【連載開始】「お兄様は外に出られないのに」と母が言うので、兄へのお土産に公爵閣下を連れて帰りました
連載版を始めました(https://ncode.syosetu.com/n0529my/)。短編のお話を、公爵閣下と兄の目も加えて書き直し、第13話から、北の牧場で過ごす兄と、乗り方を覚えるイネスの夏に進みます。よろしければ、そちらもどうぞ。
「お兄様は外に出られないのに。あなただけ楽しむつもり?」
母はそう言って、私の手から御前馬術の見物席の札を抜き取った。
二階の廊下だった。私は外出用の手袋を片方はめかけていて、母は兄の部屋から出てきたばかりだった。母の手には、兄の咳止めの薬の匙がまだ握られている。
「楽しむのではありません、お母様」
私は帽子の角度を直してから言った。
「兄へのお土産を、持って帰りに行くのです」
母が口を開くより先に、半分開いた扉の向こうから、兄の声がした。
「母上、僕が頼んだんです。ネーベ号の抜けた毛を一本、イネスに持って帰ってもらう約束で」
母は扉を振り返り、札と私の顔を見比べて、長い溜め息をついた。それから札を私の手に戻した。
「あなたは丈夫なんだから、帰ったらマテオの膝掛けを替えてちょうだい。日暮れまでによ」
「はい」
母は兄の部屋へ戻っていった。扉が閉まる前に、「マテオ、窓のそばは冷えるわ」という声が聞こえた。
兄のマテオは、ベラルデ伯爵家の跡継ぎだ。幼い冬に熱病にかかってから胸が弱く、二年前の冬にひどい発作を起こしてからは、一度も自分の部屋を出ていない。両親の一日は、その部屋の暖炉の前で過ぎていく。
私は、お披露目の年をとうに過ぎた。社交界へのお披露目は、毎年、春の予定だった。そして毎年、春になると兄の具合が悪くなった。熱が出た年も、咳が続いた年も、医師が呼ばれた年もあった。そのたびに母は「マテオの具合が悪いのに、お母様に夜会へ行けと言うの」と言い、お披露目は次の春へ回った。誕生日の晩餐も、前菜の途中で兄が咳き込んで、そのまま取りやめになった。
母の口癖は二つある。「お兄様は外に出られないのに」と、「あなたは丈夫なんだから」。
どちらも本当のことだから、言い返しにくい。
けれど私と兄には、幼い春から決めていることがある。
その春、兄は熱で寝ていて、家族で楽しみにしていた春の市に行けなくなった。母は「マテオが行けないなら、誰も行かない」と言った。そのとき兄が、熱で赤い顔をして「イネスだけでも行かせて。何か一つ、持って帰ってきて」と頼んでくれたのだ。
両親は、兄の頼みだけは断らない。
私は乳母のピラールに手を引かれて市へ行き、小遣いを握りしめて、木彫りの小さな馬を買って帰った。兄はそれを枕元に置いて、熱が下がるまで撫でていた。
それからずっと、兄の行けない場所へ私が行ったら、そこから一つ、お土産を持って帰ることにしている。
兄の部屋の窓際には、お土産の棚がある。木彫りの馬。教会の復活祭の蝋燭の燃えさし。川原の縞模様の石。市の飴屋の包み紙。十二年で、十四個。それが、私が外へ出られた回数だった。
階段を下りると、玄関で父が手袋をはめていた。今日の付き添いは父だ。御前馬術は昼の催しで、母は兄のそばを離れない。
「イネス。今日は誰にも名乗るな。人に紹介もしない」
「はい、お父様」
(このドレスのせいね)
私は自分の若草色の裾を見下ろした。何年も前の昼のドレスで、ずいぶん色が褪せている。伯爵家の娘として紹介するには、たしかに少し恥ずかしい。
* * *
王宮の馬場は、春の光で白っぽく見えた。
四方を見物席が囲み、貴族の家々の旗が風に鳴っている。父は席に着くなり、隣の席の知り合いと狩りの話を始め、私のほうは見なかった。後ろの席でピラールが、わざと聞こえるように咳払いをした。
午後の組で、ネーベ号が出てきた。
雪のように白い牡馬だった。兄が壁に貼っている版画より、ずっと大きい。乗り手の合図ひとつで横歩きをし、後ろ脚で立ち上がって、見物席がどよめく前にはもう着地している。国王陛下が手をお上げになり、ネーベ号は今年も一番になった。
(お兄様に、見せたかった)
見せられないから、持って帰るのだ。
「ピラール、行きましょう」
「お嬢様、旦那様に断らなくてよろしいんで?」
「狩りのお話の途中だもの」
出場する馬の厩は、馬場の北の端に一列に並んでいる。見物客も厩の前の通路までは入れる決まりだけれど、通路にいるのは馬好きの紳士ばかりで、令嬢の姿はひとつもなかった。若い紳士たちが、褪せた若草色の娘と年配の侍女を、珍しそうに振り返る。
一番端の厩の前で、焦げ茶の乗馬上着の男の人が、ネーベ号の首を布で拭いていた。背が高く、日に焼けて、くすんだ金色の髪を短く刈っている。
(厩の方ね)
「失礼いたします。ネーベ号のお世話の方ですか」
男の人が振り向いた。灰青の目が、私の帽子から靴までを、馬の脚を見るように一度だけ見た。
「そうだが」
「抜けた毛を一本、いただけませんか」
「……毛を?」
「兄へのお土産です」
私は事情を話した。兄が胸を悪くして部屋から出られないこと。馬が大好きで、壁にネーベ号の版画を貼っていること。兄の行けない場所へ行ったら、一つ持って帰る約束をしていること。
「たてがみでも尾でも構いません。ブラシについた分で十分です。兄は、ネーベ号の毛だと分かれば、それで喜びますので」
男の人は、拭く手を止めて私を見ていた。
そこへ、厩の奥から白髪の厩番が顔を出した。
「閣下、そろそろお召し替えを。陛下の御前で、賞をお受けになるんですから」
閣下。
私は、ゆっくり男の人を見上げた。ネーベ号はリオセコ公爵家の馬で、リオセコ家の当主は、代々、王の厩を預かる主馬頭を務めている。その当主が、北の牧場から戻ってきたばかりの若い公爵だということは、兄から耳にたこができるほど聞いていた。
(厩の方、と言ってしまったわ)
「……リオセコ公爵閣下で、いらっしゃいますか」
「アルバロ・リオセコだ。厩の者で間違いではない」
閣下は、厩の戸口の釘に掛かっていた物を外して、私の前に差し出した。
蹄鉄だった。
「今朝、打ち替えた。前の右だ。毛では土産にならない」
私は両手で受け取った。蹄の形にすり減った鉄に、厩の泥がまだこびりついていて、外出用の手袋の指先が茶色くなった。
「釘穴が八つ。前の蹄は、やはり大きいのですね。四代前のエルミタ号が蹄の大きな血統で、ネーベ号の大きな蹄はそちらの血だと、兄が申しておりました。父方の祖母のブランカ号は、北の高原の牧場の生まれで……」
言い終わる前に、閣下が噴き出した。
ネーベ号が驚いて耳を立てるくらいの笑い声だった。白髪の厩番が、戸口で口を開けたまま固まった。通路の紳士たちも、何事かとこちらを振り返った。
「すまない。うちの厩番より詳しい」
「兄の受け売りです」
「兄上に伝えてくれ。ネーベの仔が、この冬、王立牧場で生まれた。牡で、父親と同じ芦毛だ。今は煤けたような色だが、年を追うごとに白くなる。ネーベは跳ぶのが本業だから、種付けは冬のあいだしかさせていない」
「伝えます。きっと、今夜は眠れません」
「あなたは?」
「私、ですか」
「兄上の分は、それで足りるだろう。あなたの分は、何を持って帰る」
聞かれて、私は少し困った。自分の分を持って帰ろうと思ったことは、一度もなかった。
「私は、ネーベ号の跳ぶところを見られましたので。それで十分です」
閣下は布を持ったまま、ネーベ号の首に手を置いて、黙った。
それから、ふと真顔になった。
「名を聞いていなかった」
父の言いつけが頭をよぎった。けれど公爵閣下に蹄鉄までいただいて、名乗らないのは失礼だ。
「ベラルデ伯爵家の、イネスと申します」
閣下の眉が、わずかに動いた。
「ベラルデ家のご令嬢は、病弱で臥せっておいでだと聞いていたが」
(病弱? 私が?)
私は蹄鉄を提げたまま、首をかしげた。
「それは兄です。病弱なのは兄で、私は丈夫なほうです。風邪も、ほとんどひいたことがございません」
通路の紳士たちの目が、私の顔から、泥の付いた蹄鉄と、茶色くなった手袋へ移った。誰かが小さく口笛を吹きかけて、連れに肘でつつかれた。
閣下は、蹄鉄と私を見比べて、もう一度だけ短く笑った。
「そのようだな」
* * *
通路の口で、父が待っていた。厩の通路から戻った誰かに聞かされたらしく、顔が青かった。
「名乗ったのか」
「公爵閣下に蹄鉄をいただきましたので」
父は蹄鉄を見て、何か言いかけて、やめた。帰りの馬車の中で、父は一言も口をきかなかった。
兄は、蹄鉄を見るなり寝台から身を起こした。
「ネーベの……前の右!? イネス、毛を一本って言ったんだよ、僕は」
「毛では土産にならない、と閣下が」
「閣下!?」
兄は蹄鉄を胸に抱えて、しばらく黙って撫でていた。それから、窓際の棚を見た。蹄鉄は、木彫りの馬の隣には大きすぎた。
「ピラール、釘を打って。壁に掛ける。ネーベの版画の下だ」
兄がこんなに大きな声を出すのを、私は久しぶりに聞いた。
ピラールが釘を打つあいだ、兄は私に、ネーベ号の跳び方を何度も話させた。後ろ脚で立ったときに前脚をどう畳んだか、着地の音はどのくらいだったか、国王陛下が手をお上げになったのは着地の前か後か。何度目かには、兄は目を閉じて聞いていた。
「見えた」
兄は目を閉じたまま言った。
「イネスが行ってくれると、見える」
その晩、兄の部屋で、母が膝掛けを畳みながら言った。
「公爵閣下に物をねだったの? はしたない」
「名乗ったそうだ」
父が、暖炉の前の椅子から言った。
母の手が止まった。
「イネス。あなたは、体が弱いということになっているのよ」
(私が?)
「……どうしてですか」
「お披露目もしていない娘を、世間に何と言えばいいの。マテオのために夜会を見送りました、とでも?」
母は畳んだ膝掛けを兄の足元に置き、私のほうを見ずに続けた。
「あなたは丈夫なんだから、ずっとマテオのそばにいてあげてね」
私は返事をしなかった。
(ずっと、とは、いつまでのことかしら)
兄は壁の蹄鉄を見ていた。何も言わなかったけれど、膝掛けの上で握った手が白くなっていた。
* * *
数日後、リオセコ公爵家の紋の入った封書が届いた。宛名は「ベラルデ伯爵令息マテオ殿、ならびに令妹イネス嬢」。王立牧場で、ネーベ号の仔を見ていかないか、という招きだった。
「マテオが行けるわけがないでしょう」
母は兄の部屋で、封書を膝に置いて言った。
「じゃあ、イネスに行ってもらう」
兄は寝台の上で、壁の蹄鉄を見上げながら言った。
「土産は、仔馬の名前。それから、そうだな」
兄は少し考えて、冗談を言うときの顔をした。
「閣下に、一度会ってみたい」
「マテオ」
「冗談ですよ、母上。仔馬の名前でいいです」
父は眉間に皺を寄せていたけれど、主馬頭の招きを断れる伯爵は、王都にはいない。
「ピラールを付けて行け。日暮れまでに帰れ」
出がけに兄の部屋を覗くと、母は兄の枕元で薬の瓶を並べていて、顔を上げなかった。
* * *
王立牧場は、王都の東の外れの丘にあった。
なだらかな斜面を柵が区切り、若い馬たちが草を食んでいる。馬車を降りると、閣下が、御前馬術の日の白髪の厩番を連れて待っていた。ベニートという名だった。今日も焦げ茶の乗馬上着で、正装より、こちらのほうが似合うと思った。
「兄上は」
「仔馬の名前を、土産に頼まれました」
「では、見てもらおう」
閣下は丘の上の放牧場から順に、若い馬を一頭ずつ見せてくれた。斜面の柵に沿って上っては下り、また上る。ピラールは途中で何度か、柵につかまって息を整えた。
最後に下りてきた放牧場の端の小さな囲いに、母馬と、煤けたような濃い灰色の仔馬がいた。これが、いずれネーベ号のように白くなるのだという。仔馬はまだ脚ばかり長くて、母馬の腹の下をくぐっては、また出てくる。
ベニートが囲いの戸を開けて母馬に端綱を掛けようとした、その隙間から、仔馬がするりと抜け出した。
「あっ」
母馬が高くいなないた。ベニートは端綱を握ったまま、母馬の首を押さえるので手一杯だった。仔馬は放牧場の柵沿いに、跳ねるように駆けていく。
追いかけそうになった足を、私は止めた。
(仔馬は、追えば追うほど逃げる。母馬のそばへ戻りたいのは仔馬のほうだから、待っていればいい)
兄が寝台の上から、何度も話してくれたことだった。
私は囲いの戸の脇で、裾をたたんでしゃがんだ。目の高さを低くして、手のひらを下へ向けて、じっとしていた。
仔馬は柵の角で足を止めて、振り返った。母馬がもう一度呼んだ。仔馬は首を振り、それから、こちらへ戻ってきた。何歩か来ては止まり、また何歩か来る。最後は、私の手袋の匂いを嗅ぎにきた。鼻先が柔らかくて、温かくて、乳の匂いがした。
仔馬は私の帽子のリボンを一度くわえてから、開いたままの戸をくぐって、母馬の腹の下へ潜り込んだ。ベニートが、静かに戸を閉めた。
「……お嬢様、どこで覚えなさった」
その後ろで、閣下が笑っていた。
「追わなかったな」
「兄の受け売りです」
閣下は笑いを収めないまま、柵にもたれて言った。
「名前は、まだない。兄上につけてもらおう。名付けを土産にするといい」
「よろしいのですか。ネーベ号の仔に」
「構わない」
閣下は柵に肘をついて、仔馬が母馬の乳を探すのを眺めていた。
「御前馬術の日、あなたは見物席ではなく、厩の通路にいた」
「父が、知り合いの方と狩りのお話をしておりましたので」
「お披露目は、まだだと聞いた」
「十七の春も、十八の春も、十九の春も、兄の具合が悪かったのです。母は兄のそばを離れられませんし、お披露目の付き添いは母の役目ですから」
閣下は、しばらく黙っていた。
「私は北の牧場に長くいて、王都の夜会にはほとんど出ていない。出ても馬の話しかしないと、令嬢方には評判が悪い」
「兄が聞いたら、羨ましがります。兄は、馬の話ができる相手がいなくて困っておりますので」
閣下は、今度は笑わなかった。少しだけ、目を細めた。
「それより、話しておくことがある」
閣下は、少し声を落とした。
「御前馬術の翌日、伯爵に手紙を書いた。あなたを訪ねる許しと、いずれ結婚を申し込む許しを求める手紙だ。返事はこうだった。娘は病弱ゆえ、人に会わせられない。お申し出には沿えない」
私は、すぐには何も言えなかった。
(御前馬術の、翌日)
その晩、両親が兄の部屋で遅くまで話し込んでいたのを思い出した。私は膝掛けを替えたところで、先に部屋を出された。今朝、母が出がけの私に顔を上げなかったのも、そのせいだったのかもしれない。
「病弱な令嬢は、さっき牧場の丘を上から下まで歩いて、息ひとつ切らしていなかった」
閣下は、真面目な顔で言った。
「だから、伯爵にもう一度、申し入れに行くつもりでいる。今度は手紙ではなく、自分で」
私は、兄の頼んだもう一つのお土産を思い出した。冗談の顔で言っていたけれど、兄が冗談で済ませるときは、たいてい本気だ。
「閣下。一つ、お願いがございます」
「何だ」
「兄へのお土産に、うちまで来ていただけませんか」
閣下は私の顔を見直し、それから、目尻にしわを寄せた。
「ちょうど、伯爵に断られに行くところだった。土産になろう」
帰りは、公爵家の馬車だった。ピラールが向かいの席で、背筋を伸ばして座っていた。閣下が窓の外を見ているあいだに、ピラールが身を乗り出して、私の耳元でささやいた。
「お嬢様。棚の十四と、壁の蹄鉄と、それからこちら。仔馬のお名前は形がございませんから、勘定に入れません。十六個目が、一番重うございますね」
* * *
屋敷の門の前には、主治医のアンセルモ先生の馬車が停まっていた。週に一度、兄を診に来る日だった。
玄関の扉を開けたのは、父だった。後ろに母もいた。公爵家の馬車の音を聞いて、出てきたらしい。
二人は、私の後ろに立つ人を見て、そのまま固まった。
「ただいま戻りました」
私は帽子を取って、一礼した。
「お兄様へのお土産です」
客間に通された閣下は、勧められた椅子には掛けず、乗馬上着の胸から折りたたんだ便箋を抜いた。見覚えのある、父の字だった。
「伯爵。いただいた返事だ。娘は病弱ゆえ、人に会わせられない、と」
「……左様で、ございます」
「先週、外したばかりで泥の付いたネーベの蹄鉄を受け取って、男ばかりの厩の通路を、平気な顔で歩いて帰っていった令嬢がいた。今日は、王立牧場の丘を上から下まで歩いて、息ひとつ切らさなかった。どちらも、そちらのイネス嬢だ。どこが病弱なのか、伺いたい」
父は便箋から目をそらした。母は扇を握りしめて、私を見た。どうして連れてきたの、という目だった。
「娘は……家に要るのです」
閣下は何も言わず、父の続きを待った。
「イネスは嫁がせません」
父は、ようやく顔を上げた。
「あれは丈夫なのですから、一生マテオのそばに置きます。私どもが先に死んだら、誰がマテオを看るのです。閣下には、お分かりにならないでしょうが」
「あの子だけ幸せになるなんて、マテオが可哀想でしょう」
母が言った。
「分からないな」
閣下は、静かに言った。
「丈夫な馬ほど、遠くへ走らせる。丈夫だからといって、厩に一生つないでおく者はいない」
(一生)
母の「ずっと」は、それだった。
そのとき、階段が軋んだ。
客間の扉の向こう、玄関の広間の正面の階段を、誰かが一段ずつ下りてくる。手すりの鳴る音と、浅い息の音がした。
母が、弾かれたように立ち上がった。
「マテオ!」
兄だった。厚い膝掛けを肩にかけ、片手で手すりをつかんで、二年ぶりに自分の足で階段を下りてきていた。すぐ後ろに、黒い鞄を提げたアンセルモ先生が付いている。
「寝ていなさい! 発作が起きたら――」
「下りてきただけですよ、母上」
兄は最後の一段を下りると、息を整えて、客間の戸口に手をついた。父と母が両側から支えようとするのを、兄は首を振って断った。
それから、閣下を見た。
「リオセコ公爵閣下ですね。マテオ・ベラルデです。蹄鉄を、ありがとうございました」
「歩いて大丈夫なのか」
「たぶん。妹の土産の礼は、自分の足で言いたかったので」
兄は、父のほうへ向き直った。
「父上。今ので、四つ目ですね」
父の顔色が変わった。
「エスコバル子爵家の次男。近衛のサルセド卿。去年の秋の、メンドーサ伯爵家の三男。三つとも、娘は病弱ゆえ、でお断りになった。父上と母上は、僕の部屋で手紙を読んで、僕の部屋で返事を書いていましたね。僕に聞こえないと思っていたんでしょう」
(三つ)
私は、どれも知らなかった。兄は知っていたのだ。知っていて、蹄鉄を壁に掛けさせ、ネーベ号の跳び方を何度も話させたのだ。
「マテオ、それは、お前のために」
「僕を理由に、イネスを病人にしたんですか」
母が「マテオ、体に障るわ」と言いかけたとき、戸口の後ろから、アンセルモ先生が一歩前へ出た。
「伯爵、奥様。若様のお体のことで、一つ申し上げます」
先生は、白い顎ひげを撫でてから言った。
「若様は、暖かい日には庭を歩いてよろしい。天気のよい日には、馬車で外へお出になってもよろしい。暖炉を焚き続けて窓を閉め切ったお部屋のほうが、煙がこもって胸に悪うございます。私はずっと前から、そう申し上げてまいりました」
母が、先生を見た。
「それから、お嬢様が病弱だというお話ですが」
先生は、私のほうへちらりと目をやった。
「私はこちらに長く通っておりますが、お嬢様を診たことは一度もございません。風邪ひとつ召さない方ですから」
閣下が、横を向いて咳払いをした。咳払いにしては、肩が揺れていた。
兄は、母と父を順に見た。
「僕は、妹に看取られるために生きているんじゃありません」
客間が、しんとした。
「父上、母上。僕は今まで、イネスを外へ出すための頼みばかりしてきました。市の土産が欲しい、ネーベの毛が欲しい、閣下に会ってみたい。全部本当に欲しかったけれど、全部、イネスの外出を通すための頼みでした。僕の一生のことで頼むのは、これが最初です」
兄は戸口から手を離して、まっすぐ立った。
「イネスを、閣下のところへ行かせてください」
両親は、兄の頼みだけは断らない。
あの春の市からずっと、私はそれを、兄の後ろから見てきた。
父は長いあいだ黙っていた。暖炉の上の時計が、やけに大きく鳴っていた。父は一度、閣下の手の中の自分の便箋を見て、それから兄を見て、戸口の脇の椅子の背をつかんだまま、肩を落とした。母は兄の膝掛けの端を握ったまま、口を開かなかった。開けなかったのだろう。兄が自分の一生のことで何かを頼んだのは、本当に、これが初めてだったから。やがて父が、閣下のほうへ向き直った。
「……閣下。娘を訪ねることと、申し込むことを、お許しします」
「感謝する」
閣下は短く言うと、私の前に来た。
「イネス。私と結婚してほしい。兄上の分ではなく、君の返事を聞きたい」
兄の分ではない返事を、私はこれまで誰にもしたことがなかった。少し考えてから、言った。
「お受けします。私の分として」
戸口で、兄が戸の枠に背中を預けて、天井を仰いだ。
「今までで一番の土産だ」
* * *
次の週、父は兄に言われて、手紙を書いた。宛先は、エスコバル子爵家と、サルセド卿と、メンドーサ伯爵家と、リオセコ公爵家。どれにも、父の字で同じ一文が入っていた。娘は病弱ではございませんでした。
手紙を受け取った家々は、黙っていてはくれなかった。そこへ、御前馬術の日に厩の通路にいた紳士たちの話が重なった。ひと月もしないうちに、王都の客間では「ベラルデ家の病弱なお嬢様は、泥の付いたネーベ号の蹄鉄を提げて、厩の通路を平気な顔で歩いておいでだった」という話が、笑いと一緒に回るようになった。その夏、伯爵夫妻のもとへ届く晩餐や茶会の招きは、半分ほどになった。
仔馬の名前は、兄がつけた。レクエルド。古い言葉で「土産」という意味だ。閣下はそれを聞いて、また笑った。
兄は、アンセルモ先生の勧めで、夏のあいだ北の高原にある公爵家の牧場で過ごすと、自分で決めた。空気が乾いて涼しく、胸の弱い人の療養にも使われる土地だという。先生が付き添い、うちの従僕が一人付いていく。
母は付き添いを願い出た。先生は「母君がおそばにいると、若様は窓を開けられません」と言い、兄は「母上は、王都で待っていてください」と言った。母は、それ以上は言わなかった。兄が発った後、母は空になった兄の部屋に一人で座っていることが多くなったと、ピラールが教えてくれた。
婚約の書面には、ほどなく父が署名した。表に出すのは、秋にすることになった。
初夏、兄を北の牧場へ送り届けた閣下が、王都へ戻ってきた。屋敷の庭で、閣下は小さな包みを私に差し出した。
「兄上から、手紙を預かってきた。朝の放牧を窓から見た、明日は庭を歩く、だそうだ。土産に北の石を一つ送る、とも書いてあった」
「お兄様が、私にお土産を」
「それから、これは私からだ」
包みを開けると、鹿革の乗馬用の手袋が入っていた。手に取ると、私の手の大きさにぴったりだった。
「蹄鉄を持ったときに、手の大きさは見ておいた」
閣下はそれだけ言うと、私の顔は見ずに、包み紙を丁寧に畳み始めた。厩でネーベ号の首を拭いていたときと同じ手つきだった。
「秋までに、乗り方を教える。今度は、君が自分で行く番だ」
手袋に指を通しながら、私はふと気づいた。これまでの十六個は、どれも私が兄へ持って帰ったお土産だった。誰かが私の分を持ってきてくれたのは、これが初めてだ。
「私だけ、楽しんでもよろしいのでしょうか」
閣下は、手袋の上から私の手を取った。
「いい。これは、君だけの分だ」
お読みいただきありがとうございます。北の牧場での兄と、乗り方を覚えるイネスの話も、いつか書けたらと思っています。ブックマークと★★★★★で応援していただけると嬉しいです。




