2.「弾丸宇宙旅行」-1
今日は木曜日、ややブラック寄りな一般社会人であるところの我々教師としてみればニルヴァーナが翌々日に近づいてきたという事実をただ一つの心の支えとして死ぬ気で疲労に耐え忍ぶ、そんな一日となる曜日である。
まだひよこ気分の抜けないクソガキ共はこちらの事情にお構いなく授業中に騒ぎたてるから、当然奴らの無尽蔵の会話力を制御することは叶わない。
その授業が実験という、男子の冒険心をくすぐるようで結局のところ何も楽しくない、ただ言われたことを実行するだけな上に事後レポートまみれの渋い内容ともなれば、それはもう手も付けられないほどだ。
「終わった班から手上げてくれ!」
こうやって広い実験室の中で叫ぶ声が果たしてどれほどの生徒たちの耳に届いているのか、わかったもんじゃない。
「全員終わってから解散だかんな! お前ら部活いけねえぞ!」
六限だからか既に部活のジャージを羽織っている丸刈りたちを鎮め、後ろでたむろする不良になり切れていない着崩しブレザーの生徒たちは都合よく無視し、何とか実験室全体の原状復帰を確認した俺は、授業の終了を宣言した。学級委員が号令をかけ、生徒たちが出ていくのを見送る。
「ふぃー……」
「お疲れ様ですー」
「うぉおおお!? って痛ってぇ!」
疲れを解放すべく机に突っ伏して脱力していたら突然背後から声がするものだから、思わずびびって手を実験室名物・謎に尖った蛇口にぶつけてしまった。
「あ、ごめんなさい大丈夫ですか!?」
声のした方からはすっと手が伸ばされてきたが、高校生に心配されるのは大人のプライドが許さないのでそれを丁重に断り、打った場所をさすりながら振り返る。
「木原お前、どうやってそこに?」
「さぷらーいず、ですね」
気の抜けた声で言った木原の身体は俺の見ている目の前ですっと空気に溶けていった。
なるほど、『私は透明人間になれる』、的な改変が行われたのだろう。驚くしかないがある意味ではもう今更という感じもある。
「今日4組ホームルーム終わりが早かったんですよね。で、来てみたらまだ授業中だったので不法侵入してやろうって思って」
そう言いながらまた木原はすっと姿を現した。顔に浮かんでいるにやついた笑みが顔立ちのせいでなかなかに絵になっているのが腹立つ。
絶対に言ってやらないが。
「そういや別に頭痛とかはなかったけどどういう仕組みなんだそれ」
「これ、ずっと昔に自分にかけたものなんですよ。魔女さんから能力をもらった直後くらいに作った設定で、今までそれを取り消してないだけです」
「へえ、じゃあなんか別のもあんの?」
「あります。絶対に病気にならないとか、おいしいものをどれだけ食べても太らないとか、まあ小学生が思いつくようなものばかりですけどね」
「いよいよ何でもありだな……あれ、だとすると頭が良くなるってのも行けるのか?」
「それができないんですよ。魔女さんは私にちゃんと自分で勉強しなさいって」
「良いオカンだな、その魔女さんってのは。命を取るなんて言うキャラの台詞じゃないだろ」
オカンって、と木原はおかしそうに笑った。
「足が速くなる、とか、絵が上手くなる、とかは普通にできるんで、成績の確保には役立ててます」
「そういや確かに木原って体育も美術も成績いいな、そういう仕掛けか」
「え、どうして知ってるんですか? ……ひょっとして、ストーカー」
一人で盛り上がってきゃーこわーい! と叫ぶ木原の頭を軽くペンで叩きつつ、俺は丁寧に否定させて頂くこととした。
「んなわけあるか。学年の教師が集まる成績会議ってのがあるんだわ。お前のスーパースペック通知表はそりゃ気にもなるさ」
「……ですよねぇ」
何故か遠くを見てため息をついた木原を尻目に、授業の報告書を纏める。
「ひとまずだ、部活の前に一回職員室戻んないといけないからさ、勉強用具だけ用意して待っててくれ。教頭先生とアポがあるんだわ」
「あ、長話になりそうなら教頭先生の周りちょっと弄っときますけど」
「いやお前それはやり過ぎだって、確かに教頭先生の話たまにクソ長いけどそれとこれは話が違う」
「私たちの学校生活の平和に比べれば安いものだと思いませんか?」
「その台詞は世界の秩序を脅かす元凶が言っていいもんじゃねえからな」
「やだなぁ先生、私何も悪いことはしてないんですよ……結果的には」
「悪魔的暴論だろそれは」
「うわ、生徒に向かって悪魔なんてひどいー!」
恨みますからねー! と叫びつつ逃げて行く木原の背中を睨み付け呪いを飛ばし、俺は深くため息をついた。教頭先生のハゲが進行しないことを祈ろう。
……いや、頭痛で苦しんでハゲるのは俺か。チクショウ。
『教頭先生はベラベラと無駄話をする場合十秒以内に終わらせなければならない』という改変が行われていたようで、俺は結構すぐに準備室に戻ってくることとなった。
頭痛は別にしなかったぞと尋ねると、どうやら既に過去にこの改変を適用していたらしい。先週の学年集会で教頭の話が長すぎて嫌気が差したということで、彼女の手によって教頭先生からは世間話をする能力が消し去られていたのだった。
それを笑顔で語る木原の前で、俺は隠れて冷や汗をかいていた。ひょっとすると、俺の知らないところで俺のプライベートも侵食されているかもしれない。恐ろしい話だ。
何はともあれ、今日は記念すべき化学部の活動の初回である。
木原の提案で最初の挨拶をどっちが言うかでじゃんけんをして、俺が勝った。
「ん゛ん゛っ……これから化学部の活動を始める」
「わーい」
咳払いしてから勿体つけて言ったのに合わせて、木原がぺちぺちと手を叩いた。
「これずっとやるの?」
「飽きたら止めても良いんじゃないですか。どうせ私たち二人しかいませんし」
「うわ現実的」
まあ別に挨拶くらいいくらしたって問題はないか。
木原と相談して決めた活動内容を思い出しつつ、俺は教科書を開いた。それを見て木原も自分のノートを開く。
「勉強パートは一時間ちょい、で良いんだよな」
「そうしてください。もちろん伸びても良いですけど」
「あいよ。まあ今日の部分ならそこまで時間もかからんと思うわ」
今日の授業範囲である無機の続きを広げ、必要な知識を脳内から引っ張り出す。
ああ、あとあれは言っとかないとな。
「それに俺も魔法パートは楽しみにしてるし、あんまし長引かせないつもりだ」
にっ、と白い歯を見せるように笑うと、木原は目を輝かせて元気に「はいっ」と答えてくれた。
☆ ★ ☆
「……よし、今日はここまでにしようか。宿題は言ったよな」
「はい。酸素化合物までをワークで一周、ですよね」
「おうけい。じゃ来週の月曜までによろしく」
ぱたん、と教科書を閉じ、時計を見る。
まだ四時半くらいだった。しっかり約束通りの時間を木原に渡せたようだ。
まあ木原が相変わらず不思議なほど聞き分けが良いというのもあるが。教室で三、四十人のガキ共を相手にするより数百倍はこちらの方が楽だ。
さて、これからが本番だ。
「で、魔法パートは何をするんだ?」
「まぁまぁ、そう焦らなくても。この前の絨毯の時も思いましたけど、やっぱり先生って子どもみたいですね」
「おー、わかる? 割としっかりこの時を待ちわびてた」
あまり浮き足立っている様子を見せるのも癪だが、ワクワクしてしまうのはもう仕方ない、これは男の子としての宿命的な何かなのだから。
木原は笑って自分の荷物を鞄に纏めていった。
「今日はここじゃなくて外でやります。既に課外活動届は提出済みで他の諸々も準備済みなので、先生は身一つで良いですよ」
そう言って木原は準備室の外に出て行った。
「すっげえ用意良いな」
忘れ物がないことを確認して鍵を閉めると、小さな声で後ろから返事が返ってきた。
「その、私も楽しみにしてたので」
振り返ると、木原がうっすらと頬を染めているのが見えた。
木原についていくと、どうやら学校の裏手に向かっているようだった。
「どこに行くんだ?」
聞くと、木原はんー、と小さく鼻を鳴らして考えた後にこう答えた。
「ちょっと車があるところまで。たしか職員玄関のあたりに学校所有のミニバンがあったはずです」
「ああ、よく知ってんな。普段生徒は乗せないのにさ」
感心したところで、俺は一つの違和感に気付いた。
「そういや俺が免許持ってるなんて話したことないだろ、どうして車を使おうって思ったんだ」
もし俺が免許を持っていなかったなら木原の計画は根本から成り立たなくなる。そのはずが、木原の発言や歩みに躊躇いは見られない。
一応、大学生時代に免許は取ってあるし何度かレンタカーを借りて運転してはいるから、問題が生じるということはないのだが。
不思議に思っていると、木原はぱぱっと手を振って大丈夫です、と俺に伝えてきた。
「先生に運転してもらう必要はありませんから」
「つまり木原が運転するのか? 流石に無免許運転は認めないぞ」
「いえ、そもそもドライブをするわけじゃないんですよ」
「へ?」
車を使うのに、ドライブではない?
どういう意味だろうか。
「ヒントとしては、手軽に動かせる気密空間が必要なんですよね」
気密空間、という単語が出現する辺り、いよいよドライブの概念が遠くなってきた。
木原は楽しそうに続ける。
「結構大ヒントですよー。先生が楽しみにしていて、気密空間が必要な場所に行くとしたら、何だと思います?」
俺が楽しみにしている?
───あ。
「宇宙旅行!?」
「正解です」




