1.「空飛ぶ絨毯」-2
俺が原因の分からない頭痛に頻繁に襲われるようになったのは四月の半ばの頃だった。新米教師としての仕事のストレスが早くも頭にダメージを与えだしたのかと思い、仕事の合間を縫っていくつもの病院を回った。
その全てで「健康です」と診断され、精神病院に行くことも考え出したゴールデンウィーク開けだった。休み期間中に出した宿題の内容を確認する小テストで、俺は明らかに不自然な現象が発生しているのに気が付いた。
「さかきせんせー、採点ミスですー」
「ん、マジ? どれ?」
「炭素の原子量は10ですよ、先生」
そう言って生徒が俺に見せてきた答案と模範解答のプリントには、「炭素の原子量は10である」という間違った答えが記されていた。
「あー、普通に解答間違ってるわ。正解は12だ、12。これちゃんとした会社のテストなんだけどな、こんなこともあるんだな」
点数を上げてあげられないことを心の中で詫びつつ正しい答えを伝えると、その生徒は訝しむような顔をして教科書を開いて俺の方に突き出した。
「でも先生が炭素の原子量は10だって教えてくれたんじゃないですか」
「へ? いやいくら新米の俺でもそんな初歩的なミスするわけないだろ……は?」
そのページには、確かに「炭素の原子量は10」と書かれていた。
何度目をこすって確かめてみても、その記載は変わらなかった。
授業時間が終わった後、俺は持てる限りの資料を当たって原子量について自分の認識が間違っていないことを確かめようとした。ソースの定かではないインターネット上の資料もいくつも調べた。
その全てで、俺の理解は「間違っていた」。炭素の原子量は12ではなく10であると、この世界に存在するあらゆる文献が明言していた。
同じような現象は、その後毎回の小テストの度に発生するようになった。
「酸化銅の化学式はCuO2じゃないですかー?」
「いやCuOだっつの……マジで? 二酸化銅? 酸化銅(II)の間違いじゃなくて?」
「さかき先生、0℃は283Kっすよ」
「いいや間違いなく273だ、絶対にそうだ」
「相変わらず先生って思い込み激しいっすよね、そういうと思って先に年表準備しといたんすよ、ほら」
「……うそん」
「電子殻は内からK殻、L殻、M殻と続く、ちゃんと教えたはずだ」
「また間違えてますよ先生、電子殻は外からK、L、Mです」
「今度ばかりはありえんぞ、そしたら電子は外の軌道から埋まってくことになるだろ? 電子軌道のエネルギーが不安定すぎてバグる、物理的におかしい……はずなんだけど……なぁ……」
自分の根幹を成す知識にいくつもの穴が開くという経験は、間違いなく俺の教師としての自信をガリガリと削っていった。それが止む気配のない頭痛に重なった結果、俺はいよいよノイローゼ気味となり、自分がおかしくなったことを確信して一度は辞職を決意した。
木原が声をかけてきたのは、まさに辞職届を書き上げた日の放課後のことだった。
熱気を帯びつつもまだ柔らかい春と夏の狭間の風が吹き通る化学準備室の窓の前で、日の光を背後に両手を広げて語り出した木原の姿は、今でも鮮明に思い出せる。
「実は私、現実を書き換えられるんです」
彼女に呼び出された先で体験した様々な物事は、俺の決して短くはない23年間の人生における最大の衝撃だった。
その時彼女が説明してくれた、俺が巻き込まれた超常現象についての要点はこうだ。
・木原の近くに居るようになったことで、現実改変を察知する能力を得た
・木原が知る限り、人間の中では俺だけが改変に巻き込まれない
そして、木原曰く彼女はテストの度に『自分の答案は正しい』というように現実を改変していたのである。例えば漢字であれば「凝結」の「凝」の部首を”氵”だと改変し、数学的な話だと小数点以下の細かい計算ミスをなかったものにするといった具合だ。何もせずとも普通に天才の部類に入る彼女は、そういったケアレスミスを全て自分の能力を使って帳消しにする。
正直みみっちい。これはまだ恐ろしくて言えていないが。
何にせよ、幸か不幸かこの世界で唯一彼女の現実改変を認識できる俺は、その代償として改変に置き去りにされ、俺の知らない真実を基に教育業務に当たることを強いられてしまっていたのだ。
問題の根幹を把握できたことで、少なくとも俺の精神的な苦痛は排除された。ただし、肉体的な苦痛に関しては、それ以降も改変を辞める気配のない木原によって継続的に引き起こされている。
俺が察知できるのは「改変が行われた」ということのみであり、「何がどう変えられた」のかは分からない。
これが何を意味するか。
俺が自分の身につけてきた知識や計算力で生徒たちの答案を採点しようとした時に、改変された部分の採点が正常に行えないのだ。改変された世界において、生徒たちの答案は当然のように改変後の世界に沿ったものに置き換わっている。そのため、俺には生徒たちの答案を見ても何が正解で何が不正解なのか全く分からない。ふざけている。
この理不尽な苦悩と付き合うことになった結果、本来あり得ない「間違い」を連発することで生徒には舐められ、改変箇所を探し出すために何重にも答案や教科書を確認するという必要なかったはずの労働のために生活が乱れと、小さな頃から夢見てきた先生としての仕事は完全に茨の道に成り果ててしまった。
ただ。
「もしこの力のことが他人に知られてしまったとばれたら、私は魔女さんに命を取られてしまうんです。だから、このことは、私と先生だけの秘密にしてください。お願いします」
木原が俺に秘密を打ち明けてくれたあの日。
腰を抜かした俺に手を差し伸べた彼女は、怯えて潤んだ両目に決意を帯びてそう頼んできた。
彼女は自分の命が危険にさらされるのを承知の上で、ただの他人でしかない俺の心の問題に向き合ってくれたということになる。
それを知った上でまだ十七の彼女の願いを無下にするなど、大人として、教師として、絶対に踏み越えてはならない一線だという矜持が俺にはあった。
だから、俺は今でも普通に教壇に立つし、できる限り何事もないかのように生徒たちの前で振る舞うことにしている。
☆ ★ ☆
(こんな良い答案書けるのになぁ……)
資料室で取ったコピーを眺めてため息をつく。
優等生らしく綺麗な字が並んだ木原の答案は、素の状態でさえ文句なしに通知表に5が付くレベルのものだ。なのに、どうして無理に満点を目指すのだろうか。というか是非狙わないで欲しい。俺の健全な教師人生のために。
化学準備室に戻ると、木原はさっきまで俺が座っていた椅子にちょこんと収まって足をぶらぶらさせていた。
「おかえりなさーい」
「お前そこ先生用の席だかんな」
「いいじゃないですか、私もうここの常連みたいなもんですし」
「何の理由にもなってねえよ」
「じゃあ改変します? 『私がここに座ってるのは常識だ』って」
「やめてくださいお願いします」
俺を前にすると悪い冗談が止まらなくなる木原をなだめつつ、俺は自分で作った本来の模範解答と木原の解答を並べ、改変箇所を確かめる作業を始めることにした。
木原も机の上に身を乗り出し、一応は協力的な姿勢を見せてくれている。
「まず一つは酢酸の中和滴定からだよな。水酸化ナトリウム水溶液の濃度が安定しないってのは実験の時に注意事項で言ってたはずだ」
「そうみたいですね。こんなの先生授業で一回言ったっきりじゃないですか、テストに出すなんて酷いですよ」
「……逆になんで一回しか言ってないっての覚えててその中身を忘れたんだ」
「それは、えっと……先生の発言にはちゃんと気をつけてるんで。ほら、私真面目ですから。てか大分惜しいと思いません? 結構記述埋めてるじゃないですか」
「まあ確かに何かを思い出そうと足掻いた跡は見えるよ、確かに。けどさ、お前これに惜しいもクソもないのちゃんと勉強しろよな。科学という分野において正しい答えは自明的に一個だけなんだよ」
「残念ですけど、もう科学的真実は私の答案で確定したんで私が正義ですよ」
「マジで歴史上の全科学者に謝れ」
「ごめんなさいアインシュタインさん」
「何故アインシュタイン」
「なんとなく。なんか代表感ありません?」
「分からんでもない。あんま化学の人じゃないが。まあいいや、次は───」
幸いなことに今回の改変はそこまで複雑なものではなく、確認は五分くらいで終わった。
これでようやく今日の本題に移ることができる。
俺は教科書を開き、まだ授業では扱っていない無機物質の単元を探り当てた。
「よし、それじゃ授業始めるぞ」
「よろしくお願いします」
俺がここ化学準備室に何度も繰り返し木原を呼ぶ理由。それは、彼女に特別授業をするためだ。
採点のために三徹することになった前回の定期テストの後、何度も繰り返される頭痛と終わらない確認作業に嫌気がさした俺は、予め木原にみっちりと授業の内容を教え込むことでできるだけ改変能力を使わせないようにするという手法を編み出した。
教師として一人の生徒に入れ込むのはあまりよろしくないような気はするが、俺のため、そして世界を改変から守るためにもこれは必要な悪事だと無理矢理自分を納得させている。
ちなみにその悩みを木原本人にぽろっと漏らしたところ、「なら先生が私に個人授業するのは普通のことだってすぐに改変します、だから悩まないでください」と一瞬で世界の法則は書き換わってしまった。悔しい。
「今日はさわりの内容だしな、お前なら一時間もありゃ覚えられるさ」
「頑張ります」
この時間中の木原はいつも妙に聞き分けが良い。やはり根では優等生なんだろう。




