3.「魔法の歌」
勉強パートの時間が終わり教科書類を片付けていた頃合いに、木原がそういえば、と声をかけてきた。
「もうそろそろ合唱祭ですねー」
「ん、ああそうだなぁ。来週は直前練習期間で部活短くなるんだっけ?」
「はい。魔法パートをする時間はちょっとなさそうですね」
「そりゃ残念だわな」
俺は小さくため息をついた。
木原があくまで勉強を本分として捉えていてくれるのはとても助かるが、それにしたって活動のモチベーションでもある魔法パートがしばらくお預けというのは俺だって少し寂しく思う。
「じゃあお休み前最後の魔法パートしましょうか、今日は合唱祭にまつわる改変にしてみようと思います」
「よっしゃ」
俺が頭を抱えたのを確認して、木原は指を鳴らした。すぐに例の痛みが俺を襲い、それで世界の法則は書き換わる。
「……ふぅ。いい加減慣れてみたいんだが毎回ちゃんと痛えんだよなこれ」
「なんで痛いんでしょうかね。この前の一件から、何に付けても先生にとって害のないように、って心がけてはいるんですけど」
「だからあれはもう忘れてくれって。で、今日のはなんなんだ?」
木原はちょっと待ってて下さい、と化学準備室の窓を開けて出て行って、そしてすぐに戻ってきた。手には枯れかかった観葉植物の植わった小さな植木鉢が収まっていた。
見た限りでは何の変哲もない植物で、長年放置されていたのか植木鉢には結構な土埃がこびりついていた。
木原は近くの蛇口でぱぱっと手を洗ってから、その植木鉢の前にすっと立ち位置をとり、俺に向かって綺麗な礼をした。
「じゃあ、今日の改変のテーマをお見せします……というよりは、お聴かせします」
そう言って、木原はすぅ、と息を吸い、そのまま歌を歌い始めた。
少し大げさで古くさい歌詞の感じからして、おそらく木原が歌っているのは合唱曲なのだろう。
教師の前で躊躇うことなくアカペラ独唱を始められるだけあってか、木原は相当歌が上手い。音程は当然のようにブレることなくソプラノ域の高音まで正確に捉え、よく通る声からは寸分の掠れも聞き取れない。そのへんの歌手顔負けの、というより最早歌手と遜色ないレベルだ。
そうやってしばらく聞き惚れているうちに、俺はあることに気が付いた。
木原の正面に置かれていた植木鉢の中の植物が、どうも緑色を取り戻しつつある。
先ほどまでの枯れかかった姿と比べると、その差は明瞭だ。
俺が注目している間にもじわじわと回復は進行していって、葉が張り出し、背丈も少し高くなったように見える。
やがて木原が最初のサビらしき部分を歌い終えたところで口を閉じ、どうやらデモンストレーションは一旦の終わりを迎えたらしかった。
「上手いな、流石だ」
「ありがとうございます。で、何が起きてたかは分かりましたか?」
「ああ。これだろ?」
俺が植木鉢を指さすと、木原はにっこりと笑って頷いた。
「私たち二人の歌の魔力で草木が育つようになりました。音程が合っているほど良く育つようにしたので、これで合唱祭の練習がはかどります。まあ、一種の目安みたいなものです」
なるほど、練習か。
……少し、聞いておかなければならないことがある。
「ちなみに、音痴だと?」
「枯れます」
「シビアだなおい」
そこまで酷くなければ大丈夫ですよー、と何でもないかのように笑い飛ばす木原の前で、俺は冷や汗を流していた。
中学の合唱祭を全て口パクで乗り越えて以来合唱なんてものには触れてこなかった俺にとって、歌というのは全く縁遠い分野である。だというのにこの学校には教員団も本気で混声四部合唱を歌うという伝統があるらしく、先輩方から聞く分には毎年それなりのクオリティを生徒から期待されているのだと言う。
挙げ句の果てには昨年までは立候補制だったソロパートが、「生徒たちに覚えてもらえるように」というはた迷惑な方針の下新赴任教師たちの担当となることが教員会議中に決定しており、既に手渡された楽譜にはしっかりと【榊原先生担当分】なる文字が刻まれている。
……正直なところ、本当に嫌で仕方がない。何を隠そう、俺は歌が下手なのだ。
どれほど下手かと言えば、友人たちと二次会などでカラオケに行く時、俺は決まって真っ先にタンバリンを握らされて、「サカキは歌わなくて良い。代わりに盛り上げてくれ」とハッキリ命じられていたレベルで下手だ。
俺だって歌いたかったが人を悶絶させるのは本望ではなかったし、気の置けない友人たちだからこその遠慮の無い思いやりではあったものの、やはりそうした塩対応は俺の中に深く苦手意識を刻み込んでいる。
「ま、まあ、俺は別にそこまで歌うこともないし、木原の練習になるなら良いんじゃないか?」
俺はそうやって目の前の障害から逃げる選択を取った。
練習をしなくてはならないのは分かっている。だが、わざわざ生徒の前で、というよりも木原の前で、再び無様を晒すのはもういい加減こりごりなのだ。
そもそもからして俺を茶化すことが好きな木原に、この前の気絶の話を上回るネタを提供してしまえば、いよいよ俺の尊厳は崩壊する。なぜか今のところ木原が気絶ネタで俺を弄ってくることはないが、いつ隙を突いてくるか分かったものではない。
「俺は横で静かにしているから───」
「───あ、もちろん先生も歌って下さいね? 毎年教員団合唱があるじゃないですか、練習は必要ですよね」
コイツ、俺の急所を的確に……!
「い、いや、生徒と違って俺たちには別に何も賞とか懸かってないし」
そうやってなんとか焦りを隠しつつさらなる逃げを打とうとしたものの、逆に木原は笑みを深くしてぐっと俺の方に身を寄せてきた。
「今年は先生がソロパート担当なんですってね」
「なっ!? まだ生徒には秘密なはずなのになんでお前がそれを!?」
「ふふふ」
ふふふってなんだよ、ふふふって。
……あ。
ひょっとして。
「……まさかお前、何か仕込んだりしてねえよな?」
木原はそっと目をそらした。
「やったなお前ェ!」
そもそも最初から全ては木原の手のひらの上だったのだ。
チクショウ。
「だから練習! 練習するんですよ先生!」
「やって良いことと悪いことがあるだろうがァ!」
「だって私先生の歌声聞きたかったんですもん、良いじゃないですか」
「じゃあせめて例年立候補する先生たちと同レベルに上手くなれるように改変してくれよ、な? 頼むからさ?」
「嫌です、それは先生の生歌ではありません」
「真顔で言うな、真顔で!」
「それに、先生がどんな歌声をしていても、例え他の皆が笑っても、私だけは絶対に受け入れるので! 大丈夫です!」
サムズアップする木原の満面の笑みに、俺はついに反論の余地を見いだせなくなった。
がっくりとうなだれた俺は、えらく楽しそうに俺の手を引く木原の意のままに、校舎の裏手、段々と葉の色づき始めた木々の側へと連れて行かれたのだった。
立ち止まった木原は一度辺りを見回して、よし、という具合に手を叩いた。
「じゃあ、ここでやりましょうか。ほどよく大きな木も生えてますし」
「こんなところで歌うのか? 結構近くに生徒居るぞ?」
「うーん、そうですねぇ。確かに先生の声を聞かれちゃうのも癪なので、防音と、あとついでに人避けの改変もしときますか」
「……おう」
こうして足掻けば足掻くほどどんどんと逃げ道が消されていくのを、俺はいい加減に学習すべきなのかもしれない。
必要な改変が済んで、それでついに木原は「どちらから歌います?」と聞いてきた。
「先に木原が歌ってくれよ」
「じゃあ、さっき合唱の歌は歌っちゃいましたし、私が一番好きな歌を歌います。そしたら先生も歌って下さいね」
「……おう」
渋々ながら返事をすると、木原は「絶対ですよ」と念を押した上で、俺から少し距離を取って木の方を向いた。
木原がらららら、とハミングパートを歌い出した途端に、俺の目の前で今にも落ちようとしていた木の葉たちが木原を中心として瑞々しい緑色に染まっていった。
木々は風もないのにざわめき、歓喜の声をあげるように枝をしならせ、二度目の命を吹き込まれ背筋を張った葉っぱ同士がこすれる音がしゃらしゃらと辺りに響いた。
胸に手を当て、桜をテーマにした哀悼の歌詞にありったけの感情を込めて歌う木原の姿はその中で際立ち、彼女自身の全てを包み込むような歌の上手さと辺りの荘厳さすら帯びる空気も相まって、まるで神事が行われているのかのような雰囲気を生み出していた。
やがて木原は曲の盛り上がりを高らかに歌い上げ、そっと風に乗せるように最後のメロディーを紡いで、ふうと息を吐いた。
「……すげえ」
やっとの思いでそれだけ絞り出して、俺は圧倒されるままに黙り込んだ。
俺が何を言うこともできないのを察してか、木原は前髪を弄ることで少しの照れを隠しながら、おずおずと口を開いた。
「ちょっとだけ歌がうまくなるように改変はしてますけど、昔からこうやって歌うのは大好きでした。楽しんでくれたのなら、よかったです」
そう言ってはにかむ木原の顔を俺は直視できず、当てもなく視線を彷徨わせた。
ふと、桃色の花びらがつぼみの中から膨らもうとしているのが目に入った。
「桜の花だ。秋だってのに」
「あ、本当だ。こんなこともできたんですねー……」
よく探してみれば、周囲の桜の木たちはどれも葉を茂らせる中にいくつも開きかけのつぼみを抱えるようになっていた。木原の歌の魔力というのは、桜に季節を忘れさせるほどのものであるらしい。
その光景にまた感嘆していると、不意に木原が声をかけてきた。
「じゃあ、先生の番ですよ」
俺の身体からは一瞬で熱が奪われていった。
それは今の俺にとっては死刑宣告にも等しい言葉だった。
何が好きで、あれほどのクオリティの歌の後に、あれほどの幻想的な光景が生み出されたこの空間に、俺の屑みたいな歌を響かせなければならないのだろうか。
「……お前な、大人にだってやりたくないことはあるんだ。例えば上手い奴の後に歌うこととか。例えば場の雰囲気をぶち壊しにすることとか」
沈んだ感情を隠さないままにそう伝えれば、流石に木原も俺の声のトーンを察してか、真面目そうな声色で返してきた。
「……さっきから思ってましたけど、ひょっとして先生って大分自分の歌に自信ない方ですか?」
「そうだよ、もう今更隠したって仕方ないから堂々言うけどさ。カラオケではひたすら合いの手担当に徹してきたし、合唱祭は全部口パクで乗り切った男だよ、俺は」
「マジですか」
「マジ」
そんな俺をお前は表舞台に引っ張り出そうとするのか、と問いかけようかと思ったその時に、木原が意を決してという具合の顔で一歩踏み込んできた。
「一応、ちょっとだけ。ほんの少しだけで良いので、歌を聴かせてくれませんか? さっきも言いましたけど、私は絶対に先生の歌をバカになんてしないので」
「……本当に?」
「しません」
「絶対?」
「魔女様に誓って」
木原の顔はどう見ても本気のそれだった。
……ここが、年貢の納め時か。
「頼むからな。人前で歌うなんて、本当に十年ぶりくらいなんだ」
こうやって前置きするのも我ながらダサいが、何をしたところでこれから俺は取り返しようのない傷を負うことになるのだから、もうどうにでもなってしまえばいい。
ええい、ままよ。
☆ ★ ☆
配られた合唱祭用の楽譜はまだ覚えていなかったので、俺は全世代に通用するであろうよく知られたJポップを歌った。
サビだけ、たかだか二十秒くらいの間に、木原が生み出した緑の楽園は跡形もなく消失し、あらゆる葉は色あせ、足下の雑草すら地面に横たわるようになった。
がっくりと肩を落とす俺に、木原が申し訳なさそうな声色で話しかけてきた。
「先生、私が悪かったです。上手くなれるように改変します。本当にごめんなさい」
「……馬鹿にされてないのに心へのダメージがすごいんだけど」
「ソロパート、一緒に練習しましょう」
「……頼む」
その後、しばらく木原は改変を施された上でなお喉のコントロールに四苦八苦する俺の練習に付き合ってくれたのだった。




