第六話 迷い神と猫の島
しばらく天井を見上げたまま動けなかった。秋田から帰ってきたばかりで、まだ頭の中が旅の空気のままだったのに、目の前の現実が急に別の方向に飛んでいった感じがする。ソファには猫耳の少女。尻尾まである。しかも普通にジュースを飲んでいる。私の家で。
「……とりあえず」
私はゆっくり靴を脱いで部屋に入る。
「説明して」
少女はストローをくわえたまま首を傾げた。
「何を?」
「全部」
隣でしろが小さくため息をつく。
『迷い神じゃ』
「迷い神?」
『居場所を見失った神のことじゃ。人の世をふらふらする』
私はもう一度猫耳の少女を見る。少女はジュースを飲み終わると満足そうに息をついた。
「うん。迷った」
「軽いな」
「気づいたらここにいた」
それは迷うというより侵入ではないだろうか。
私は腕を組んだ。
「名前は?」
少女は胸を張った。
「吾輩に名前はまだニャイ」
どこかで聞いたことある言い方だ。
「猫だからニャイなの?」
「猫神だから」
なるほど。
私は少し考える。神様が一人増えた。しかも名前がない。放っておくのも変な感じがする。
「じゃあ名前つける」
猫耳の少女が目を丸くする。
「いいの?」
「ないよりいいでしょ」
しろが横で言う。
『適当につけるでないぞ』
「適当じゃない」
少し考える。猫神。猫耳。なんとなく頭に浮かんだ言葉を口にする。
「みこ」
少女が首を傾げる。
「みこ?」
「巫女の“みこ”。神様っぽいし」
しばらく沈黙があって、それから少女は嬉しそうに笑った。
「いいニャ」
「ニャ言うんだ」
「猫神だから」
そういう設定らしい。
みこはソファから立ち上がって尻尾を揺らした。
「じゃあよろしくニャ」
「よろしくされた」
しろが小さく言う。
『迷い神ならば居場所を探してやらねばな』
「居場所?」
『神にも帰る場所がある』
みこは少し考える顔をした。
「気づいたら、前にいた場所が分からなくなってたニャ」
「神様でも迷うんだ」
「山とか森とか、猫がいる場所を歩いてたら、いつの間にか知らない町だった」
それはかなり迷っている。
「覚えてることは?」
「猫が多いところが好きだった気がするニャ」
私はスマホを取り出す。猫が多い場所。日本。いくつか出てくる。
その中の一つを見せる。
「ここ」
『どこじゃ』
「田代島」
猫が多い島。猫神社もあるらしい。
みこが目を輝かせた。
「猫神社!」
『猫神には良さそうじゃ』
こうして私たちはまた旅に出ることになった。
数日後、フェリーに乗る。港を離れると海の風が強くて、潮の匂いがする。船の上から見る海は広くて、光が水面に細かく反射していた。
デッキに立つと風が強い。
「思ったより揺れる」
『船じゃからの』
みこは手すりから海を見ている。
「海もいいニャ」
「前は海にいた神なの?」
「うーん」
みこは首を傾げた。
「覚えてないニャ」
「神様ってそんな感じなの?」
『長く生きておると曖昧になることもある』
みこは少しだけ遠くを見る。
「でも猫が多いところは好きだった気がするニャ」
「猫神だしね」
「だからここ、いいかもしれないニャ」
まだ島も見えていないのに。
しばらくして、遠くに島が見えてくる。山の形の島で、港の近くに家が並んでいる。
「猫の島か」
フェリーが港に近づく。
みこが小さく言った。
「ここ、なんかいい感じするニャ」
島に降りる。
港は小さくて、静かな空気が流れていた。
歩き始めてすぐ、道の真ん中に猫が寝ていた。
「もういる」
みこが近づく。
「吾輩は猫神ニャ」
猫がゆっくり目を開ける。
そして。
「シャー」
「え」
私は思わず笑う。
「猫神なのに」
『威厳がないの』
「なんでニャ」
みこは納得いかない顔をしていた。
島の道を歩くと、あちこちに猫がいる。家の前、道路の端、日向の石の上。どの猫も自由に寝たり歩いたりしていて、人が近づいてもあまり逃げない。
「ほんとに多い」
『のんびりした島じゃ』
みこは周りを見回している。
「ここ、悪くないニャ」
「まだ来たばっかり」
『もう決める気か』
少し歩くと神社が見えてくる。
猫神社。
小さな鳥居と社。その周りにも猫が何匹かいる。静かな場所で、風の音と猫の動く音だけが聞こえる。
「ここか」
みこが社を見つめる。
「猫の神様の場所ニャ」
『落ち着くか?』
みこは少し考えてから言った。
「ちょっとだけ」
私は境内をゆっくり歩く。派手な神社ではないけど、島の空気とよく合っている気がする。
猫が一匹、社の前で丸くなって寝ていた。
みこがそっと近づく。
「仲間ニャ」
猫が目を開ける。
そして。
「シャー」
「また!」
私は思わず笑った。
「完全に嫌われてる」
『猫神の面目丸つぶれじゃ』
みこは落ち込んだ顔をしていた。
猫神社から少し南に歩くと、建物が見えてくる。木の看板に「島の駅」と書いてある。
店の前のベンチに座ると、猫がのんびり寝ている。観光客用の休憩所らしく、お土産や軽食も売っているみたいだ。
「いい場所だな」
猫が一匹、ゆっくり近づいてくる。
みこも座る。
「ここ、結構いいニャ」
「気に入りすぎ」
『猫は気まぐれじゃからな』
私はねこじゃらしを見つけて軽く振る。
すると猫が反応した。二匹、三匹と近づいてくる。
「おお」
『人気じゃ』
猫がじゃれついてくる。思ったより元気だ。
「癒やされる」
みこも参加しようとする。
「吾輩も」
猫たちが少し距離を取った。
「なんでニャ」
私は笑いながらねこじゃらしを振る。猫たちは自由気ままに遊んだり寝たりしている。
ふと猫用の餌が売られているのが目に入った。
「餌あげたくなるな」
でも横に注意書きがある。食べすぎは猫の体調を崩す原因になるので、餌はあげないでください。
「我慢」
『大事じゃ』
みこは猫に無視されながらも周りを見ていた。
「ここなら住めそうニャ」
「もう住む前提?」
『決めるのが早いの』
そのまま島を歩いて、海を見て、猫を見て、また休憩して。気づけばかなり時間が経っていた。
私は時計を見る。
「……あ」
『どうした』
「フェリー」
スマホを確認する。
「時間」
沈黙。
「過ぎてる」
『帰れぬの』
みこがのんびり言った。
「じゃあ泊まればいいニャ」
私はため息をついた。
「お前のせいだろ」
島の猫が静かにあくびをした。




