4.「歌の魔法」-2
その日、たまたまホール近くの中心街で予定があったから、私は家に帰らずに制服のまま街の中をうろうろしていた。
晩ご飯には少し早いくらいの時間になって用事が終わり、街を歩いていた時、私はたまたま先生を見かけた。
挨拶ができるほど近い距離にはいなかったので遠くから見ていると、先生はふとカラオケ店の前で立ち止まり、何度か深呼吸らしき動作をした後に中に入っていった。
初めての一人カラオケ、というやつだろうか。
(……見たい)
私は自然とそう思った。だって、あれだけ上達した先生の歌を沢山間近で浴びられて、その上先生の好きな曲を知れるかもしれないのだから。
私は強い意志をもって少しの罪悪感を押し殺し、透明人間に変身して身体から音が出ないように忍者モード(昔付けた名前だ)を発動した。
別の客がドアを開けるのに合わせてカラオケ店の中に入ると、丁度先生は受付を済ませたところだった。
カラオケ店によくあるような小さなエレベーターに先生と同乗するのは難しそうなので、こっそり部屋番号を盗み見て、階段を駆け上がって先回り。エレベーターはまだ上階に留まっていたから、先生を連れてくるまでにはそれなりに時間があるはずだ。
部屋の中で待っていると異様に上手い鼻歌を響かせながら先生が入ってきて、そして音もなく扉がしまった。
これで、先生と私の二人きり。
先生は知らないけれど。
いざこうやって一人カラオケ観察計画を実行に移してみると、いけないことをしている自覚がどんどん湧き出してくる。
まあきっと大丈夫だ、犯罪もバレなければ犯罪じゃないのだから。
先生は私の見守る先でタッチパネルを不慣れな手つきで操作していき、そして最初の曲が選ばれた。選曲は意外にもちょっと昔のアニソンだった。
「これ一回歌ってみたかったんだよなぁ」
ポロリと先生の本音がこぼれて、私はなんとも言えない暖かな気持ちになった。
短いイントロが終わって先生が歌い出した丁度その時、店員さんがやってきた。先生は少し焦ったようにマイクを置いてジュースの入ったコップを受け取る。
なんというか、初々しい。
改めて先生は歌い出した。
歌声には練習していないが故の荒削りさが全体に滲んでいたけれど、それでも合唱祭のために鍛えたのであろうよく伸びる爽やかなロングトーンに支えられて、とても聞き心地のよいものだった。
その後も、先生は何曲か懐メロを選んで歌っていった。一つ一つの歌に思い入れがあるのか、先生は歌いきる度に少し目を細めては満足げに笑っていた。
そうして、五十分くらいが過ぎた頃だった。
それまでほとんど休みなく歌い続けていた先生が、突然マイクを置いて立ち上がった。
トイレだろうか、とぼんやり考えていた私の方へ先生が勢いよく近づいてきたので、私は咄嗟に接触を回避するべく、部屋の角、ソファーの上の狭い空間に逃げ込んだ。
必死に壁に身体を貼り付ける私の身体のすぐ先を先生が通り過ぎていく。辛うじて先生の身体に触れることは避けられて、私はほっと一息ついた。
どうやら先生の目的はラックにかかった上着だったようで、ポケットの中からスマホが取り出された。そして、先生は元々座っていた場所に向かってさっき進んだ道を逆向きに辿り出す。
がすっ。
「───?」
血の気が引く思いがした。
先生の肩と私のお腹がこすれ合ってしまった。
先生はその感触を不思議に思ってか立ち止まり、自分の肩を怪訝そうに調べ始めた。
私はその瞬間に、本物の忍者もかくやの勢いで、先生の立つ位置から一番遠い隅に避難した。
「なんだ今の」
先生はほんの数瞬前まで私がいたところに手を伸ばし感触が戻ってこないことを確かめ、思い切り眉をひそめた。
「幽霊か? カラオケって幽霊出るんか?」
ごめんなさい先生、幽霊じゃないです。私なんです。初めての一人カラオケなのに、邪魔してしまって本当にごめんなさい。
伝わらないと分かっている謝罪を必死に心の内で念じつつ、私は先生がこの一件を気のせいとして忘れてくれることを祈った。
「んー」
果たして、先生はぽりぽりと頭を掻いて、真相を突き止めるのを諦めたのか、元の位置に座り直してくれた。
ほっと一息つく。
「それか、木原がここにいるとか、かもな。あいつ透明になれるしな」
「ひぐゅっ!?」
変な声が出た。
慌てて口を押さえたあとに、私は自分の身体から出る音が外部に伝わらないことを思い出した。
よもやドンピシャの正解を言い当てられるとは思わなかった。
半年も一緒に過ごしてきただけあって、ついに先生は私の行動原理を解き明かしてしまったのか。まさか、ひょっとして、私の恋心にも、気付いているのだろうか。
「……なわけないか。先公の一人カラオケに潜り込むとかありえねー、何の面白みもないわ」
そういう訳ではなかった。
……ええと。私はこれを悲しんで良いのだろうか。
「お、面白いですよ? すっごく私は楽しんでますよー?」
せめてもの抵抗として、私は先生に向かって私自身の本音を投げかける。
伝わらないのが今ばかりは憎い。
当然何も知らない先生ははらりとタッチパネルに手を伸ばし、何事もなかったかのように次の曲を探し始めた。
「とはいえ、アイツがいたらそれはそれで楽しかったろうな」
「……え?」
やおらに先生がそれなりの大きさの声で独り言を口にした。
アイツ、とは、ええと、文脈的に、私のことだと思って良い、よね?
「部活終わりとか酒の付き合いとかでそれなりカラオケは付き合わされてきたけど、ぶっちぎりで木原がいっちゃん上手えし」
せんせい、いま、木原って言った。
私のことだ。
え、うそ、どうしよう、私すっごい褒められてる!?
先生は少し顎に手を当ててから、思いついたらしい曲名を打ち込み始めた。
テレビ画面に表示されたその歌の名前を見て、私は小さく息を吸った。
私が先週、先生の前で歌って聞かせた曲だ。
先生はマイクを取り上げて、ふうと息を吐き、そしてぼそっと言葉をこぼした。
「木原みたいに歌いたいと思って練習したらこうなったなんて、本人には言えねえよなぁ」
「……ふ、ぇ?」
私、みたい、に……?
衝撃を受け止めきれず、私の思考回路はフリーズした。
私が呆然と見つめる先で先生はらららら、とハミングを始める。
先生はとても綺麗な声で、私の歌い方をそのままなぞるように歌っていった。私が個人的に入れるアレンジから、息継ぎのタイミング、歌詞に応じた力の込め方まで、本当に全て私が先生の前で見せたやり方そのものだった。さっきまでとは違い先生の歌声に荒削り感はなく、紡がれていく旋律の中には確かに、あの合唱祭でのソロで感じた美しさととても似たものがあった。
やがて、歌は終わり、先生はそっとマイクを置いた。
「……ま、木原にはなれないか。どうやったらああも艶やかで神々しくなるんだろうなぁ」
そう呟いた先生は、腕時計を確認してから上着をつかんで部屋を出て行った。
私は一人、先生のいなくなった部屋の中でいつまでも、先生が意図しないままに私に伝わってしまった情熱の言葉を受け入れるために、茹だった頭を抱えて机に突っ伏していた。




