7.「誤解」-3
呆けた声が漏れた。
俺の月曜が、木原の70点と何の関係があるというんだ。
「ええと、それとこれとはどう繋がってくるんだ」
「いいから答えて下さい」
木原の声は昏い。
有無を言わせぬ気配を感じ取ったが、しかし俺の方にもプライベートというものはある。
この前の月曜、俺はいわゆる「映え」スポットに行った。
ソラリウムという名前の、男である俺が足を踏み入れるには少し、というかかなりハードルの高い場所だ。中にはキャピキャピした女子高生女子大生ばかりで、男はたまにイケメンがデートの付き合いでスマホを構えていたくらいだった。
そんな場所にいたと知られるのは、正直、恥ずかしいところがある。
しかし、木原には素直な答えを期待しておいて、自分は何も言わないというのは、あまりにアンフェアだ。
どうする。
「……東京の臨海部のあたりまで行ってきたよ」
「何のためですか」
「……ちょっとミュージアムを見てきたんだ。昔から見たかった展示があってさ」
これなら辛うじて嘘は言っていないはずだ。
木原は満足してくれるだろうか───
「嘘」
瞬間、木原から冷気が迸った気がした。
いや、気がしたどころじゃない。
マジで木原から何か凄まじいエネルギーが溢れ出している。
「嘘を、つかないで」
どす黒い声が木原から吐き出された。
木原の髪は風もないのにゆらゆらと揺れている。
ゆらりと立ち上がった木原の背中には、俺の見間違いでなければ、紫色のモヤモヤしたオーラが滲んでいる。ブレザーの輪郭が、まるで壊れかけのビデオを再生しているかのようにブレている。
一体どんな改変だ。
物理法則の書き換えとかそういうレベルじゃない、こんなのガチの魔法の域だろう。
「何、だ、おい、落ち着けって……!」
情けない音ばかりが喉を抜けて声になる。
超常の力を前にして、ただの人間でしかない俺にできることはただ恐怖に震えることだけだった。
腰を抜かして立ち上がれないでいる俺に向かって、おもむろに木原が手を伸ばした。
近くに迫ってきた白くきめ細やかな肌から、濃い紫色が滲み出している。
視界が黒くぼやける。
ひゅっ、と細い音が鳴った。
それが自分の喉からこぼれた音だと気付いた。
その直後、なんの躊躇いもなく、木原が俺の顎に手をかけた。
くいっと顔を引き上げられ、強制的に木原と目を合わせられる。
艶やかな紫色の香りが鼻腔を、喉を、気道を、肺を、そして俺の身体を満たした。
「先生」
為す術もなく、木原の顔を見つめる。
きっと憎悪に歪んでいると思っていたその顔は、しかし、とても美しかった。
言葉では言い表せないほどに。
俺のちっぽけな心なんかでは、とても受け止めきれないほどに。
俺の中に、何か決定的な変化が訪れた。
「全てを、正直に、答えて」
全てを正直に答えなくてはいけない。
あまりにも当然のようにそう思った。
考えてみれば、それはあまりにも当然のことだった。
だって、俺は木原に俺の全てを捧げるために、これまでの色あせた人生を必死に生きてきたのだから。
「ソラリウムにどうしても行ってみたくて、でも男一人だと入りにくかったから、高校の友達にお願いして道連れにした」
「へえ。デートですか?」
「違う。男三人女一人でデートにはならないだろう。同窓会だ」
「……えっ」
ああ、驚いた顔も、本当に綺麗だ。神々しい、とすら思える。
もし木原がこの世界を支配したとしても、きっとその中で俺は幸せに生きていけるだろう。木原のいない世界など、ただのモノクロのくすんだ静止画でしかない。そんな世界に生きる価値なんてない。
「あの、ええと、恋愛感情は?」
ありえない。
木原以外の存在に愛を抱くことができる程、俺は馬鹿じゃない。たった一秒たりとも木原以外の人間のことを考えていられるほど、俺の脳味噌は愚かじゃない。
この世で愛を向けるのに値するのは、この世で誰かの愛を受けるのに値するのは、木原ただ一人なのだから。
「あいつを好きという気持ちがあるわけがない。そもそも彼氏がいる」
そう思えば、あいつも馬鹿だ。
木原以外の人間を愛してしまうだなんて、人生の99.99999999999%を損している。
残りの0.00000000001%は、これから新たに木原を知り、愛を捧げるという身に余る光栄を拝受する余地をその人生に残していることに対して当てはめられる。俺はもう木原を愛してしまったから、馬鹿なあいつを少しだけ羨ましく思う。ほんの少しだけ、だが。
「……か、勘違いってこと……?」
木原はバラ色の音色でなにか独り言を呟き、まるで美術館に飾られる絵画に描かれるかのような流麗な所作で、俺の顎から完璧な造形の御手を離した。
ああ、そんな。
もっと、その尊顔を近くで見せつけて欲しい。
赤く染まる麗しい頬も、揺れる華やかな睫毛も、芳しい吐息も、何もかもを俺一人のために向けて欲しい。
俺の心を、もっと、一杯に、染め上げて欲しい。
「木原、どうか、俺を───」
「そのっ、い、『今のは全部忘れてください』っ!」
きーん。
「ッてえ!」
突然頭痛が頭を突き刺して、俺はふと我に返った。
───ん?
腕時計を見る。もう四時半だ。
おかしい、ホームルーム終わりのチャイムはついさっき鳴ったはずだ。
目の前には木原が立っている。
いつの間に?
「今日はもう帰ります……っ」
何故か顔の赤い木原が、床に放り捨てられた鞄を拾って部屋の扉に向かって駆け出した。
「え、ちょ、おい! 待て木原、話をさせてくれ! どうして70点なんて」
「点数が悪かったのは私のせいで先生のせいじゃないし私は本当に元気なので、とにかく、安心してください! 今日は、もう、許してください……!」
「待て、待てって!」
俺の制止など聞き入れようとせず、そのまま木原は扉を開け、猛然と走り去っていった。
そして、俺はただ一人化学準備室の中に、70点の答案と一緒に取り残された。
分かっているのは、木原が何か改変したということと、気付かないうちに一時間が経過していたという事実。
「俺は、何をしでかしたんだ……?」
空白の一時間の間に一体どんな大失態を犯してしまったのか。
木原の足音が遠くに消えていった後も、俺は恐怖のあまりしばらくその場を動くことができなかった。




