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カルボナーラがとどいた夜


ふわり、と、かぐわしい香りが、開いた玄関のドアから漂ってきた。チーズ香りに、仕事帰りの疲れた体は素直に、空腹を訴える。鳴らないことを祈りながら、けれど、困惑のままに、視線を向ける。


そこには、満面の笑顔を浮かべた少し年下の男が、かぐわしい匂いを漂わせる白いお皿を手に、立っていた。




おかしい。おかしすぎる。


既に深夜、日付も変わろうという時間、シングル向けのマンションの部屋の前に、皿を手にした見知らぬ男が立っている。


おかしいというより、こうなると怪しすぎる。


疲れ果てた頭はしっかりと働かず、その怪しい状態を呆然と見つめた。


と、男が口をひらく。


「こんばんは。引越しカルボナーラ、お届けにあがりました」


そのまま言葉を失った私を、誰が責められるだろうか。




三十路を過ぎると、周囲が段々結婚していって、気が付けば職場で最後の独身女性になっていた。当てこすりやセクハラまがいの発言なんて、もう慣れた。むしろ、それをコミュニケーションの手段と勘違いしてるおじさま方は、付き合い方さえ把握してしまえば、これほどわかりやすいものはない。あまり大きくない会社の、総務というある意味なんでも屋な部署で、大学卒業からずっと移動もなく働き続けているのは、私くらいになった。同じように入ってきた女の子たちは、「女の子」である年齢のうちに綺麗にまとまってやめたり移動していった。移動の話がなかったわけじゃないけれど、ここ数年は、話が出るたびに直属の年配の上司が、いなくなったら困ると半泣きで断ってくれているらしい。たしかに、色々と不便にはなるだろうけど、と、頼りにされて嬉しいような、困ったような、複雑な気分でいるのだった。


人が少なければ必然、こなす仕事も多い。毎日残業、といっても過言ではない状態になるのは、他の人と比べて私には待ってる家族がいない、という点もあげられるかもしれない。独身男性は同じ部署にはいない。営業の方にいる独身組も、割りと残業が多いらしい、と、聞く。若い女性もいないわけではないけれど、要領がよいのか残業している姿をみることはない。


今日も、仕事を終えたら終電間際で、慌ててカバンをひっつかんで電車に飛び乗った。ぐったりとした気持ちで帰宅して、そういえば夢中でごはんを食べてなかった、と、思いながら化粧を落とし、ざっとシャワーを浴びて、さて、というところで、チャイムがなった。


そう、チャイムがなったのだ。このマンションは、オートロックで、外からの来訪であれば外からチャイムがなる。けれど、それなしで玄関でチャイムがなることは、めったにない。訝しく思いながらも、インターホンにでてみれば、隣に引っ越してきたものです、と、男性の声が言う。そういえば、この前から隣がバタバタ音がしてたような気がするけれど、防音の効いたこの部屋では、そこまでハッキリとそれが分かるわけじゃない。何はともあれ、早々何かあることもないだろう、と、ぼんやりした頭で、正直考えるのが面倒で、扉をあけた。


ら。


冒頭の状況に、なっていたわけで。



呆然とする私の鼻孔に、チーズと黒胡椒の匂いが届く。ぐっっと空っぽの胃を刺激してくる匂いに、思わずお腹を抑えれば、目の前の男は、それはそれは晴れやかに笑って、ぐっとお皿を差し出した。


「出来立てです。温かい内に召し上がってください」


思わず受け取れば、それはラップのかけられたカルボナーラで。つやつやと輝く麺とソースが、この上なく美味しそうで、困ってしまう。


ありえない状況に戸惑いながら、彼とカルボナーラを交互に見つめる。


「あ、食べたらお皿は外にでもだしといてください。洗わなくって大丈夫なので」


と、ニコニコしていた彼の表情がふとくもる。


「もしかして……カルボナーラお嫌いでした? ペペロンチーノと悩んだんですが、夜だしこちらのほうがいいかなっておもったんですが」


慌てて首を振れば、曇っていた顔がぱっと輝くように笑顔になった。


「よかった! あ、じゃあ、ゆっくり召し上がってくださいね! 夜分遅くに失礼しました。今後共よろしくお願いしますっ」


ペコリ、と頭を下げた男に、もごもごとこちらこそ、とかなんとか返すのが精一杯で。ぱたん、としまった扉を呆然と見つめる。



……いったい、いま、なにがおこりましたか?


となりに越してきたひとが、ひっこしそばならぬ、ひっこしカルボナーラをとどけにきました。



ふつふつと、お腹のそこからおかしくなってくる。


芳しい香りのカルボナーラと、今の状況がおかしくて、お皿を手に私は笑った。お腹のそこから、笑った。


それは、思えばかなり久しぶりの、心からの笑いだったのかもしれない。



カルボナーラは、とても美味しかった。そこらのお店で食べるのと何ら変わらないくらい、チーズも美味しくソースもとろとろで、かけられた黒胡椒がぴりっとアクセントになっていて、最高だった。


こんな時間にカルボナーラなんて、カロリーが怖い、と、思わないわけでもなかったけれど、せっかくいただいたものだし、あの笑顔に免じて、美味しくいただいた。


こんなのも悪くはないな、なんて、思った夜だった。



そのままお皿を返していい、なんていわれたけど、それは無理だったから、綺麗に洗って拭きあげて、紙に包んでから、お返しに、久しぶりに焼いたパンを一緒に添えてみた。

それほど上手ではないけれど、唯一趣味といえるもので、このところ仕事やなんやでなかなか手をだせてなかったから、ちょうどいいや、と、休みの日に気合をいれてみた。


そっと扉にかけておいたそれは、後日、今度は美味しい煮物になって返ってきた。カルボナーラの次は煮物。あまりのギャップに、またおかしくなって笑ってしまったのはしょうがないことだと思う。



そんな風にして、私と彼との交流ははじまった。


食べ物がそっとあまり頻繁ではなく、週に1度のペースで行き交う関係。その内に、休みの日に食事に誘われ、気がつくと交互に食事に誘うようになった。


料理修行中な彼は、作ることが大好きで食べることが大好きで、とにかくいろんな料理をつくるのが楽しいらしかった。


一緒にいて、一緒にごはんを時々食べる。



――恋になるかもしれない。


――恋かもしれない。


――けれど、違うかもしれない。


そんな曖昧であやふやな境界にいるような関係は、まるで暖かな日向にあるように心地よくて。



いつか、変化が起こる時まで、この穏やかな関係が続けばいい、と、私はそっと、心のうちで笑うのだった。



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