琥珀色の魔法
ほんのひとさじ、スプーンですくう。
そっと口に運べは、ふわりと広がる幸せな甘さ。
落ち込んだ時、哀しい時、そのひとさじで幸せになれる。
きっとそれは、魔法の薬。
小さい頃からの、私の大事な、おまじない。
その日は、朝から曇り空で。
重たい空から今にも雨が降ってきそうで、やだな、と、眉を寄せた。
今日は仕事上がりに、彼と約束があって。
そう、久しぶりに忙しい彼と会えるはずで。
こんな日に、こんな天気なんて、と、うんざりしながら、出勤した。
じめじめ、むしむしな状況に、少しだけいらいら。
でも、今日は彼に会える。
それにほら、昼休みに、お気に入りのあのお店にいくのもいい。
金色の、キラキラの、私の魔法の薬を売ってくれるあのお店に、そうすればきっと、この憂鬱な気分も吹き飛んでくれる。
そう、思ってた。
――本当は、わかってたの。
気分が重いのは、天気のせいじゃない、ってことぐらい。
でも、それでも。
ギリギリまで、認めたくなかった、から。
認めてしまったら、キラキラしたものすべてが、なくなってしまう気が、したから。
――そんな私を、私のそんな部分を、彼が持て余してるってことくらい、本当は、わかってたの。
雨は嫌い。
髪は重くなるし、なんだかじっとりと空気が重い気がするから。
雨は嫌い。
ただでさえ憂鬱な気分を、これでもかとさらにめり込ませてくれるから。
くるり、と、せめてとばかり、雨の日対策に買った、奇麗なオレンジ色の傘を回してみる。
ぱちぱちと弾ける雨の音。ぬれた道路に、緑の葉っぱ。
空を見あげれば、どっしりと重い雨雲に、大粒の、雨。
雨は嫌い。
でも、今日は雨で良かった。
涙が出そうになるのを、ごまかせるから。
代わりに、空が、泣いてくれるから。
くるり、くるり、くるくると、オレンジの傘を回しながら、街を歩く。
さあ、お気に入りのお店に行こう。
明日っておもってたけど、時間がいっぱいあいたし、ゆっくり吟味しよう。
ちょっと変わったのが、あればいい。
気持ちがすっきりするような、奇麗なのがあればいい。
くるり、くるくると傘を回して、街をあるく。
繁華街の端のほう、緑の植え込みに、木の扉。Honey、と、筆記体で掘ってある、お店の看板。
それがみえてきて、少しだけ早足になる。
からん、と、扉を開けば、ふわりと甘い香り。奥の方の喫茶エリアから漂う、甘い香り。
「いらっしゃい」
穏やかな店長の優しい声が聞こえて、ほっと、肩の力がぬけた。
とたんに、ぼろり、と、涙がこぼれ落ちる。
あれ。
あれあれ。
泣かないつもりだったのにな。
泣くつもりなんか、なかったのに。
びっくりした顔の店長に、謝らなきゃ、と、口を開いたら、ひぃっくと、引きつるような泣き声が漏れて。
そうしたら、我慢できなくて。
「ああ、だいじょうぶかい。泣かないで。さ、そこは冷えるから、こっちおいで」
笑顔の店長が、そう手招きして。
釣られるままに、ふらふらと近寄れば、よしよし、と、まるで子どもにするように、頭をなでられ、て。
ぼろぼろ、ぼろぼろ、あふれる涙をそのままに、私はただ、泣き続けた。
何も言わずに、店長は、ずっと、ずっと、頭をなで続けてくれた。
渡されたタオルは、お日様のにおいがした。
ふんわりやわらかいタオルで、顔をそっと拭く。
ごしごし拭えないのは、女の子だから。
お化粧してなければ、ごしごしいっちゃうんだけど。
――流れてないといいけど、メイク。
やっと、少しばかり落ち着いた頭でそう考えてたら、ことり、と、目の前にカップが差し出された。
手をたどり見あげれば、店長がウィンクをくれて。
「はい。ホットミルク。美味しい魔法のお薬入りだよ」
ふわり、と漂う、甘い香り。うれしくなって、ゆっくりとカップを持ち上げた。ほんのり甘い、ハニーミルク。心がほぐれてゆくようで、大好きな、私の大好きなはちみつ入りの、牛乳。
外は雨。
静かな店内は、他にお客さんもいなくて。
キラキラと店の中に並ぶのは、大小様々、濃淡様々な色合いの、はちみつの瓶。
レンゲにアカシア、リンゴにミカン、タンポポに、マロニエ。
今日のミルクのはちみつは、ラベンダーだろうか。ほっとするような、優しい香りがする。
静かな空間と、暖かなミルク、大好きな甘い蜂蜜。
「――さよなら、してきました」
ぽつり、と、つぶやけば、店長は、そっか、と、ただそれだけ答えてくれた。
大好きだった。
大好きな彼だった。
仕事に一生懸命で、前向きで、上昇志向が強くて、考え方も合理的できっぱりとした、彼だった。
私は、そんな彼に憧れて、恋をして。幸運にも付き合うことができた。
でも。
彼は、前に進む人で。私は、今が愛しい人で。
時折、同じ所にとどまる私に、どこか夢見がちな私に、彼が苛立ちをみせるようになったのは、いつだったか。
――そして、彼は、同じように前に進む人と、恋をした。
なんとなく、わかっていたこと。
忙しいから、と、こまめに律義にくれていた定期連絡が、だんだん間遠になっていったころから、ホントはわかってたこと。
ゆっくりと、温かいミルクを、飲む。
今日は、そうだ、ちょっとだけ高くて買うのをためらっていたはちみつを、買って帰ろう。
そして、ちょっとずつ、大事に使っていこう。
そう思うと、少しだけ、元気が出て、うれしくなる。
覚悟はしてたから。
ちがうな、本当は、私も、疲れてたから。
悲しくないわけじゃないけれど、これできっと良かったんだ、って、そう、思えた。
よし、と、気合を入れて顔を上げると、じっとこちらをみる店長さん。
30代半ばだったか、若いころにはちみつにはまって、はちみつ専門のお店をだしたような、ちょっと変わった人。
喫茶エリアは数席だけだけど、はちみつを生かした飲み物やお菓子、少しの料理を出してくれる。
知る人ぞ知る、だけど、本当にひっそりと立っているお店で、見つけたときは本当に興奮したのを覚えてる。
こちらに就職して引っ越してからずっと通ってるから、かれこれ、5年近くなるんだろうか。
「だいじょうぶ?」
「あ、はい。だいじょうぶです。ありがとうございます」
ちょっとごつい感じの店長さんが、首をかしげると、不思議と愛嬌のある感じになる。小さく笑って頷けば、うんうん、と、安心したようにうなづかれて。
「やっと笑った。――安心した」
そういわれて、ちょっとどきっとする。
ダメダメ、今は、ちょっとした優しさに弱いんだから。
「うう、ご迷惑をお掛けしました」
思い返せば凄い醜態。片手を頬に当てて、熱くなったのを隠すようにして告げたら。
「いーや、ぜんぜん。もっと迷惑かけてくれたって歓迎だけどね」
「え」
見あげれば、ニヤリ、と、楽しそうに笑う店長。でも、その目は真剣で。
目を逸らせないまま、しばらくじっと見つめ合って。
「ま、今はさすがに卑怯だと思うから、まぁ、ぼちぼちね」
「え、あ、はい?」
ぽんぽん、と、頭をたたかれて、うなづきながら首をかしげる。
え、どういうこと? そういうこと? まさか、自意識過剰でしょう?
ぐるぐると目が回るような思いでいたら、ことり、と、小さな瓶。
中には、とろりと、琥珀色のはちみつ。
「これ、試供品であげるから。今日は、顔洗ってゆっくり寝てな」
キラキラ、琥珀色のそれは、なんだかすごく輝いていて。
「ありがとう、ござい、ます」
ただひたすらに赤くなる顔をごまかすように、私は、うつむくのだった。
ほんのひとさじ、スプーンですくう。
そっと口に運べは、ふわりと広がる幸せな甘さ。
落ち込んだ時、哀しい時、そのひとさじで幸せになれる。
きっとそれは、魔法の薬。
小さい頃からの、私の大事な、おまじない。
小さなお店は、魔法のお店。
キラキラのはちみつがいっぱいの、まほうのお店。
今日もまた、私は、お店へゆく。
――ちょっと厳つい、魔法使いに、会うために。
お題:「確かに恋だった」様 http://have-a.chew.jp/
「それは甘い20題」より 「07.はちみつ」