第九話 学問の神と雨の水族館
太宰府駅に降りたとき、最初に感じたのは少しだけ柔らかい空気だった。観光地の駅ってだいたい似た雰囲気があるけれど、ここもその感じに近い。人は多いのに、どこか急いでいる空気がなくて、みんななんとなく同じ方向に歩いていく。駅前にはお土産屋が並んでいて、歩いているだけで観光地に来たんだなという感じがする。
「ここが太宰府か」
『学問の神のところじゃな』
「神の神社ニャ?」
「神の神社ってなんだ」
駅からそのまま参道が続いている。お店の並びはずっと先まで続いていて、甘い匂いや香ばしい匂いが混ざって漂ってくる。こういう道は歩いているだけで少し楽しい。どの店もそれぞれ違うものを売っているのに、なぜかどこも似たような賑やかさがある。
ふと、甘い匂いが風に乗って強くなった。
「なんかいい匂い」
みこが先に気づく。
店の前で丸い餅が焼かれていた。鉄板の上に並んだ餅は少し焦げ目がついていて、表面がこんがりしている。
「梅ヶ枝餅」
『餅か』
「食べるニャ」
即決だった。
一つ買ってみる。手に持つとまだ温かくて、少しだけ湯気が出ている。外はカリッとしていて、中にはあんこが入っていた。
一口食べる。
「あ、うまい」
甘すぎないあんこで、外側の焼けた生地とよく合っている。思ったより軽くて、もう一個いけそうな気がする。
みこはすでに半分食べていた。
「餅いいニャ」
『人間は甘いもの好きじゃな』
「神様も食べてるだろ」
参道を歩きながら、ふと少し前のことを思い出した。そもそも、どうして福岡に来たんだったか。
宮城で桜を見たあと、次の場所をどうするか話していたときのことだ。
「次どうする」
『北はだいぶ回ったの』
「そうだな」
スマホの地図をなんとなく眺める。日本は広い。まだ行っていない場所はいくらでもある。
みこが横から覗き込む。
「海あるニャ」
「日本はだいたい海ある」
『南はどうじゃ』
「南?」
『九州』
その言葉を聞いたとき、少しだけ想像した。東北ばかり回っていたから、気温も景色も違う場所に行くのも悪くない。
「福岡とか?」
『よいの』
みこが言った。
「行くニャ」
その一言で決まった。
——そして今、太宰府を歩いている。
鳥居が見えてきた。大きな鳥居をくぐると、さっきまでの参道の空気と少しだけ雰囲気が変わる。人は多いのに、少し落ち着いた感じがある。
少し進むと池が見えた。
橋がかかっていて、水の中に何かが動いている。
「……多くない?」
池の中には鯉と亀がいた。
しかもかなりいる。
岩の上に何匹も乗っていて、水の中にもゆっくり動く影が見える。橋の近くにもいた。
「鯉と亀いっぱいニャ」
みこがしゃがんで覗き込む。
『多いの』
「こんなにいる神社初めて見た」
亀は特にこちらを気にする様子もなく、のんびりしている。水面から顔だけ出しているのもいて、ぼんやり見ていると時間がゆっくり流れているような気がする。
橋を渡ると、水の音が少し聞こえた。参道のざわざわした感じとは違って、落ち着いた音だった。
その先に本殿が見えてくる。
建物は思っていたより大きくて、色もきれいだ。参拝の列ができていて、みんな順番に賽銭を入れて手を合わせている。
私も列に並ぶ。
ここまで来ると、自然と少し静かな気持ちになる。
手を合わせる。
「何お願いする」
『学問の神じゃぞ』
「試験ない」
みこが横で言った。
「魚いっぱい見たいニャ」
「それは違う」
参拝を終えて、少し奥の方へ歩く。本殿だけかと思っていたけれど、さらに道が続いていた。木が多くて、少し森みたいになっている。参道よりも人が少なくて、空気が静かだった。
「思ったより広いな」
『神社はこういうものじゃ』
そのとき、手の甲に冷たいものが落ちた。
ぽつ。
空を見る。
雲が増えていた。
ぽつ、ぽつ。
「雨か」
最初は小さかったけれど、少しずつ雨粒が増えていく。木の葉に当たる音が小さく続いていた。
「どうする」
旅先で雨が降ると、少しだけ予定が止まる。仕方ないけれど、せっかく観光しているときだと少し残念な気持ちにもなる。
スマホを出す。
「雨でも行ける場所……」
みこが言った。
「魚見たいニャ」
「まだ言ってる」
検索すると、水族館が出てきた。
「マリンワールド海の中道」
『海の世界か』
「行くニャ」
そういうわけで、水族館に向かうことになった。
中に入ると、外の雨の音が少し遠くなる。館内は少し暗くて、水槽の光がきれいだった。
最初に思ったのは、水槽が多いということだった。
しかも大きな魚ばかりじゃない。小さい生き物の水槽がたくさんある。
「意外と地味な魚多いな」
『海は広いからの』
みこが水槽の前で止まる。
砂の中から細い体が出ていた。
「チンアナゴ」
体をゆらゆらさせている。見ているとなんだか面白い。
「動いてるニャ」
「砂の中に住んでる」
別の水槽にはムツゴロウがいた。泥っぽい場所でぴょこぴょこ動いている。
「変な魚ニャ」
「魚なのかあれ」
でも見ていると不思議と楽しい。
大きな水槽の前には人が集まっていた。飼育員さんが説明しているらしい。
「ショーみたい」
『短いのか』
「10分くらいって書いてある」
始まる。
魚の群れが水槽の中で動く。飼育員さんが餌をあげながら説明している。
でも、なかなか終わらない。
「……長くない?」
『まだ続くの』
結局、20分以上続いていた。
みこはずっと見ている。
「魚いっぱいニャ」
そのあとイルカショーへ行った。外だった。
博多湾が後ろに広がっているはずだけど、雨でほとんど見えない。
「景色見えないな」
『雨じゃからの』
それでもショーは始まる。イルカがジャンプするたびに歓声が上がる。雨の中でも動きは元気で、アシカのショーもあって会場は思ったより盛り上がっていた。
ペンギンのエリアもあった。
近い。
かなり近い。
「こんな近くていいの?」
ガラス越しだけど、ほとんど触れそうな距離だった。ペンギンがのんびり歩いている。水に飛び込むのもいて、泳ぐ姿も見えた。
みこがじっと見ている。
「歩いてるニャ」
そのあと大きなウミガメも見た。水の中をゆっくり泳いでいる。
最後にイワシのショーを見た。
ダイバーが水の中で餌をあげると、大群のイワシが一斉に動く。銀色の群れが水槽の中で光のように動いていた。
「これはすごいな」
しばらく歩いたあと、出口の近くに売店があった。ガラスケースの中にアイスクリームが並んでいる。
みこが止まる。
「アイスあるニャ」
「さっき餅食べたばっかだろ」
でも歩き回ったせいか、少し甘いものが欲しくなっていた。
値段を見る。
「……高くない?」
普通のアイスより明らかに高い。
『観光地価格じゃな』
「水族館価格ニャ」
少し迷ったけど、結局買った。
一口食べる。
冷たい。
そして甘い。
「うまいけど……」
もう一口。
その瞬間、頭の奥がズキッとした。
「っ……!」
思わずこめかみを押さえる。
「どうしたニャ」
「頭……痛い」
『冷たいものを急に食うからじゃ』
「あれだ……アイスのやつ……」
いわゆるキーンとするやつだった。しばらくすると痛みはゆっくり引いていく。
みこは普通に食べている。
「大丈夫ニャ」
「お前なんで平気なんだ」
『猫舌でも猫頭ではないの』
なんとなく納得いかないけど、まあいい。
アイスを食べ終えて外に出る。
外の空気が少し冷たい。
雨はまだ降っていた。
空を見る。
「……まだ降ってる」
みこが言う。
「どうするニャ」
この雨の中で次にどこへ行くのかは、まだ決まっていなかった。




