「おい!早く止めろ!!森全部凍るぞ!」
「なんか、緑が深いなぁ」
見上げれば木漏れ日がきらきらと降ってくる。春に新しく生まれた葉は、光を全面に浴びようと、天に向かって緑を伸ばす。朝露をしっとり含んだ土に、俺たちの足跡が続いていく。
ランダンが狩りに選んだ場所は、危険だから近づくなと、妹たちに注意していた森だ。俺たちが歩いているのは、その更に奥地。
「その台詞、悠長にもほどがあるだろ……」
ランダンは動きやすさ重視の装備を身につけ、昨夜研いだばかりだという大剣を肩に担いでいた。彼の足取りは軽く、反対に俺はついていくのでやっとの有様だ。
「そういえば、ランダンの狩りを見るのは初めてだな。いつも悪いな、戦利品を分けてもらってばかりで……」
「その戦利品すら、ファルムは自力で奪っていくんだろ? 儂のことは気にせんでいい。堂々と、技を盗むが良い」
「ああ、そのつもりだ。しかし、狩人というからには罠を張ったり、弓を使うものじゃないのか? なのに、なんであんたは剣なんだ。うさぎと近接戦するのか?」
大剣を振りかざして、うさぎと対峙する。そして轟く魔法と剣の応酬……想像したら、なんとも滑稽な狩りだ。獲物が何かは知らないが。
「おまえの口からはいつもおかしな言葉ばかり出るな、そんな小さな獲物なんぞ興味はないわい。儂は本当に倒し甲斐のあるやつしか手を掛けん……ああ、ちょうどファルムの後ろにいるようなやつな」
「えっ?」
振り向いたそこには、熊がいた。
羆と言えるほどの黒い巨体。冬眠から目覚めたばかりのようで、腹を空かせた目で、俺たちを見つめている。
「うわあああああっ!!!」
俺は全身筋肉痛というのも忘れ、飛び退いた。
もうだめだ! 二人してここで果てる運命なのか!? ……ああ、さらば愛する妹たちよ。
「なんだ、まだ余裕で動けるようだな。脇にのいてろ」
「うわわわっ、ランダン!! 無理だろ、そんなでかいの……! すぐ逃げないと、く、喰われる!」
「何を言う、この程度の大きさなんぞ……あれだ、子犬がでかくなったような……」
ランダンの感想の途中に、その"子犬"とやらが、爪の一撃を見舞った。
素早く、かつ破壊力のある攻撃、当たれば致命傷は免れない。が、ランダンはろくに相手も見ず、剣で受け流した。
両者とも攻撃と防御が目にも留まらぬ速さで入り乱れて、一進一退を繰り返している。
俺は見ていることしかできなかった、いや、見ている余裕すらなかった。
ランダンには悪いが、俺は本気で二人とも死ぬと思っていた。迫り来る死の恐怖に、俺は冷静さを失いつつあった。
そんななか、ランダンの姿が深く沈んだ。
木の根につまづいたのか? あのままでは彼が…!
獣の動きをなんとしてでも止めなくては。早くしなくては俺たちの命はない! しかし、今、俺にできることといったら……
瞬時に思い描いた最悪の光景通りに、熊はランダンに飛びかかった。
「うらああああ!!」
熊の牙が、爪が……ランダンに届く前に、熊は頸から血を吹き出し、地に伏して動かなくなった。
繰り出された大剣が、獣の腕を器用に掻い潜り、頸の肉を抉ったのだ。あんな剣を、よくもそんな速さで……
「すまん。遊びすぎた」
そう一息つきながら、こちらを茶目っ気のある表情で見つめる老人。よく考えたら、ランダンは雷撃を使えた。遠くからでもこの巨体を倒すこともできたはずだ。あえて接近戦をするとは、最初から絶対的な自信があったということか。
だが、俺はこの恐るべき老人の実力など知らなかった。趣味で身体を鍛える奴なら、熊をひとりで倒せると思うのは少数だけだろうし、きっとそいつらは馬鹿だ。少なくとも俺は、ここで二人とも死ぬかと思った。
だから俺は、死なないために足掻いてしまったのだ。
随分余裕そうな彼を責める言葉も、命が助かったことを安堵する台詞も出ず、俺は顔を引きつらせて、彼に謝罪した。
「ごめん。俺、いま……魔法、使った……」
「は?」
ランダンはその場から飛び退いた。おそらく彼じゃなかったら巻き込まれていた。若いうちから体を鍛えててよかったな。
生き絶えた熊の体が凍りつく。ランダンの立っていた場所にも魔法の効果は現れた。熊の動きを止めようと発動された氷魔法は、的だけでなくその周囲にも広がり続けた。
「おい! 早く止めろ!! 森全部凍るぞ!」
「そんなこと言ったって……わかんねぇよ!」
ここにいれば自分たちも危ない。獲物の回収も捨て置いて、俺たちは走った。
見知った場所を通り、森を抜けて走っても、氷撃は追ってくる。だんだん氷結範囲が狭くなっているが、それでも速さは衰えない。
「右によけろ!」
ランダンの合図で俺は右に飛んだ。氷撃はなおも一直線に進んでいく。身に迫る危険を回避したところで、彼からの一喝が降ってきた。
「本当におまえはろくなことをしないな! なんだ? 手助けのつもりだったのか? 馬鹿らしい、儂があれくらい倒せないとでも思うたか!?」
「だって、普通倒せると思うか? 本気で死ぬと思ったんだぞ! だいたい、ランダン! あんた、いい歳なんだから危ない事はやめろ! 余生を静かに過ごせ!!」
「なにを……!? はぁ、もういい。ところでどうするんだ、これ?」
ひとしきり怒りが治まったランダンは、周囲を見渡し、溜息をついた。
森から始まった凍結は、既に村人の目に付く場所までを侵食しており、光を撥ねてきらめく。不自然極まりない光景に俺は頭を抱えた。
「ほっといたら……自然に、溶けたりしない、かなぁ?」
「後始末もしない気か? こんな無責任な兄を持った、あの子らが可哀想じゃ」
妹たちを引き合いに出されたら反論できない。魔法で炎を出して、氷を溶かそうにも、今度は森全体を焼き払いかねない。
ランダンは当てにならない俺に構わず、落ちていた木の枝を拾い、魔法で火を灯した。
「ほら、これ持って向こうをなんとかしてこい。目に付くところだけでも、早く溶かしてくるんだ。儂は森の様子を見てくる」
「おっ、ああ。わかった」
去りゆく彼の背中を見送り、俺は松明を握りしめた。
昨日から延々と続く自己嫌悪の発作は悪化する一方だった。枝に灯った火を、氷に近づけながら思う。俺は家の疫病神だ。何をやっても裏目に出てしまう。
「しかし全然溶けないぞこれ、時間かかりそうだな…」
「誰かいるの? 助けてください!」
人通りの少ない場所だと安堵していた矢先、助けを求める声が聞こえた。まさか人がいるなんて、すでに見られてしまったか?
このまま姿を隠していれば、気のせいとしてやり過ごせられないだろうか。
心をよぎった考えは、すぐに打ち消された。
自分のせいで苦しんでいる者を……見捨てることなんてできない。
「今、助けにいく! 待ってろ!!」
伸ばされた氷撃の終端に少女が囚われていた。不運にも、ここを通りかかった際、その足に俺の魔法が触れたようだ。
「……突然、足が凍って! 動けないんです! 助けてください」
「待ってろ。今、溶かしてみるから……!」
凍りついているのは足首までだった、厚い革靴を履いていたため、少女に凍傷の心配はなさそうだ。
持っている松明を彼女に、火の粉が飛ばないよう、注意深く近づける。ややあって周囲の氷が解け、少女は解放された。
「ありがとうございます……! あなたがいなかったら、私、どうなっていたか……」
「……いや、礼なんていいんだ」
彼女の無垢な瞳には、俺への感謝の色しかない。
その災難の元凶で……しかも、一度は見捨てようと思った俺に、直視できるものではない。
「あれ……? あなたは、もしかして……アルナちゃんのお兄さん、ですか?」
「えっ? 君は……」