第二十四話 あかねと那須の涼風
まだ上までは見えない。けれど、そこに向かっている感じだけが、ゆっくりと続いていた。
石段を登りきった瞬間、空気がふっと変わるのがわかり、さっきまでまとわりついていた夏の重たい熱が少しだけほどけて、代わりに静かで澄んだ空気が身体の中に入ってくるような感覚に包まれ、三人は自然と足を止めて周囲を見渡した。境内は思っていたよりも広くはないのに、不思議と奥行きがあるように感じられて、木々の影と光の重なりがその場をゆっくりと満たしており、風が通るたびに葉が揺れて、そのたびに影の形が変わるのをぼんやりと眺めているだけで時間が少しだけ遅くなったような気がした。
「……涼しいな」
めぐが小さく言う。
「うむ、悪くない場所じゃ」
しろが静かに答える。
みこは木陰に入り、しゃがみ込んで地面に触れながら目を細める。
「……ここ、空気がやわらかいニャ」
あかねは少し遅れて木陰に近づき、影の境目にそっと座り込むと、手のひらを地面に当ててからゆっくりと息を吐く。
「……ちょうどいい」
小さくつぶやく。
言われてみると、風はただ通り抜けるのではなく少しだけその場に留まってから流れていくようで、肌に触れる温度も均一に近く、外の強い日差しとは切り離された空間のように感じられた。
そのとき、みこが顔を上げる。
「……なんか、いるニャ」
めぐも視線を向けると、木の根元の影の中に赤茶色の小さな塊があり、それがゆっくりと動いたことで生き物だとわかる。
「……レッサーパンダ?」
思わずそう言うと、その存在はゆっくり顔を上げ、眠そうな目でこちらを見て、少しだけ首をかしげる。
「……ちがうよ」
やわらかく、力の抜けた声だった。
「わたし、神」
「……たぶん、まよってるやつ」
一瞬、間が空く。
「……またか」
めぐがぼそっと言う。
「増えるのう……」
しろが小さくため息をつく。
その小さな神は影の中で体を起こし、ふわふわした尻尾をゆっくり揺らす。
「……あついの、にがて」
ぽつりとこぼす。
「ここ、すずしいから、いる」
少しだけ目を細める。
めぐは少ししゃがみ込む。
「名前は?」
少しの間のあと、答えが返る。
「……あかね」
「そっか、あかね」
めぐは小さく頷く。
「これからいろいろ回るけど、一緒に来る?」
あかねは少しだけ考えてから、指先で地面の砂を軽くなぞり、ゆっくりと顔を上げる。
「……いく」
その返事は軽いのに、不思議と迷いがなかった。
その日の夜は、気づいたら眠っていた。宿での出来事は細かく思い出せないくらい自然に流れていて、ただ布団に入ったときの安心感と、目を閉じた瞬間に意識が落ちていく感覚だけが残っている。
朝はひんやりとしていて、窓を開けると少し冷たい風が入り込み、昨日の熱が嘘のように感じられた。あかねは窓の近くに立ち、外の空気に少しだけ顔を近づけている。
「……すずしい」
小さく言う。
「今日はロープウェイ行くか」
めぐの一言で、その日の流れが決まる。
山麓駅に着くと、人が集まりゆるやかな列ができていて、建物の向こうには山の斜面が広がり、その中をロープウェイのゴンドラが一定の間隔で動いているのが見え、その規則的な動きがどこか安心感を与えていた。
あかねはその動きを目で追いながら、少しだけ首を傾ける。
「……ゆっくり、のぼってる」
「……あれに乗るのか」
めぐが呟く。
「うむ」
しろが短く答える。
ゴンドラに乗り込むと、扉が閉まり、わずかな揺れとともに地面が離れていき、最初はゆっくりだった動きが徐々に高さを増していくにつれて景色の見え方が変わり、木々の一つ一つがまとまりとして見え、さらに上がるとそれが広がる緑の層になり、遠くまで続く景色へと変わっていく。
あかねは窓に少しだけ近づき、手すりに軽く触れながら外を見ている。
「……ちいさくなる」
そのとき、ゴンドラが一瞬だけ、わずかに揺れて動きを止める。
体がほんの少しだけ浮くような感覚があって、空気が一瞬だけ静かになる。
すぐに、軽いアナウンスが流れる。
『ただいま安全確認のため、一時停止しております』
「……あれ?」
めぐが小さく言う。
「うむ」
しろは特に気にしていない様子で外を見ている。
みこは手すりを軽く握る。
「……ちょっとこわいニャ」
その中で、あかねだけが窓の外を見たまま、小さく言う。
「……とまった」
少しして、ゴンドラは何事もなかったようにゆっくりと動き出す。
止まっていた時間は短いはずなのに、ほんの少しだけ長く感じられた。
山頂に着くと風が強くなり、気温も下がっていて、肌に当たる空気がはっきりと冷たく感じられる。
あかねは少しだけ肩をすくめてから、風の方へ顔を向ける。
「……ここ、すき」
あかねがぽつりと言う。
しばらく景色を眺めたあと、三人は下へ戻る。
「……つぎ、どうするニャ」
みこが言う。
「温泉行くか」
めぐが答える。
「……あついの、にがて」
あかねがすぐに言う。
少しだけ間を置いて、地面を見ながら続ける。
「……でも、つめたいあとなら、いい」
「温泉ってあついよな」
「うむ」
少しだけ間が空く。
「……でも、ちょっとだけなら、だいじょうぶ」
その言い方に、めぐは少しだけ笑う。
大丸温泉旅館に着くと、建物は自然の中に溶け込むように建っており、奥へ進むと川の流れる音が近くに聞こえ、その音が一定に続くことで周囲の静けさがより深く感じられた。あかねはその音の方をしばらく見てから、ゆっくりと歩き出す。
湯に入ると最初に強い熱を感じるが、すぐにそれがやわらぎ、体の奥までじんわりと温かさが広がっていく。
「……あつい」
あかねがすぐに言う。
肩まで入って、少しだけ動きを止める。
「無理すんなよ」
めぐが言う。
あかねは少しだけ目を閉じる。
「……でも、きらいじゃない」
ゆっくりと息を吐く。
温泉から上がると、体の中に残る熱と外の空気の冷たさが混ざり合い、さっきよりも軽くなったような感覚があった。あかねは手のひらを見てから、少しだけ開いたり閉じたりする。
「……ぽかぽかする」
「……お腹すいたニャ」
みこが言う。
夕食の那須和牛のステーキは、鉄板の上でまだわずかに音を立てていて、近づいただけで香ばしい匂いがふわっと広がり、その匂いだけで少しだけお腹が鳴りそうになる。
温泉の熱がまだ体に残っているせいか、その匂いがいつもより強く感じられて、さっきまでの静かな時間とは違う、はっきりとした現実の感覚が戻ってくるようだった。
表面にはきれいな焼き色がついていて、光の当たり方でうっすらと油が浮かび、その一枚だけでしっかりとした存在感があった。
ナイフを入れると、抵抗がほとんどなく、すっと刃が入っていき、その断面からじわっと肉汁がにじみ出てくるのが見え、そのまま少しだけ間を置いてからフォークで持ち上げると、重さはあるのにやわらかさが伝わってくる。
「……これ、ずるいな」
めぐが言う。
口に運ぶと、最初にやわらかくほどけるような感触があり、そのあとすぐに肉の旨みが広がって、噛むたびに味が濃くなっていき、飲み込むのが少しもったいないと感じるくらいにはっきりとした満足感が残る。
「うむ、これは良い」
しろが頷く。
横でみこは、ひとくち食べたあと少し動きを止めてから、ゆっくりと目を細める。
「しあわせニャ……」
そのままもう一口食べて、小さく息を吐く。
あかねは最初、少しだけ様子を見るようにしてから、小さく切った一切れを口に運び、ゆっくりと噛む。
「……おいしい」
ぽつりとした一言だったが、そのあともう一口食べるまでの間が少しだけ短くなっている。
皿の上の肉はゆっくり減っていき、誰も急いで食べているわけではないのに、気づけば少しずつなくなっていき、最後の一切れを食べ終えたあと、ほんの少しだけ名残惜しい静けさが残る。
「……もう一枚いける気がする」
めぐが小さく言う。
「やめておけ」
しろが即座に返す。
「……でもちょっとわかるニャ」
みこが頷く。
あかねはしばらく皿を見てから、小さくつぶやく。
「……また、たべたい」
その言葉は軽いのに、ちゃんと残る感じがあった。




