5.「野良猫と話をしてみよう」-1
「あ、猫」
「ん?」
勉強パート中に木原がぼそっと呟いて、俺は教科書に落としていた視線を引き上げた。
「猫ですよ、ほら」
木原がすっと指を伸ばした先に、確かに真っ黒な毛並みの猫が歩いていた。
「……お、ホントだ。珍しいな、校内に野良猫とかいたっけか」
「私は見たことないです。てか、私が猫だったら血気盛んで野蛮な人間たちがうじゃうじゃいる場所なんて怖くて入れないと思います」
「言い方なお前」
「間違ったことは言ってませんよ?」
まあ確かに、高校生のガキ共が数十人単位で走り回る空間にわざわざ入り込むだなんて危険行為を、警戒心の強い猫が実行するとも思えないのは事実だが。
気の抜けた会話をしているうちに、ふと話題にしていた野良猫がこちらの方に向かってきた。あれよあれよという間にそいつは換気のために開けていた窓を飛び越え、俺と木原が勉強道具を広げていた机の上に陣取り、我が物顔で尻尾をゆらゆらと揺らし始めた。
「かわいい!」
「おうおう、大分人慣れしてんのか?」
「確かに、野良猫にしては結構ぐいぐい来ましたね」
野良猫はすんすんとノートやシャーペンの臭いを嗅いで回っている。
俺は慌てて机の上から二人分の持ち物を避難させた。
「ああ、流石にものに触られるとちょっと汚いから止めてくれな。一応薬品類は棚の中だから良いけどさ、実験器具とかもあるんだ」
「後で『この部屋の中にあるものは全部清潔だ』って改変しときます」
「まあそれはありがたいけど、気分的な問題もあるだろ? ……おい、触るな触るな、結構高いんだそれ」
そうやってあたふたと動き回り備品を守ろうとする俺を見かねてか、木原が「提案があります」と声をかけてきた。
「魔法パートにはちょっと早いですけど、今日は『この子と会話できる』って内容でどうですか?」
「へえ、面白そうだな。どんな動物とも会話できるようにするんじゃなくてか?」
「いえ、この猫だけです。適当に『動物と会話できる』ってやると、その辺にいるネズミやら鳩やら近所の飼い犬やらの声が一日中あちこちからガンガン響いてきて発狂するんで」
「こっわ」
「あれはもう二度とやらないって心に決めてるんです……」
苦笑いを浮かべた木原に合図を出して、俺は頭を抱える姿勢を取った。
いつものように過ぎていった頭痛を振り払い、俺は野良猫に向かってそっと声をかけてみることにした。
「なあ猫さんや、俺の言ってることが分かるか?」
俺の言葉を耳にするなり野良猫はピンと尻尾を立てて、全身の毛を逆立てた。
「に、人間がしゃべったー!?」
「おお。日本語に聞こえる」
なるほど、いわゆるニャーという言葉が理解できるようになるというよりは、野良猫の口からそのまま日本語が出てきている感じだ。で、逆に野良猫の方も日本語をそのまま理解できるようになった、と。
声色からしてメスのようだ。
俺は手を差し出して、棚の上で明らかに俺のことを警戒してしまっている野良猫にできる限り優しく語りかけた。
「分かるなら早いところこっちに来てくれ、お前にものを壊されたくない」
「来るな人間!」
しかし俺の願いとは裏腹に、野良猫は目の前に伸びた俺の手を思い切り引っ掻き、そして逃げるように木原の近くへ駆けていった。
「痛ってぇ!」
やけにりりしい顔をした野良猫は、木原を背にするような格好で俺を威嚇している。
「あのオスは化け物よ、あんなナリした猫なんていないわ! 安心しててね人間のメス、私がアンタを守ってやるから!」
野良猫は覚悟を決めたような声色でそう叫んだ。折角猫と意思疎通できるようになったのに化け物呼ばわりされた俺は思わずその場に崩れ落ちた。突然見知らぬ猫に守られることになった木原は目を丸くしている。
「えっと、とりあえず先生、大丈夫ですか?」
俺が返事をするよりも早く野良猫がくるりと振り返り、おそるおそるといった具合で木原の顔を伺った。
「あなたもしゃべるの、メス人間!?」
「うん。でも怖くないよ」
そう言って木原は俺と同じように手を伸ばした。
野良猫は色白の手を少し観察した後、手首辺りをペロペロとなめた。木原はまんざらでもなさそうにしている。
俺の時とはえらい違いだ。
「この扱いの差は何だよ……」
「……ひょっとすると、私が昔自分に『猫に好かれる』って改変をしたのかもしれません。覚えてないですけど、私猫派なんで十分あり得ると思います」
そんなご都合主義設定があって良いのかッ、と叫びかけて、木原という存在そのものがご都合主義設定の塊であることを俺は思い出した。
木原と同じく猫派を自称する俺は深く頭を下げた。
「俺にも良い感じの改変をお願いします……!」




