを痛感して、次の疑問をぶつけた。

「1人だけでこんなことしてるの?」

「別にみゃーだけじゃないにゃ。月乃にも確認させたりしてるにゃ」

「月乃ちゃん……ってこのロボットの子に?」

「そうにゃ」

 ちらりと横を見ると、相変わらず動かないロボ子ちゃん。うーん、この月乃ちゃんとかいう機械仕掛けの子がいじめとかを判断出来るのかとかは知らないけれど、1人でいつも見ているわけじゃなければ……いや、そういう問題じゃないから!

 家に帰らない理由とかいろいろ事情があるのかもしれないけど、自分からその話題をあまり振らないのと、さっきの『天才少女』というキーワードに引っかかったところからして、あまり彼女が賢いという話には触れない方が良い気がする。その割には、自分がやったことや知識を見せびらかすようなことはしているけれど。

「でも、保健室に監視カメラがあった覚えが無いんだけどなあ……」

「当たり前にゃ! ……わわわっ」

 腕組みして、美夜子ちゃんはふんぞり返って、椅子から転げ落ちそうになったので、私は慌てて片手でキャッチ。きっと、こういう積み重ねで少しは心を開いてくれると――

「……ただのヘンタイさんじゃなくて、ロリコンなヘンタイさんだったにゃ」

「違うからね!?」

 酷い勘違いだ!

 ちゃんと座り直したみゃーちゃんは、やや恐る恐るながらも、やっぱりふんぞり返った。

「いつも監視されているって思ったら、皆がゆっくり学校生活を送れなくなるから、かなり気を使って隠してるにゃ。ちっちゃいカメラにしたり、色塗り変えたりしてるにゃ。あ、ただし昇降口とか裏口とかはわざと目立つように少し大きいのを付けてるけどにゃぁ」

「え、でもそれって盗撮になるんじゃ……」

「入学願書とかパンフレットには『学校内ではいじめ対策や危険防止のために、必要に応じて監視カメラが設置されています』と記載しているにゃ。ちゃんと読んだかにゃぁ?」

 ニヤニヤ、という表情が似合うみゃーちゃん。う、確かに、あまり細かいところまで願書を読んでいなかった。そうでもなければ、女子校に来ることも無かっただろうと思う。

 いや、それでも盗撮だと思うけど!

 でも、ようやく分かった。そういえばこれも坂本先生が言っていたけど、監視カメラの管理者をお菓子で手懐けたとか言っていたのはこの子のことだったんだ。なるほど、じゃあ今度お菓子を持ってきてみようかな。甘いものの方が好きなのかな?

「話は終わったにゃ。さっさと正木 紀子のところに行くにゃ、しっしっ」

 そう言って、相変わらずの胡座のままで手をひらひら。用は済んだから帰れ、っていうことなんだろうけど。

 私は物言わぬ、人形とは思えない少女とその製作者である天才少女を順に見てから、

「また来るからね」

 とだけ言って、どちらの頭もポンポン、と優しく叩く。

 そうしたら、美夜子ちゃん……じゃなくてみゃーちゃんはほっぺた含めて真っ赤にして、頭から蒸気を噴き出した、ような気がする。とりあえず、怒っているのは間違いないみたいだけど。

「よ、呼んだときだけにゃ! このロリコン!」

「あはは」

 扉を出たところで、一度立ち止まって、部屋の中を振り返る。

 みゃーちゃんの背中は、猫背になっているからというのもあると思うけれど、本当に本当に小さく見えた。

 頭をポンポンと軽く叩いたのは、昔意地張ってばかりだった妹が、小学校の頃に妹が泣いて帰ってきた時とか、雷が鳴って怖がっているときとかにしてあげたら、泣き止んだのをなんとはなしに思い出したんだと思う。

 あの態度を見る限り、すぐに仲良くなるのは難しいだろうから、彼女が胸中を全部ちゃぶ台返ししたくなったときに聞いてあげよう。ちょっとくらいわがままに付き合ってあげながら。

 そんな思いを胸に仕舞いつつ、ひんやりとした空気を湛えた階段を上って、煌々と明かりが点いている保健室に戻ると、わちゃわちゃしている先生ズに迎えられた。まだやってるんだ、この人達。

「あら、お帰りなさい」

「戻ってきたか」

「あーん、準ちゃん、綾里と公香がいぢめるの! いぢめるの!」

「何がいじめる、だ。お前がだらしないから説教しているだけだろう。いいか、そもそもだな――」

 まだ、益田寮長と咲野先生の親子コントが続いているようだったけれど、私はそっちの方にはあまり興味がない。というか、戻ってきたのはこのてんやわんやに付き合うためではないから。

「あ、あの……」

「……? ……あ、はいっ?」

 私が近づいて声を掛けると、ベッドの上で緩やかな笑顔のままに益田咲野ペアを見ていた少女は、しばらくは私と視線が合っても自分に声を掛けられたと気づかず、周囲を見回し、瞬きし、どうやら自分の後ろや横に人が居らず、その声が向けられたのは自分であると理解してから、ぴくんっとやや全身を跳ね上げるようにして声を発した。

「先程はすみませんでした」

「さきほ……ど……? あ、ああ、あなただったんですね。ええっと……こ、こ……ここ……こや、こやまださん?」

「こやま、です。小山 準」

「あ、す、すみません、小山さん」

 謝る際、バツが悪そうに一度目を伏せてから、スコールが上がった秋空のコスモスのように嫋やかな笑みで少女は名乗った。

「私は正木まさき 紀子のりこと言います」

 真ん中分けを左右それぞれ違うピンで留めている女子生徒は、上半身を緩やかに折って頭を下げてきたので、私も慌てて頭を下げる。行動の一つ一つが春風が吹き抜けるような暖かみと優しさを感じて、ああこれがお嬢様というものなのかな、なんて思ってマジマジと顔を見てしまう。お嬢様学校じゃなくてもお嬢様って居るものなのですね。

 その私の行動に目を丸くして、小首を傾げる正木さん。

「あの、どうかしましたか?」

「え、い、いえいえ、何でもないです」

 いちいち仕草にときめいていたらいけない。それ以前に、女同士で仕草にときめくとか、まず無いよね……無いのかな?

 わちゃり終わったらしい先生ズの中から、坂本先生がようやくこちらに気づき、正木さんの前に立った。額に手を当てたり、頬に当てたり、これ何本に見える? というネタをやってみせたりした。

 ……最後のは必要なの?

「正木さん自身、何処かが痛いとか問題がないようだったから、帰っても良いですよ」

「はい、分かりました。特に問題はありませんので、そろそろ……」

「私たちも戻るか。全く、飲む前で良かった」

「あー、アタシも行くー」

 わらわらと保健室を出て行く先生3人組に慌てる私。

「ちょ、ちょっと咲野先生! 書類、書類! せっかく取りに来た書類忘れてます! 後、電気と鍵!」

 あ、いや、部屋のロックは無いんだっけ。

 3人の先生が当たり前のように出て行った後を慌てて追いかけた私は、電気を消そうと手を伸ばしたところで冷静になり、ベッドの上に残っている少女の方が気になって、足を止めた。

「あ、すみません。大丈夫ですか?」

 ベッドから体を起こして、スリッパに履き替えようとしていた女の子のところへ小走りで戻って、手を差し伸べると、やや目尻の下がった瞳を更に下げ、華やかさと共に落ち着きのある笑顔で手をこちらに差し出した。

「ありがとうございます」

 私よりも幾分か冷えた陶器のような指先を、壊さないように慎重に受け取る。

「いえいえ」

 立ち上がった正木さんは、一瞬だけよろめいたけれど、すぐに体勢を立て直して私から手を離し、カーテンレールに掛かっていたハンガーからカーディガンを取って着ると、プリーツスカートの折り目を正しながら歩き出した。私もベッドの上に置きっぱなしになっていた咲野先生の書類を持って、その後を付いていき、電気を消す。

「ああ、ごめんなさい、2人共」

 ようやく冷静になったからか、眼鏡のズレを抑えつつ、慌てて戻ってきた坂本先生。しっかりしていそうな先生だったけれど、この人もやっぱり他の2人の友達だけあって、抜けているところがあるんだなあ。まあ、何となく予想はしていたけれど。

 残りの2人はというと、十数歩先くらいで「まだー?」みたいな駄々っ子の目をして待っていた。うちの猫よりも躾がなってないんじゃ、この人たち。

 保健室の電気を再度点けて、机の上の書類を軽く片付けてから、坂本先生は部屋の鍵を掛けた。

 ……あれ、今更気が付いたけれど、部屋の鍵ってあるんだね。咲野先生が校内では地下室以外電子ロックは無いって言ってたけど、なるほど、電子ロックが無いだけで部屋ごとにアナログな鍵は付いているんだ。そういえば、先生が職員室に入った時も鍵を開けてたっけ。

 ということはこのアナログな鍵は先生たち全員に渡されてるのかな。確かに、いくら学校内に外から人が入ってくるのは容易ではないから安全だと言っても、万が一ということもあるだろうし、生徒たちが勝手に職員室に入ってくることも防ぐという意味合いがあるのかも。

 ひんやりした木目柄なリノリウムの床をペタペタと来客用スリッパで歩くと、音が響いて不気味。それが人数分だから、反響を繰り返して尚の事。

 先生たちが靴に履き替えているのを見て、ようやく思い出した。私、ずっと上履きじゃなくて靴で学校を歩き回っていた。新学期だからと新しい靴を履いてきたからそれほど汚れていないとは思うけれど、やっぱりまずかったと思う。

 同じく靴のままだった咲野先生は私に気づいたみたいで、しーっと人差し指を口元に当てていた。ああ……まあ、そうしましょう。

 坂本先生が昇降口の電子ロックを解除してくれたから、私たちは先頭の咲野先生の後ろを歩いて、校舎の外に出た。

「じゃあ、悪いんだけど、小山さんは正木さんをお願いね」

 教職員証を持ったままだからか、片手でお願いポーズをした坂本先生に私は頷く。

「あ、はい」

 あれ?

 坂本先生は私が男だって知らない、んだよね? 何故、私が正木さんを送るって話になっているんだろうか。普通、こういうときは先生チームの誰か1人が送っていく、という話になりそうな気がするのだけど。

 嫌だとか言うわけではなく、結局この人は私を男だと知っているのか、それとも知らないのか、分かってて言っているのか、天然で人任せなのか、いやいやそもそもこの学校全体の中で誰が私を性別詐称中真っ盛りだと知っているのかが気になってしまって、夜しか眠られないのだけど。

 私に「ほい、懐中電灯貸しとくから、後はよろー」と懐中電灯を手渡した咲野先生は手をひらひら振って、私が差し出した書類を「あ、サンキュー、小山さんがうちのクラスで助かるわー」と調子の良いことを言う。そして坂本先生はぺこりとお辞儀をして、益田さんは私の肩を叩き、耳元で「正木を頼んだぞ」と言ってから軽く手を挙げて去っていく。

 私が男だってわかっているから、益田さんが送っていくように言った可能性も考えたけど、あのガサツな性格からするとそこまで考えていない気がする……ということは、皆さっさと帰りたいから、いわゆる押し付けて帰った、というパターン?

 でも、この先生ズが正木さんを連れて行くというだけでいろんな意味で不安要素アリアリだし、その……ね、さっきいろいろとあったし、罪滅ぼし的な意味合いも込めて送っていこうとは思っていたから、別に一緒に帰るのは構わない。

 ……構わないんだけどね?

 見栄え上の世間体的では女子高生2人なんだし、夜中の町中を歩いているというのは正直どうなんだろう。補導とかされるんじゃない?

 騒がしい先生たちが居なくなって、肌を刺すとまでは言わずとも体を徐々に芯から冷やすような風が吹き抜ける音と草花同士が擦れ合う音しか聞こえなくなった。空は星がそこら中に見えているから雨は大丈夫だろうと思うけれど、ゆっくり星を眺めるにはまだ少し寒い。

「じゃあ、行きましょうか」

 正木さんに笑いかけると、こだまのように笑顔を返してくれた。

「ええ、そうしましょう」

 私は正木さんと校門までの道を歩く。ただ、お互いまだ会って間もないこともあって、ぎこちない距離感がひたすら押し黙った空気の道を作っている。ううん、こちらとしてはそれ以外の要因も非常に大きいんだけれど。

 アクシデントとはいえ、さっきはいろいろと凄いことになってしまった相手と2人で歩くというのは、かなり……あ、思い出しただけで頬が熱くなってきた。いやいや、しっかりしなきゃ。

 更にこのぎこちなさを加速させる要因になっているのが、意外と校門までの距離が長くて、戸惑うこと。

 私立だからかもしれないけれど、やけに大きな池があったり、何だか洒落た石畳やベンチが置いてあったりと、とにかく趣向を凝らしたんだろうけれど過剰装飾だよねって思う部分が多々ある学校なので、敷地もかなり広い。確か学校のパンフレットに、元々は公園だったのを学校側が買い取って、今のような学校になったとかなんとか書いてあった気がするから、どちらかというとその公園の名残なのかもしれないけれど、何にしても広いし、道が長い。さっきは咲野先生が居たから、何だかんだ先生が振った話にツッコミを入れていたらいつの間にか着いたけれど、今回はどうやら彼女……正木さんはあまり話をする方じゃないのかな。

 とにかく、意外と長い道中で私の脳内は話題を増産するのだけど、男バレしないように、なるべく話が続くように、っていう理由を考慮して選定すると、全て出荷前チェックで弾かれてしまう。だって、例えば服装の話題とか投げたところで、私自身が付いて行けない。基本、服は母か妹の勧めで買ってただけだから、どこのブランドが良いとか全然分からないし。

「あ、あの……この辺りは花菖蒲とか、梅雨時期になると綺麗らしいですねっ」

 突然のか細い声が、数歩後ろくらいから割り込み上等なスライディングしてきたので、思わず私はその声を見送りそうになったけれど、何とか右から左に受け流さないで聴きとった。

「え? あ……えっと、はい? そうなんですか?」

 言いながら横を向くと、誰も居ない。そのまま視線を少し後ろに向けると、必死に距離感を掴もうとする声の持ち主が見える。

 ずっと、正木さんの隣を歩いていたつもりだったのに、いつの間にか昔の夫婦よろしく、正木さんは私の影を踏まない程度に離れていた。

 そっか。身長が頭1つ分くらいに違うから、歩幅が違うのね。更に考え事をしていたことと、早くこの無言の緊張感を払拭したいという思いも重なって、少し早足になっていたのもあると思う。

 彼女の視線が「並んで歩いても大丈夫かな?」とやや不安げだったから、私も出来る限りでの笑顔で答えた。「大丈夫ですよ」と思いを込めて。

 私の視線の意図に気づいてくれたのか、たたたっ、と私の隣に小走りで来て、正木さんは話を再開する。

「はい。ここが昔は公園だったことはご存知かもしれませんが、その頃から花菖蒲が植えてあったそうで、寮の名前が『菖蒲園』という名前になっているのも、実はその名残だと言われています」

「そうだったんですか」

「はい、そうなんです」

 正木さんの言葉に、私は素直に驚く。寮の名前が『菖蒲園』だったことも知らなかったけれど、そんなことを知っている正木さんが素直に凄いと思った。それとも、昔からこの学校に通っていると、その辺りは当然の知識なのかな?

「寮の名前も含め、知りませんでした。教えてくれて、ありがとうございます」

「いえ」

 でも、それ以上、話が続かない。正木さんも話題を振るのが得意ではないようで、またお互い押し黙りそうになったから、私はふと、こんな時間に2人で歩くきっかけになった理由について、疑問をぶつけてみた。

「そういえば、正木さんは何故こんな時間に学校に?」

 私自身も突っ込まれて当然の話なんだけれども、ちょっと気になった。それも、校舎中にこっそり隠れていたなんて、まさか忍者の末裔……!?

 私の脳内妄想はさておき、正木さんは照れるとまではいかないけれど、少しの気恥ずかしさを湛えながら教えてくれた。

「ええっと……さっき先生たちには話したんですが、実は明日のクラス割りを見たいと思って、こっそり入ったんです」

「クラス割りってことは……つまり誰と誰がどのクラスか、っていうのを確認しに行ったということですか?」

 確かに学校のクラス割りというのは、教室の席順と共に学校生活の約6割くらいを決める、気がするくらい重要だと思うけれど……そのためだけに?

「ええ。いつも前日の夕方に先生たちが昇降口に貼って行くことを知っていて……それで、真帆、あ、えっと、友達が同じクラスになれたか見てきて欲しいって」

「なるほど」

 忍者の末裔じゃなくても、この子は意外と肝が据わっていると思う。

「学校の通用門の鍵は友達が寮に住んでいる他の子から借りて、コピーキーを作っていたので、それを借りて入りました」

「用意周到ですね……その友達」

 こちらはこちらで、ルパンか義賊の方の石川五右衛門辺りの末裔かもしれない。

「あはは。まあ、私とは違って、凄く元気な子ですね。それに、色々な部活から助っ人を頼まれたりしても断らないし、活動的だから私もいつも元気を貰っています。中学の頃からのお友達なので、付き合いが長い方ではあると思いますよ」

「ちょっと会ってみたいですね、その子」

 ルパンや五右衛門の末裔じゃなかったとしても、

「大丈夫です。もう1人の友達も含めて、同じクラスだったのですぐに会えますよ」

「そうなんですか。じゃあ、正木さんに会いに行けば会えるのかな?」

「いえ、一緒なのは小山さんもですよ?」

「……え?」

「私の入る教室も、もう分かっているの?」

「もちろん。ちゃんと掲示されていましたよ」

 そっか。転校生でもクラス割りに書かれていなければ、どのクラスに行けば良いか分からないし、掲示されていて当然といえば当然。理事長も坂本先生もクラス割りについては言ってなかったから、すっかり忘れていたけれど。まあ、咲野先生のクラスってことは分かっているのだけど、それが3年の何組なのかはさっぱり。

「最初見たときは、名前は良く覚えていなかったんですが、クラス割りには転校生の名前の横にお花が飾ってあるんです。それで友達に送るためにスマホで写真を撮ってきたんですけど……ほら」

 見せてくれたのは、正木さんの手にすっぽりと収まるくらいに小さい画面のスマホ。フラッシュを焚いて撮ったと思われる写真は、私の名前の横に赤色の花が付けてあった。

「私達のクラス、3年A組のところに小山さんが居て、それよりも上の方に……この、岩崎真帆いわさきまほっていう名前の子ともう1人、この片淵都紀子かたぶちときこっていう名前の子が仲の良い友達です」

「私とも仲良くしてくれるでしょうか?」

「もちろん、大丈夫ですよ。でも……ふふふっ、転校生の方ってどんな人かと少しだけドキドキしていたんです。まさか、すぐに知り合いになれるとは思いませんでしたが」

 心底楽しそうに笑顔を見せる正木さんは、自分ばかり喋っていたことにはっとしたらしく、頬を染めて少し俯いてから、わたわたと両の手をわたわた振った。

「す、すみません。私ばかり、勝手に喋ってばかりで」

「いえ、構わないですよ。私もこの学校のこととか、クラスメイトのこととか、知っておきたいですから」

「そうですか? ありがとうございます」少しだけ言葉を切ってから、隣を歩く正木さんははにかむというか、バツが悪そうに言葉を続けた。「……どうしても、真帆とか他の友達と一緒に居ると、聞き手になってばかりだったので、つい。小山さんは、何故か分からないですが、受け止めてくれるって気がして、ついついしゃべりすぎてしまいます。会ったばかりなのに、変ですね」

 岩崎さんという人は、話に聞く限りでは良いところもきっと多いだろうけれど、周りを見ながら喋るとかいうのは苦手そう。

 でも、正木さんが私からウェルカムカモーンな空気を感じているというのは、やっぱり男女の違いがあるからなのかな? ちょっと、気をつけておかないといけないかも。

「あ、小山さんの方から何か聞きたいことってありますか?」

「ああ、えっと……」

 クラスの話、とか学校の話とか、色々脳内をぐるぐる回って、休止状態だった話題生産工場を再稼働させようと思ったけれど、また長々と沈黙を守るのも何かと思ったので、

「さっきの話の続きで、校舎にはどうやって入ったんですか?」

 と、他に聞きたいことよりも先に言葉が口をついて出た。聞きたかったかといえば、まあ聞きたかったけれど、せっかくだからもっと無かったのかと自分自身、少し反省。自分でさっきクラスメイトのこととか、色々知りたいとか言っていたのにね。

「あ、えっと校舎に入る方法は……小山さんも同じところだと思いますが、お手洗いの窓からです」

「え?」

「咲野先生がトイレの鍵を開けっ放しにしていることを知っていたので。あ、これについては、結構皆が知っているみたいですよ?」

 咲野先生のせいで、せっかくのセキュリティが、使い古したジャージのゴムみたいに緩んでしまっていた!

 もしかすると、私のときみたいに誰かを連れて校舎に入って、自分で広めているんじゃなかろうか。

「先生達も皆知っているものだと思って、私がお手洗いの窓の鍵のことをバラしてしまったんですが……誰も知らなかったみたいで。だから咲野先生、さっきずっと怒られていたんです」

「なるほど、道理で」

 ふふっ、と益田咲野母娘の様子を、どうやら同時に思い出し笑いをした正木さんと私。そして、顔を見合わせて再度同時に笑う。

 その後の話題は忘れたけれど、なんやかんや話をしている間に校門まで辿り着いていた。

 校門は非常に塀が高く、そう簡単に人が乗り越えたりすることが出来るようなものではないっていうのが伺えるし、確か咲野先生が侵入者を感知する装置があるとか言っていた気がするから、防犯面ではかなり力を入れているみたい。

「ええっと……あ、小山さんこっちです」

 せっかく辿り着いた校門の前から、少し横に逸れる正木さん。どうしたのかと思ったら、校門の脇にあるフェンス扉に近づいていた。

「校門はもう閉まっているので、この通用口を使います。学校側から出るときには、ノブを回すだけでそのまま外に出られるんですよ」

 言いながら、正木さんが通用口のノブを捻って押すと、ギギィと少しの軋む音と共に扉が開いた。

「本当だ」

「入るときには鍵を回しながら入るんですけど」

 そう言って一足先に出た正木さんを追いかけるように扉を出てから、私は左右を見る。

「えっと……正木さんの家はどの辺りなんですか?」

「すぐそこです」

「え?」

 正木さんの細い指の先は、やや薄暗い先にある学校の隣の一戸建てを示していた。

「えっと、もしかして……?」

「はい。私の家、学校の隣なんですよ」

 まさか、と思ったが、並んでその家の前の表札に『正木』と書かれているのを見て、小さくおぅふと声を漏らした。ホントだった!

 もしかすると、先生達もすぐ家が隣だから、何が起こることも無いだろうと私に任せたのかも。いや、それでも学校の教師として駄目だけど!

「それでは、明日また宜しくお願いします」

「ええ、また明日」

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 小さく手を振って、正木さんが玄関の扉を開けたところを見送って、私は学校に戻る。いやあ、こんな時間に学校に戻るなんて、昔じゃ考えられなかったなあ、なんて思いながら、通用口のフェンス扉に手を掛ける。

 ガチャンガチャン、と音がして、扉は開くのを断固拒否。

 ……なじぇに!?

「あ、あれ? ふぬぬぬぬっ!」

 扉のノブを何度も捻ろうとしても捻れない。押しても引いてもうんともすんとも言わない。

 て、抵抗はよろしくなくてよ? 我慢は体に毒ですわ! 素直に開いてしまったらいかがかしら!? などと意味の分からないお嬢様語が頭の中を全力疾走しながらバトンリレーをしている中で、私は鍵が掛かった部屋に不法侵入しようとした新米の空き巣みたいなことをしている。警察じゃなくても、誰かが通り掛かっただけで、間違いなく通報されるレベルの怪しさに、一旦私は手を止めて深呼吸。

 この扉を開けるちょっと前に言っていた正木さんの言葉を思い出す。

『学校の通用門の鍵は友達が寮に住んでいる他の子から借りて、コピーキーを作っていたので、それを借りて入りました』

 もう1つ。

『入るときには鍵を回しながら入るんですけど』

 つまり、通用門は普段鍵が掛かってます、と。

 そして、その鍵を私は持っていない、と。

 だから、学校の中に入れない、と。

 よって、私は寮に戻れない、と。

 ……駄目じゃん!

「えっと、どうしよう」

 実家はバスと電車を乗り継げば帰れるけれど、結構日が暮れているから、バスや電車の本数もかなり少ないし、下手をすると初日から遅刻なんてことはしたくない。

 いや、でもそれ以前に、財布を部屋に置きっぱなしだった。つまり、一文無しなので、家まで歩いて帰るというしかないから、まず無理。

 ……いや、ちょっと待って。

 正木さんはここの鍵を持っているんだから、借りればいいだけじゃない。

 でも、さっき別れたばかりの人の家にまた行って、鍵を借りるというのは、自転車で友達を追い抜かして挨拶したのに、その先で信号待ちしていたらさっき挨拶した友人が追いついてきちゃったときみたいに、別に何も悪いことをしているわけでもないのに、少し心の座りが悪いというか。

 別に悩むほどのことではないと思うのだけど、まだ出会ったばかりだとか、あの衝撃的な出会いが、とかうじうじと考えていたら。

「ごめんなさーい!」

 こちらに向かって走ってくる人影。この声、もしかして。

「は、はあ……はあ、はあ。良かった、まだいらっしゃったんですね。こ、これを……」

 さっき別れたばかりの正木さんは荒い息を整えもせずに、両手でぎゅっと私の手を包みながら小さい鍵を握らせたので、少しひんやりした正木さんの指にちょっと私の心がざわめいた。

「も、もしかして、まだ学校、来たばかりですし、つ、通用口の鍵、を、持ってないかなと思って。さっき、お話しした感じだと、通用口のことも、知らなかった、みたいだった、ので」

「ありがとう……そこまで急がなくても良かったのに」

「い、いえいえ! 私、そそっかしくて……申し訳ないです」

「正木さんのせいではないですよ」

 1番いけないのは、寮長である益田さんがその辺りをちゃんと説明してくれていないことと、この鍵を渡してくれていなかったことだと思うけれど。

「鍵は益田さんから貰うまではお貸ししておきますね」

「ありがとうございます」

 頭を下げて去っていく正木さんに謝辞を述べてから、手を振りながら考える。

 昔からずっとそうだった。

 変に人に気を使って、頭の中でただただ悩みの種を爪繰るばかりでなかなか行動しないから、結局行動するよりも人に迷惑を掛けてしまう。

 私は鍵を開けて学校に入る。

 だから、学年が変わったら、中学から高校になったら、学校が変わったら、ってずっと思っていて、でも何も変わっていない。きっと、これからも変わらないのかもしれない、性格だから。

 やはり、校門からの1人歩く道のりは、肌寒さと心の寒さを同時に感じるせいか、道のりが長く感じる。木々の間に敷かれたレンガの道を歩いて行くと、ようやく寮の窓から漏れる光が見えてきた。

 入り口の右手側に貼ってある寮の名称を見ると、ホントだ、確かに『菖蒲園』と書かれている。

 そういえば、益田さんに連れられてきて寮に初めて来たときはすぐにお風呂に入ったし、その後は咲野先生に連れられて学校に不法侵入していたから、寮の中を全然見ていない。

 玄関口で靴を脱いで、来客用と思われるスリッパを履いて、寮の中をざっと見回す。

 寮の1階、玄関に入る手前の左手側はテラスになっている。その先には引き違いの大きなガラス扉がいくつかあって、寮の廊下と繋がっているみたい。テラスにはテーブルと椅子が用意されているから、人によってはそこでテラスで食事を摂ったりするんじゃないかな。

 寮に入って左手には、さっきのテラスへのガラス扉の向かい側に寮生の部屋が並んでいて、その廊下を抜けた先には大きな食堂。朝食と夕食はここで食べるべし、と益田さんに言われていた。

 逆側、右手の方には寮生の部屋とさっき入ったお風呂、トイレもある。トイレの横にある小さい扉を開けてみると、掃除道具や使わなくなった機材などが置いてある物置になっていた。多分、片付けたら今では珍しい物がたくさん出てくるんじゃないかな。

 私の部屋は2階建ての一番奥の201号室っていうのはさっきも紹介したけれど、その向かい側にはかなり広い『娯楽室』と書かれたプレートが嵌っている扉がある。

 とは言っても、開けてみても特に何も無い広い空間で、昔は何か……例えば、卓球とかをしていたのかもしれないけれど、今は何もない、少し埃っぽい部屋でしかない。

 逆側の廊下の先にはベランダがあり、洗濯物を干すための物干し台が置いてあるから、洗濯物や布団はここで乾かせば良いんだと思う。それ以外は全て寮生の部屋になっていて、ちゃんと数えていないけれど15部屋くらいあると思う。

 私の部屋が一番奥なのは、寮長さんが普段の生活であまりを気を使わなくても良いように、なるべく周りの人から離した場所の部屋を準備したから、と本人は言っていたけれど、あのはっちゃけ寮長さんがそこまで気を回していたかどうかは怪しいから、実際のところは理事長さんとかが考えてくれたんだと思う。

 部屋の扉の鍵を開けて、私の持ってきた鞄以外には備え付けのベッドと机、衣装棚、大きな姿見くらいしかない殺風景な部屋に入る。

「はぁー……」

 特大の溜息と一緒にベッドに寝転がる。

 何だか、1日が1週間くらいに感じた。ううん、1日どころか、夕方くらいからだからたった数時間。だというのに、あまりに濃密すぎてもう何が何だか。

 うずくまるように体を丸める。そういえば、スカート履いていたんだっけ、なんてことを自分の姿を見ながら、今更ながら再確認する。

「……僕、このままやっていけるんだろうか」

 ポツリと思わず漏らした弱気は、自分自身でも驚くほど気の抜けた声だった。

「服……着替えなきゃ……スカート……しわに……」

 手が虚空を彷徨うけれど、結局何を掴むこともなく、私の意識のブレーカーが落ちた。

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