第二十五話 日光の滝と涼しさめぐり
「……帰る?」
めぐが一応聞く。
みこはすぐに首を横に振る。
「まだ帰りたくないニャ」
その言い方はいつもより少しだけ素直で、無理に理由をつける感じがなかった。
しろは腕を組んだまま空を見る。
「うむ、同感じゃ」
雲がゆっくり流れていて、その動きは見ていると時間の感覚を少しだけ鈍らせる。
少しだけ間が空く。
あかねは風の当たる方に顔を向けながら、小さく言う。
「……すずしいとこ、いきたい」
その言葉は短いのに、今の全員の気分とちょうど重なっていた。
「近くだと……日光か」
めぐがスマホを見ながら言う。
指で地図をなぞりながら、距離と時間をなんとなく確認する。
「滝とか多いし、涼しいはず」
「うむ、悪くない」
しろが頷く。
みこもすぐに反応する。
「水あるとこはだいたい正解ニャ」
その基準はざっくりしているが、間違っていない気がした。
あかねは小さくうなずく。
「……いく」
それだけで、行き先は決まった。
移動の時間は長かったが、不思議と疲れは強くならず、むしろ少しずつ体の熱が抜けていくような感覚が続いていて、車窓の外に見える景色も、山が近づくにつれて少しずつ色が深くなっていくのがわかった。最初は平坦だった景色にゆるやかな起伏が増え、それが次第にはっきりとした山の形になり、木々の密度も濃くなっていく。窓越しに見える緑は同じ色に見えて、実際にはいくつもの違う色が重なっていて、それが奥行きを作っているようだった。
あかねは窓の方に寄り、ガラスに少しだけ額を近づけて外を見ている。
「……ふえてる」
木の数のことを言っているのか、山のことなのかはわからないが、その言い方はどこか納得しているようだった。
最初に向かったのは華厳滝だった。
駐車場から歩いていくと、遠くからでも水の落ちる音がかすかに聞こえていて、その音は近づくにつれて少しずつはっきりしていき、周囲の空気にもわずかに湿り気が混ざり始める。階段や通路を進むごとに音は厚みを増し、他の音を少しずつ覆っていくように広がっていく。
最後に視界が開けた瞬間、一気にその全体が目に入る。
高いところから一直線に落ちる水は、思っていたよりも太く、勢いがあり、そのまま下へと吸い込まれていくようで、見ているだけで高さと圧を感じる。水が空気を巻き込みながら落ちていく様子は、ただの流れというよりも一つの塊が動いているようにも見えた。
「……でか」
めぐが思わず言う。
視界の中に収まっているはずなのに、実際の大きさがうまく掴めない。
「うむ、見応えがあるのう」
しろも珍しく少しだけ感心したように言う。
水しぶきが細かく空気に混ざり、顔に当たるとひんやりとしていて、その冷たさが皮膚の表面だけでなく、少し内側にまで届くような感覚がある。
みこは少し前に出て、目を細める。
「……これ、ずっと見てられるニャ」
音も強いはずなのに、聞いているうちにそれが一定のリズムに感じられてくる。
あかねは少し後ろから滝を見上げて、しばらく動かない。
風に乗って届く水の気配に、ほんの少しだけ目を細める。
手を少し前に出して、空気に触れるように動かす。
「……つめたい」
小さくつぶやく。
そのまま何も言わず、しばらくその場に立っている。
時間が長いのか短いのかよくわからないまま、三人は同じ景色を見続けていた。
しばらくその場に立ってから、三人は次の場所へ向かう。
次は竜頭の滝。
華厳滝とは違い、水は段差を滑るように流れていて、岩の間を縫うように広がりながら落ちていくその形は、確かに龍のようにも見え、動きがある分だけ見ていて飽きない。上から下へ一直線ではなく、いくつもの流れが重なりながら続いていくことで、視線も自然とそれを追って動いていく。
「さっきと全然違うな」
めぐが言う。
同じ“滝”なのに、受ける印象がここまで違うことに少し驚く。
「うむ、こちらは流れを見る感じじゃな」
しろが答える。
みこはしゃがみ込んで水の近くを見る。
水が岩に当たって分かれ、また集まっていく様子をじっと見ている。
「……音がやさしいニャ」
確かに、さっきのような強い落下音ではなく、流れ続ける音が一定に続いていて、それが周囲の空気と混ざって落ち着いた空間を作っている。
あかねはその流れを目で追いながら、小さく言う。
「……ながれてる」
それだけなのに、少しだけ納得したような顔をしている。
そのまま視線を外さず、流れの先まで見ようとしているようにも見える。
最後に向かったのは湯滝。
ここはさらに近くで水を感じることができて、滝のすぐそばまで行くと、音も空気も一気に強くなり、水が落ちる勢いがそのまま伝わってくる。さっきまでの二つと違い、距離が近い分だけ身体への影響がはっきりしていて、空気の重さや湿り気も強く感じる。
「近いな」
めぐが言う。
水しぶきがはっきりと肌に当たり、細かい粒が腕や頬に触れるたびにひんやりとした感覚が残る。
みこは少しだけ後ろに下がる。
「……これはちょっと強いニャ」
しろは気にせず立っている。
あかねはその場で立ち止まり、少しだけ顔を上げて滝を見る。
水の音に包まれながら、ゆっくりと目を閉じる。
風と水の感触をそのまま受け止めるように、しばらく動かない。
「……ここ、すき」
その一言だけが、はっきりと残る。
滝を見終わるころには、体の中の熱はすっかり抜けていて、風が当たるだけで少し寒いくらいに感じる。
指先に少しだけ冷たさが残る。
「……お腹すいたニャ」
みこが言う。
その一言で、現実に戻るような感覚があった。
その流れで食事に向かう。
店に入ると、木の匂いとだしの香りが混ざっていて、外の冷たい空気とは違う落ち着いた暖かさがあり、席に座るとそれだけで少しだけ力が抜ける。外で感じていた涼しさとは逆に、ここでは内側からゆるやかに温まっていくような感覚があった。
湯葉とそばが運ばれてくる。
そばは細く、表面が少しだけ光っていて、箸で持ち上げると軽く、湯気と一緒に香りが立ち上る。
「……いい匂い」
めぐが言う。
湯葉はやわらかく、箸で持つと少しだけ揺れる。
あかねは少しだけ指先で湯気に触れる。
「……あったかい」
小さく言う。
一口食べると、やさしい味が広がる。
「……落ち着くな」
しろが言う。
「こういうの好きニャ」
みこも頷く。
あかねはそばを少しだけ持ち上げて、ゆっくりと口に運ぶ。
少しだけ噛んで、動きを止める。
「……あったかい」
さっきより少しだけはっきりした声で言う。
少し間を置いて、もう一口食べる。
「……やさしい」
そのまま、静かに食べ続ける。
外の涼しさとは違う、内側から広がる温かさが静かに残る。
気づけば、会話も少なくなっていて、それぞれがゆっくり食べているだけの時間が続いていた。
それでも、不思議と満足感はしっかりあった。
帰るころには、空は少しだけ色を変え始めていて、一日の終わりがゆっくりと近づいているのがわかる。
さっきまでいた滝の音はもう聞こえないのに、その静けさだけがどこかに残っているような気がした。
今日もまた、どこかに行ったというより、少しだけ“いい場所にいた”という感覚だけが残っていた。




