6.「マラソン大会」-1
河原の普段はバーベキュー場として開放されている一区画にカラーコーンをばら撒いて、俺と先輩教師たちは救護スペースと給水場の整備に励んでいた。
今日はマラソン大会だ。
流石に合唱祭と違って大人たちが走らされるということはないので、俺たち教師陣は特段気を張ることもなく、黙々と準備を進めていた。
俺が配置されたのは中間折り返しの給水地点だ。新任である俺にはそこまで複雑なタスクは課されなかったが、来年以降は普通に仕事が回ってくるということなので、俺は手が空いてからはあちこちを回って勉強がてら先輩方の手伝いをこなしていった。
やがて設営も完了し、そしてスタートの予定時間になった。
五キロ先のスタート地点からこの場所に辿り着くまでにはどれだけ足の速い生徒であっても一五分以上はかかるので、つまり俺たちはその間少し暇になったことになる。
どうやって時間を潰すのだろうと周りの先輩方の様子を窺ってみる。どうも、まだ生徒たちはやってこないのにコップの準備を真剣に進めている先生が多い。
それを不思議に思っていると、ふと側から声がかけられた。
「榊原先生はうちのマラソン大会の伝統をご存じですか?」
数学のベテラン先生が含みのある笑顔で俺に語りかけてきた。
伝統、という言葉に心当たりはないので、俺は黙って首を振った。
「では軽く説明しましょう。我々中間地点の給水担当はちょっとした勝負をするのが恒例なんですよ」
「はあ」
「男女それぞれの優勝者に給水した先生は忘年会がタダ、負けた残りの先生の奢りになります」
「……ほう?」
つまり、競馬の真似事ということだろうか。伝統というには若干俗すぎるような気もするが、少なく見積もっても五千円程度はするであろう飲み会の費用がたかだか給水程度の運試しで浮く可能性があるのであれば乗らない理由もない。
奢りという甘い餌に俺が釣られたのをベテラン先生は見てとったのか、にやりと笑って尋ねてきた。
「どうです、参加なさいますか?」
「是非とも」
間髪入れずに返事をして、俺は手元にあった空の紙コップをひっつかんだ。なるほど他の先生たちが準備を進めていたのはそういう訳があってなのだろう。少しでも多くの生徒に手早く水を配るためには、今のうちから数を集めておく必要があるのだ。
ベテラン先生が俺を誘った流れで近くのジャグを占拠して水を注ぎ始めたので、俺はこれ幸いといくつかアドバイスを求めてみることにした。
「ちなみに新参者の私に勝負のコツを教えて頂きたいのですが」
「そんなの腕をめいいっぱい伸ばす他にない……と言えば簡単ですが、実際のところ、これはどれだけ生徒の特徴を把握できているかの勝負でもありましてね」
「といいますと?」
「全学年合同とはいえ出走順が三年生優先のマラソン大会ですから、そらあ優勝候補は三年生の運動自慢に絞られてくるわけです」
「ははあ」
「しかし、我々は体育教師ではないから、生徒たちの持久走のタイムなど知り得ない。だから我々なりに「これだ!」と思う生徒を狙い撃つわけです。うちに陸上部はありませんから、バスケ部サッカー部野球部あたりの三年レギュラーが狙い目ですな。この時期は受験勉強で体力が落ちているというのもあって、数年に一度は二年生のずば抜けた生徒が一位をかっさらうこともありますが。ま、つまるところ、普段から生徒と向き合い、生徒との会話の中でどれが運動自慢なのか、どれがスタミナ自慢なのかを割り出しておくのが肝要なのですよ」
「……成程」
生徒たちとの会話でスタミナ自慢を割り出そう、などとは考えたこともなかった。勿論授業のツカミにマラソン大会を話題にするくらいはしたが、別に誰が速いかに興味を持っていなかった以上、そんな知識は俺の中にはあるはずもない。
つまり、授業中などに生徒たちにそれとなく「今度のマラソン大会で誰が優勝すると思う?」的な感じで聞いておけ、ということだろうか。
いや知るかよ。
「それだと大分私が不利ではありませんか? まだそこまで生徒の顔は覚えられていませんし、そもそも生徒のうち誰を選ぼうと考え出したのがついさっきですよ」
流石に「これだと俺は単なるカモじゃないですか」と不満をそのままぶつけるわけにもいかず、俺は本音をかなり分厚めのオブラートに包んだ。
「まあ、榊原先生はお若いから生徒たちともよく話しているでしょう。その分のハンデだと思って下さい」
ベテラン先生は狸のような笑みで受け流した。
騙されたような気もするが、まあ仕方ない。参加すると言ったのは俺だ。
俺は有望そうな生徒たちの顔を少しでも思い出しながら、おそらく後十分もしないうちにやってくるであろう男子の先頭集団への給水に向けて準備を整えていった。
☆ ★ ☆
結果。
俺はあっけなく敗北した。
ゴールという結果を待つまでもなく、完膚なきまでに叩きのめされた。
いや、俺にだって授業中部活のジャージを羽織っている生徒の印象くらいはある。なんとなくコイツは野球部の中でも足が速いほうだろうというくらいのイメージはある。そいつらに渡せれば一応なんとかなるかと考えてはいた。
そんな程度の知識とやる気では周囲の本気モードの先輩方に立ち向かえるはずもなかった。
俺が水を渡そうと目星を付けていた生徒には悉く俺の十メートルも前方でいくつも腕が伸びていったし、どうやったのか両手に四つずつも紙コップを抱えてまるで居酒屋の給仕のような構えをとったベテラン先生など、先頭集団が過ぎ去るまで一切の補給を行うことなく綺麗に狙った八人に水を渡しきっていた。
「男子は私と俵田先生の一騎打ちになるかな?」
「新人にも容赦なく奢らせますよ~」
成果を手にした先輩たちはしたり顔で先頭からやや遅れてきた生徒たちに水を手渡しているが、その手元には常に一定数の紙コップが確保されている。
手応えのなかったらしい先生も、優勝候補になる女子生徒の目星は付いているのか、既に次の戦いへの準備に余念がない。
そう、これは戦いだ。この給水ポイントは、たった二枚しか存在しない忘年会のタダ券を巡って、いい年こいた大人たち十数人が己の知識と年一でしか活用することのないスキルを頼りに泥沼の争いを繰り広げる戦場なのだ。
そして俺は何も知らずに血みどろの戦いに叩き込まれた一兵卒、というわけだ。
俺は空を仰ぎ、甘過ぎた己の認識を改めた。
決めた。
俺も俺の最大の武器を使うことを躊躇わないでいこう。
男子の先頭集団が通り過ぎていってから五分くらい後に、女子の先頭が給水ポイントに到達した。
狙いを定めた同僚たちが給水ポイントの先端に集結してこれでもかと手を伸ばし、次々に的確な給水が遂行されていく。
しかし、俺は敢えてその輪の中には混ざらなかった。
代わりに、俺はたった一人の生徒の姿を、延々と続くランナーの列の中に必死に探した。
……見つけた。
先頭から遅れること約一分、木原が折り返し地点に向かって走ってくるのを俺は確認した。
こっちを見ろ、俺の方に来い、と念じて木原の顔をひたすらに見つめる。
目が合った。木原はやや驚いた顔をし、何度か周囲を確認した。その後でなおも俺の視線が自分から外れないことを認識した木原は、いよいよ大きく目を見開いた。そのタイミングで、俺は周囲の誰にも悟られないように、小さく木原を手招きした。
果たして、木原は俺の前に直接、誰の水も受け取らずにやってきてくれた。
既に息が上がっているのか、普段よりも大分顔が赤い。
俺は木原に水を手渡し、そしてそのまま木原に合わせて走り出した。
「どどどどうしたんですか!?」
「木原、お前こっから優勝できるか!?」
「そ、それくらいはできますけど!」
「じゃあ何してもいい、ちょっと俺のために優勝してきてくれ! マジで応援するから!」
「頑張りますっ!!」
給水ポイントの末端までめいっぱい木原に併走した俺は、背中を叩いて彼女を送り出し、一息ついた。
伝えるべきことは伝えられたはずだ。後は木原がどれだけ本気を出してくれるかにかかっている。
ふと横に人の気配を感じて、俺はそちらに振り向いた。
ベテラン先生だ。
「木原くんですか、良い子に目を付けましたね」
俺は深く頷いて答えた。
「ええ、彼女は体育も優秀ですから」
「しかしここから巻き返せるかな?」
「それは───」
刹那。
俺は鋭い頭痛が脳髄を突き刺すのを感じ、言葉を継げなくなった。
目眩を根性で押し殺し、どうにかふらつきを抑える。
そしていつものように、ふっと痛みが消えた。
───これで、俺の勝利は確定した。
「木原は優勝します。もうこれは揺るぎない事実です」
こみ上げる感情を隠さないまま、俺は不敵に笑って言い放った。
「随分自信があるのですね」
「俺は彼女の部活の顧問ですからね。何ができるかくらいは知っているつもりですよ」
正確には、何ができるか、ではない。
なんでもできる、だ。




