第三話 ルリ色の湖と渓谷の滝
秋田は遠い。
思っていたより、ずっと遠い。地図で見ると上のほうだな、くらいの感覚だったのに、新幹線に乗って、さらに電車を乗り継いでいくうちに、窓の外の景色がだんだん知らない感じになってきて、ああ本当に遠くまで来たんだなと実感する。
「……遠い」
『言うたであろう』
スマホの中から、しろの声。昨日の夜、財布を見て気づいた。旅とか言っている場合じゃないくらい、お金がない。京都の時点でだいぶ怪しかったのに、秋田なんて完全に予定外だ。
「電車代、高い」
『心配するな』
「心配する」
『わしがおる』
そう言って、しろはスマホの中で何かをした。結果、電子マネーの残高が減らなくなった。改札を通っても、コンビニで水を買っても数字が変わらない。どういう理屈なのかは分からないけど、神様的な力でどうにかしているらしい。
便利すぎる。
でも。
「顔色悪いよ」
『少し力を使うだけじゃ』
「その“少し”が信用できない」
『神を疑うな』
疑うというか、昨日より明らかに静かだ。声の間が少し長い気がする。まあ、今はそれ以上突っ込まないことにして、私は目の前の景色を見る。
田沢湖。
湖。
まず大きい。そして色が変だ。普通の湖の青じゃない。もっと濃くて、光の当たり方によっては青というよりルリ色に見える。底が見えない色。覗き込むと、どこまで続いているのか分からない感じがする。
『深いのか』
「日本一らしい」
案内板にそう書いてあった。四百メートル以上とか。
数字で言われてもいまいち想像できないけど、見ているとまあ確かに深そう。
風が吹くと水面が揺れる。色も少し変わる。濃くなったり、少し明るくなったりして、同じ湖なのに表情が違う。観光地の湖ってもっと普通の青を想像していたけど、これはちょっと違う。
湖の近くで魚の餌を売っていた。小さい袋。なんとなく買って、湖にぱらっと投げる。
最初は何もいない。
……と思ったら。
ばしゃ。
水面が動く。
次の瞬間、魚が一気に集まってきた。
「うわ」
黒い影が水面をぐるぐる回って、ばしゃばしゃ音がする。どこにいたのか分からないくらいの数が、急に増える。
「すご」
もう一回餌を投げる。するとさらに増える。湖なのに、池みたいな勢いで魚がいる。ちょっと面白くなってきて、少しずつ投げると、そのたびに水面がざわざわ動く。
近くにいた地元っぽいおじさんが笑った。
「ヒメマスだな」
「ヒメマス?」
「この湖の魚だよ。餌やるとすぐ来る」
湖を見ると、確かに少し赤っぽい魚も混ざっている。普通の魚と少し色が違う。
「こんなにいるんですね」
「いるいる。田沢湖は深いからな」
おじさんは慣れた感じで言う。
「晴れると、もっとルリ色になるんだ」
言われてもう一度湖を見る。確かにただの青じゃない。少し妖しいくらいの色で、吸い込まれそうな感じがある。
「四季で表情も変わるしな」
「いいですね」
「冬は雪ばっかだけど」
それはそれで見てみたい気もする。
おじさんが湖の西側を指さす。
「あっち行った?」
見ると、湖の端のほうに金色の像が立っている。
「たつこ姫」
「ああ、伝説の」
湖を見つめる女性の像。ブロンズ像らしいけど、光のせいで金色に見える。
「綺麗になりたいって願った姫だ」
「へえ」
湖と像と風。観光客はそこそこいるけど、場所が広いからか少し静かで落ち着く。
餌を投げ終わって、ぼんやり湖を見る。青い。深い。水の音と風の音だけで、しばらく立っていると、なんとなく昨日のことを思い出す。
会社のデスク。パソコンの画面。
「この資料、今日中に直せる?」
上司の声。
時計を見ると十八時四十七分で、帰れる時間じゃない。コンビニのサンドイッチを机で食べながら、パソコンを見ていた。パンの味は、あまり覚えていない。
そのときは、秋田の湖を見る日が来るなんて思っていない。
「……遠いな」
『何がじゃ』
「いろいろ」
しろは少し黙って、それから小さく言う。
『よい場所じゃな』
「うん」
湖をもう一度見てから、私は歩き出す。
次は抱返り渓谷。
駐車場の近くに看板がある。そこに大きくクマ出没注意と書いてある。
「……」
『熊』
「出るの?」
『おるであろう』
普通に怖い。でも観光客は普通に歩いている。たぶん大丈夫。
遊歩道に入ると、最初は普通の山道だけど、少し歩くと川が見える。水が青い。光の当たり方で緑にも見えるけど、とにかく透明で綺麗だ。川の横を歩く道で、谷が思っていたより深い。
『落ちるなよ』
「言わないで」
道はそんなに広くないし、ところどころ岩が濡れている。上から水が滲み出ている場所があって、ぽたぽた落ちている。
「これ雨の日大変そう」
『人はよく歩くの』
途中にトンネルがある。入ると暗い。
「あれ」
電気が切れている。
ほぼ真っ暗。
スマホのライトをつけると、ようやく足元が見える。
『文明』
「ほんとね」
トンネルを抜けるとまた渓谷が続く。川の音がずっと聞こえて、下を見ると谷がかなり深い。崖がまっすぐ落ちていて、ちょっと目眩がするくらい高い。
さらに歩くと看板が見える。回顧の滝。
最後のカーブを曲がると、滝が見えた。細い滝が高い崖の上から落ちていて、水が白い線みたいに伸びている。
「……すご」
思っていたより静かで、滝の音だけが響く。崖は高いし、谷は深いし、少し怖いくらいの景色だけど、観る価値は普通にあるなと思う。
しばらく滝を見てから、同じ道を戻る。トンネルを抜けて、濡れた岩の横を通って、クマ注意の看板のところまで戻るころには、足が少し疲れていた。
スマホを見る。
「……大丈夫?」
『少し疲れただけじゃ』
「電子マネー?」
『便利であろう』
確かに便利。でも。
「ほどほどでいいよ」
『神を使うなと』
「神だから」
そのとき、お腹が鳴った。
静かな山でやめてほしい。
『腹か』
「腹」
私は歩きながら言う。
「……お腹すいた」
でも、少し考える。
「昼を食べに行こう」




