少女と男
「どうしよう。」
やってしまった、と美穂奈は頭を抱えていた。
「いや、だって急に出てくるから……。」
言い訳がましく呟いてから、美穂奈は辺りを見渡し、もう一度頭を抱えた。
木の温もりを感じられる簡素な小屋。
ついさっきまで、自室にいたのに……、どうして?とか、そんな事よりも、だ。
美穂奈は目の前で倒れている男の人を見た。
この男の人が突然目の前に現れた、そう思っていたが、この状況。
ここは美穂奈の部屋でも、美穂奈の家でも、もう一つ言えば、窓の外の景色からして、美穂奈の住んでいる街でもなさそうだ。
考えるまでもなく、美穂奈が、突然現れたのだ。
この男ではなく、美穂奈が突然。
なのに。
美穂奈は手の中にある、あの赤い本をギュッと握る。
急に見知らぬ男が出現したと勘違いした美穂奈は、手近にある本で男を思いっきり殴り倒してしまったのだ。
死んではないだろうが、何千ページもある分厚い本の、角。
しかも、金の飾り縁のところで、本の重みに従い腕を振り下ろし殴ってしまった。
しばらくは目覚めそうにない。
美穂奈は一瞬の間の後、男に手を合わせた。
「ごめんなさい。」
一度、しっかりと頭を下げてから、美穂奈は改めて男を見る。
「……変わった色。」
灰緑の髪に、美穂奈は小さく呟いた。
そういえば、一瞬しか見ていないが、今は閉じられている瞳も同じ色だった気がする。
「ふぁ……。」
美穂奈は大きくあくびを1つ漏らす。
何だか無性に眠たい。
思いっ切り運動した後の様な気怠さが、睡魔を連れてやってくる。
美穂奈はそれを追い払うように一度頭を振り、これからの事を考えた。
まずは、この人が目を覚ましたら謝って、それからここがどこなのかを聞こう。
で、場所が分かったら、家に連絡してかえ……。
そこまで考え、美穂奈は首を傾げた。
帰って、どうするんだろう。
眠たく、重い頭で考える。
帰ったって待ってるのは、つまらない婚約者様と、恩は感じていても本当の親だとは思えない義両親。
つまらない結婚生活に、終わったも同然の人生。
帰って、どうするの?
どうすれば良いの?
眠いせいだろうか、頭がしっかりと働かない。
少し、眠った方が良いのかもしれない。
眠れば、少しは、マシな打開策が見つかるかもしれない。
美穂奈はそう結論付けると、体を小さく丸め、そのまま床の上に体を預けたのだった。
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「どうしよう。」
何が起きたんだ、とラズは頭を抱えていた。
「急に殴られて、えっと……。」
気絶する前の事をゆっくりと思い出しながら、ラズは床で丸くなって寝ている少女を見て、もう一度頭を抱えた。
すやすやと安らかな寝息を立てて眠っている少女。
ついさっきまで、本を読んでいた。
長年かけて解読し読み解いていた本を読み終えてしまい、達成感と明日から何をしたら良いんだろうという虚無感に胸の中が綯い交ぜになって…とかそんな事よりも、だ。
ラズは、目の前ですやすやと気持ちよさそうに寝こけている少女を見た。
突然目の前に現れた見知らぬ少女。
その子は、ラズに何か言うでもなく、聞くでもなく、いきなり殴ってきた。
何か固くて重い物で。
相手を気絶させ、その後に家の中を漁り金目の物を盗んでいくなら強盗だ。
気絶させ、トドメをさせば、快楽殺人者か殺し屋かもしれない。
が、相手を殴って気絶させた後に、その場で丸まって寝てしまうのは、いったい何だ?
それは、ラズが知る知識を総動員させても、何にも属さない、意味不明な行動であった。
ラズは首を傾げた。
「何がしたかったのかな?」
呟いてから、ラズは改めて少女を見る。
ふわふわとウェーブのかかった茶色の髪が、床に散っている。
床の木の色と良く似ているから、踏まないようにしなければ。
年々度が合わなくなってきている眼鏡を押し上げ、そう思ったラズは、ズキリと痛む頭に一瞬眉をしかめた。
……そういや、何か固く重い物で気絶する程殴られたのだった。
忘れていた訳ではないが、目の前で眠るこの少女のせいで考える暇がなかった。
一体、何で殴られたのだろう?
少女の腕は細く、大きな武器を振り回したりは出来ないだろう。
それに、そんなものを隠す場所もないし。
この小屋に、何かを隠せるだけのスペースも死角もないのは、小屋の持ち主であるラズが一番知り尽くしている。
だとすると、少女が持てるだけの大きさ…あ、もしかしてこれか?
ラズは、少女が大事そうに抱えている本を見た。
長年、自分が読み解いていた、緑の革表紙に金の飾り縁が施してある、あの分厚い本。
「そっか、あれで殴られたのか。そりゃ、あれだけ分厚い本で殴られたら気絶ぐらい……あれ?」
そこでラズは何か違和感を感じる。
少女が抱きかかえている本。
それは、たしかに自分が毎日毎日見てきた本なのに、何かが違う。
「あ……、色……。」
呟いて、確信する。
そう、ラズの知ってる本は、緑の革表紙に、金の飾り縁。
だが、少女が抱えている本は、赤い革表紙に、金の飾り縁。
色が、違うのだ。
「だとすると、やっぱり中身も違うのかな?」
ラズは、そっと少女へと手を伸ばす。
その、赤い本の中身が知りたくて。
やはり、あの緑の本の様に、パッと見は、ただの白紙の本なのだろうかと。
指先に、本が当たる。
そっと撫でれば、ザラリとした革の感触。
緑の革表紙と同じ感触だった。
瞬間、少女の瞳がゆっくりと開いた。
髪と同じ、濃い茶の瞳がこちらに向けられ、ラズをとらえた。
あ、ヤバイ。
ラズが咄嗟にそう思ったときには既に遅かった。
「……キャーッ!」
少女は先程と違い、そう叫んだ後、ラズの頬にあの赤い本を叩きつけたのだった。