1.「空飛ぶ絨毯」-3
さかき先生と二人っきりで過ごすこの時間を、私はいつも精一杯味わうことに決めている。
「周期表の一番右端に並んでる18族元素を総称して貴ガスという。昔は希望の希の字を取って希ガスと呼ばれていたけど、割と最近高貴なガスって漢字に変わった」
「へー、どうしてですか?」
「あんま詳しくないんだけどな……確かな、英語での呼び方がレアガスからノーブルガスに変わったとかだったはず」
「なるほど、でも日本語は「きがす」で変わらなかったのは面白いですね」
「な。偶然の一致とはいえなんか作為めいたものを感じるよ」
「なんかレアガスの方が良い響きですけどね」
「だよな、わかる」
先生が次に進みたそうなのを感じ取って、私はそこで雑談を止めることにした。
確かな、と答えるまでにちょっと考えていた時のクールな顔は、さっきの「離さないよ」の声と一緒に脳内アルバムに保存された。後で家に帰ってからベッドの上でジタバタしよう。
軽い気持ちで告白してフラれた男の子に改変能力を使って復讐した後、私に力をくれた魔女さんにこっぴどく叱られたのが小学校の最後の思い出だった。それからあまり力を使わなくなって色あせた日常に飽きだしていた高校二年生の春に、その人は私の目の前に突然現れた。
榊原誠先生。今年で二十三歳で、大学を卒業したばかりっぽい若い人だ。
明確な興味を抱いたのは、初めての授業で生徒たちと親しくしている姿を見た時だったと思う。顔はイケメンで、声は瑞々しく、それでいて二回りは年の小さい私たちと話題を共有して屈託なく接してくれるさかき先生は、すぐに生徒たちみんなのお気に入りになった。勿論私だってその一人だった。
……いや、それどころじゃなかった。
大人と言えば既に施設送りにした虐待クソゴミ親かおじさんおばさんばかりの先生たちしか知らなかった私にとって、さかき先生は初めて近い距離で出会う「話のできる大人」だった。思えば、始業式の時にフランクな口調で挨拶してくれた瞬間から、私の心はさかき先生に吸い寄せられていた気がする。最初の授業の中でさかき先生が私に笑顔で話しかけてくれた時、私が抱いた興味は一気に憧れになり、そして純粋な好意になった。それまで本で読んだことしかなかった一目惚れというものが、今自分に起こっているんだと完全に理解できた。この気持ちに比べてしまえば、小学校の時の恋心なんて文字通りおままごとだ。そのくらい、私はさかき先生に心を奪われてしまっていた。
一度そうだと分かってしまえば、私がやることは一つだった。どうにかして、さかき先生に私を好きになって欲しい。そして、お付き合いをしてみたい。このために魔女さんは私に力をくれたんだと信じて疑わなかった。
だからその日、私は家に帰ってから色々作戦を練った。折角現実改変をするなら、完璧に私とさかき先生がお互いを好きになれるような、幸せになれるような、そんな風に力を使おうと思ったからだ。
私の力では人の気持ちを直接変えることができない。だから、上手く外堀から埋めていく必要があった。『私とさかき先生が付き合うのは当たり前のこと』『頭の良い私はさかき先生にとって理想の相手である』『私の容姿がさかき先生の好みの基準になる』『私と付き合ったさかき先生は私を好きでなくなってはいけない』『私に好きになってもらえるのは幸せなことである』『私は───
そんな計画というにはおこがましい妄想を時間を忘れてひたすら大学ノートに書き殴っていたら、突然私の部屋に一陣の風が吹いた。
「ハーイ香織ちゃん、恋の匂いを感じたんだけど元気ー?」
声の主はまだ肌寒い春の夜に肌の沢山見える格好をしている、もう見慣れた私の恩人だった。
「こんばんは、魔女さん」
私を幸せにするための力をくれたその人は、私が大人の先生に恋をしていると知った瞬間に満面の笑みを浮かべた。
「良いじゃない、まっとうな思春期女子なんてマセた恋をするモノよ。応援するわ。ただし、今度は絶対にその人を不幸にしないこと、分かった?」
そう言って、魔女さんは私の書いたノートに目を通した。
少し恥ずかしかったけれど、魔女さんを信頼しきっている私にとって、隠すことなんてあり得なかった。私がまだクソ親の元で絶望しか知らなかった時に、魔女さんと出会ってはじめて私は救われたのだから。
ただ、始めは楽しそうにうんうんと頷きながら読んでいた魔女さんは、段々と眉をひそめていった。
「駄目ね、これだと」
「……え?」
そしてついにはノートを私の手から取り上げてダメ出しをしてきた。心が不安でいっぱいになって漏れた声に応じるように、魔女さんは優しく私の肩に手を置いた。
「これだとね、香織ちゃんは何の苦労もせずに先生を手に入れられてしまうじゃない。そこまではいいの。でもね香織ちゃん、その後のことを考えた?」
「その後?」
「苦労せずに手に入れた恋人なんてね、気持ちが冷めるのも一瞬なのよ。私はそんなこと許さないわよ」
私が、さかきせんせいをすきでなくなる?
想像したくもない未来だった。万が一にも起こるわけがないという確信があった。
「絶対あり得ません」
「いーや、あり得るの。私がどれだけ長いことこの仕事やってきたと思ってるの?」
そういう魔女さんの両目はらんらんと光っていて、不思議な説得力があった。
「力を使って作り出した相手の感情が偽物のように思えてしまう、てのがよくあるパターンね」
偽物の感情。
確かに、私が自分の力を使って先生と恋人になれたとしても、先生が自分から私を好きになってくれたわけじゃないってことになる。
「先生の感情を捻じ曲げたなんて罪悪感に浸りながら生きても幸せにはなれないわよ?」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「決まってるじゃない、自分で先生を手に入れるのよ。そうね、感情的なこと以外なら力に頼っても良いけど、まるっきり改変能力任せにするのは駄目。いい?」
「……分かりました」
まさか恩人の魔女さんに逆らうわけにもいかず、私は渋々力を使って先生を手に入れることを諦めた。
「そう、分かってくれたなら良いの」
でも、
「……ならどうやったら先生の恋人になれるんですか!」
先生と生徒。その間に愛情が成立するのは、世間の目や常識、お互いの身分とか、色々な障害が立ちはだかる途方もなく難しいことだというのは分かりきっていた。何より、今のままなら、さかき先生は絶対に私を恋愛対象として見てはくれない。
それをどうにかするための切り札が、現実改変のはずだった。なのに、力を使えないだなんて。
「んー、方法なら色々あるけどねぇ……そうだ」
そう言って、魔女さんは手に持ったままだったノートの表紙をパン、と叩いた。
「さかき先生にちょっとだけ力を与えることにするわ。香織ちゃんの現実改変に気付けるようにするの」
「……それがどういうことに繋がるんですか?」
魔女さんの目がきらりと輝いた。
「女の子と二人だけの秘密を共有するって結構男心をくすぐるのよね。例えば香織ちゃんが
「私のことは絶対に他の人には言わないでください」みたいな感じで必死にお願いしたらさ、きっとさかき先生はドキっとすると思うの。あと、二人で改変後の世界を一緒に歩くみたいなデートができるわ。先生を口説き落とすのに最高のセッティングを幾らでも用意したい放題ってわけ。どう?」
魔女さんはそう言って片目をパチリとつむった。
言われたことを想像してみたら、ファンタジーな世界の中にいるものすごく楽しそうな先生と、その隣で先生のために力を使う私の姿が思い浮かんで、私の心は浮き立った。私の秘密を一緒に守ろうと約束してくれる先生の優しい顔が思い浮かんで、私の心はときめいた。
正直に、悪くないと思えた。
「……それ、お願いします」
「任されました」
そう言って、魔女さんは妖艶な笑みを浮かべた。そして私にいくつかのアドバイスを与えた後、現れた時と同じように私の部屋に風を残して忽然と消え去り、部屋には私だけが残った。
次の日から、私は積極的に先生の前で現実改変を重ねるようになった。とは言っても、あまり大それたことをやってしまうと先生が目を回してしまうかもしれないと考えた結果、やることと言えば本当にちょっとしたことだけだった。例えば、化学の小テストでわざとミスをして、それを「正解」というように改変をすること。絶対にさかき先生は何かがおかしいと気付くけれど、やっていること自体はいかにも学生という感じだ。
それでも何回か続けていく内に流石にさかき先生は大分参ってしまったようだった。そのタイミングで、魔女さんのアドバイス通りに先生と話すことにした。
「何、え、なんだそれ、ええ、ええええ!?」
化学準備室に呼び出した先生の目の前で『空気よりも軽い』と改変したホワイトボードマーカーを宙に浮かべつつ、私は先生と秘密を共有した。
「もしこの力が私以外の人に知られてしまったとばれたら、私は魔女さんに命を取られてしまうんです。だから、このことは、私と先生だけの秘密にしてください。お願いします」
最後に、腰が抜けて地面にへたり込んだ先生の手を引いてあげながら、そっと風に乗せるように儚げにおとぎ話のような嘘を伝えれば、先生は真剣な顔をして頷いてくれた。
魔女さんの戦略通りだった。嘘泣きまでする必要もなかったかもしれない。
それから、私はテストの度に小さな改変をして、その都度先生にこっそり話しかけて感謝を伝える、という戦術でさかき先生との関係を深めていった。
先生は何度か「もう止めないか」と言ってきたけれど、他に先生とつながる方法を知らなかった私は我儘を貫き通した。
そんなやりとりがしばらく続いて、二年生初めての定期テストが終わった後のことだった。当然のようにわざといくつか間違えて提出した答案が100点になって返ってきたので、いつものように先生にこっそり会いに行こうとしたところ、逆に先生の方から私に呼び出しがかかった。
初めての呼び出しに心を躍らせながらも、何だろう、と色々考えを巡らせて準備室に向かうと、先生は真剣な顔をして私を中に招き入れた。
そこでさかき先生が私に伝えてくれたのは、願ってもない申し出だった。
「俺から提案があるんだ。これからお前に、ここで定期的に個人授業をしたいと思う」
先生と、密室で、二人っきり。
考えただけで、一瞬で私の全身に幸せが飛び回った。
「お前が間違わないようになれば、現実が改変されることもなくなるだろって考えたんだ。頼む、主に俺の健康のために受けてく「やります!」……えらく積極的だなおい」
断るわけがなかった。この機会を逃すわけにはいかなかった。絶対にこの授業を通じて、先生ともっと仲良くなろうと私は決意した。
それから、少しずつ間違う頻度を減らしつつ、でも完全満点を出すことはせず、というくらいの絶妙なラインを攻めながら、私はさかき先生との授業をめいいっぱい楽しみ続けた。
段々と二人の間にあった子供と大人の関係という型枠が壊れて、二人の時にはお互い素の状態に近い性格で話ができるようになっていったのが、私にはとても嬉しいことだった。教室では見られない先生の性格が、私には分かっている。顔を近づけてくれると、ふんわりとヘアスプレーの匂いがするということも、私は知っている。
それだけ近い距離になれた私たち二人ではあったけれど、最近、私はあることで悩んでいた。
それは、まだ先生に私が恋愛対象として見てもらえていないということだ。近くなった距離感を一歩立ち返って冷静に客観視してみると、そこには明確に「先生と生徒」の線引きがあるように感じられて仕方がなかった。
例えば、夏休みが終わった後に初めて授業をしてもらった時。先生は、私のことをちらっと見て、何往復かしかしなかった挨拶のすぐ後にこう言った。
「プールの振り替え授業行ったか?」
「……えーっと、行ってません……」
「そうか、じゃあ早い内に行っとけよ。女子だから多少は仕方ない部分はあるけどさ、体力作りを子供の頃にサボるのは将来良いことないからな」
何気ない会話だったけれど、だからこそさかき先生は私のことを生徒として見ているのだと痛烈に感じられた。
このままでは、私はさかき先生の恋人になれない。そんな危機感が、私の中に最近渦巻いている。
だから、今日。
私は、私たち二人の新しい一歩を踏み出すつもりでこの場に座っている。
「それじゃあ、今日の授業はここまでにしようか」
「ありがとうございました……先生、ちょっと良いですか?」
「ん?」
「今まで色々迷惑かけてきたんで、お礼をしようかなって思ってるんです。今から一時間くらいなんですけど、時間とれますか?」
さかき先生は、おっ、と声を上げて、チラリと腕時計を確認した。
「良いよ、そりゃ楽しみだな」
やった。
「ありがとうございます!」
すぐに顔をあげて微笑んでくれた先生に感謝を伝えつつ、この週末必死になって考えてきた現実改変の設定に念を込めて、世界に適用する準備をする。
「えと、改変するんで身構えてください」
「……分かった」
ちょっと苦い顔になった先生の承諾を確認して、私は能力を発動させた。




