03
トラノシンは路上生活者たちの自立支援を助けるNPO『つくしの家』で働いていた。
「ここに来て、ワークセンターに登録してからあちこち歩いてて」
腹が減って、ふとみつけたこの食堂に立ち寄ったのだと言った。
「今まで、こんな所があるの、全然知らなかったんです」
夜になって、トラノシンはヨンの宿舎に弁当を三人分持ってきてくれた。
車座になって、弁当をつつきながらサンライズとヨンは彼の話を聞く。
トラノシンは会社に通っていた頃、大事な財布を落としてしまい慌てふためいて捜していた時、交番でホームレスの男がそれを届けてくれたと聞き、彼のもとを訪れた。
そして、その暮らしぶりに衝撃を受ける。
彼は新橋駅の地下に段ボールを敷いて、一畳ほどのスペースで暮らしていた。それだって、いつ撤去されるか分からない生活だった。
そんな中でも、他人の財布に手をつけなかった彼のその心意気にうたれたトラノシン、彼らの中で暮らすべく家と会社を捨てたのだった。
北区の末松町ではやはり集団から酷い目にあった。しかし、その中の一人がこっそり消毒薬を出してくれながら、この横浜の鶴賀町を紹介してくれたのだそうだ。
「今となっては分かるんですが」
トラノシンは、弁当のカラを手際よく片付けて袋に戻す。
「末松町の連中だって、支援の手が行き届けばあんな行動はとらなくなるはずです。一人一人は孤独で、弱い。あのボスですら怖くてたまらないんですよ、周りが。だから攻撃的になる」
彼だっていつかはボスの座から追い落とされ、闇に葬られてしまうだろう。
「社会から疎外され、少しずつニンゲンらしさをはぎ取られていく、そして他の人たちをも傷つけていくようになるんです」
この二ヶ月あまり、身をもって体験していたサンライズは深くうなずいていた。
トラノシンは続ける。
「彼らに必要なのは金や上からの画一的な指導ではなく、人として見守り、希望を与えてくれる他人なんですよ。
現にこの町に長く暮らすお年寄りやオジサンの中にも、ボクの師匠はたくさんいます。
いや、家族かな。毎日、教えられることばかりなんです」
ボクはようやく、一生をかけて取り組める仕事をみつけた、彼ははっきりとそう言いきった。この『つくしの家』がぼくの家庭であり、仕事場です。
外の通りからだろうか、カラオケに興じる男たちの声が響いてきた。調子外れの演歌に、笑い声がハーモニーのように絡んでいる。
「戻るつもりはないんだね」
サンライズが静かに訊ねた。聞かなくても分かってはいた。
「開発資料は、どうするんだ?」
彼らから近頃の会社について聞いていたトラノシンはしごくあっさりと答えた。
「弟が入社したんだったら、彼に全部譲りますよ。ヤツはずっと会社を継ぎたいとは思ってたんだけど、ボクに対して遠慮があったんだと思います。開発の能力は十分あると思うし、あの資料についてもよく理解できるはずだから問題はない」
あれが世に出れば、そして大きな提携先が決まればフカサワは巨大企業の仲間入りも可能だ、そこまで分かっていて、全てを捨てようとしていた。
「弟に連絡します、暗証番号を直接伝えます」
「少し待ってくれ」意外にも、サンライズが止めた。ヨンもびっくりしている。
サンライズは、懐から紙を一枚出してきた。ホームページのコピーのようだ。
「ここにきてすぐ、シヴァに頼んで調べてもらったんだ」
鶴賀町の路上生活者、生活困窮者にかかわるNPOの一覧だった。
「つくしの家もある、ほら、一番トップに」
今の体制に落ち着くまで少しずつ業績を積み重ね、すでに三十年以上鶴賀町の労働者支援のために動いてきた、歴史のある団体だった。
「シヴァには念のために、キミの名前がどこかに出ていないか調べてもらっていたんだ」
就労希望者名簿の他にも、ボランティアの方も一通り目を通してはいたのだ、しかし公共性のない登録なので、本名では検索には引っかかってこなかった。
それでも、NPO法人はいずれ軒並み当たるつもりで、一覧は持っていたのだと言う。
「シヴァはね、数値データに人一倍興味を覚えるタイプでね」
法人名の横に、数値がいくつも並んでいる。
「これによると、運営は経済的にかなり苦しい、とみたんだが」
「……確かに」いくら理想を追い求めるボンボンでも、それは痛感しているらしい。
「それでも季節ごとに衣類の提供を求めたり、米や食材の提供もサイトで訴えたりしてます、もちろん募金のお願いとかも」
「キミは、そういう所に自分の才能を投資できるんじゃないのか?」
サンライズはまっすぐ、彼に目をすえた。
「弟はどういう性格だ? オフクロさんは? 金にうるさいか? 自発的な決定権はあるのか?」
「そうですね……」トラノシンはとまどいつつも真剣に考えている。
「弟はボクに似ているかな? 思ってることは何でも素直に話してくれます。元々金の事は興味ないようですが、やるなら大きな仕事をしたいなあ、とは言ったことはありました。
ヤツならば、きっとプロジェクトはやり遂げられるはずです。
母は……そりゃ、心配はしていると思います。元々つなぎで社長をやっている位ですから、早く引退はしたいでしょう……宙ぶらりんで逃げ出したのは本当にすまないと思ってます」
それでも、トラノシンにはまだ迷いがあるようだった。
「しかし、あの技術は自分たちでなくともこの一、二年で必ずどこかが開発をすると思いますよ。営業部長なんかは急いで発表したいようでしたが、それでもやはり、社長である母の方に決定権があるのはよくわきまえている。
それでも営業部長はボクら兄弟や技術部長のような技術優先で金にうとい連中を嫌悪しているとは思います。
巨額の取引になると母も心労が増えるばかりだし、営業部長の口出しも多くなるだろうな……そうなるとフカサワがわざわざ関わる必要は、」
言いかけてまたサンライズに制された。
「弟さんが優秀な人材で、社長もそれなりに決定権が残っているのならば、開発者として取引をしたらどうだ?」
「はい? 実の家族に取引を持ちかける?」トラノシンは立ち上がった。
「そんな……そんなひどいことできませんよ」
ヨンが脇から口をはさんだ。
「アンタさ、さっき言ってたよ、ここの町の人が家族だって、会社や家は捨てて来たんだろう?」
うう、とトラノシンは言葉に詰まる。
「別に半々までもいかなくていいだろ? NPOに寄付をもらう確約をとるんだ」
取引の場所はもう考えてある、とサンライズはもう一度トラノシンを座らせた。
「ざっと説明するから、明日までにどういう条件にしたいか、考えておいてくれ。ヨンは、それを聞いてアドバイスしてやってくれないか、あと、取引の段どりをどうしたらいいか、アイディアがほしい」
明日、オレは少し出かけてくるからもう寝るわ、とサンライズは立ち上がる。
「うまい弁当をごちそうさま」
ふり返って、トラノシンにそう礼を述べ、宿舎へと帰っていった。
ドアが閉まると、ヨンは感心したように首をふった。
「やっぱ、すげえオッサンだ」
トラノシンもつぶやいた。
「そうだね、何でシゴトが見つからないのか不思議だ」
「え」ヨンは改めて横の男をみた。
「ごめん、これがシゴトなんだ、オレたち」