朝の目覚めは
冬の朝は嫌いだ。
寒くて着ていたはずの布団は、気が付けば床に落ちている。
ぶるり、と、震える程の寒さに、うんざりしながら、目が覚めるあの瞬間が嫌いだ。
――もっとも、こんなふうに「また」感じるようになったのは、ここしばらくのことなのだけれど。
「ああ、もう。早く帰ってきてくれよ……」
思わずこぼれた言葉は、どこまでも弱音を含んで、寒い朝の空気に震えて消えた。
「おはようございます」
明るい声に、振り返れば、彼女の弟が、アパートの玄関先ににこやかに立っていた。
「ああ、おはようございます。早いね」
まだかなり早い時間だ、と、時計を確認して言えば、義弟は軽く肩をすくめて答える。
「かーさんが、どうせカズさん、ひとりじゃ朝飯食わないんだろうから呼んでこい、って」
……おお。お見通しらしい。
「あー、でも朝は」
「食うよな」
「いやでも朝は」
「俺のかーちゃんの飯が食えないってか?」
「有り難くいただかせてもらいます」
うむ、と、真面目な顔で頷いた弟は、それからふ、と、緩めるように微笑んだ。
「大丈夫だって。ねーちゃん、強いもん」
「――そうだな」
釣られるようにそっと微笑んで、彼に連れられて、近所にある彼女の実家へと、向かうのだった。
――彼女が倒れたのは、夏の終わりだった。
なんだか疲れやすいんだよね、夏バテかなぁと笑ってた彼女は、夏の終わりに突然、倒れて動けなくなった。
病名やなにやら、色々と聞いたけれど、あまりのショックではっきりとしたことは覚えていない。
ただ、死に至る病ではないこと、リハビリで少しずつ回復していくことが告げられて、彼女の長期入院生活は始まった。
大学時代からの付き合いで、卒業前から同棲生活を送っていた。その後就職して、3年ほどで結婚、三十を目の前に、子どもでも、と、思っていた矢先のことで。彼女と7年以上、ともに暮らしていて隣にいた存在が、ともに眠っていた存在がそばにいない、という事実が、こんなに堪えるとは思わなかった。寂しい? そうかもしれないけれど、何かがちがう。寒い、切ない、そんな、どこかぐじぐじとした、じめっとした感情が、自分の中に巣食っていた。
「さっさと食べなさいな。ほんとにもう、ほっとくと食べやしないんだから」
呆れたように、彼女のお母さん――俺の義母になる人が、いいながら、朝ごはんを目の前に用意してくれる。
すみません、と、頭を下げながら、両手を合わせていただきます、と告げる。
ご飯、焼き魚、味噌汁、それに副菜の煮浸しと、いくつか常備菜が並べてある。
ああ。
そのお義母さんの口調も、並べられた料理すらも、まるで彼女がそこにいるようで。
なんだかいますぐにでも会いに行きたい気持ちが沸き上がって、それをとりあえず押しこめる。
「……おいしい、です」
そういえば、ふん、と義母さんが笑う。
「当たり前でしょう。あの子たちの母親よ」
これには、思わず声を出して笑ってしまうのだった。
食事を終えて礼を告げたら、アパートに戻って、支度を済ませる。
時計をみればまだ、なんとか時間がある。
ここから病院までは10分もかからない。それに、面会時間外であっても、仕事がある人などの早朝面会は、きちんと届けさえすれば、不可能ではない。
そう思うと、いてもたってもいられなくて、急いで支度をすませる。
家から飛び出そう、と、したとき、再び声を掛けられる。
「うわ、かーさんほんとにビンゴ。カズさん、ねーさんとこ行くならこれもっていって」
「あ、ああ」
受け取れば、綺麗に洗濯された荷物一式。そういえば、彼女の母が、入院中の彼女の分の洗濯はしてくれてるんだった、と、気づいて礼をいう。
「いいってー。じゃ、ねーちゃんによろしくな。今度の休みにでも顔出すからー」
「分かった、伝えとくよ」
手を上げて去っていく義弟を見送って、自分も歩き出す。
まだ、朝の時間帯、風は冷たく、着ているコートの襟を惹き寄せるのだった。
「おはよー、カズくん。今日も男前だねー」
病室をノックし中に入ると、そんなふうに彼女は笑う。
すでに顔色も悪くない彼女は、朝の用意を終えたところか、ベッドの上に体をおこし、髪も綺麗に櫛ってニコニコとこちらを見ていた。
「調子はどう」
「あー、ぼちぼちだねぇ。ごめんねぇ、色々大変でしょ?」
くりっと首をかしげて、申し訳なさそうに告げる彼女の頭を、軽く小突く。
「そうでもない。お義母さんたちが助けてくれるしな。そんなこと気にしないで、体治すことに専念しろ」
はぁい、と、ふてくされたように、けれどどこか照れくさそうに笑う彼女に、笑みが溢れる。
今でこそ笑っている彼女だが、入院してすぐの時は、ぼろぼろと涙をこぼして泣き叫んでた。
――なんで? なんで私だけ?
――ごめん、ごめんねカズちゃん、病気なっちゃって、ごめんね。
――なんで、なんでなのよ。
身動きできない体で、天井を見つめたまま、掠れた声でそう呟きながら、ぼろぼろと大粒の涙をこぼし続けた彼女に、どんな言葉がかけられただろう。
気にするな、と、大丈夫だ、と、繰り返した言葉は彼女の届かず、ただぼろぼろと泣くだけの中で、できたのは手を握りながら一緒に泣くだけだった。
ともになく俺に気づいて、更に彼女が泣く悪循環の中、それを止めてくれたのは義弟くんで。
落ち着いてきた今となっては、時折、その時のことを持ちだしてはからかわれる日々である。
ベッドわきの椅子に座り、僅かな時間だけど、彼女と会話する。
時間になると立ち上がり、寂しそうに見つめる彼女の頬にそっとキスをして、告げる。
「愛してるよ。じゃ、行ってくる」
もう、と、彼女は僅かに頬を赤くして、憤慨したようにいいながらも、嬉しそうに微笑む。
「私も愛してる。いってらっしゃ」
彼女が入院してから、やるようになったことのひとつだ。
朝の光のなか、病院を出て大きく伸びをする。
さあ、今日も1日が始まる。
ずっと、毎日は普遍に、なんの代わり映えもなく続くものだと、思っていた。
けれど、当たり前の日常は、突然ぷつんと途切れて、非日常を連れてくる。
当たり前がどれほど温かいものなのか、朝の冷えた布団の中、ひとりでいつも思う。
抱きしめる温もりのある時間がどれほど愛しいものなのか、しみじみと思う。
愛してる、なんて言葉を、いままで口にすることはなかった。
好きだ、という言葉ですら、付き合おうという時にすら、口にすることはなかった。
そんな言葉は、恥ずかしいものだと、どこかで思っていたけれど、突然訪れた非日常は、もしかすると急に明日、彼女がいなくなってしまうかもしれないという現実を目の前に突きつけ、言葉にしなければ何も伝わらないという事実を思い知らせてくれた。
ああすればよかった、こうすればよかった、と、失ってから思うくらいなら、と、互いに思ったのか、気が付けばどちらも、自然に感謝と愛を口にするようになった。
それを目にした義弟などにはからかわれるけれど、その目はいつでも優しい。
――何も変わらない、ごく普通の、平凡な毎日が、ずっと続くと思っていた。
けれどそれは、幻で、そんなことは幻想に過ぎなくて、日常は突然、非日常に取って代わる。
そして、やがてそれが日常ヘと、変化するのだ。
――ああ、もうすぐ冬が来る。
今年のクリスマスは、病室で窓の外を眺めながら、ケーキでも食べようか、と、人通りの増えた街を歩きながら空を見上げる。
空は青く、どこまでも青く。
――まるで目に染みるような、快晴だった。