1.「空飛ぶ絨毯」-5
明確に日が傾き始めた頃に、私たちは学校に帰り着いた。
準備室の窓を開け、元の位置にマットをふわりと下ろす。
塞ぎ込んでしまった私に気を遣ってくれているのか、私の肩を叩いて「ありがとうな」とだけさかき先生は言った。そのまま机や椅子を元の位置に戻し始めたので、私もこのままじゃいけないと思って動き出した。
すると、すぐに先生が私のことを左手でそっと押さえてきた。
「大丈夫」
ああ、先生。
そういう優しさは、今の私には凄く痛いんです。
さっき、先生が私を庇った時の感触を思い出す。倒れ込む直前にすっと伸びてきて私の頭を守ってくれた大きな手のひらは、今は大きな机の下に回されている。
結局、今日、私は何の成果も得られなかった。それどころか、先生を危険な目に遭わせた上に服までなくさせてしまった。きっと、もう先生は私と一緒に旅行などしてくれないだろう。
なのに、先生は私を一向に責めようとはしない。だから、先生はまだ私のことを保護するべき対象としか見ていないんだ、とありありと分かってしまう。
私の狙いは完全に外れてしまった。私はまだ、さかき先生にとって一人の生徒でしかない。もしかしたら、これからもずっと。
……そう考えてしまう自分のことが嫌いになってしまう。私は先生に大迷惑をかけてなお、私自身の欲望のことを真っ先に考える酷い人間だと思ってしまう。
自分の罪が分かってしまうくらいには、私は大人なのに。私はどうしようもなく、子供だった。
全部の考えが心に突き刺さってひりひりと痛む。
私、最低だ。
先生が整えてくれた椅子に座ってしばらく放心していると、先生が私の前に立った。
ゆっくりと顔を上げたけれど、目を合わせる勇気はなかった。
「今日は楽しかったよ、木原」
「本当に、ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったんです」
「いいよいいよ、空を飛んだことに比べればあんなのなんて事無いって」
答えられないでいると、先生はあー、と呟いて、しゃがんで私の顔と同じ高さに先生の顔を合わせてくれた。
「また連れてってな。楽しみにしてるからさ。だから元気出せって」
先生の言葉を飲み込むのにたっぷり五秒は使ったと思う。
「また、?」
おそるおそる聞き返すと、先生は親指を立てた。
「おう。宇宙とか連れてってくれるんだろ? これでも一度聞いたことは忘れないいわゆる地獄耳でさ。あの時言ってたあれこれは大体覚えちまってるんだよな。だから逆に連れてってくれないと怒るぞ」
「良いん、ですか?また今日みたいに先生に迷惑かけちゃうかもしれないのに」
「おう、だからこれからは万に一つもああいうことがないようにしっかり準備してこうな」
流石に宇宙旅行に何が必要かとかはわかんねえけど、といって先生は笑った。
屈託の無い先生の笑顔は、私が知っている先生のいつもの笑顔とは少し雰囲気が違って見えた。本当に私のことを思ってくれているのが分かった。
どうやら、まだ私にはチャンスが残されているらしい。
「ありがとう、ございます」
「お、やっとごめん以外の言葉が聞けたな。よかったよかった」
先生は私の肩をそっと叩いた。
子供扱いされているのが悔しかった。でも、私の心の中では嬉しさの割合の方が大きかった。
やっぱり、私はさかき先生のことが好きだ。
諦めてたまるか。
先生と目を合わせる。
「今度はちゃんと計画立ててきます。楽しみにしててください」
ちゃんと、には先生を今度こそ惚れさせてやる、という決意も込めた。
「おう。また度肝抜かせてくれや」
「はい!」
私たちは笑い合った。まだ、二人の笑いの意味は同じにはなっていない。
これから変えていこう。大人と子供の垣根なんてないみたいに、同じ目線で笑い合うんだ。
「そういえばさ、こんな派手なことして魔女さんとやらにはバレないのか?」
「あ、えっと、その、あの人夜行性なので昼の間は割と何しても自由なんです」
「へぇ、意外と抜けてんだな」
「そ、ソウデスネー」
……魔女さんにも後で相談しておこう。うん。
☆ ★ ☆
次の日、私はいつもの化学準備室に先に入って、さかき先生が来るのを待った。
時計が三時半を少し回ったころに、廊下から生徒と楽しそうに話す先生の声が近づいてきて、そして「じゃな、俺ちょっと用事あるんだわ」と別れの挨拶がすぐ扉の向こう側から聞こえた。
「よ、なんだ話があるって」
先生は不思議そうな顔をした。どうやら私がしたことはまだ伝えられていないらしい。
「えっとですね、昨日あんなことやったじゃないですか。で、これから計画立てていろんなことするって言ったじゃないですか」
「おう。え、今からまたどっか行くの? ……悪い今日は職員会議あるんだ」
「あ、そうじゃなくて」
早とちりする先生を長い時間引き留めるのも申し訳ないから、さっさと要件を伝えてしまおう。
側に置いた鞄からできたてほやほやの書類を引っ張り出す。
「先生を引っ張り回す口実にしようと思って、こんなの作ったんですよ」
「ほう」
先生は私の差し出した紙を受け取って、頭から読み始めた。そして、すぐに「おえ?」というリアクションが飛び出した。
「化学部の立ち上げ?」
「はい。部員は私ひとり、顧問は榊原先生、活動場所は化学準備室と化学実験室、あと不定期で校外。今日から正式な部活になりました」
「え、部活ってそんな簡単に作って良いんだっけ」
「あ、教頭先生には「部員一人じゃ同好会にもならない」って言われたんで諸々都合良いように改変済みです。生徒は私以外には誰も入れさせないしさかき先生以外に顧問はさせないですけど、でもちゃんと活動時間を申告すれば先生にお金が行くようになってるはずです」
「……さっきの頭痛はそれ?」
「……多分?」
ジト目になった先生からちょっと視線をそらしつつ答えると、先生は深くため息をついた。
「まあ金くれるってのはありがたいけどさ、俺から一つだけ言いたいことがある」
そういう先生の声はどうも単純に明るいわけじゃない。
どうしよう、断られるパターンは想定してなかった。
「……何ですか?」
おそるおそる聞くと、先生は諭すような顔になった。
「勉強が本題ってことは忘れんなよ。遊びほうけてテストぼろぼろ、改変うじゃうじゃ、俺涙涙、みたいなのがいっちゃんキツい」
なんだ、そんな程度か。
それなら問題ない。
「大丈夫ですよ、「オカルト」とか「超能力」とかじゃなくてわざわざ「化学」って名前にしたんですから、勉強しようって意思はあります」
だってさかき先生の授業を独り占めできる時間は私にとって何にも替えられない時間だから。
───という本音は隠しつつ先生の顔を伺うと、どうやら先生は安心してくれたみたいだった。
「それなら俺が言うことはもうないな。化学部の顧問、引き受けた」
「ありがとうございます!」
こうして、私とさかき先生、二人だけの化学部が生まれた。
あとは先生をどうにかして私に惚れさせるだけだ。壁は高いけど、頑張ってみせる。
……二人だけの、って良い響きだなぁ。ふふ。




