7.「誤解」-1
マラソン大会でもらった賞状は適当な額縁に入れて、家の賞状コーナーの一角に飾っておくことにした。オリンピックの金メダルとかノーベル賞とかそういうのは有り余るほど持っているし、別に他の諸々と一緒に適当な棚の中に突っ込んでおいても良かったけれど、そういえば先生と出会ってからは初めての記念品だってことに気付いてなんとなく捨てられなくなった。
「……よし」
しっかり額縁が水平になるように飾れたことに満足していると、すぐ横からふわっと柔らかい風が吹いてきた。
魔女さんだ。
「こんばんはー」
「こんばんは、香織チャン。どーう? 距離詰められてる?」
同性の私でもドキッとするくらい艶やかな声としぐさで挨拶を返してくれた魔女さんは、真っ直ぐに私と先生との話に踏み込んできた。
「仲良くはなれましたけど、あくまでよく知ってる生徒、ってくらいな感じがします。たまにすっごい雰囲気出してくれるかと思ったら私の思い過ごしだったりするんです」
マラソン大会での先生は、私のことだけを、こっちが照れるくらい本当に熱情的に見つめていた。後から飲み会のためだったって知ってちょっといじけたけれど。
「あら、こーんな綺麗なお花を愛でようともしないなんて、朴念仁なヒトなのねぇ」
朴念仁、ってのはなんか違うような。先生はころころ表情の変わる人で、どこか子どもっぽいところもある、そんな素直な人だ。ただちょっと、私の扱いに困っているだけなんだろう。
「あ、そういえば」
そうやって色々先生のことを考えているうちに、私はあることを思い出した。
「最近いいことあったんですよ!」
「なになに?」
「おねだり権を一つもぎ取ったんです!」
「へぇ、やるじゃない」
一瞬驚いた魔女さんは、私の表情をじっと見つめて、そしていたずらっぽく目を細めた。
「どうやって使うかも決まってる、って顔してるわね」
やっぱり魔女さんはなんでもお見通しだ。
「はい。クリスマスに勝負かけてきます」
もうさかき先生対策用ノートには完璧な計画の全容が記されている。
先生は私に「俺の持ってる常識に照らして問題ない範囲で」という制限をかけてきたが、そんなちゃちな抵抗で聖なる夜の魔法に勝てるはずがない。というか、私が負けを認めない。
魔女さんは「やっちゃいなさい」と笑って、そのまま何か考えるポーズをとった。
「そうね、頑張ってる香織チャンのために私も一肌脱ぐことにしようかしら」
「え?」
「動かないで」
言われたとおりその場で動かないでいると、魔女さんはどこからか杖を取り出して、私の額を軽く叩いた。
オレンジ色の華やかな光が目の前を流れて、私の身体を包んで、消えていった。
「何をしてくれたんですか?」
「魅了の魔法、ってやつを使えるようにしてあげたわ」
「み、魅了の魔法?」
聞き返すと、私より背の高い魔女さんは私の前でぐっと身体を折って、鼻同士がくっつくんじゃないかと思うくらいにまで顔を近づけてきた。
すらりとした人差し指が立てられる。綺麗な爪が、照明の灯りを瑞々しく反射させている。
「これは一度きりのときめきの魔法。今、この瞬間なら絶対に先生を虜にできる、って時にそっと香らせてあげなさい。そうすれば、きっと先生は香織チャンの愛をしっかり本物として受け入れてくれるはずよ」
先生が、私の愛を受け入れてくれる。
そんな私だけに都合の良い魔法があっていいんだろうか。
でも、魔女さんが今まで私に嘘をついたことはない。
「先生が香織チャンのことで胸がキュンとしていそうな時を狙って、その気持ちを確かなものにするの。いい、一度きりよ。それ以上はないから、ちゃんと決めてオとしなさい。わかった?」
問いかけられて、私は我に返った。
「あ、は、はいっ! ありがとうございます!」
「ふふ、可愛いんだから」
魔女さんはそう言って、私の目の前で姿を薄れさせて、華やかな香りだけを残して風の中に消えていった。
☆ ★ ☆
テスト前の月曜日がマラソン大会の振替休日で学校ごと休みになったので、私はクリスマスプレゼントの材料を揃えるためにちょっと遠出して大きな雑貨屋を目指していた。
第三回の定期テストが始まる十一月末の一週間前から学校はテスト週間に入るので、部活は一律で禁止される。もちろん化学部もその例に漏れず、テスト前には活動を行えない。
「今回こそは素の状態で百点取ってくれよ、頼むからな」
「頑張ってますし、狙いますよ」
「頼むからな、世界の命運がお前のテストにかかってるんだ」
「世界の終わりまであと一週間ですか…」
「始まる前から諦めんなって」
「あんま期待せずに待っててくださいねー」
「そこは期待して待ってて、だろうが」
そんな会話をして解散したのが先週の木曜日だった。
先生は私が真面目に勉強しているのか不安なのかもしれないけれど、当然ながらとっくのとうにテスト範囲の勉強は完璧に終わっている。どんなテストを出されても、きっと余裕で満点は取れる。
その上で、どんなミスを生み出せば先生とじゃれ合えるのかを考えるのが私のテストとの向き合い方だ。第一回、第二回とミスの数は減らしてきたから、その流れは続けた方がいいだろう。折角直接教えてくれているのに、意味がなかったみたいなことになってしまったら、部活そのものの存続が怪しくなるかもしれない。
すると、今度はミスの数じゃなくて質が大事になってくる。簡単な穴埋めみたいなすぐに解説が終わってしまう問題を間違えたところで、結局先生との時間は減ってしまう。それはとても勿体ないから、先生が手塩にかけて作ったオリジナルのひっかけ問題とか、そういうのを見抜いて間違えたい。こうやって先生の意図を読み解こうとするのも、テストの面白いところだ。
そんなことを考えているうちに最寄りの駅に着いたので、私は電車を降りてショッピングモールの方の出口を探して回った。
その時、私の先生センサーが視界に一瞬映り込んだ布の切れ端を捉えた。
先生が秋口からよく着ている、丈の長めのカーディガンだ。
しっかりと顔を向けた時にはもう通路の中にそのカーディガンを羽織った人間はいなかったけれど、人の流れからして向かったであろう先は分かる。ソラリウムって名前の、SNS映えで人気な光と音を使った展示施設だ。
「先生?」
光に惹かれる虫のように、私は気付けばゆらゆらとそちらに向けて歩き出していた。
通路の角を折れ、視界が開ける。思った通り、遠くに先生の後ろ姿が見えた。
たまたま出かけた先で先生とばったり会えるなんて、今日の神様は大分機嫌が良いらしい。
それにしても、まさか先生がこんな女子高生や女子大学生が好きそうなところに来るなんて、不思議な話だ。プラネタリウムとかが好きなはずだから、その流れだろうか。
放っておくとずんずんと進んでいく先生が正面のエントランスに入ってしまいそうだったので、私は小走りになって先生の後を追った。
手が届く距離になって、私は先生を驚かすために声をかけようとした。
「さか」
きせんせい、と全部を言うことなく息を止めたのが、私にとって良かったのか悪かったのか、それはもうわからない。
「でね、その若ハゲのバーコードハゲのハゲ隠し野郎最悪でさ、私を都合の良い秘書とでも思ってんのかってレベル」
「ハゲはもう許してやれよ、どうにもならない場合はあるんだ……」
「マコはハゲなさそうだからいいじゃん」
先生の隣に女が居た。
すぐ手を伸ばせば届く、コートの裾とカーディガンの裾が触れ合うような位置関係に、先生のことを「マコ」と下の名前をもじったあだ名で気安く呼ぶような距離感の女が並んでいた。
先生はその女と並んで、全く気兼ねなく歩いている。
進む先には、超有名デートスポット。
まるで、先生は、
その先を考えることを、理性と本能と心臓と脳と、身体と心の全てが拒絶して、私はただその場で凍り付いて動けなくなった。
祈るような気持ちも通じはせず、当然、先生は女と並んで薄暗いエントランスの中に消えていった。
心の中で何かが壊れる音がした。




