4.「歌の魔法」-1
合唱祭の本番は、高校からやや離れた場所にある街の大きなホールで行われた。
どのクラスもまあそれなりに、たまに集中していた人たちの意識を惹くくらいの程度の合唱を作ってきていて、特別なことは特に何も起こらない、そんな合唱祭だった。
……というのが一般的な生徒にとっての感想になるんだろう。
私の場合は、ちょっと違う。
なぜなら、私にとっての本番とは、全学年全クラス、加えて合唱部の発表が終了したまさに今この瞬間から始まるからだ。
合唱部のメンバーがはけていって、指揮をしていた顧問の先生だけが壇上に残った。
〈プログラム28番、教員団による合唱です〉
アナウンスと共に、舞台袖から普段よりもちょっとフォーマルな格好をした先生たちがぞろぞろと入場してくる。
その中に、当然のようにさかき先生の姿もあった。表情はちょっと硬いかもしれない。
先週『さかき先生は上手な歌い方を理解し、実践できる』という改変を施してすこしアドバイスをしてあげてから、私は先生の歌を一度も聴いていない。
練習に付き合ってあげてもよかったのだけれど、それよりも私はこの大きなホールに響く先生の美声に酔いしれたかった。つきっきりでの練習というのも捨てがたい魅力を持っているけれど、それで先生の歌に慣れきってしまっては本番の楽しみがなくなってしまう。
私が施した改変は、単に『歌がうまくなる』という一回きりの改変ではない。先生が上手な歌い方を探求し、自分のものにしようとする限りは無限に上達できる、という類いのものだ。今週、短縮された部活の時間にそれとなく聞いてみたらどうやらしっかりと自主練を積んでいるらしかったから、きっと私にも想像の付かない、最高の歌を聴かせてくれると私は信じている。
「今年のソロ誰だと思う?」
「わかんなーい。去年は金ちゃんと青井先生だったっけ、もういないけど。二人ともマジ上手かったよね」
「金ちゃんとか数学教えてる時はねちっこいのに、なんか格好よかったのほんと癪だよね」
周りの席に座る女子たちが小声で会話を繰り広げていた。
ちょっとだけその輪の中に混ざりたいと思いはしたけれど、今年のソロはさかき先生を含めて五人である、という答えを知っている以上、私が首を突っ込むわけにはいかない。それに、ぺちゃくちゃ話しているうちに先生の勇姿を見届け損ねたら私は死んでも死にきれない。
そんなことを考えているうちに、先生たちが立ち位置について楽譜を広げた。普段は公民を教える先生がピアノの前に座って椅子の高さをチェックし、指揮を執る音楽の先生に合図を出した。
いよいよだ。
一曲目が始まってすぐ、一人目のソロパートがやってきた。
体育教師らしくお腹から真っ直ぐな声が出ていて、なかなか綺麗に響いている。歌い終わった先生は深々と頭を下げて、自然とホールからは拍手が湧いた。
さかき先生の順番は私の采配で最後に回してある。二曲目ラスサビ前の一番美味しいパートだ。元々は単純に先生に一番気持ちよく歌って欲しいからとそうしたけれど、今は別の意味で過去の自分の判断に私は感謝している。
もし先生が他の四人よりも歌がうまくなっていれば、一番最後に歌う先生はきっとソロパートを担当する五人の中で一番輝いて見えるはずだ。
だから、先生が私の信じているとおりに練習をしていてくれたなら、きっと私は先生の歌に本来以上に心を震わせることができる。
一曲目が終わり、二曲目が始まる。国民的アニメ映画の主題歌を合唱用に編曲したものだ。当然認知度は高いから、みんな頭でそっとリズムを取りつつ大人たちの歌を楽しんでいる。
そして、さかき先生のソロパートが始まった。
最初の一音が私の鼓膜を震わせ、流れるように連ねられた音の階層が甘やかな響きを脳髄に染み渡らせた。
「───♪」
瞬間、世界の色が変わった、と私は冗談ではなく思った。
その理解はきっと本当に間違っていなくて、視界に映る誰もが身を乗り出したのがありありと分かったし、先生の歌だけを聴くためだけに集中していたはずの私の耳はいくつもの驚愕の声が漏れ出すのを捉えていた。
たった一フレーズだけで、先生が会場の空気を掌握するには十分だった。
息継ぎに漏れる音すらも計算し尽くされているかのような先生の歌は、伸びやかで、麗しくて、華やかで、透き通っていた。この世にある美しさを表現するあらゆる形容詞を先生の歌に当てはめることができるかのようにすら思えた。
一体どれほどの練習を重ねれば、たったの一週間でここまで成長できるんだろうか。
私にも分からなかった。
その後、永遠にも思えるような二十数秒を完璧に歌い上げた先生は丁寧なお辞儀をした。
最後のサビを打ち消すかの勢いで万雷の拍手がホールに鳴り響いて、それに先生はちょっと気恥ずかしそうな表情を浮かべていた。
「……やばい、惚れそう」
「もう好きだよ私。さかき先生すごすぎるって」
「誰か録音してない? ねえ、誰かホントにお願い」
「耳が幸せすぎて死ぬ、マジ死ぬって」
先生たちが退場する段階になって、周囲は一斉にざわつき始めた。
私は先生の圧倒的なパフォーマンスを受け入れるのに精一杯で、しばらく自分の席から動けなかった。
☆ ★ ☆
合唱祭が終わり、生徒たちは会場のホールで現地解散となった。
がやがやとうるさいロビーの中をうろついているうちに、ひときわ騒がしい集団がいるのを見つけて、私はある種の確信をもってそちらに向かって歩を進めた。
「サカキ先生、ちょっと歌って下さい!」
「あーもー、何回やらせんだよ、お前らで動画くらい回せよ」
「お願いです! 先生の生歌が聴きたいんです!」
「お願いします!」
「仕方ねえなぁ」
先生は沢山の生徒に囲まれて、おだてられるままにさっきの歌のソロパートを歌っていた。声をかけようかと思ったけれど、おそらく人生で初めて人に歌を歌って聞かせているであろう先生がとても得意げな顔をしていたので、なんだか邪魔するのも悪い気がして止めた。
三〇分も待っただろうか。最後まで先生の側に張り付いていた女子がようやくいなくなったのを見計らって、私は先生の前に歩み出た。
「……ああ、木原」
「先生、お疲れ様でした。あの───」
準備する時間だけはたっぷりあった感想をいっぺんに並べ立てようとしたその時、先生が勢いよく頭を下げた。
「本当に木原には感謝してる。最高の経験だった。歌で人を喜ばせられるなんて、想像すらしたことなかったよ」
先んじて感謝を告げられてしまって、私の言葉は宙に浮いてしまった。
「えっと、まあ、先生が頑張ったからです。私は別に何も」
そうやって頬を掻いていると、女子生徒がまた一人先生のところにやってきた。
「さかき先生、本当にすごかったです! 来年も楽しみにしてます!」
「おう、来年はわかんねぇけど楽しみにしててくれな」
先生は本当に嬉しいのだろう、見たことのないくらい綺麗な笑顔で彼女に応えた。
……それを目の当たりにして、少しだけ、黒い感情が湧いた。
ついさっきまで私と話していたのに、三〇分も先生のために待った私ではなく横入りしてきた他の生徒にそんな顔を見せるだなんて。
私の力が成したことなのだから私は誇らしく思っておけばいいと冷静な部分では理解できていたけれど、どうにも腹の中に綺麗に収まらない。
悶々としているうちに先生は私の浮かべる微妙な表情に気付いたらしく、少し首をかしげた。
「どうかしたか?」
「いえ、なんでも。ちょっと改変した分をとりあげてみたらどうなるのかなって思っただけです」
「やめて! 後生だから! 折角大手を振ってカラオケ行けるってなったとこだから!」
そうやって慌てる先生を見て、私の溜飲は少し下がった。
「冗談ですよ」
でも、黙って引き下がるのも癪だったので、私は一つ悪あがきをしてみることにした。
「じゃあ今度カラオケ連れてって下さい。先生の歌、私もちゃんと聴きたいです」
先生はあからさまに安心の表情を浮かべてから、しっかりと首を横に振った。
「それはダメだ」
まあそう言うだろうな、と思いつつ、私は一応理由を問うことにした。
「どうしてですか?」
「どうしてって、教師と生徒が二人でカラオケとか、どうしたって問題にしかならねえだろうよ。いいか木原、そういうのは同級生と行くもんだ」
「……はい」
やっぱり、まだ私は先生の中で「生徒」の枠組みから外れることができていない。
まだ私は頑張らないといけない。
分かりきっていた決意を改めて胸にして、私は先生に別れの挨拶を告げ、ホールの外に出た。




