↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

【連載開始】「お兄様は外に出られないのに」と母が言うので、兄へのお土産に公爵閣下を連れて帰りました

作者: みれいぬ
掲載日:2026/10/23

連載版を始めました(https://ncode.syosetu.com/n0529my/)。短編のお話を、公爵閣下と兄の目も加えて書き直し、第13話から、北の牧場で過ごす兄と、乗り方を覚えるイネスの夏に進みます。よろしければ、そちらもどうぞ。

「お兄様は外に出られないのに。あなただけ楽しむつもり?」


 母はそう言って、私の手から御前馬術の見物席の札を抜き取った。


 二階の廊下だった。私は外出用の手袋を片方はめかけていて、母は兄の部屋から出てきたばかりだった。母の手には、兄の咳止めの薬の匙がまだ握られている。


「楽しむのではありません、お母様」


 私は帽子の角度を直してから言った。


「兄へのお土産を、持って帰りに行くのです」


 母が口を開くより先に、半分開いた扉の向こうから、兄の声がした。


「母上、僕が頼んだんです。ネーベ号の抜けた毛を一本、イネスに持って帰ってもらう約束で」


 母は扉を振り返り、札と私の顔を見比べて、長い溜め息をついた。それから札を私の手に戻した。


「あなたは丈夫なんだから、帰ったらマテオの膝掛けを替えてちょうだい。日暮れまでによ」


「はい」


 母は兄の部屋へ戻っていった。扉が閉まる前に、「マテオ、窓のそばは冷えるわ」という声が聞こえた。


 兄のマテオは、ベラルデ伯爵家の跡継ぎだ。幼い冬に熱病にかかってから胸が弱く、二年前の冬にひどい発作を起こしてからは、一度も自分の部屋を出ていない。両親の一日は、その部屋の暖炉の前で過ぎていく。


 私は、お披露目の年をとうに過ぎた。社交界へのお披露目は、毎年、春の予定だった。そして毎年、春になると兄の具合が悪くなった。熱が出た年も、咳が続いた年も、医師が呼ばれた年もあった。そのたびに母は「マテオの具合が悪いのに、お母様に夜会へ行けと言うの」と言い、お披露目は次の春へ回った。誕生日の晩餐も、前菜の途中で兄が咳き込んで、そのまま取りやめになった。


 母の口癖は二つある。「お兄様は外に出られないのに」と、「あなたは丈夫なんだから」。


 どちらも本当のことだから、言い返しにくい。


 けれど私と兄には、幼い春から決めていることがある。


 その春、兄は熱で寝ていて、家族で楽しみにしていた春の市に行けなくなった。母は「マテオが行けないなら、誰も行かない」と言った。そのとき兄が、熱で赤い顔をして「イネスだけでも行かせて。何か一つ、持って帰ってきて」と頼んでくれたのだ。


 両親は、兄の頼みだけは断らない。


 私は乳母のピラールに手を引かれて市へ行き、小遣いを握りしめて、木彫りの小さな馬を買って帰った。兄はそれを枕元に置いて、熱が下がるまで撫でていた。


 それからずっと、兄の行けない場所へ私が行ったら、そこから一つ、お土産を持って帰ることにしている。


 兄の部屋の窓際には、お土産の棚がある。木彫りの馬。教会の復活祭の蝋燭の燃えさし。川原の縞模様の石。市の飴屋の包み紙。十二年で、十四個。それが、私が外へ出られた回数だった。


 階段を下りると、玄関で父が手袋をはめていた。今日の付き添いは父だ。御前馬術は昼の催しで、母は兄のそばを離れない。


「イネス。今日は誰にも名乗るな。人に紹介もしない」


「はい、お父様」


(このドレスのせいね)


 私は自分の若草色の裾を見下ろした。何年も前の昼のドレスで、ずいぶん色が褪せている。伯爵家の娘として紹介するには、たしかに少し恥ずかしい。


* * *


 王宮の馬場は、春の光で白っぽく見えた。


 四方を見物席が囲み、貴族の家々の旗が風に鳴っている。父は席に着くなり、隣の席の知り合いと狩りの話を始め、私のほうは見なかった。後ろの席でピラールが、わざと聞こえるように咳払いをした。


 午後の組で、ネーベ号が出てきた。


 雪のように白い牡馬だった。兄が壁に貼っている版画より、ずっと大きい。乗り手の合図ひとつで横歩きをし、後ろ脚で立ち上がって、見物席がどよめく前にはもう着地している。国王陛下が手をお上げになり、ネーベ号は今年も一番になった。


(お兄様に、見せたかった)


 見せられないから、持って帰るのだ。


「ピラール、行きましょう」


「お嬢様、旦那様に断らなくてよろしいんで?」


「狩りのお話の途中だもの」


 出場する馬の厩は、馬場の北の端に一列に並んでいる。見物客も厩の前の通路までは入れる決まりだけれど、通路にいるのは馬好きの紳士ばかりで、令嬢の姿はひとつもなかった。若い紳士たちが、褪せた若草色の娘と年配の侍女を、珍しそうに振り返る。


 一番端の厩の前で、焦げ茶の乗馬上着の男の人が、ネーベ号の首を布で拭いていた。背が高く、日に焼けて、くすんだ金色の髪を短く刈っている。


(厩の方ね)


「失礼いたします。ネーベ号のお世話の方ですか」


 男の人が振り向いた。灰青の目が、私の帽子から靴までを、馬の脚を見るように一度だけ見た。


「そうだが」


「抜けた毛を一本、いただけませんか」


「……毛を?」


「兄へのお土産です」


 私は事情を話した。兄が胸を悪くして部屋から出られないこと。馬が大好きで、壁にネーベ号の版画を貼っていること。兄の行けない場所へ行ったら、一つ持って帰る約束をしていること。


「たてがみでも尾でも構いません。ブラシについた分で十分です。兄は、ネーベ号の毛だと分かれば、それで喜びますので」


 男の人は、拭く手を止めて私を見ていた。


 そこへ、厩の奥から白髪の厩番が顔を出した。


「閣下、そろそろお召し替えを。陛下の御前で、賞をお受けになるんですから」


 閣下。


 私は、ゆっくり男の人を見上げた。ネーベ号はリオセコ公爵家の馬で、リオセコ家の当主は、代々、王の厩を預かる主馬頭を務めている。その当主が、北の牧場から戻ってきたばかりの若い公爵だということは、兄から耳にたこができるほど聞いていた。


(厩の方、と言ってしまったわ)


「……リオセコ公爵閣下で、いらっしゃいますか」


「アルバロ・リオセコだ。厩の者で間違いではない」


 閣下は、厩の戸口の釘に掛かっていた物を外して、私の前に差し出した。


 蹄鉄だった。


「今朝、打ち替えた。前の右だ。毛では土産にならない」


 私は両手で受け取った。蹄の形にすり減った鉄に、厩の泥がまだこびりついていて、外出用の手袋の指先が茶色くなった。


「釘穴が八つ。前の蹄は、やはり大きいのですね。四代前のエルミタ号が蹄の大きな血統で、ネーベ号の大きな蹄はそちらの血だと、兄が申しておりました。父方の祖母のブランカ号は、北の高原の牧場の生まれで……」


 言い終わる前に、閣下が噴き出した。


 ネーベ号が驚いて耳を立てるくらいの笑い声だった。白髪の厩番が、戸口で口を開けたまま固まった。通路の紳士たちも、何事かとこちらを振り返った。


「すまない。うちの厩番より詳しい」


「兄の受け売りです」


「兄上に伝えてくれ。ネーベの仔が、この冬、王立牧場で生まれた。牡で、父親と同じ芦毛だ。今は煤けたような色だが、年を追うごとに白くなる。ネーベは跳ぶのが本業だから、種付けは冬のあいだしかさせていない」


「伝えます。きっと、今夜は眠れません」


「あなたは?」


「私、ですか」


「兄上の分は、それで足りるだろう。あなたの分は、何を持って帰る」


 聞かれて、私は少し困った。自分の分を持って帰ろうと思ったことは、一度もなかった。


「私は、ネーベ号の跳ぶところを見られましたので。それで十分です」


 閣下は布を持ったまま、ネーベ号の首に手を置いて、黙った。


 それから、ふと真顔になった。


「名を聞いていなかった」


 父の言いつけが頭をよぎった。けれど公爵閣下に蹄鉄までいただいて、名乗らないのは失礼だ。


「ベラルデ伯爵家の、イネスと申します」


 閣下の眉が、わずかに動いた。


「ベラルデ家のご令嬢は、病弱で臥せっておいでだと聞いていたが」


(病弱? 私が?)


 私は蹄鉄を提げたまま、首をかしげた。


「それは兄です。病弱なのは兄で、私は丈夫なほうです。風邪も、ほとんどひいたことがございません」


 通路の紳士たちの目が、私の顔から、泥の付いた蹄鉄と、茶色くなった手袋へ移った。誰かが小さく口笛を吹きかけて、連れに肘でつつかれた。


 閣下は、蹄鉄と私を見比べて、もう一度だけ短く笑った。


「そのようだな」


* * *


 通路の口で、父が待っていた。厩の通路から戻った誰かに聞かされたらしく、顔が青かった。


「名乗ったのか」


「公爵閣下に蹄鉄をいただきましたので」


 父は蹄鉄を見て、何か言いかけて、やめた。帰りの馬車の中で、父は一言も口をきかなかった。


 兄は、蹄鉄を見るなり寝台から身を起こした。


「ネーベの……前の右!? イネス、毛を一本って言ったんだよ、僕は」


「毛では土産にならない、と閣下が」


「閣下!?」


 兄は蹄鉄を胸に抱えて、しばらく黙って撫でていた。それから、窓際の棚を見た。蹄鉄は、木彫りの馬の隣には大きすぎた。


「ピラール、釘を打って。壁に掛ける。ネーベの版画の下だ」


 兄がこんなに大きな声を出すのを、私は久しぶりに聞いた。


 ピラールが釘を打つあいだ、兄は私に、ネーベ号の跳び方を何度も話させた。後ろ脚で立ったときに前脚をどう畳んだか、着地の音はどのくらいだったか、国王陛下が手をお上げになったのは着地の前か後か。何度目かには、兄は目を閉じて聞いていた。


「見えた」


 兄は目を閉じたまま言った。


「イネスが行ってくれると、見える」


 その晩、兄の部屋で、母が膝掛けを畳みながら言った。


「公爵閣下に物をねだったの? はしたない」


「名乗ったそうだ」


 父が、暖炉の前の椅子から言った。


 母の手が止まった。


「イネス。あなたは、体が弱いということになっているのよ」


(私が?)


「……どうしてですか」


「お披露目もしていない娘を、世間に何と言えばいいの。マテオのために夜会を見送りました、とでも?」


 母は畳んだ膝掛けを兄の足元に置き、私のほうを見ずに続けた。


「あなたは丈夫なんだから、ずっとマテオのそばにいてあげてね」


 私は返事をしなかった。


(ずっと、とは、いつまでのことかしら)


 兄は壁の蹄鉄を見ていた。何も言わなかったけれど、膝掛けの上で握った手が白くなっていた。


* * *


 数日後、リオセコ公爵家の紋の入った封書が届いた。宛名は「ベラルデ伯爵令息マテオ殿、ならびに令妹イネス嬢」。王立牧場で、ネーベ号の仔を見ていかないか、という招きだった。


「マテオが行けるわけがないでしょう」


 母は兄の部屋で、封書を膝に置いて言った。


「じゃあ、イネスに行ってもらう」


 兄は寝台の上で、壁の蹄鉄を見上げながら言った。


「土産は、仔馬の名前。それから、そうだな」


 兄は少し考えて、冗談を言うときの顔をした。


「閣下に、一度会ってみたい」


「マテオ」


「冗談ですよ、母上。仔馬の名前でいいです」


 父は眉間に皺を寄せていたけれど、主馬頭の招きを断れる伯爵は、王都にはいない。


「ピラールを付けて行け。日暮れまでに帰れ」


 出がけに兄の部屋を覗くと、母は兄の枕元で薬の瓶を並べていて、顔を上げなかった。


* * *


 王立牧場は、王都の東の外れの丘にあった。


 なだらかな斜面を柵が区切り、若い馬たちが草を食んでいる。馬車を降りると、閣下が、御前馬術の日の白髪の厩番を連れて待っていた。ベニートという名だった。今日も焦げ茶の乗馬上着で、正装より、こちらのほうが似合うと思った。


「兄上は」


「仔馬の名前を、土産に頼まれました」


「では、見てもらおう」


 閣下は丘の上の放牧場から順に、若い馬を一頭ずつ見せてくれた。斜面の柵に沿って上っては下り、また上る。ピラールは途中で何度か、柵につかまって息を整えた。


 最後に下りてきた放牧場の端の小さな囲いに、母馬と、煤けたような濃い灰色の仔馬がいた。これが、いずれネーベ号のように白くなるのだという。仔馬はまだ脚ばかり長くて、母馬の腹の下をくぐっては、また出てくる。


 ベニートが囲いの戸を開けて母馬に端綱を掛けようとした、その隙間から、仔馬がするりと抜け出した。


「あっ」


 母馬が高くいなないた。ベニートは端綱を握ったまま、母馬の首を押さえるので手一杯だった。仔馬は放牧場の柵沿いに、跳ねるように駆けていく。


 追いかけそうになった足を、私は止めた。


(仔馬は、追えば追うほど逃げる。母馬のそばへ戻りたいのは仔馬のほうだから、待っていればいい)


 兄が寝台の上から、何度も話してくれたことだった。


 私は囲いの戸の脇で、裾をたたんでしゃがんだ。目の高さを低くして、手のひらを下へ向けて、じっとしていた。


 仔馬は柵の角で足を止めて、振り返った。母馬がもう一度呼んだ。仔馬は首を振り、それから、こちらへ戻ってきた。何歩か来ては止まり、また何歩か来る。最後は、私の手袋の匂いを嗅ぎにきた。鼻先が柔らかくて、温かくて、乳の匂いがした。


 仔馬は私の帽子のリボンを一度くわえてから、開いたままの戸をくぐって、母馬の腹の下へ潜り込んだ。ベニートが、静かに戸を閉めた。


「……お嬢様、どこで覚えなさった」


 その後ろで、閣下が笑っていた。


「追わなかったな」


「兄の受け売りです」


 閣下は笑いを収めないまま、柵にもたれて言った。


「名前は、まだない。兄上につけてもらおう。名付けを土産にするといい」


「よろしいのですか。ネーベ号の仔に」


「構わない」


 閣下は柵に肘をついて、仔馬が母馬の乳を探すのを眺めていた。


「御前馬術の日、あなたは見物席ではなく、厩の通路にいた」


「父が、知り合いの方と狩りのお話をしておりましたので」


「お披露目は、まだだと聞いた」


「十七の春も、十八の春も、十九の春も、兄の具合が悪かったのです。母は兄のそばを離れられませんし、お披露目の付き添いは母の役目ですから」


 閣下は、しばらく黙っていた。


「私は北の牧場に長くいて、王都の夜会にはほとんど出ていない。出ても馬の話しかしないと、令嬢方には評判が悪い」


「兄が聞いたら、羨ましがります。兄は、馬の話ができる相手がいなくて困っておりますので」


 閣下は、今度は笑わなかった。少しだけ、目を細めた。


「それより、話しておくことがある」


 閣下は、少し声を落とした。


「御前馬術の翌日、伯爵に手紙を書いた。あなたを訪ねる許しと、いずれ結婚を申し込む許しを求める手紙だ。返事はこうだった。娘は病弱ゆえ、人に会わせられない。お申し出には沿えない」


 私は、すぐには何も言えなかった。


(御前馬術の、翌日)


 その晩、両親が兄の部屋で遅くまで話し込んでいたのを思い出した。私は膝掛けを替えたところで、先に部屋を出された。今朝、母が出がけの私に顔を上げなかったのも、そのせいだったのかもしれない。


「病弱な令嬢は、さっき牧場の丘を上から下まで歩いて、息ひとつ切らしていなかった」


 閣下は、真面目な顔で言った。


「だから、伯爵にもう一度、申し入れに行くつもりでいる。今度は手紙ではなく、自分で」


 私は、兄の頼んだもう一つのお土産を思い出した。冗談の顔で言っていたけれど、兄が冗談で済ませるときは、たいてい本気だ。


「閣下。一つ、お願いがございます」


「何だ」


「兄へのお土産に、うちまで来ていただけませんか」


 閣下は私の顔を見直し、それから、目尻にしわを寄せた。


「ちょうど、伯爵に断られに行くところだった。土産になろう」


 帰りは、公爵家の馬車だった。ピラールが向かいの席で、背筋を伸ばして座っていた。閣下が窓の外を見ているあいだに、ピラールが身を乗り出して、私の耳元でささやいた。


「お嬢様。棚の十四と、壁の蹄鉄と、それからこちら。仔馬のお名前は形がございませんから、勘定に入れません。十六個目が、一番重うございますね」


* * *


 屋敷の門の前には、主治医のアンセルモ先生の馬車が停まっていた。週に一度、兄を診に来る日だった。


 玄関の扉を開けたのは、父だった。後ろに母もいた。公爵家の馬車の音を聞いて、出てきたらしい。


 二人は、私の後ろに立つ人を見て、そのまま固まった。


「ただいま戻りました」


 私は帽子を取って、一礼した。


「お兄様へのお土産です」


 客間に通された閣下は、勧められた椅子には掛けず、乗馬上着の胸から折りたたんだ便箋を抜いた。見覚えのある、父の字だった。


「伯爵。いただいた返事だ。娘は病弱ゆえ、人に会わせられない、と」


「……左様で、ございます」


「先週、外したばかりで泥の付いたネーベの蹄鉄を受け取って、男ばかりの厩の通路を、平気な顔で歩いて帰っていった令嬢がいた。今日は、王立牧場の丘を上から下まで歩いて、息ひとつ切らさなかった。どちらも、そちらのイネス嬢だ。どこが病弱なのか、伺いたい」


 父は便箋から目をそらした。母は扇を握りしめて、私を見た。どうして連れてきたの、という目だった。


「娘は……家に要るのです」


 閣下は何も言わず、父の続きを待った。


「イネスは嫁がせません」


 父は、ようやく顔を上げた。


「あれは丈夫なのですから、一生マテオのそばに置きます。私どもが先に死んだら、誰がマテオを看るのです。閣下には、お分かりにならないでしょうが」


「あの子だけ幸せになるなんて、マテオが可哀想でしょう」


 母が言った。


「分からないな」


 閣下は、静かに言った。


「丈夫な馬ほど、遠くへ走らせる。丈夫だからといって、厩に一生つないでおく者はいない」


(一生)


 母の「ずっと」は、それだった。


 そのとき、階段が軋んだ。


 客間の扉の向こう、玄関の広間の正面の階段を、誰かが一段ずつ下りてくる。手すりの鳴る音と、浅い息の音がした。


 母が、弾かれたように立ち上がった。


「マテオ!」


 兄だった。厚い膝掛けを肩にかけ、片手で手すりをつかんで、二年ぶりに自分の足で階段を下りてきていた。すぐ後ろに、黒い鞄を提げたアンセルモ先生が付いている。


「寝ていなさい! 発作が起きたら――」


「下りてきただけですよ、母上」


 兄は最後の一段を下りると、息を整えて、客間の戸口に手をついた。父と母が両側から支えようとするのを、兄は首を振って断った。


 それから、閣下を見た。


「リオセコ公爵閣下ですね。マテオ・ベラルデです。蹄鉄を、ありがとうございました」


「歩いて大丈夫なのか」


「たぶん。妹の土産の礼は、自分の足で言いたかったので」


 兄は、父のほうへ向き直った。


「父上。今ので、四つ目ですね」


 父の顔色が変わった。


「エスコバル子爵家の次男。近衛のサルセド卿。去年の秋の、メンドーサ伯爵家の三男。三つとも、娘は病弱ゆえ、でお断りになった。父上と母上は、僕の部屋で手紙を読んで、僕の部屋で返事を書いていましたね。僕に聞こえないと思っていたんでしょう」


(三つ)


 私は、どれも知らなかった。兄は知っていたのだ。知っていて、蹄鉄を壁に掛けさせ、ネーベ号の跳び方を何度も話させたのだ。


「マテオ、それは、お前のために」


「僕を理由に、イネスを病人にしたんですか」


 母が「マテオ、体に障るわ」と言いかけたとき、戸口の後ろから、アンセルモ先生が一歩前へ出た。


「伯爵、奥様。若様のお体のことで、一つ申し上げます」


 先生は、白い顎ひげを撫でてから言った。


「若様は、暖かい日には庭を歩いてよろしい。天気のよい日には、馬車で外へお出になってもよろしい。暖炉を焚き続けて窓を閉め切ったお部屋のほうが、煙がこもって胸に悪うございます。私はずっと前から、そう申し上げてまいりました」


 母が、先生を見た。


「それから、お嬢様が病弱だというお話ですが」


 先生は、私のほうへちらりと目をやった。


「私はこちらに長く通っておりますが、お嬢様を診たことは一度もございません。風邪ひとつ召さない方ですから」


 閣下が、横を向いて咳払いをした。咳払いにしては、肩が揺れていた。


 兄は、母と父を順に見た。


「僕は、妹に看取られるために生きているんじゃありません」


 客間が、しんとした。


「父上、母上。僕は今まで、イネスを外へ出すための頼みばかりしてきました。市の土産が欲しい、ネーベの毛が欲しい、閣下に会ってみたい。全部本当に欲しかったけれど、全部、イネスの外出を通すための頼みでした。僕の一生のことで頼むのは、これが最初です」


 兄は戸口から手を離して、まっすぐ立った。


「イネスを、閣下のところへ行かせてください」


 両親は、兄の頼みだけは断らない。


 あの春の市からずっと、私はそれを、兄の後ろから見てきた。


 父は長いあいだ黙っていた。暖炉の上の時計が、やけに大きく鳴っていた。父は一度、閣下の手の中の自分の便箋を見て、それから兄を見て、戸口の脇の椅子の背をつかんだまま、肩を落とした。母は兄の膝掛けの端を握ったまま、口を開かなかった。開けなかったのだろう。兄が自分の一生のことで何かを頼んだのは、本当に、これが初めてだったから。やがて父が、閣下のほうへ向き直った。


「……閣下。娘を訪ねることと、申し込むことを、お許しします」


「感謝する」


 閣下は短く言うと、私の前に来た。


「イネス。私と結婚してほしい。兄上の分ではなく、君の返事を聞きたい」


 兄の分ではない返事を、私はこれまで誰にもしたことがなかった。少し考えてから、言った。


「お受けします。私の分として」


 戸口で、兄が戸の枠に背中を預けて、天井を仰いだ。


「今までで一番の土産だ」


* * *


 次の週、父は兄に言われて、手紙を書いた。宛先は、エスコバル子爵家と、サルセド卿と、メンドーサ伯爵家と、リオセコ公爵家。どれにも、父の字で同じ一文が入っていた。娘は病弱ではございませんでした。


 手紙を受け取った家々は、黙っていてはくれなかった。そこへ、御前馬術の日に厩の通路にいた紳士たちの話が重なった。ひと月もしないうちに、王都の客間では「ベラルデ家の病弱なお嬢様は、泥の付いたネーベ号の蹄鉄を提げて、厩の通路を平気な顔で歩いておいでだった」という話が、笑いと一緒に回るようになった。その夏、伯爵夫妻のもとへ届く晩餐や茶会の招きは、半分ほどになった。


 仔馬の名前は、兄がつけた。レクエルド。古い言葉で「土産」という意味だ。閣下はそれを聞いて、また笑った。


 兄は、アンセルモ先生の勧めで、夏のあいだ北の高原にある公爵家の牧場で過ごすと、自分で決めた。空気が乾いて涼しく、胸の弱い人の療養にも使われる土地だという。先生が付き添い、うちの従僕が一人付いていく。


 母は付き添いを願い出た。先生は「母君がおそばにいると、若様は窓を開けられません」と言い、兄は「母上は、王都で待っていてください」と言った。母は、それ以上は言わなかった。兄が発った後、母は空になった兄の部屋に一人で座っていることが多くなったと、ピラールが教えてくれた。


 婚約の書面には、ほどなく父が署名した。表に出すのは、秋にすることになった。


 初夏、兄を北の牧場へ送り届けた閣下が、王都へ戻ってきた。屋敷の庭で、閣下は小さな包みを私に差し出した。


「兄上から、手紙を預かってきた。朝の放牧を窓から見た、明日は庭を歩く、だそうだ。土産に北の石を一つ送る、とも書いてあった」


「お兄様が、私にお土産を」


「それから、これは私からだ」


 包みを開けると、鹿革の乗馬用の手袋が入っていた。手に取ると、私の手の大きさにぴったりだった。


「蹄鉄を持ったときに、手の大きさは見ておいた」


 閣下はそれだけ言うと、私の顔は見ずに、包み紙を丁寧に畳み始めた。厩でネーベ号の首を拭いていたときと同じ手つきだった。


「秋までに、乗り方を教える。今度は、君が自分で行く番だ」


 手袋に指を通しながら、私はふと気づいた。これまでの十六個は、どれも私が兄へ持って帰ったお土産だった。誰かが私の分を持ってきてくれたのは、これが初めてだ。


「私だけ、楽しんでもよろしいのでしょうか」


 閣下は、手袋の上から私の手を取った。


「いい。これは、君だけの分だ」

お読みいただきありがとうございます。北の牧場での兄と、乗り方を覚えるイネスの話も、いつか書けたらと思っています。ブックマークと★★★★★で応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
両親は嫡男が大病したことと体が弱くなったことを隠そうとして嘘に嘘を重ねて行くうちに、嘘と本当の区別がつかなくなり、下の娘も巻き込んで、あとに引けなくなってたんだな。 先々のことなんて真面目に考えてない…
病弱令嬢を嫁にしても血を残せるか問題と同じく、年単位でリハビリ遅らせて男性機能の方は問題ないんだろうか?
北の牧場での兄と、乗り方を覚えるイネスの話 ぜひ読みたいです。 両親が反省する話も見てみたい。毒親だけど、お兄さんが優しいのと、そのおかげで閣下に会えたのはよかった。 ありがとうございました。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。