第四話 きりたんぽと温かい宿
渓谷を出てしばらく歩くと、急にお腹が空いてきた。さっきまで滝とか崖とか見ていたのに、人間って不思議で、景色より先に胃袋が主張してくる。歩いていると余計に空腹がはっきりしてくるというか、体の中から「そろそろ何か入れてくれ」と言われている感じがする。
「……お腹すいた」
『さっきも言うておった』
「歩いたから」
『魚を見ただけではなかったか』
「魚を見て、渓谷を歩いて、クマの看板見て、精神的にも消耗した」
『最後は自分で勝手に怖がっただけではないか』
それはそうなんだけど、クマ出没注意って書いてあるだけで想像が広がる。山道でクマに遭遇する自分とか、逃げる自分とか、そういう無駄な想像はなぜかリアルになる。
スマホで近くの店を探す。秋田に来たなら、やっぱり食べておきたいものがある。
きりたんぽ鍋。
名前はずっと聞いたことがあるけど、実物をちゃんと食べたことはない。テレビとか旅行番組で見るだけの料理だ。
「これにする」
『鍋か』
「秋田名物」
『名物は大事じゃな』
観光地に来たら名物を食べる、というのは割と大事だと思う。あと、普通にお腹が空いている。
店の中は静かだった。観光地の店にしては騒がしくなくて、ゆっくり時間が流れている感じがする。壁には秋田の写真とか、地元の祭りのポスターが貼ってあって、知らない土地に来たんだなという実感が少しずつ湧いてくる。
隣の席では地元のおじさんらしい人たちが普通にご飯を食べていて、観光客向けの店というより、普段から使われている店なのかもしれないと思う。
『落ち着いた店じゃな』
「うん、いい感じ」
こういう店のほうが、なんとなく美味しい気がする。実際はただの気分かもしれないけど、旅先ではそういう気分も大事だと思う。
席に座ってきりたんぽ鍋を注文する。
厨房の奥から鍋の音が聞こえてくる。ぐつぐつと煮える音を聞いていると、それだけで余計にお腹が空いてくる。
しばらくすると鍋が運ばれてくる。湯気がふわっと上がって、鶏の出汁の匂いが広がる。鍋の中には野菜と鶏肉と、そして棒みたいなものがいくつも入っている。
「これがきりたんぽか」
『米か』
「米らしい」
箸で持ち上げると、焼いたご飯を棒状に固めた感じで、表面に少し焼き目がついている。鍋の汁に浸かっている部分は柔らかくなっていて、持つと少ししなる。
食べてみる。
「あ、美味しい」
『ほう』
「思ったよりちゃんと米」
当たり前なんだけど本当に米だ。外側は少し香ばしくて、中はもちっとしていて、鍋の汁がよくしみている。鶏の出汁がしっかりしていて、ご飯と一緒に食べるとちょうどいい。
野菜も多い。ごぼうとかネギとかきのことか、鍋に合いそうなものがちゃんと入っている。汁が少し甘くて、でも鶏の旨味が強くて、食べていると体の中が温まってくる。
「これ冬だったらもっと美味しいやつだ」
『寒い土地の食べ物じゃな』
「納得」
しばらく無言で食べる。旅先のご飯ってだいたい美味しく感じるけど、これは普通に当たりだと思う。鍋の汁も最後まで飲めそうなくらい美味しい。
鍋を食べ終わって、満足して息をつく。
「よし」
『満足か』
「満足」
レジに向かいながらスマホを取り出す。電子マネー。しろの神パワーで実質無限のやつ。
レジでスマホをかざす。
店員さんが少し困った顔をする。
「すみません、電子マネー使えなくて」
「……え」
「現金のみなんです」
現金。
その言葉を聞いた瞬間、嫌な予感がする。
財布を開く。
中を見る。
「……」
『どうした』
「お金ない」
『なんと』
「千円ちょっとしかない」
『足りぬの』
「足りない」
店員さんが気まずそうに立っている。
私はしろに小声で言う。
「どうにかならない?」
『現金は難しい』
「神なのに」
『神にも出来ぬことはある』
電子マネーは操作できるけど、現金はどうにもならないらしい。能力の偏りがすごい。
「……すみません」
私は店員さんに言う。
「現金取りに行ってきてもいいですか」
店員さんは少し驚いた顔をして、それから苦笑いした。
「大丈夫ですよ」
優しい。本当に助かった。
結局、近くのATMまで走る。山の空気なのに普通に息が上がる。さっき渓谷歩いたあとにダッシュはなかなかきつい。
なんとかお金を下ろして戻る。
無事に支払いをして店を出る。
外に出て深く息を吐く。
「焦った」
『神の力も万能ではない』
「そこ一番万能であってほしかった」
空を見ると、夕方の空になっている。山の影が長く伸びていて、昼より空気が少し冷たい。
「……宿探すか」
『泊まるのか』
「さすがに帰れない」
秋田は遠い。今日東京まで戻るのは普通に無理だ。
スマホで宿を探す。
満室。
満室。
満室。
「……」
『人気なのか』
「観光地だし」
三軒断られると少し焦る。
四軒目。
電話。
「……あ、はい。一人です」
少し待つ。
「空いてます?」
沈黙。
そのあと。
「あります」
「ほんとですか」
助かった。
宿に着くと、思っていたより立派だった。玄関も広くて、旅館の人も丁寧で、明らかにちゃんとした宿だ。
「高そう」
『高そうじゃな』
受付で値段を聞く。
高い。
「……」
『帰るか』
「帰れない」
覚悟を決める。
部屋に案内される。
広い。
畳の部屋で、窓から山が見える。夕方の光が山に当たって、少し赤くなっている。
「いい」
『ほう』
館内を歩く。
大浴場。
マッサージチェア。
漫画コーナー。
しかも漫画が思ったより多い。高校のとき読んでいた漫画も置いてある。キャンプの漫画とか、山登りの漫画とか。
「ここ住める」
『住むな』
風呂に入って、マッサージチェアに座って、漫画を読む。こういう時間って妙に贅沢な気分になる。
夕食もすごかった。料理が一つずつ運ばれてきて、テーブルがどんどん埋まっていく。魚の焼き物、山菜の小鉢、鍋料理、それに見たことのない料理もいくつか並んでいる。
「多い」
『豪華じゃな』
一つ一つは派手じゃないけど、ちゃんと丁寧に作られている感じがする。山菜は少し苦味があって、でもそれが逆に美味しい。魚も焼き加減がちょうどよくて、箸でほぐすと湯気が出る。
「こういう旅館のご飯、久しぶりかも」
『旅らしい食事じゃな』
気づけば結構食べていた。
「……高い理由分かった」
『満足か』
「満足」
夜はそのまま部屋でごろごろする。山の夜は静かで、外の音がほとんどない。
気づいたら朝。
チェックアウトの時間。
「……」
『どうした』
「帰りたくない」
『駄々をこねるでない』
「あと一泊」
『金が消えるぞ』
「……」
それは困る。
私は名残惜しく部屋をもう一度見る。
「いい宿だった」
『うむ』
靴を履いて外に出る。
少しだけ振り返る。
「また来たい」
『また来ればよい』
「そのときは現金持ってく」
しろは呆れた声で言った。
『そこか』
宿を後にした。




