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義教の野望  作者: ペロリん千代
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おまけ ウィキペロディア

後世の評価が見たいとあったのでwiki風にまとめて見ました。生涯については省略で。

Wikiperodia


足利義教あしかがよしのり


生誕

応永元年(1394年)


死没

永享十一年(1457年)


別名

茶狂い御所

第六天魔王

籤引き将軍

万人恐怖




室町幕府第六代将軍

はじめは僧籍にあり、「義円」と名乗っていたが、兄、義持に継子が居なかったため、籤引きによって選ばれた。還俗直後は「義宣」であり、後に「義教」となる。


別名の「籤引き将軍」は石清水八幡宮の籤引きで将軍に決まったことからつけられた。鎌倉公方の足利持氏が義教の事をよくそう呼んでいた。「第六天魔王」は延暦寺を武力で以って鎮め、その荘園を残らず横領するという前代未聞の事を起こしたことから呼ばれた。義教の死が伝わると仏教勢力は歓喜したという。これを知った子の義幸は奉公衆を率いてそれらの勢力を脅した。


将軍位を子の義幸に譲ってからは政治の場から退き、あくまで相談役としてしか政治に関わらなかったという。そして東山に別荘を建て、そこに移り住んだ。その別荘は現在は足利東山邸と呼ばれ、国宝及び世界遺産となっている。


義教は隠居した後は茶道をひどく好み、公家、武家など多くの人に茶を振る舞ったという。このことから義教の死後、「茶狂い御所」と渾名された。義教の茶道は侘び、さびを体現したものであり、義教に感化された村田珠光によってより洗練されて広まった。



人物


同時代の資料中に「勘気を被った」人が誰一人として書かれておらず、我慢強い性格であったと考えられる。


非常に厳しい顔つきだったと言われ、当時の日記に「其の顔、万人を恐怖に陥れるが如し」とある。また、ある公家に「日記に容姿端麗と書いて欲しい」などと言っていた記録があり、コンプレックスだったと見られる。


子の義幸とは仲が良く、義幸は頻繁に相談と称して東山邸を訪れている。そのため義幸はその功績もあり、現代では「天下無双のファザコン将軍」と呼ばれている。義教の死に歓喜した仏教勢力を兵で脅したこともこれに拍車をかけた。




評価


義教が将軍位についた時は関東の鎌倉公方や九州の少弐、大友、菊池との対立により、危機に立たされていたが、これらを全て鎮め、さらには山名氏の勢力を削ったことなどから政治家としては相応の能力を持っていたものと思われる。


だが、現代では専ら文化人としての評価のほうが高く、巷では「足利義教?ああ、あの茶狂いね(笑)」とも言われている。


はじめは守護の力を抑えようとするなど、従来の将軍と同じような手法をとっていたが、守護の家督争いに干渉した回数は他の将軍と比べて少なく、どこかで心変わりしたのではと言われている。


銀山、金山の開発や勘合貿易の再開などで幕府に莫大な富をもたらした。だが、そこでは当時日本に伝わっていなかった筈の灰吹法が使われており、当時山城国から始まった現代と同じ稲の栽培法の原因とともに歴史学者を悩ませている。


更に、銀、金の交換比のことも遺言としてのこしており、一部の人からは義教は転生者だと言われているが、まともな人からは一笑に付されている。このことについて著名な歴史学者、相上岡喜(あいうえおかき)は「解せぬ」と知人に零した。

今度こそ終わりです。



感想ありがとうございます。非常に励みになりました。

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