1-2
トモエは再びビルの下へと視線を戻した。もう躊躇いはなかった。さあ飛び降りよう――と、トモエは膝にぐっと反動をつけた。その時――、
『ちょっと待って――』
どこかから声がした。
背後の気配にはっと振り返ると、見たこともないような小さな生き物が、つぶらな瞳でトモエをじっと見つめていた。
(幻覚……?)
トモエは思った。目をつむり、首を数回左右に振って、再び目を開ける。以前としてその生き物はそこにいた。
『鶴洲トモエだね』
その生き物は云った。
「あなた、誰?」
『誰? ……そうだなぁ。“宇宙の意志の権化”とでも呼んでもらおうかな』
変な名前――とトモエは思った。
「その“宇宙の意志の権化”さんが、私に何の用なの」
『君に頼みたいことがあるんだよ』
「私に頼みたいこと?」
『魔法少女になってほしい』
「……は?」
トモエはあっけにとられた。あまりに唐突で、突飛な申し出だと思った。
『もっとも、魔法少女という言葉にそれほど意味はない。君たちが親しみやすい言葉を選んだまでだ。でも、“魔法”という言葉に関しては、これほど的確な表現はない』
トモエは何も応えない。何を言えばいいのかさえ分からなかったのだ。さらにその生き物は続けた。一方的に話を聞かされる状態だ。
「――君は、人智を超えた力を手にし、その力を使って人々の幸せを守るために戦うんだ。これを魔法と呼ばずして何と呼ぶだろう』
「戦うって? 何と?」
ようやくトモエは言葉を発した。
『この世にはびこる“悪意の化身”とさ』
「――――?」
『まぁ今は分からなくてもいいよ。詳しいことはおいおい分かってくるはずだ。君たちの生きるこの世界のしくみも一緒にね』
「でも、どうして私なの?」
『君にはその素質がある』
「……素質?」
『これも今は分からなくてもいい』
“宇宙の意志の権化”は、トモエが困惑していることを察したのか、軽くため息をつき、少し親しげな口調になって言った。
『唐突な申し出であることは百も承知さ。でも、僕は君にどうしても魔法少女になってもらいたいんだ。もちろん、ただでとは言わない。何かひとつ願い事を叶えてあげよう』
「――願い事?」
『こんなところにたたずんでいるのは、何か訳があるんじゃないのかい』
「…………!」
その通りだった。トモエは自殺するためにここに来たのだ。死ぬ覚悟はそれなりにあったつもりだった。でも、もし本当に願い事を叶えてくれるとしたなら、死ぬ必要はないんじゃないか――、そんな風にも思えてくる。
トモエは考えてみた。自分の願いって何だろう。
(お父さんをあの女から引き離すこと? それとも私を虐げてきた人への報復?)
そう思ってみたものの、トモエはそれをすぐに否定した。
(ううん、そんなの望んじゃいない。それより、やっぱり自分が幸せになることだ。周囲に溶け込み、みんなと仲良く過ごしていけること、これが一番じゃないかな)
トモエは“宇宙の意志の権化”に今思った願いを告げようとした。しかし、寸前で言葉を呑み込んだ。なぜなら、直前にした自分自身の心の声に止められたからだ。
(待って。違うよ……)
心の声は彼女自身にそう呼びかけていた。
私の本当に望むことは、それじゃないよ――。
トモエは思った。自分が周囲と同じになってしまえば、今度は自分が誰かを見下してしまうようになるかも知れない。自分がされてきたことを今度は自分がしてしまう結果になる。
そんなのは嫌だ――。
トモエは思い、そして今度こそ願いを決めた。まっすぐな視線で、“宇宙の意志の権化”に向かって訴えた。
「私、友だちが欲しい。私のように周りから不当に評価され、悲しい思いをしながら、それでも頑張って生きている人ような人が」
瞬間、トモエの周囲が目がくらむほどの激しい光に包まれた。盲目の光の中、トモエは“宇宙の意志の権化”の声を聞いた。
『君の望みは叶えられた。たった今から、君はこの現実世界とは違う、“ユメのセカイ”に行けるようになる。そこに君の望んでいる友だちはいるはずだ』
ふいに、ぐらり、という感覚があった。トモエは背中からビルの外へと身体を投げ出していた。
「きゃあああああああ!」
トモエは思わず叫び声をあげた。彼女の脳裏で“宇宙の意志の権化”の声がする。
『心を解き放つんだ。迷いや躊躇いを捨てて、神秘の世界にその身を任せて!』
トモエは落ちてゆく恐怖の中で、心を解き放つよう努めた。その時、知らないうちに伸ばしていた手をガッ――とつかまれる感覚があった。落下の感覚がなくなり、トモエは宙に浮いている形となった。見れば、空にスリットのような裂け目ができ、その隙間から一本の腕がにゅっと伸びて、トモエの手をつかんでいる。
その刹那、トモエの意識はその裂け目の中へと吸い込まれていった。