あなたに愛を。
「俺、もう無理だ。いいよな、お前頑張んなくっていいっていってくれたし」
そう言いながら、悲壮感溢れる表情で私を見上げる彼。へにゃりと下がった眉に、緩んだ口元。たしかにそれは、今まで「愛しい」と思ってきた彼の顔そのものだったけど、その瞬間、ぞぞぞっと、背筋を激しい嫌悪感が這い上がった。
「ごめん、無理」
「――は?」
「いや、ほんとごめん、無理。頑張りすぎなくていいとはいった気がするけど、全く頑張らないのは論外だと思うの。ごめん、無理」
一気にそれだけ告げれば、最初ぽかん、としていた彼の顔が、徐々に怒りに染まっていく。
「なにそれ、お前が頑張るなっていったんじゃんか! 責任持てよ!」
はぁ? と、返しそうになる。
「頑張るなとかいってないし。ちゃんと社会人として最小限の責任果たした上で、でも、無理はしないでねって言ったんじゃん。いい加減なことしろ、とか言った覚え無いし。――まして、いきなり退職、しかも電話でそれを告げるとか、ありえなさすぎる」
「なんだよ! お前がいったから、俺は、俺は――!」
「言ってないってばー!!」
堂々巡りとは、このことだろうか。ああ、私はこの男の何をもって惚れてたんだろう。思わず遠い目をして窓の外を見つめる。
「っ、どこ見てんだよっ!!」
それが気に食わなかったのか。
ガキッ、と鈍い音とともに、顔に激しい痛み。
ぐらりと体が揺らいで座り込んで、呆然と見あげれば、彼がどこか得意げにこちらを見てた。
――ああ、殴られたんだ。
「今日はこれで許してやるが、責任はちゃんと取れよ! じゃあな!」
そう行って去っていく彼の背中を見送ったあと、そのまま警察に電話を入れた。
――それが、私と彼との、顛末だった。
「と、いうわけで、有給をお願いいたします」
顔は骨折はしてなかったが激しい打撲で、診断書を貰った。
色々面倒だったけど、実家に帰ることにして、親に頭を下げた。
今まで、外で自由に仕事をさせてもらってた変わりに援助など何も受けてなかったけど、いい機会だから家業を手伝え、といわれて、まあ頃合いかと、それに頷いた。
けど、いい加減なことはしたくなかったから、とりあえず、会社にはちゃんと事前に退職の申告をし、しかしいまのこの顔では難しいので有給をと、直属の上司に電話を入れ、詳細を話した。
『だいじょうぶ、なのか?』
心配そうにそういってくれる上司には、本気で頭が上がらない。ありがたいと思いつつ、謝罪とともに今後のことについても説明する。
「――というわけで、急で申し訳ないのですが、都合が付き次第、退職という事にさせていただきたいので、事前にご連絡を、と、思いまして」
そう告げると、しばし沈黙が落ちる。
『――そうか。残念だ』
その声音が、心底からという風に聞こえたから、なんだかうれしくなる。ああ、歯車の一個のような存在ではあったけれど、少なくとも役に立っていたようだ、と。
「ありがとうございます。ですが、業種も近いですし、きっとお会いすることもまたあるかと」
『どういうことだ?』
訝しげな上司の声に、少しおかしくなりながら、そっと家業を告げると、驚きの声をあげられる。
そして、私は、とんとん拍子に、もちろん、会社で引き継ぎやらを済ませた一ヶ月とちょっとのあとではあるけれど、退職することができたのだった。
からんからん、と、ベルが鳴る。
「いらっしゃいませーっ」
扉に向かって声をかければ、そこには元彼の姿。あれから被害届をきっちりだして、治療費はきっちり頂いて接触禁止令を出したはずなのだが、と、眉を寄せれば、元彼はまっすぐにニコニコ笑顔でこちらに向かってくる。
「なあ、こんな店の跡取り娘だったなんて、知らなかったよ。いってくれたら俺も、ここで頑張ったのに」
はぁ? その2、である。
「いえ、人手は足りてますし、あとは妹が継ぐ予定ですから」
事実、跡取りとしては妹が候補に上がっている。私が戻ったのは、いずれ支店を出す計画があったからと、元の職種の関係での知識があったからだ。そうでなければ、親であっても、そうそう簡単に雇うわけがない。
「またまた。長女が継ぐべきじゃん、何言ってるんだよー」
ニコニコと笑う元カレに、また背筋にゾゾゾと何かが這い上がる。だめだ、私は彼に完全に嫌悪を抱いているらしい。
「だから、お断りしますし、むしろ、もう既に、あなたとは何も関係ないですよね? というか、他のお客様の迷惑になりますし、おかえりいただけますか? 」
丁寧にそう告げれば、不機嫌になった元彼は、いきなり私の腕を掴んできた。痛い。かなり痛い。 必死に振り払おうとすれば、更に強く握られる。ぎし、と、骨が軋む音がした気がした。
「なにいってんだよ! 勝手なこというなよ!」
いや、勝手言ってるのはそっちじゃない? と、思いながらも、掴まれた手が痛くて声が出ない。
「せ、っしょく、きんしの、はず、です」
「そんなん知るかよ! なんで彼女に会うのが禁止なんだよ!」
「かのじょじゃ、ありません!」
そこまで叫んだところで、彼に突き飛ばされる。
がたん! と、後ろの棚に体があたって、ものが落ちてくる。激しい音。なんだ? と、それに反応して、両親がおくから現れる。
「ふざけんなよ! 俺はお前のせいで無職になったってのに! ふざけんなよ!」
だから、私のせいじゃないってば! と、思いながらも、どこか打ったのか、身動きもできない。
ハッ、と、短く息を繰り返していれば、父がものすごい形相でこちらに向かってくるのが見えた。
ああ。もう。
ごめん、とーちゃん。
父と元彼が言い合う中で、薄れる意識を必死に繋ぎ止める。
「――私の婚約者に、何をしてるかな」
聞こえた声は、上司のもので。ああ、今日は営業に来るって言ってた気がするな、とか、婚約者ってなんだ? とか、思いながら、とどめていた意識がすっと消え入るように、薄れていった。
その寸前、抱きとめられたような温もりに包まれて、ほっと安堵したのを、覚えてる。
気がついたらすべてが終わってて、そしてなぜか上司は綺麗に婚約者におさまっていた。
何が起こったんだ? と軽くパニックになる私に、上司はにこやかに、全て片付けたから心配するな、といい、そして。
「もう上司と部下じゃないからな。遠慮無くいかせてもらう」
と、それはそれはもう、晴れやかに笑って下さったのだった。
そんなわけで、男を見る目のない、ある意味だめんず・うぉ~か~だろうか、と思っていた私の恋愛遍歴は、上司との婚約で終わることになる。
風のうわさでは、元彼はどこぞの山奥の工場に、派遣工として送り出され、そこから戻ることはできないのだとか。
そして、ダメンズばかりに惚れる私が最後に惚れ込んだ、というか、がっつり惚れ込まされた上司は、ありがたいことに少々強引な部分はあれども、ダメンズではなかった。
元々、製菓や製パンが好きで、けれど会社に務めることを選ばざるを得ず、ならば、と、関係のある材料の卸の会社に勤めていたのだという彼は、一念発起し、勤めながらパティシェなどの資格をとると、ちょうど支店を作ることを検討していた実家――そこではそこそこ老舗で評判の洋菓子店――と掛け合い、支店兼カフェ、という企画を売り込み、実現させた。
結婚し彼の姓になった私は、いまはその店の店長として、働いている。
上司は、今や部下?というか、従業員である。そのギャップが少しおかしいような気もしながら、日々、楽しく生活してる。
何はともあれ、幸せな気持ちで過ごす私に、旦那様になった人は、ニヤリと笑う。
「俺にして、良かっただろ?」
そういうところがなければ、最高なんだけどね、と、そっと笑って、頬にキスをした。