疑いと自己紹介
「大変、申し訳ございませんでした。」
美穂奈は勢い良く頭を下げた。
目の前には、赤く腫れ上がった頬を押さえている男。
美穂奈が放った2発目は、不幸中の幸いというのか、表紙の部分が頬に当たった為、男は気絶せずに生きている。
生きてはいるが、機嫌は最悪であった。
それはそうだろうと美穂奈は思う。
もし自分が逆の立場であった場合、美穂奈の機嫌も最高潮に悪いだろうから、このなんとも言えない微妙な空気には納得している。
が、この状況については何1つとして、納得も理解もしていなかった。
なので、唯一の情報源であろう彼がこの状態では、美穂奈もお手上げである。
早く機嫌を直してはくれないだろうか。
そんな希望の元、頭を下げたまま、チラリと男を盗み見る。
目を覚ました彼の目は、やはり髪と同じ灰緑色だった。
日本人にあるまじき不思議な色。
「……で?」
ビクリ、と、美穂奈は肩を揺らした。
ずっと無言で怒っていた目の前の男が、口を開いたのだ。
「え?」
美穂奈は顔を上げて、首を傾げた。
何を聞かれているのか、わからなかったからだ。
「君は一体、何がしたいの?」
「…はぁ?」
問われた言葉に、美穂奈は盛大に首を傾げた。
何がしたいって……。
美穂奈が理解出来ずに呆然としているのを横目に、男は続けた。
「あいにくと、この家には価値のある様な物はないよ。それに、僕は特に恨まれる様な事をした覚えもない。」
「…………はあ。」
美穂奈はとりあえず頷く。
たしかに、この小屋は簡素でパッと見、価値の有りそうな物はない。
そしてこの男も、誰かに恨みを買うよう感じには見えなかったからだ。
「君の目的が何かは分からないが、とにかく、人の家の床で寝るのはどうかと思う。……出ていってくれ。」
言って、出口であろう扉を指さす男に、美穂奈は首を振る。
「あの、たしかに、いきなり殴ったり、勝手に寝てしまったりしたのは謝るわ。でも、私の話も聞いて?」
ここがどこなのかも、何故ここにいるのかもわからない状態で外に放り出される訳にはいかない。
美穂奈は必死で男に頼み込んだ。
「私、ここがどこかも、いつの間にこんなところにいたのかもわからないのよ。本当よ?突然家の中に上がり込んだりして、あなたの気分を害したのは謝るから、少しだけお話をしてくれない?」
「……ここがどこかもわからない?何、君、記憶喪失とかでも言うの?」
驚いたように聞いてくる男の言葉に、美穂奈は首をふるふると振って答えた。
「違うの、そうじゃないの。名前だってちゃんと言えるもの。私は美穂奈よ。美穂奈……、えっと……。」
そこで口を噤み、美穂奈は一度何かを考えるように視線を彷徨わせた後、男を見て困った様に笑った。
「だからね、その……。あなたの名前も教えてもらえると助かるのだけれども。」
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ちょっと苦しい繋ぎだったかしら。
そう思いながらも、美穂奈は男から聞き出した情報を頭の中で反芻する。
男の名前は、ラズ=サプレーン。
美穂奈よりも7つ年上の23歳。
ここは彼の家で、都心部から少し離れた森の中にあるらしい。
婚約者との結婚に逃げ出した形になっている自分が、あの家の姓を名乗って良いのか、咄嗟にそう思い言葉が出てこなかった美穂奈は、苦し紛れに男の名前を聞いた。
元々聞くつもりではいたが、もう少しきちんと自己紹介をし、美穂奈の事を知ってもらった上で聞くつもりだった。
出会い頭いきなり殴って、こっちの印象は最悪だろうから、少しでも印象が良くなるようにと考えていたのに……。
だが、美穂奈のあんな無礼な聞き方に、男は更に怒ったりなどはせず、小さく溜息を吐いた後、上記の事を教えてくれた。
ほとんど単語のみの受け答えだったけど、ちゃんと答えてくれるあたり、良い人なのかもしれない。
「あ、えっと。ラズさん。」
「ラズで良い。僕も、ミホナって呼ぶから。」
年上を呼び捨てにするのはどうなのだろうとは思うが、本人がそう言うのなら出来るだけ要望には応えよう。
「じゃあ、ラズ。」
「何?」
美穂奈の問いに、ぶすっとしながらも答えてくれるラズは、やはり優しいと思う。
「ラズの髪と瞳って、とても珍しい色ね。何人なの?」
美穂奈がそう問えば、ラズは一瞬不思議そうな顔をした後、すぐに眉をしかめ首を傾げた。
「何人?……オーラー出身だけど?」
「オーラー?」
今度は美穂菜が首を傾げる番だ。
聞いたことない地名だ。
元よりそんなに地名に詳しい訳ではないけども。
日本国内の地名だって、全部わかる訳ではないのだし。
「えっと、それはどこかしら?アメリカ?イギリス?ロシア?」
「アメリカ?イギリス?ロシア……?ミホナ、君が何を言っているのかわからないんだけど?」
「え……?」
不思議そうなラズの顔に、美穂奈も同じ顔で返した。
今、美穂奈は比較的有名な国名を口にしたつもりだ。
なのに、何故ラズは知らないのか。
「ここは、日本……、ううん。地球よね?」
当たり前だと思いながらも、美穂奈は聞いた。
ラズは美穂奈の問いに、何当たり前の事を聞いてるんだって笑ってくれれば良い。
なのに。
「チキュウ?……ミホナ、君が何を聞きたいのかは分からないけど。ここは『colors』の中心とも言われているオーラー都市の外れにある森の小屋の中、だよ。」
「カラー……ズ?」
ラズの言葉に、美穂奈ただ呆然と呟く。
colors。
それが、この世界の名前。
この世界……。
そう、私の知っている世界とは違う、別の世界。
異世界の、名前なのだと、それを理解するのに、私は、少しの時間を要した。