匿名拡散家鴨の王国
個人確定には、名前が不可欠だ。
勝手に付けられたナンバーもあるが、それはそれ。
酒も煙草もやらないから『ID確認』、何て事もない。
ダラダラしたランダムな数字は、まさかの圏外で、覚える気にもならないのだ。
地味なぐらい静かな暮らしに、ドップリと浸かっていた。
町と呼ぶには余りに家と家とが離れていて、孤独な島々が寄せ集まった、草わらの雲海の様だったのだ。
そんな町でも、訪れる観光客はいた。
春から夏にかけてのキャンパー達だ。
何せすぐ側が国立公園で、なだらかな山々が連なり、トレッキングの道も整備されてあったからだ。
何よりも、不思議とここいら一帯は、熊が出ないのだ。
岩山が多く、川が浅く速く、大きな流れや湖が少ないのが関係していると、公園のレンジャーが、言ってはいたが、これと言った決め手はなかったのだ。
針葉樹の濃い影が、前の道を縞柄に遮っている。
もうすぐ3時だろう。
牧草の生育を見回って、納屋に帰る事にした。
日が落ちれば、ここいらは真っ暗になる。
星空が美しかったが、今夜の予報は曇りのち雨だ。
一緒に付いて回った、牧羊犬のリコとマーシュとカイにも、晩飯をあげたいし、そもそも自分も腹が減った。
夏場は、放し飼いにしてる牛達だから、雨が降ってきても、入りたければ小屋に入るし、気にならなければ、そこいらの木の下で、雨宿りしながら、のんびりと反芻する事だろう。
犬達は、夜も働くから、タップリ栄養をつけさせるのだ。
熊がいなくても、狐やコヨーテやテンはいる。
しっかり土台をコンクリートで固めていても、電気柵の不備を狙って、彼奴らはチョイチョイ鶏小屋にやって来るのだ。
三匹は連携して、この牧場を守ってくれていた。
犬達に夕飯を食べさせ、自分も食べ終わり、片付けが済んだ頃、突然の雷と大粒の雨が、天から落ちて来た。
キャンパー達のいる場所には、避難用の小屋と避雷針が建ててあったが、夏場にこの辺りでテント暮らしを、する気にはなれない。
牧場の北にある岩山には、雷神山という、余り有難くない、あだ名が付けられていたからだ。
案の定、2つ3つと、雷が立て続けに落ちた。
ここいらは、近くの川を使って、水車式の発電所を各々持っているので、あちこちに引かれた電線が無いから、電柱に落雷しての停電もあり得なかったのだ。
その電気で、冷蔵庫や納屋の中の大型冷凍庫を動かしている。
雨脚が強く、外の音は掻き消されていた。
電磁調理器も使っているが、オーブンにもなるストーブは、耐熱ガラスがはめ込まれていて、昔ながらの薪を焚べながらも、暖と明かりの両方を取れるのだ。
雨で一気に、辺りの気温が下がって来ていた。
慣れた手つきで、薪を入れ、焚き付け用の小枝を差し込み、火を点けると、炎はユックリとオレンジ色に輝きながら、居間兼台所を照らし出し始めた。
ポットの水を足し、ストーブに乗せてやる。
お気に入りの椅子に腰掛け、オットマンに両足を投げ出し、燃える薪を見ていると、時間を忘れる。
こんな時でも犬達は、それぞれの持ち場につき、自分の仕事をしているのだ。
1番若いカイは、リコがしっかり目を光らせて、仕事を教えていたので、もうすぐ一人前の牧羊犬になるだろう。
ポットの蓋がお湯が沸いたのを知らせてくれる。
ホウロウのカップで、ティーパックの紐を外に垂らしながら、お茶を入れた。
カイもすっかり外犬になっていたので、話し相手が欲しかった。
独り言に相槌を、打つだけで良いのだ。
議論をしようとか、唄をがなろうとかは、いらない。
今日の仕事や明日の予定を聴いて頷いていて、ほしいだけなのだ。
また仔犬か、それとも猫でも飼わなければ、ならないな、と、思っていた。
何故かこの母屋に、猫は居着かない。
縞や黒斑や黄色いモコモコなど、何匹か猫を貰って飼ってはいたのだが。
大きくなると、無情にも家出して、外の納屋や馬小屋に行ってしまい、2度と帰って来ないのだった。
薪がガタンと音を立てて、2つに折れ、火の粉を飛ばした。
受け皿に溜まった灰を落とすスライドに、鍵棒を引っ掛けて、左右に振るとハラハラと下に落ちて来て、ストーブの中の炎が、パッと明るく輝いて、また燃え出した。
衛星からの電波でテレビも見られるが、こう雨の叩きつける音が強くては、ヘッドホンでもしなければ、何も聴こえないだろう。
雨は衰えることもなく、屋根を叩き続けていた。
雨脚が弱まったのは、夜半を過ぎた頃で、ベッドに入って、眠れないまま読んでいたミステリーの文庫本が、手から滑り落ちた頃の様だった。
この家には、カーテンが無い。
朝日が露と昨夜の雨の名残りを、フワフワした物に変え出した頃、自然と眼が開いた。
朝起きて外に出たら景色が変わってるってのは、そうそう無い。
一晩で雪が降って積もるぐらいだ。
我が家の牧場の境界線に立っていた、二百年物のアラスカ杉が、落雷で燃えて、5本から2本になっていた。
その上その側は、キャンプ場の駐車場だったのだ。
どうやら最初の雷が、当たり、だったらしい。
すぐ側の避雷針にも幾つか落ちたと、レンジャーから聞いたのは、2日後だった。
何せ後処理で、公園やキャンプ場の関係者達は、てんてこ舞いだったし、こちらはこちらで、青天の霹靂だったからだ。
駐車場に止まってる車に被害が無ければ良いな、と、思いながらも、朝は忙しいのだ。
腹を空かせたのが、いっぺんに側に現れる。
犬達にご飯をやって、牛小屋を見てから、鶏に餌をやる。
二頭の馬にも、栄養価の高い混合飼料と新しい水をタップリ与えた。
寝床の藁を清潔にしてやり、馬小屋に住んでいる外猫達にも、ご飯をあげた。
猫達は、馬小屋を好きなように出入りしながら、ネズミや余計な虫達がここで暮らすのを阻害してくれていた。
藁が積まれた中二階には、黒蛇が潜り込んでいたし、天井の梁には、木菟がとまっていた。
朝御飯を食べると、誰に言われたのでもないのに、猫達は牛小屋の見回りに行ってしまった。
朝の雑用を済ませ、自分にも朝御飯を作ろうと、母屋に向かっていると、何かがヨチヨチと身体を揺すりながら、歩いて来るのが見えた。
見たことのない鳥だ。
元は白かったのかも知れないと思えたが、遠目にも、小汚いのがわかったし、風上からやって来ていたので、警戒心のない間抜けな、性質が手に取るようにわかった。
その鳥は、歩き疲れていたようで、人間を見つけると、嬉しそうに鳴いたが、ヨチヨチ歩きは、一向に速くならなかった。
「家鴨か。」
人が大昔、家畜用に改良した鴨だ。
美しい幾何学模様の羽根も、渡鳥としてのプライドも取り上げられ、下半身に変な脂肪を蓄えた、飛べない鳥にされた家鴨だ。
何年も前に、過激的な動物保護団体の手で、野生に返されたはずだ。
鵞鳥と共に、フォアグラや肉や卵を取るために、飼育されていたのだが、同じ立場の鵞鳥は、未だにフォアグラを生産していたが、何故か家鴨だけが、野生に返される事になったのだ。
それにしても何処から来たのだろうか。
我に返り、納屋に引き返すと、バケツに水を汲んで、家鴨の側に向かった。
腰にぶら下げてる袋には、今朝の鶏への残りが入っていた。
脅かさないように、ユックリと歩いて、距離を縮めて行ったが、家鴨はヨタヨタと、こちらに向かって来ていた。
絶滅危惧種と言う、嫌な言葉が頭に浮かんだ。
人の手で長年育てられたものが、自然界に放り投げられたのだから、どんな暮らしをしていたのだろうか。
猫も犬も牛も、そこは家鴨と変わらないはずだ。
勿論生きては行ける。
だが昨夜のような嵐の夜には、ヨタヨタと歩く家鴨が、哀れだった。
側に近づくと、臭い。
白いだろう羽根は汚れ、尻尾(しっぽ、)は、バラバラで、痩せているのがわかる。
家鴨が、少しぐらい痩せても、その改良された羽根では、せいぜい近くの木にでも飛び上がるぐらいだろうし、水掻きのついている脚では、しっかりと枝にとまることなど出来そうもなさそうだった。
ここまで来るまでに、かなり苦労したのだろう。
バケツの水を見ると、ガワガワと鳴いて、下手くそながらも、頭を突っ込んで水を飲んだ。
袋から、麦だのトウモロコシだのをまいてやると、器用についばみ始めた。
はたと気づいて、バケツの中の水にまいてやると、地面から食べるより、食べやすそうだった。
池がいるな、と苦笑いが出た。
しゃがんで手を伸ばすと、ヨチヨチと手の中に入って来た。
匂いが気になるが、家鴨の歩みに合わせていたら、こっちが飢え死にしそうだ。
取り敢えず、馬小屋の使っていない飼い葉桶に水を差し、適当に餌をまき、このちょい臭を、ドボンとつけた。
泳ぎながらも、ついばんでいる。
馬二頭に怪訝な顔をされたが、そこは無視して、自分の朝御飯を食べる事にした。
今朝下ろしたばかりのダンガリーのシャツは、馬小屋の中の汚れ物洗いの洗濯機に入れてやった。
手を洗ったが、なんともいえない臭が立ち昇ってくる。
あの家鴨も、水鳥だろうと洗濯だな。
手で朝御飯を触る気になれなくて、ナイフとフォークでパンを食べた。
着替えて外に出ると、三匹が待っていた。
彼らも気になるのだろう。
馬小屋に行ってみると、藁屑の端に、グウグウ寝てる家鴨がいた。
寝てると可愛いかな、とも思ったが、やっぱり臭い。
桶の底の栓を抜いて水を出し、新しく水を張った。
寝てるが、臭くてはたまらないので、犬のシャンプーで、ガッツリ洗う。
洗われているのに、寝てる根性が凄い。
水を3回取り替えると、匂いもまあまあ収まった。
タオルドライしてから、適当な布に包み、元の寝床の上に、そっと寝かした。
家鴨に野生なんてのは、あり得ないのだろう。
外に出て、池になりそうな物や場所を探す。
山からの急な流れを堰き止めて、溜めておく場所があったが、水がかなり冷たい。
塩ビの管で、水を誘導して、岩が窪んだ先に、池を作る事にした。
スコップで余計な石を寄せてやれば、まあまあの池が出来るだろう。
面白そうに、三匹がついて回り、やる事をジッと見ている。
鶏小屋の扉も開け放っていたので、お節介そうな雌鶏が出てきていたが、犬がいると、こっちまでは、来ない。
水が良さげに溜まったところで、馬小屋に行ってみると、家鴨はまだ寝ていた。
家鴨をリコに頼んだ。
若い雄犬のカイだと、オモチャにしてしまいそうだからだ。
チョッと遅くなったが、馬二頭を、外に連れ出した。
牛が入って来ない柵に囲まれた場所に二頭を放す。
普段は大人しい栗毛のバーディもヤンチャで赤毛のクッキーも、楽しそうだ。
水と飼い葉桶に干草を入れてやり、納屋に引っ返した。
牧羊犬のマーシュとカイを連れて、バギーにまたがり、牧場の大外をグルッと回っている電気柵の見廻りだ。
これだけでも、かなりの時間をくう。
水車式の自家発電に変化は無かった。
ありがたい事に、あれだけ雷が、落ちていたが、電気柵も無事だった。
柵に気をとられていて、雷で焼けたアラスカ杉なんかを見てる余裕はなく、家鴨が気がかりで、あわや転けるぐらいのスピードで、電気柵の設置場所をグルリと見回ったのだった。
宿無し家鴨を守って、我が家で一番聡明なリコが、キリッとしている姿は、笑えた。
あまり寝るので、思わず抱き上げると、家鴨が片目を開けた。
こいつは、中々駆け引き上手かもしれない。
抱っこしたまま、急拵えの池に向かった。
まあ、馬小屋から歩いて30歩ほどだから、家鴨の手管にまんまとやられてしまっていたのだろう。
手を入れてみると、長く伸ばして設置した塩ビ管がお日様に程よく温められていて、身を切る冷たさではなくなっていた。
ボチャンと池に入れたら、グァガヮガヮと、盛大に文句を言って、泳ぐどころか、池から這い出して来た。
暖められていた石の上に立つと、身づくろいを始めた。
そうか。
何せ犬のとはいえ、シャンプーでガッツリ洗ったのだ。
水鳥の羽根の水を弾く脂分も、スッカリ落ちてしまっていたのだろう。
水を弾かない羽根の家鴨は溺れるのだろうか。
池の水はまだ少なくしてあったので、良かったのかもしれない。
家鴨は、自分の脇に嘴を突っ込むと、頭を出して、羽根を上手に挟んでいる。
その動作を何度も繰り返し、脂を羽根に満遍なく、行き渡らせているようだ。
羽根は来た時とは別物で、白く光り出していた。
アクセントみたいな嘴の黄色と水掻きのある脚も、上品に見える。
来た時は、本当に汚かったのだ。
身支度を整えるということは、そういった事なのだ。
人間と三匹の牧羊犬に囲まれて、家畜から突然の野生世界なんてのにリストラされた家鴨は、チョッとばらけた尾を振って、ポチャンと、池に入って、スイスイと泳ぎだした。
ここの猫達は鳥が嫌いだ。
何せ雌鶏達に、仔猫の頃イヤっと言うほど、突き回されていたからだ。
鶏は、意外と好戦的で雛を守る為なら、かなり怖い存在になる。
それでも一応、今回はマーシュに家鴨の番を言いつけた。
柵は作りかけだったからだ。
リコとカイには、牛達を見て来てもらう。
家鴨番から、解放されたリコは嬉しそうに、牧場の中へと駆けて行った。
カイは、リコの後を追う。
走り回っていれば幸せな牧羊犬達だった。
池の中に、鶏用の雑穀飼料をまいて、母屋に引き上げた。
やる事はまだまだあったが、眠たかったのだ。
寝て起きると、昼は過ぎていた。
自分と犬の御飯を作る。
レタスを二、三枚持って、池に行くと、マーシュに寄りかかって、家鴨は寝ていた。
適当な空き缶に、レタスをちぎって入れて、鶏小屋を見に向かった。
あちこちをついばみながら、砂浴び場でくつろぐ者、小屋の中で寝てる者と、気ままに過ごしているのはいつもの事だ。
小屋の外にある餌置き場に、タップリトウモロコシやらを入れてやると、食い意地の張ったのから、やってくる、
今朝、取り損ねた卵を探す。
卵を抱きたいのが産むと面倒だが、産みっぱなしで、平気な雌鶏だと、卵は抱えられる事もなく、そこらに転がっているのだ。
他の雌鶏の卵を集めて、腹の下に入れているのがいるから、そこから3個と産みっぱなしの4個の卵を回収した。
雛だと、突っついて来るが、卵だとアッサリと渡してくれる。
鶏の産児制限だ。
やたらに増やせば、お互いに困るからだ。
飼料が無くなった籠に卵を入れて、小屋を後にした。
屈んでの仕事が多いから、出ると身体を伸ばした。
馬達を小屋に入れ、身体にブラシをかけてやる。
彼らの夕飯を用意してる間に、かけておいた洗濯が終わった。
馬小屋の中に、シャツやらタオルやらを掛けてから、二匹を呼ぶ。
何処からか、丸まった黒い点があらわれ、猛スピードで、こちらに掛けて来るのだ。
そこにマーシュと家鴨もやって来た。
忘れてた。
彼らを呼べば、勿論マーシュだって来る。
犬に御飯を食べさせ、家鴨を抱えて池に戻ると、レタスは綺麗になくなっていた。
その空き缶に、鶏の飼料を入れて、家鴨を抱えたまま、馬小屋に行った。
昨夜の場所に下ろし、ヨチヨチついて来る目の前で、馬小屋の扉を閉めた。
くつろいでいた猫達は、家鴨を見て、何処かに隠れてしまっていたから、心配は無いが、翌日、普段の仕事の合間に、家鴨の小屋をこさえた。
その次の日から、普段の仕事に還れたのだった。
2日間は放置してあった畑は、あの嵐で支柱が倒れたトマトやデカくなり過ぎた胡瓜や地面についてる茄子などの小さな弊害はあったが、まあまあ無事だった。
なるべく小さなうちに収穫した胡瓜でピクルスを漬ける。
トマトや茄子はスライスして乾燥させたり、煮込み冷ましてから、冷凍庫行きだ。
ほうれん草も同じく、サッと湯がいて冷凍庫行きに。
玉ねぎやジャガイモの畑も見回れた。
獅子唐は、今日のオヤツにしよう。
間引いた葉物を、鶏や家鴨におすそ分け。
牧羊犬達も、走り回っているのか、何処かで昼寝をしているのか、姿は見えない。
まあ、家鴨の番犬なんてのは、彼らにしたら、やりがいが無かっただろう。
冷蔵庫から、出来合いのピザ生地を1枚出して、取ってきたトマトと獅子唐を乗せて、面倒くさいから上からケチャップをかけて、チーズを乗せた。
ピザ用トマトソースは切れていたから、だ。
朝の起こした熱が残るストーブの中に、放り込む。
火は熾火になってるが、まだかなり熱が残っていて、やがていい匂いが漂い始めた。
取り出して皿に盛ると、クツクツとチーズが焦げて良い匂いだ。
冷蔵庫から、炭酸のジュースの缶を出し、庭のテーブルで食べることにした。
ここいらは朝晩は冷えるが、日が差せば、やっぱり夏なのだ。
食べ終わった頃、1台のジープが、やって来た。
国立公園のレンジャーのムッタだ。
チョッと待ってもらって、同じピザをもう一枚焼いた。
ムッタが、食べ終わるまで、待ってから、嵐の顛末を聞いた。
落雷で倒れた木は、駐車場に多大な被害をもたらしていた。
雨が降る前だったのが幸いし、車の中は無人だったが、5台が巻き込まれた。
それから、避難小屋に、30人押し寄せ、レンジャーの事務所や警察にジャンジャン電話がかかってきたそうだ。
あの嵐の中、警察、消防、レンジャーは、てんてこ舞いだったらしい。
ムッタが面白おかしく話すので、笑いすぎて、ジュースを吹き出すところだった。
避難小屋は、ギュウギュウで、町の公民館に、キャンパー達を移すにも、大変だったらしい。
「彼奴ら、自然を堪能しに来たはずなんだが、まあ文句の山だったよ。
翌日が又、大変でさ。
こんなど田舎で、保険屋と電話で喧嘩始めた奴もいてさ、修羅場だったよ。
車が動かない状態のは、レンタカー希望だが、夏だろう、出払っててさ。
仕方なく、最寄りの駅まで、送迎って事になったんだが、問題は、置き去りにされるテントや車だよ。
今、役所で、処分してくれって言われた分の請求の制作と、預かってくれってのの、置き場所なんかで、走り回ってるよ。」
ひとしきり笑った後、あの木が、我が家の敷地の外で良かったと、胸を撫で下ろした。
5本の木の並んでいる所からが、国立公園なのだから。
「見にくれば良かったのにな。
ゴージャスなキャンピングカーも素敵なRV車も、黒焦げの大木が根本から倒れて来たんじゃ、跡形もないし、それに火もついてさ。
物凄い音だったらしいけど、あの雷だろう。
誰も聞いてないんだよ。
火災も豪雨で消されたのが良かったんだろうけどな。
そうそう、3本とも、そのキャンピングカーの上にのしかかってたんだ。
あれは見事だったけど、持ち主がすぐ側に居たから、誰も笑えなくってさ、真面目な顔してるのは、かなり辛かったよ。
輪切りにしてから、黒焦げの杉どけてさ、ようやく今朝方、レッカーされてったんだ。
見せてやろうと、思って、電話したんだぜ。
携帯電話、持てよ、今時さ。」
それには、悪かったと、答えたが、携帯電話は断った。
ここいらの電話線は、景観の為に、地中に埋められていたので、万が一の時頼りになるのだ。
携帯の基地局に何かがあれば、お手上げ状態なんてのは、避けたい。
田舎で怖いのは、火事と嵐と、繋がらない電話だ。
ムッタがバカ笑いをしながら、腰のウオーキートーキーをバンバン叩いた。
「わかるさ。
俺たちだって、携帯より昔ながらのこれだからな。」
バスよりデカいキャンピングカーが引かれていくところは、見たかった。
それにしても、車の中で寝ていなかったのは、かなり運が良かったのだ。
ムッタは、面白おかしく話していたが、かなりの混乱をあの嵐は起こしていたらしい。
ひとしきり話すと、ピザのお礼を言って、ムッタは帰って行った。
彼自身、今日まで、嵐の後始末で、たいへんだったのだ。
夕方の仕事を済ますと、家鴨にレタスを少しやり、小屋の中の藁を足してやった。
犬達は、呼べば、何処に居ようと、駆け戻ってくる。
ピザの残り物のチーズを三匹の御飯の上に少しかけてやった。
三匹が食べている間に、家鴨の池のゴミを網で、すくった。
翌日、バギーで、アラスカ杉の側まで行って、焼けた切り株を見て来た。
ひと抱えもある大木の切り株は、デカい。
輪切りにされた黒焦げの杉が、まだ駐車場の隅に山積みにされていた。
雷が落ちているのを見ていたら、盛大なキャンプファイアだったろう。
あの後の大雨が無ければ、こっち側の電気柵も、やられていたかもしれない。
自然の力が黒々した落書きを残したような駐車場を後に、バギーに乗り、グルッと見回りながら、納屋に帰った。
あれから、レタスやトウモロコシを食べる以外、家鴨は小屋に入っていた。
する事が目白押しで、気にもしなかった。
すでに、家鴨の面倒も、1日のローテーションの1つになっていたからだ。
あの嵐の次の日、取り忘れた卵の幾つかが、チャッカリ雛に孵り出した。
予定外の雛が、ピチピチと鳴いていて、やっと気づいたのだ。
上手く隠して、温めていたのは、ベテランの雌鶏だった。
まあ、3匹増えたぐらいだと、小屋の増築無しでどうにかなるだろう。
フワフワした黄色い雛は、可愛くて目の保養になった。
ここいらの夏が駆け抜ける様は速い。
秋への季節の変わり目を空の色に感じ始めた朝、騒ぎは起こった。
家鴨が騒ぎ、カイが吠えまくっている。
慌てて靴を引っ掛け、家鴨の池に行ったところ、テンがその長い体をクネらせて、カイと対峙(たいじ」)していた。
大きさから見ても、まだ若いテンだ。
何処かに、穴が出来たのかもしれない。
カイがこちらを見た隙に、テンは身を翻し、母屋の裏庭の奥の植込みに、逃げ込んで行った。
それを一歩遅れたカイが追いかける。
カイの吠えた声に、牧場の向こうから、リコとマーシュがかけて込んできた。
家鴨はまだ興奮して、グワガワワ〜〜と、鳴いていた。
そこに、クワックワッと、5匹の家鴨の仔が小屋から出て来たのだ。
どうやら小屋の中で、卵を産んで抱いていたらしい。
だが、お婿さんは何処にいるのだろう。
その答えは、カイが持って来た。
薄汚れた家鴨を裏庭の何処からか、咥えて来たのだ。
足元にソッと置かれた家鴨の婿さんは、地面に着くと起き上がり、グワッハグワグワと、鳴いた。
生きている。
羽根はボロボロで、彼もテンと闘ったのだろう。
屈んで手を伸ばしても、逃げない。
抱きかかえて、あの嵐の次の日の朝のように、臭い家鴨を洗った。
骨は折れてなかったが、血が滲んで
いる場所や、盛大に羽根が抜けたり折れたりしていた。
闘うのには不利な平たい嘴にも、幾つか傷が走っていて、鼻血もだしている。
家鴨池の周りの柵を見たら、少し歪んでる場所があった。
その前に、洗った家鴨を置いてやると、グワッグワッと鳴きながら、器用に潜り抜けて、中に入って行った。
彼女と同じく、石の上に立ち、脂を嘴で、ボロボロの羽根に塗り直し出した。
マーシュとカイに、家鴨の番を頼み、テンの入って来た場所を探しに裏庭に向かった。
盛大にカイが荒らしてくれたので、いつの間にか掘られていた外からの入り口は直ぐに特定出来た。
電気柵に替えてないほんの3メートルぐらいの場所だったのだ。
リコを見張りに残し、掘られた穴を埋める為に、道具を納屋に取りに行った。
ついでに、臭いシャツは洗濯だ。
石の少ない場所に上手く穴が開いている。
あちこちに、家鴨の羽根が散乱していた。
石を積み上げ、泥をかけて踏み固め、応急処置をした。
そこから、朝の仕事をするのだ。
家鴨一家に、ご飯を食べさせる頃、自分にも朝ご飯が当たった。
犬達にも、少し遅くなったが、食べさせることが出来た。
家鴨池は、一気に手狭になった。
裏庭に使っていなかった鉄製のフェンスを、周りの電気柵の通電を一時止めてから備え付け、大きな石でこれでもかと補強してから、電気を流し、また家鴨池の候補地を探す為に、リコとカイと、バギーで走った。
少し奥まった場所に良さげな所を見つけた。
そこは、前々から大きな岩で自然の擁壁がある場所で、電気柵の杭を建てるのに、昔父親と苦労した場所だったのだ。
少し掘ると、硬い地層に当たるので、グルリと枠になるように掘り、外と中に石を積み上げ、杭を用意してから、コンクリートを流す。
池の部分もコンクリートで整え、水の逃げ道と家鴨の水掻きでも出入りしやすいように、小石を埋めてやった。
馬小屋寄り低い位置にあるので、水は塩ビ管を足せば、事足りる。
杭に網を張り巡らせ、下の部分は土台と繋がるように、コンクリートで埋めたので、万が一テンや狐が来ても、入られないだろう。
屋根を新しい広い小屋の上に、もう一枚渡し、残りは網で塞いだ。
ここは、空からの捕食者から、丸見えになる場所だったからだ。
普段の仕事をしながら、この家鴨の新居作りは、1週間かかった。
家鴨一家の引越しは、3匹の牧羊犬や柵越しの馬達や、ギリギリまで側に来た野次馬ならぬ野次牛達の中、粛々(しゅくしゅく)と行われた。
両脇に、新婚の二羽を抱えて歩けば、黄色いフワフワの雛達は、クワクワ鳴きながら付いてきたから、アッという間だった。
入り口に置いてやると、傷の癒えた新郎が新婦を、労わりながら、お尻をフリフリ入って行った。
かなり広く作ったので、しばらく問題はないだろう。
家鴨のいなくなったあの池は、雌鶏達のサロンになったので、柵は取り払った。
ムッタが、やって来て、家鴨達を見て眼を丸くした。
ムッタが自分のインスタグラムに家鴨達の窮地と奥さんと雛を救った、勇敢な夫の話を面白おかしく書いたので、爆発的に世の中に拡散されて行った。
ムッタは家鴨の気持ちを代弁してくれたのだった。
家鴨はもう、自然界で暮らすには人に依存し過ぎているし、それを創り出したのは、まさに人なのだ。
鴨に戻れない家鴨には、人の庇護の元こそが、生きる場所なのだ。
家鴨一家達は、匿名希望で、そのまま世の中に、拡散されて行った。
家鴨を野生に返す運動をした、保護団体は家畜の虐待で、世間に叩かれだしていた。
コッソリ家鴨を飼っていた農家なんかが、一斉に声をあげたのだ。
今はあまり役にたたなくなってはいたが、家鴨を好きな人達も、世の中には結構いたのだった。
ムッタはうまい具合に、この牧場を隠していてくれた。
変なタグを付けられたくはない。
家鴨達だって、特定されて騒がれたくはないのだ。
そもそも、あんな保護団体に目を付けられなければ、のんびり何処かの農家の庭先で、暮らしていた事だろう。
国立公園のキャンプ場と駐車場は、もっと下の方に、移転が決まったので、ここいらは益々静かになった。
時々ムッタやレンジャー達が会いに来てくれるぐらいがちょうど良い。
もう直ぐ、冬支度も始まる頃、秋産まれのダックスフンドの赤ちゃん2匹を、ムッタの紹介で、もらえる事になっている。
白い羽根と黄色い嘴とよく動く水掻きで、一家全員、優雅に池を泳ぎまわりながら、家鴨の王国は、栄えていくことだろう。
今は、ここまで。